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君に手向ける水仙
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あの夜は、物凄く寒かった。
ここは、雪は中々降らない土地だけれど、痛いくらいの夜風が頬を撫でていた。
時間はよく覚えていないけれど、遅くに用事があった帰りだったから多分、夜の十一時くらい。
携帯を見ながら歩いていたの。安全上良くないことって判ってたけれど時間が時間で、あまり車も走っていなくて…第一、ここ都会じゃないから。静かだった。いつも、ここは静かで昼間もあまり人とすれ違う事がない。
でもね。今日は違ったの。明らかに…違った。
家へと向かう道の途中にある、廃校となった古い小学校が左手にある。T字路になっていて、そこを右に曲がろうとした時だった。曲がり角の少し先に、ちらりと人影が見えた。
ああ、こんな時間にここで人に会うの珍しいな、と思った。
その時。
突然、私の目の前を大きな塊が勢いよく横切った。
もう少し前に居たら、きっと私は吹き飛ばされていた…って距離だった。
近くで物凄い音がした。
驚いて携帯を落とした。画面が割れた音が小さくした。
視線の先には黒い車。小学校の鉄の門が曲がり、同じく車体がぶつかったであろうブロック塀には亀裂が入っていた。
「…あ、あ」
声が出なかった。どうするか、なんて当たり前に判るはずなのに…どうしたら良いのか判らなくなって、頭は真っ白で。
真っ白で…
駅の近くとか、住宅街とかじゃなく、廃校になった小学校が手付かずで残されている様な所。
本当に誰も居ない。音を聞きつけて、一人くらい近くの住人が出てきても良さそうなものなのに…。でも、周りに私以外の人は居ない。
居ない? あれ? さっきの人は…?
そんな事をぐるぐる考えていたら、呻き声がした…気がする。
「ひっ…」
車とコンクリートの地面の隙間から、手が見えた。真っ赤だった。
夜でも、はっきりと赤く見えた。
たまたま街灯が、その手の真上にあって、スポットライトを当てているみたいになっていたから…。
これは、〝さっきの人〟だ。
「や…どう…しよ」
足下に落としたままだった携帯を拾い上げる。
電源ボタンを押す。画面は割れているものの、まだ使える。
「救急車!」
私はたった三桁の番号を押し間違えて、二度目でようやく発信する。
携帯を耳に当てながら、にょっきりと手が出たままの車の方に少しずつ近付く。
心の中で早く出て! と祈る。嫌な汗が流れてきた。
しかし普通すぐ繋がるはずの電話は一向に通じない。
そして…
ツーツーという音に変わった。
「え…嘘」
足が止まる。
嘘か本当かは分からないけれど、携帯では一部、緊急連絡が繋がらない、と聞いた事があった。
「そんな…他に方法!」
頭を働かせる。
公衆電話は最近、全然見なくなったから、ここから一番近くの公衆電話も知らない。
近くの住人にお願いする…しかないのかな?
頭痛がしてきた私は、再び〝手〟に向き直った。
「あの…」
怖くて大きな声が出ない。
「あ、あの!」
赤く染まった手が一瞬動いた気がする。気付いたら、夢中で覆い被さっている車体を押し、散乱した硝子を掻き分けていた。
「大丈夫ですか?!」と。
少し顔を上げると木っ端みじんになったフロントガラスの向こうに、運転手の姿が見えた。頭をもたげ、ぐったりして、瞳は虚ろだった。怖かった。でも、今は生きているこの人が最優先だと思った。硝子の破片で手が切れたのか、ピリピリとする。気にしない。必死だった。
「大丈夫ですか?!」
門と車の隙間から何とか覗き込み、やっと、その人の顔が見えて…
「いやああああああ!」
その人は…車の下敷きになった彼は、私の大好きな人でした。
でも塀に打ち付けた頭と顔は血塗れで、頬骨が折れているのか痛々しい程に頬が変形していた。
×××× どうして…
咄嗟に私が握った彼の手から、力が抜けました。
私は、自分の息が止まっている事にすら気付かなかった。だって、苦しくもない…呼吸の仕方を忘れたのかもしれない。頭はガンガンする。
ついさっきまで見ていた携帯の画面を開く。
ひび割れた画面で、アプリを起動させる。血が付いたけれど、気にしない。
『愛してるよ』
少し前に、彼から送られて来たメッセージだった。
「愛してるって…言った…じゃない」
不意に涙がぽろぽろと零れ出す。やっと、頭が冷静に物事を捉え始めて…私はしゃくり上げながら、何で、何で、と繰り返す。
「な…んでっ……嫌っ」
彼の腕に抱き着いた。車の下に身体の殆どが埋もれたままの彼に。
まだ、腕が温かい。だから脈を取ってみた…けれど、脈は感じられない。
信じられなかった。信じたくなかった。
「どうして…」
私は彼の腕に抱き着いたまま、泣く事しか出来ませんでした。
抱き締めているのに、彼の腕は少しずつ…でも確実に冷えていきました。
あの人と別れてから、もうどれくらい経ったのだろう…。
