交際マイナス一日婚⁉ 〜ほとぼりが冷めたら離婚するはずなのに、鬼上司な夫に無自覚で溺愛されていたようです〜

朝永ゆうり

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第三章

引き裂かれて、繋がる夜①

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 おばあさんに連れられてやってきたのは、近くのベーカリーだった。

 もう閉店しているようで、店先に明かりは灯っていない。しかし、おばあさんはそれを厭わず中へ入り、お店の明かりを勝手につける。
 それから奥に向かって何かを叫ぶと、奥から若い男性がでてきた。

 おばあさんと男性は何かを話していたが、やがて男性がこちらを向いて目を見張る。
 それから、そっと口を開いた。

「ニホンゴ、ハナス?」

 片言だけれど、日本語を話してくれる彼にほっと息をつく。

「はい、日本人です」

 そう答えると、男性は「アー」と迷いながら、片言で話してくれた。

「ソボガ、タスケテモラッタ。アリガトウ」
「とんでもない!」

 丁寧に頭を下げられ、恐縮してしまう。すると彼は「マッテテネ」と奥へ向かった。

 すぐに戻ってきた彼は、パンのいっぱいに詰まった紙袋を、二袋も私に差し出してくれた。

「アリガトウ。モラッテ」

 ぐいぐいと袋を押し付けられ、私は苦笑いをこぼしながらそれを受け取る。

「ホントウニ、アリガトウネ。ニホンジン、ヤサシイ」

 男性の片言の日本語と、おばあさんの喋る早口なフランス語。
 私は恐縮してしまい、お礼をフランス語で伝えると逃げるようにパン屋を出た。

 それから、私はパリの街を小走りで駆けた。
 私は先ほどおばあさんに引っ張られ歩いた道順を思い出しながら、急いでチュイルリー庭園へと向かっていたのだ。

 三条さんは、もうカメラのお手伝いを終えているだろう。
 連絡しようと思ったが、スマホは昨夜充電を忘れていたため電源が切れてしまっていた。

 急がなきゃ。

 私は焦りつつも、道順を思い出しながらパリの街を急いだ。
 しかし、キラキラとした街は、次第に人通りが減ってゆく。
 気づけば、私は細い路地のような場所に来ていた。

 でも、この場所は通った気がする。
 確か、ここを右に曲がって――。

 記憶を頼りに、道を曲がる。
 しかしすぐ、絶望した。
 この道は、袋小路だったのだ。目の前にあるは、壁だ。

 慌てて袋小路の入り口に戻る。だけどそこから、左右に行けばいいのか、もう分からなくなってしまった。

「嘘、どうしよう……」

 立ちすくみ、ため息を零す。

 パリの街並みはどこも似ている。
 ホテル近くであるこの辺りはもう慣れたと思っていたが、フランス語が読めない私には現在地の特定すら困難だ。

 誰かに道を聞こうにも、フランス語なんて話せない。
 英語なら話せるかもと思ったけれど、この辺りには人の影はまるで無かった。

 もっと早くに、迷っていることに気付いていれば。

 後悔にさいなまれていると、ひと際冷たい風が吹いてきて、ぴゅうっと私を嘲笑った。
 ぽつり、ぽつりと雨が降り出し、路地の街灯がそれを強調するように空中に雨の線を描く。

 やがて、雨は次第に強まり始めた。
 雨具など持っていない。私は慌てて、近くにあったもう閉店している店の軒に入り、身を縮こませた。

 何をやっているんだろう。

 さっきのパン屋で、三条さんかホテルに電話をしてもらえばよかった。
 せめて、チュイルリー公園への地図をもらえばよかった。

 焦るだけ焦って、バカだなあ。

 降り注ぐ雨が私の足元を濡らす。私は両腕にパンを抱えたまま、ただそこで立ち尽くすしかできない。

 不意に視界がじわりとぼやけ、涙が溢れてしまったのだと気づいた。

 情けない。
 まさかこの歳になって、迷子になって泣くなんて。

 だけど、心細くて仕方ない。
 言葉の違う国の大都市の路地に、一人でいるのだから。

「三条さん、ごめんなさい……」

 出した声は震えていた。
 彼の流暢なフランス語と、博識さと手際の良さに全てを任せ、自分で何もしようとしなかった私が悪い。

 呆れているかもしれないな。失望しているかもしれない。

 雨に混じって、ぽたぽたと頬を涙が伝ってゆく。

 ――三条さんに、会いたい。

 その時、慌てたように雨水をはじいて走ってくる音がした。

「杷留!」

 脳裏に思い浮かべた人の声がして、私は振り向く。
 目を見開いた。
 三条さんが、びしょ濡れになりながらこちらに走ってきていた。

「良かった、見つけた……」

 三条さんはそう言うと、急に私を抱きしめた。彼の大きな腕に包まれ、私はひどく安心する。

「誘拐にでも遭ったかと思った」

 彼のコートには雨粒がたくさんついている。
 それが頬に当たって冷たいけれど、それだけ彼は必死に私を探してくれていたのだ。

「ごめんなさい」

 彼の腕の中で、そっと告げる。すると、一度は止まったはずの涙が再び溢れてしまった。
 どうやら、それほど私は安心しているらしい。

 彼から感じるのは、呆れでもなく、失望でもなく、心配と安堵だ。
 そのことに、余計に安心する。

 すると三条さんは、私の背を労わるように優しくさすってくれた。
 それで、余計に涙が溢れてしまう。
 嗚咽をもらすと白い息が漏れ、その度に三条さんが腕の力を強めてくれた。

 だけど、しばらく泣いていると三条さんの腕の力がふと緩む。
 はっとして顔を上げると、三条さんの顔が目の前にあった。

 三条さんは私の背から離した右手を私の頬に当て、その親指の腹で私の涙を優しく拭ってくれた。

「どうして、こんなところに?」

 心配そうに顔を覗かれ、私は口を開いた。

「転んだおばあさんを助けたら、その方のお家がパン屋さんだったみたいで……。お礼にお店でパンをもらって、戻ろうと思ったら、道に迷ってしまって」

 洟をすすりながら、必死に伝える。

「本当に、すみま――」

 謝ろうとした言葉は、紡げなかった。
 彼の唇が、それをさせてくれなかったのだ。

 トクリ。
 突然の出来事に、胸が甘く鳴り、緊張が体を走る。

 三条さんに、キスされてる――。

 触れるだけの、優しいキス。唇から伝わる彼の体温に、私はドキドキして、同時にすごく安心する。

 思わず目をつむり、その優しいぬくもりを味わおうとした。だけどその瞬間に、三条さんが唇を離した。

「悪い」

 彼はそれだけ、短く告げる。

「いえ、あの……嬉しかったです」

 なんと答えていいか分からずにそう答えると、三条さんはとびきり優しく微笑んでくれた。

「ホテルに戻るか」
「はい」

 私が答えると、三条さんは鞄から折り畳みの傘を取り出して、差してくれる。
 それから、私の腕からパンをひょいと取り上げ、傘を持つのと反対の手で持つ。

「入ってくれ。折り畳みで小さいから、こっちに寄って」
「……はい」

 私はドキドキとしながら、三条さんに寄り添って、ホテルまでの道を歩いた。
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