60 / 229
9 結花
3
しおりを挟む
いらっしゃいませぇ、と独特な節回しで言う店員がこちらに笑顔を向けた。止める間もなく、晶が彼女に近寄り声をかける。
「この帽子、見たいんですけど」
「はい、新しいのをお持ちしますね」
またこいつは余計なことを! 店員はマネキンのかぶっているグレーの他に、色違いまで持ってきて、鏡の前に晴也を誘う。晴也は店内に足を踏み込むだけで緊張した。きっと男だとバレて、変な顔をされる。そして閉店後に、店員たちの間で笑いのネタにされるのだ。
晴也は鏡の中の化粧をした自分を凝視しながら、柔らかい帽子を頭に乗せた。店員は、斜めにして深めにかぶることを勧めてくる。
……あ、可愛いな。晴也はときめいた。
「いいんじゃない?」
笑顔の晶はぬけぬけと言う。
「今日のお召し物ならグレーがぴったりですね、マフラーとコートは男ものですよね? いらっしゃってすぐにお洒落だなって目が行きました」
アパレルの店員にそんな風に言われて、晴也は照れた。鏡の中の自分の頬が、ぽやんと染まった。
「お顔立ちにはベージュがお似合いかとも思います」
晴也は次々と帽子をかぶせられ、女性が服をやたらと買い込む気持ちを理解した気がした。これは、楽しい。その時ちょうど17時になり、今から1時間限り、さらに2割引のコールがかかって、店内がヒートアップした。晴也と同世代か、少し若い女性が、店の前で足を止める。
店員は、もう店頭にあるだけだと煽って来ながら、チャコールグレーのエナメルに、濃紺のアクセントが入った大きめのショルダーバッグを出して来た。女装用の鞄は、仕事の時は必要ないので、昨日も今日も同じものを使っている。一つあれば便利かもしれない。晴也はバッグを手に取って、ポケットの数などを確認する。通販では把握しづらい、大きさや質感が分かるのがいいと実感した。
結局グレーのニット帽とバッグを晶に買わせて、若い店員に見送られながら、晴也は賑やかな店を後にした。
「やりましたね、今店の誰一人として、お嬢様が男だとは気づいておりませんでした」
「さすがに緊張したな」
晴也は無責任に楽しむ晶にはムカついたが、本当は走り回りたいほど嬉しかった。可愛いものを、店員が次々と持ってきて、あれが似合う、これとコーデするといいと言ってくれる。そしてそれを実際身につけて吟味し、納得して手に入れられる。ベージュの帽子も可愛かった、新宿のデパートで年明けに探してみようか。
ブランドの紙袋を肩に掛け直した晴也は、正面から女の子を連れた夫婦がやって来ることに気づいた。2歳か3歳くらいだろうか、少し危なっかしい歩みの子を、両方から2人で手を繋いで支えている。何げなく母親の顔を見て、晴也はどきりとして足を止めそうになる。父親の顔も確認し、彼らが顔を合わせたくない人々であることを晴也は認識した。……どうしよう、こんなところで。心臓がどきどきして、店内に流れるBGMが遠くなった。
「ハルさん?」
晶に声をかけられて、晴也ははっとする。来た道を戻ろうとして、思い留まる。……あちらにはわからない。あいつらはもう俺のことなど忘れてるだろうし、俺は今はめぎつねのハルなんだから。晴也は腹の下に力を入れた。
両親に挟まれた女の子は、母親譲りのくりくりした目で晴也を見つめて来た。その様子は何の疑いも無く可愛らしかったので、晴也は少女に微笑みかけた。彼女の躊躇いがちな笑顔は、父親にそっくりだった。
母親は娘が笑いかけた相手を確認すべく、晴也を見る。目が合ったので、晴也は店でするように、柔らかく目を伏せて会釈した。目だけで彼女を盗み見すると、彼女は小さな驚きのようなものを顔に浮かべている。目の端に映った父親は、思わずといった風情で晴也を見ていた。……バレたか。晴也は真っ直ぐ前を見て、跳ねる心臓を宥めながら家族と静かにすれ違う。右側に立つ晶が寄り添ってくれているのがわかる。
10歩ゆっくり歩み、エスカレーターが見えたところで深呼吸した。晶がちらりと来た道を振り返る。