私達が学生の時に起こった事故。本当に事故かは判らないけれど、車に乗っていた人の身元やブレーキ痕なんかを、色々調べて、事故だったって結果になった。最近よくある、アクセルとブレーキを踏み間違えたんじゃないか、って。
別に異論は無いし、むしろ事故であって欲しいという気持ちの方が勝るに決まってる。
それに、私はもう学生じゃない…。だから、ちゃんとメリハリをつけて生きていかなきゃいけなかった。
*
電車を降り、住宅地を進む。
実家には今も家族が住んでいるけれど、私は会社の近くで一人暮らしをしていた。
今日ここに来たのには、ちゃんとした理由がある。
勿論、帰省じゃない。家族の顔を見ていこうか、とも思ったけれどやめた。
今日はね…
あの人の命日なんだ。
だから、毎年欠かさず私はここに来る。一人だけで。
誰かと一緒には来ない。どうしても誰かが付いて来たら、後でもう一回、一人で来る。
手向けるお花も決まっていた。
『俺は、水仙が一番好き』
スイセン…丁度、今の季節のお花。
どうして好きなのか、付き合い立ての頃、訊いたことがある。
『どうして、水仙なの?』
『知りたいか?』
『うん』
『……』
『何よ、早く教えて!』
『あはは。はいはい』
『水仙の花言葉、知ってるか?』
『え? …うーん。知らない』
『そうかあ』
『水仙の花言葉が好きなの?』
『ああ』
『なあに?』
『自己愛』
『自己愛? …ナルシスト?』
『馬鹿、悪い方に捉えるな』
『えー』
『自己愛って言うと、大抵、お前らは自己中とか我儘って思うのか?』
『そういう訳でも…ないと思う』
『はっきりしねえな』
『良いでしょ! それで? 続き!』
『ん?』
『水仙の花言葉!』
『ああ…』
君は、にっこりして言ったね。
『自己愛…自分を自分で愛してあげるんだよ』
じゃないと、お前の事も守ってやれないだろう?
*
あれ、凄く嬉しかったんだよ。
そっか…自分のことを愛する、か。
素敵な言葉だな、って。
そしたら私も、君をもっと愛せる様になるのかな…って。
駅の近くの花屋さんで一本だけ買った水仙…
未だに亀裂が入ったままの小学校の塀の前。
私は、お花をそっと手向ける。
今日は星がよく見える。綺麗だね。
私も君も、星が好きだった。
「一緒に見たかったね…」
ここは、雪は中々降らない土地だけれど、痛いくらいの夜風が頬を撫でていた。
時間はよく覚えていないけれど、遅くに用事があった帰りだったから多分、夜の十一時くらい。
携帯を見ながら歩いていたの。安全上良くないことって判ってたけれど時間が時間で、あまり車も走っていなくて…第一、ここ都会じゃないから。静かだった。いつも、ここは静かで昼間もあまり人とすれ違う事がない。
でもね。今日は違ったの。明らかに…違った。
家へと向かう道の途中にある、廃校となった古い小学校が左手にある。T字路になっていて、そこを右に曲がろうとした時だった。曲がり角の少し先に、ちらりと人影が見えた。
ああ、こんな時間にここで人に会うの珍しいな、と思った。
その時。
突然、私の目の前を大きな塊が勢いよく横切った。
もう少し前に居たら、きっと私は吹き飛ばされていた…って距離だった。
近くで物凄い音がした。
驚いて携帯を落とした。画面が割れた音が小さくした。
視線の先には黒い車。小学校の鉄の門が曲がり、同じく車体がぶつかったであろうブロック塀には亀裂が入っていた。
「…あ、あ」
声が出なかった。どうするか、なんて当たり前に判るはずなのに…どうしたら良いのか判らなくなって、頭は真っ白で。
真っ白で…
駅の近くとか、住宅街とかじゃなく、廃校になった小学校が手付かずで残されている様な所。
本当に誰も居ない。音を聞きつけて、一人くらい近くの住人が出てきても良さそうなものなのに…。でも、周りに私以外の人は居ない。
居ない? あれ? さっきの人は…?
そんな事をぐるぐる考えていたら、呻き声がした…気がする。
「ひっ…」
車とコンクリートの地面の隙間から、手が見えた。真っ赤だった。
夜でも、はっきりと赤く見えた。
たまたま街灯が、その手の真上にあって、スポットライトを当てているみたいになっていたから…。
これは、〝さっきの人〟だ。
「や…どう…しよ」
足下に落としたままだった携帯を拾い上げる。
電源ボタンを押す。画面は割れているものの、まだ使える。
「救急車!」
私はたった三桁の番号を押し間違えて、二度目でようやく発信する。
携帯を耳に当てながら、にょっきりと手が出たままの車の方に少しずつ近付く。
心の中で早く出て! と祈る。嫌な汗が流れてきた。
しかし普通すぐ繋がるはずの電話は一向に通じない。
そして…
ツーツーという音に変わった。
「え…嘘」
足が止まる。
嘘か本当かは分からないけれど、携帯では一部、緊急連絡が繋がらない、と聞いた事があった。
「そんな…他に方法!」
頭を働かせる。
公衆電話は最近、全然見なくなったから、ここから一番近くの公衆電話も知らない。
近くの住人にお願いする…しかないのかな?
