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しおりを挟む朝陽と光が別れて二か月がたった。
「滝口くん、もうちょっと自然に笑うことできるかな?」
「え?」
専属モデルを務める雑誌の撮影現場。カメラマンの声が響いた瞬間、光は一瞬耳を疑った。今まで言われたこともない言葉だったからだ。
「俺の顔、そんなに不自然ですかね…?」
レンズ越しに覗くカメラマンは、苦笑を浮かべながらも真剣な表情で首を横に振った。
「いや、悪いわけじゃないんだよ?形だけ見れば完璧なんだ。ただね…なんていうのかな。前まではもっと柔らかくて自然だった。今は少しぎこちないんだよね。『仕事だから表情作ってます』っていう表情になっちゃってなんだか寂しいなって。
滝口くんの表情って本当に自然なんだよ。俺がとってる芸能人でも珍しいタイプなんだ。」
光はその言葉に胸の奥がざわついた。痛いところを突かれた気がしたからだ。
元来、自分は仕事が忙しければ忙しいほどやる気が湧いて、充実感に包まれる人間だと思っていた。
疲れなんて感じる暇もなく、むしろ仕事に追われている方が性に合っていると信じていた。
けれど、この二ヶ月は違った。
別れたら自然と消えていくと思っていた朝陽との記憶は日に日に色を濃くしていき、忘れることなど一切できなかった。
朝陽以外の恋人の記憶など一つも残っていないというのになぜ朝陽の記憶だけこんなに繊細に思い出せるのか不思議だった。同時に朝陽の別れた時の表情を思い出し後悔が過ぎるという繰り返し。
何度も朝陽の連絡先を開きかけたが、自分のくだらないプライドがそれを許さなかった。
確実に疲労が体に残り、朝目覚めても倦怠感が抜けない。気力が湧かない。どこか空洞のような虚しさがつきまとい、笑顔を作ることすら以前より難しくなっていた。
表向きのキャリアは絶好調だった。ドラマや映画への出演も増え、コマーシャルやバラエティなど幅広く活動している。世間からは順調に人気俳優の階段を登っているように見えただろう。だが、仕事が増えれば増えるほど、なぜか心は乾いていった。まるで大事な何かがごっそり抜け落ちてしまったかのように。
その穴を埋めようと、光は以前より友人やマイコと会う時間を増やした。飲み歩いたり、くだらない話で笑い合ったりすれば、ほんの一瞬だけは気が紛れる。けれど、それもほんの束の間のことだった。心の奥底に溜まった空虚さは、全く消えてくれない。むしろ夜、布団に入ると一層際立って眠れない日が増えていった。
疲れを取りたいのに、どんどん疲れが溜まっていく。
そんな堂々巡りの思考を抱えたまま次の撮影を待っていると、不意に声をかけられた。
「光、お前最近疲れてんの?」
隣に腰を下ろしたのは、同じ事務所の先輩・仁だった。紙コップに入ったコーヒーを差し出してくる。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
光は自然にそれを受け取った。
「疲れてるっていうか…なんていうのかな、自分でも全然わかんないんだよ。前までは忙しければ忙しいほどありがたいって思えたのに、その感覚が消えたのかなんのかわかんない。」
ぼやくように呟くと、仁は「ふうん」と短く返し、紙コップを軽く揺らした。
「まあ人間誰だってそういう時期はあるっしょ。だけど、天狗にだけはなんなよ。俺、お前が『高級寿司屋行こうぜ、もちろん全奢りな』とか言い出したらドン引きするから」
「何でドン引きすんだよ」
そんな軽口に笑いかけた瞬間、光の脳裏にふっとある記憶が蘇った。
まだ売れる前、オーディションに落ち続けて気持ちが沈んでいた頃。朝陽は光の好物の寿司を食べさせようと寿司屋に連れ出した。
普段行くとしたらチェーン店の寿司屋だったがその時は違かった。
まだ両親が生きていた頃に連れて行かれたような高級寿司屋だった。亡くなってからは外食できるような余裕もなく弟たちへと仕送りで必死だった。
「お互い好きなだけ食べよう。」
光は久しぶりに、本当に久しぶりに、遠慮もせず好きなものを注文し、腹いっぱい食べた。
弟たちを差し置いてこんな美味いものを食べるのは罪悪感が湧いたが、今にも金が底をつきそうな貧乏生活でろくなものを食べていなかった光にとっては一年の中で最高のご馳走と言っていいほど美味いものだった。今でもその時の味を覚えている。
食べ終わった後、焦って会計に向かおうとした時には、いつの間にか朝陽は全て支払いを済ませていた。光が財布を出そうとしても、首を横に振って頑に受け取ろうとしなかった。
「落ち込んだ時には美味しいものだべたら元気出るって僕のおじいちゃんがいってた。
光くんは、自分に厳しすぎるんだよ。誰よりも頑張ってるんだから、たまにはご褒美だってもらっていい。誰かに怒られたら、僕が代わりに怒ってあげる」
自分より何倍も小さいそんなか弱い体で何言ってるんだなんて馬鹿にしていたけど、その言葉には妙な安心感と力強さ、そして、温もりがあった。
朝陽は自分ほとんど食べず、その様子を温かく見守っていた。
その様子を光は横目でチラリと見て、情けない自分を見られているようでひどく気に入らなかった。
実際、帰り道の自分はひどかった。情けない姿を見られた気がして、朝陽の声に碌に返事もしなかった。子供じみて、素直じゃなくて、自分勝手。その癖だけは今でも変わらない。
今なら…あの寿司屋に行って、今度は朝陽に好きなだけ食べさせることができるのに。もうそれをすることもできない。カップを握った手にほんの少し力がこもった。
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