「知ってる人?」
「……学生時代の知り合い」
晴也は息を吐きながら答えた。背中に嫌な汗を感じ、苦いものが僅かに喉もとにこみ上げた。そのまま昇りエスカレーターに足を運び、晴也が先に乗った。
「お父さんがハルさんと俺を見比べてたな、……元彼?」
晴也は晶を咄嗟に振り返って、見下ろしながら睨みつけた。
「俺ノンケだっつーんだよ! 母親もあいつも大学のサークル友……バレたかなあ」
「まさかって感じだったな、話したらバレたかもな」
晶の言葉には、挨拶もしないで良かったのかというニュアンスがあった。晴也はたぶん、男の姿でも無視を決め込んだだろう。いや、きっと後ろを向いて逃げた。
「まあ話す気は無かったけど」
晴也の無感情な言葉に、晶は何も答えなかった。
気を取り直して、紳士服売り場に向かった。奢られっぱなしでは申し訳ないので、晴也は晶に普段用のネクタイを買ってやろうと考えたのである。サラリーマンの時は外回りが多い彼は、値下げしたものでいいと庶民的に言いながら、喜んで選んでいた。ここでも晴也は、クリスマスプレゼントに彼氏にネクタイを買う女を演じきる。
紳士服のフロアのトイレは空いていた。晴也が多目的トイレに入るのを見て晶は笑い、自分もトイレに行った。
「この帽子、見たいんですけど」
「はい、新しいのをお持ちしますね」
またこいつは余計なことを! 店員はマネキンのかぶっているグレーの他に、色違いまで持ってきて、鏡の前に晴也を誘う。晴也は店内に足を踏み込むだけで緊張した。きっと男だとバレて、変な顔をされる。そして閉店後に、店員たちの間で笑いのネタにされるのだ。
晴也は鏡の中の化粧をした自分を凝視しながら、柔らかい帽子を頭に乗せた。店員は、斜めにして深めにかぶることを勧めてくる。
……あ、可愛いな。晴也はときめいた。
「いいんじゃない?」
笑顔の晶はぬけぬけと言う。
「今日のお召し物ならグレーがぴったりですね、マフラーとコートは男ものですよね? いらっしゃってすぐにお洒落だなって目が行きました」
アパレルの店員にそんな風に言われて、晴也は照れた。鏡の中の自分の頬が、ぽやんと染まった。
「お顔立ちにはベージュがお似合いかとも思います」
晴也は次々と帽子をかぶせられ、女性が服をやたらと買い込む気持ちを理解した気がした。これは、楽しい。その時ちょうど17時になり、今から1時間限り、さらに2割引のコールがかかって、店内がヒートアップした。晴也と同世代か、少し若い女性が、店の前で足を止める。
店員は、もう店頭にあるだけだと煽って来ながら、チャコールグレーのエナメルに、濃紺のアクセントが入った大きめのショルダーバッグを出して来た。女装用の鞄は、仕事の時は必要ないので、昨日も今日も同じものを使っている。一つあれば便利かもしれない。晴也はバッグを手に取って、ポケットの数などを確認する。通販では把握しづらい、大きさや質感が分かるのがいいと実感した。
結局グレーのニット帽とバッグを晶に買わせて、若い店員に見送られながら、晴也は賑やかな店を後にした。
「やりましたね、今店の誰一人として、お嬢様が男だとは気づいておりませんでした」
「さすがに緊張したな」
晴也は無責任に楽しむ晶にはムカついたが、本当は走り回りたいほど嬉しかった。可愛いものを、店員が次々と持ってきて、あれが似合う、これとコーデするといいと言ってくれる。そしてそれを実際身につけて吟味し、納得して手に入れられる。ベージュの帽子も可愛かった、新宿のデパートで年明けに探してみようか。
ブランドの紙袋を肩に掛け直した晴也は、正面から女の子を連れた夫婦がやって来ることに気づいた。2歳か3歳くらいだろうか、少し危なっかしい歩みの子を、両方から2人で手を繋いで支えている。何げなく母親の顔を見て、晴也はどきりとして足を止めそうになる。父親の顔も確認し、彼らが顔を合わせたくない人々であることを晴也は認識した。……どうしよう、こんなところで。心臓がどきどきして、店内に流れるBGMが遠くなった。