頭痛がしてきた私は、再び〝手〟に向き直った。
「あの…」
怖くて大きな声が出ない。
「あ、あの!」
赤く染まった手が一瞬動いた気がする。気付いたら、夢中で覆い被さっている車体を押し、散乱した硝子を掻き分けていた。
「大丈夫ですか?!」と。
少し顔を上げると木っ端みじんになったフロントガラスの向こうに、運転手の姿が見えた。頭をもたげ、ぐったりして、瞳は虚ろだった。怖かった。でも、今は生きているこの人が最優先だと思った。硝子の破片で手が切れたのか、ピリピリとする。気にしない。必死だった。
「大丈夫ですか?!」
門と車の隙間から何とか覗き込み、やっと、その人の顔が見えて…
「いやああああああ!」
その人は…車の下敷きになった彼は、私の大好きな人でした。
でも塀に打ち付けた頭と顔は血塗れで、頬骨が折れているのか痛々しい程に頬が変形していた。
×××× どうして…
咄嗟に私が握った彼の手から、力が抜けました。
私は、自分の息が止まっている事にすら気付かなかった。だって、苦しくもない…呼吸の仕方を忘れたのかもしれない。頭はガンガンする。
ついさっきまで見ていた携帯の画面を開く。
ひび割れた画面で、アプリを起動させる。血が付いたけれど、気にしない。
『愛してるよ』
少し前に、彼から送られて来たメッセージだった。
「愛してるって…言った…じゃない」
不意に涙がぽろぽろと零れ出す。やっと、頭が冷静に物事を捉え始めて…私はしゃくり上げながら、何で、何で、と繰り返す。
「な…んでっ……嫌っ」
彼の腕に抱き着いた。車の下に身体の殆どが埋もれたままの彼に。
まだ、腕が温かい。だから脈を取ってみた…けれど、脈は感じられない。
信じられなかった。信じたくなかった。
「どうして…」
私は彼の腕に抱き着いたまま、泣く事しか出来ませんでした。
抱き締めているのに、彼の腕は少しずつ…でも確実に冷えていきました。
あの人と別れてから、もうどれくらい経ったのだろう…。
私達が学生の時に起こった事故。本当に事故かは判らないけれど、車に乗っていた人の身元やブレーキ痕なんかを、色々調べて、事故だったって結果になった。最近よくある、アクセルとブレーキを踏み間違えたんじゃないか、って。
別に異論は無いし、むしろ事故であって欲しいという気持ちの方が勝るに決まってる。
それに、私はもう学生じゃない…。だから、ちゃんとメリハリをつけて生きていかなきゃいけなかった。
*
電車を降り、住宅地を進む。
実家には今も家族が住んでいるけれど、私は会社の近くで一人暮らしをしていた。
今日ここに来たのには、ちゃんとした理由がある。
勿論、帰省じゃない。家族の顔を見ていこうか、とも思ったけれどやめた。
今日はね…
あの人の命日なんだ。
だから、毎年欠かさず私はここに来る。一人だけで。
誰かと一緒には来ない。どうしても誰かが付いて来たら、後でもう一回、一人で来る。
手向けるお花も決まっていた。
『俺は、水仙が一番好き』
スイセン…丁度、今の季節のお花。
どうして好きなのか、付き合い立ての頃、訊いたことがある。
『どうして、水仙なの?』
『知りたいか?』
『うん』
『……』
『何よ、早く教えて!』
『あはは。はいはい』
『水仙の花言葉、知ってるか?』
『え? …うーん。知らない』
『そうかあ』
『水仙の花言葉が好きなの?』
『ああ』
『なあに?』
『自己愛』
『自己愛? …ナルシスト?』
『馬鹿、悪い方に捉えるな』
『えー』
『自己愛って言うと、大抵、お前らは自己中とか我儘って思うのか?』
『そういう訳でも…ないと思う』
『はっきりしねえな』
『良いでしょ! それで? 続き!』
『ん?』
『水仙の花言葉!』
『ああ…』
君は、にっこりして言ったね。
『自己愛…自分を自分で愛してあげるんだよ』
じゃないと、お前の事も守ってやれないだろう?
*
あれ、凄く嬉しかったんだよ。
そっか…自分のことを愛する、か。
素敵な言葉だな、って。
そしたら私も、君をもっと愛せる様になるのかな…って。
駅の近くの花屋さんで一本だけ買った水仙…
未だに亀裂が入ったままの小学校の塀の前。
私は、お花をそっと手向ける。
今日は星がよく見える。綺麗だね。
私も君も、星が好きだった。
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