「ハルさん?」
晶に声をかけられて、晴也ははっとする。来た道を戻ろうとして、思い留まる。……あちらにはわからない。あいつらはもう俺のことなど忘れてるだろうし、俺は今はめぎつねのハルなんだから。晴也は腹の下に力を入れた。
両親に挟まれた女の子は、母親譲りのくりくりした目で晴也を見つめて来た。その様子は何の疑いも無く可愛らしかったので、晴也は少女に微笑みかけた。彼女の躊躇いがちな笑顔は、父親にそっくりだった。
母親は娘が笑いかけた相手を確認すべく、晴也を見る。目が合ったので、晴也は店でするように、柔らかく目を伏せて会釈した。目だけで彼女を盗み見すると、彼女は小さな驚きのようなものを顔に浮かべている。目の端に映った父親は、思わずといった風情で晴也を見ていた。……バレたか。晴也は真っ直ぐ前を見て、跳ねる心臓を宥めながら家族と静かにすれ違う。右側に立つ晶が寄り添ってくれているのがわかる。
10歩ゆっくり歩み、エスカレーターが見えたところで深呼吸した。晶がちらりと来た道を振り返る。
「知ってる人?」
「……学生時代の知り合い」
晴也は息を吐きながら答えた。背中に嫌な汗を感じ、苦いものが僅かに喉もとにこみ上げた。そのまま昇りエスカレーターに足を運び、晴也が先に乗った。
「お父さんがハルさんと俺を見比べてたな、……元彼?」
晴也は晶を咄嗟に振り返って、見下ろしながら睨みつけた。
「俺ノンケだっつーんだよ! 母親もあいつも大学のサークル友……バレたかなあ」
「まさかって感じだったな、話したらバレたかもな」
晶の言葉には、挨拶もしないで良かったのかというニュアンスがあった。晴也はたぶん、男の姿でも無視を決め込んだだろう。いや、きっと後ろを向いて逃げた。
「まあ話す気は無かったけど」
晴也の無感情な言葉に、晶は何も答えなかった。
気を取り直して、紳士服売り場に向かった。奢られっぱなしでは申し訳ないので、晴也は晶に普段用のネクタイを買ってやろうと考えたのである。サラリーマンの時は外回りが多い彼は、値下げしたものでいいと庶民的に言いながら、喜んで選んでいた。ここでも晴也は、クリスマスプレゼントに彼氏にネクタイを買う女を演じきる。
紳士服のフロアのトイレは空いていた。晴也が多目的トイレに入るのを見て晶は笑い、自分もトイレに行った。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】 男達の性宴
蔵屋
BL
僕が通う高校の学校医望月先生に
今夜8時に来るよう、青山のホテルに
誘われた。
ホテルに来れば会場に案内すると
言われ、会場案内図を渡された。
高三最後の夏休み。家業を継ぐ僕を
早くも社会人扱いする両親。
僕は嬉しくて夕食後、バイクに乗り、
東京へ飛ばして行った。
隣のチャラ男くん
木原あざみ
BL
チャラ男おかん×無気力駄目人間。
お隣さん同士の大学生が、お世話されたり嫉妬したり、ごはん食べたりしながら、ゆっくりと進んでいく恋の話です。
第9回BL小説大賞 奨励賞ありがとうございました。
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
男子高校に入学したらハーレムでした!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
寮生活のイジメ【社会人版】
ポコたん
BL
田舎から出てきた真面目な社会人が先輩社員に性的イジメされそのあと仕返しをする創作BL小説
【この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。】
全四話
毎週日曜日の正午に一話ずつ公開
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる