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extra track ハルさんと踊る
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晴也は左右順番にシューズの先をこつこつと床に当ててから、すいと両足で、しかも完璧な外向きでつま先立ちした。彼はスーツ姿の時は猫背気味で、女装すると背筋をしゃんと伸ばすが、トウで立つとさらに腰から後頭部が引き上げられ、その背に翼が生えたかのようだった。
俺がクラシックをしていたと見破る辺り、やっぱり踊るんじゃないか。晶は困惑を拭い去れないまま、美しいシルエットの晴也を見てエキサイトする。ダンサーは立ち姿で実力が知れるが、彼に対する期待値は高かった。
「ハルさん、俺と何を踊ることになってるの?」
晶の問いに、晴也は一瞬むっとしたが、挑戦的な笑みを唇に浮かべた。
「ドンキの三幕」
マジか! この自己卑下気味の晴也に、キトリが踊れるのか。
『ドン・キホーテ』の終幕の有名なパ・ド・ドゥは、ドン・キホーテが出会った勝ち気で美しい町娘キトリと、その恋人バジルの結婚式の踊りである。男性はジャンプやリフトが多く体力的にきついし、女性は様々な難所がある。長いバランス、ソロで使う扇、コーダでは32回の大回転。
「最後まで踊れるのか?」
「おまえこそもう振付覚えてないだろ?」
晴也は長い睫毛の下の薄茶色の瞳を輝かせ、晶の挑発に真っ向から言い返す。こうでないと、俺のハルさんは。彼が男なのにトウシューズでキトリを踊る異様さなど、最早どうでも良かった。どんな踊りをするんだ、見せてみろ。
スタンバイすると、生徒たちがわっと手を叩いた。観客の拍手はいつも晶を高揚させる。母がいくわよ、と言って音楽をスタートさせた。
華々しく小気味の良いフルオーケストラの音がレッスン場に響いた。最初はキトリの友人たちの群舞の音楽だ。晶は晴也の細い腰に左手を添え、薬指と小指の間に黒子のある右手を取った。その手に普段の彼が見せる躊躇い混じりの拒絶は一切無く、むしろ晶をパートナーとして信頼する気持ちさえ伝わって来た。
自分たちを観る人たちと、自分たちのために。このパ・ド・ドゥはキトリ役が肝だ。踊り始めると、早々にリフトと回転がある。晴也が自分の知る限りで最高に美しく見えるように踊ろう。晶は彼の赤いトウシューズをちらりと視界に入れ、顔を上げた。主役の二人が登場することを告げるべく、音楽のテンポが緩む。呼吸を合わせ、軽く舞台に駆け出す。
目を開けると、見慣れた天井が視界に飛び込んできた。晶は数度瞬きして、自分が酷くがっかりしてしまったのを見出す。めちゃくちゃ楽しい夢だった。続きが見たいと思って目を閉じてみたが、これ以上寝ると遅刻しそうだったので諦める。
股間が緩く勃っていた。仕方ないなと晶は思うが、朝は自慰しないようにしている。ここのところほぼ毎晩しているし、朝にすると本当に会社に行く気がなくなりそうだからだ。
晶はあの生意気な(と彼のほうが歳上なのに思ってみたりする)女装男子に、自分の認識以上に夢中になっていると気づかされて、顔を洗いながら胸の内で自嘲する。腹立たしくて、愛おしい。そのうち絶対、俺の腕の中でひいひい言わせてやる。……というほどセックスに自信は無いが。
ハルさんと踊れたら、楽しいだろうな。もう少し彼の態度が軟化したら、提案してみよう。ダンスは観る専ではつまらない。阿波踊りでも言うではないか、同じ阿保なら踊らにゃ損損。
晶はそんな訳で、最近は目覚めが良い。だが、2日ほど顔を見ないと晴也不足になるのが、ちょっと困りものだ。自分が思っているほど、あちらは自分を気にしていないだろうと思うと、不足感に切なさが混じる。
……こんな気持ちをもっと早くに知っていたら、ロンドンにいた頃にもっといい踊りが出来ただろうか。晶はりんごを剥きながら考える。それは無いものねだりだった。今、この環境でなければ、晴也と出会えなかったし、もし出会っていたとしても、恋心を抱かなかったかも知れないから。晶は人生がやや皮肉に思えたが、でなければ楽しくないと思い直して、一人頬を緩めた。
☆バレエ「ドン・キホーテ」(1869年初演)
レオン・ミンクス(作曲)、マリウス・プティパ(振付)
《ハルさんと踊る 完》
俺がクラシックをしていたと見破る辺り、やっぱり踊るんじゃないか。晶は困惑を拭い去れないまま、美しいシルエットの晴也を見てエキサイトする。ダンサーは立ち姿で実力が知れるが、彼に対する期待値は高かった。
「ハルさん、俺と何を踊ることになってるの?」
晶の問いに、晴也は一瞬むっとしたが、挑戦的な笑みを唇に浮かべた。
「ドンキの三幕」
マジか! この自己卑下気味の晴也に、キトリが踊れるのか。
『ドン・キホーテ』の終幕の有名なパ・ド・ドゥは、ドン・キホーテが出会った勝ち気で美しい町娘キトリと、その恋人バジルの結婚式の踊りである。男性はジャンプやリフトが多く体力的にきついし、女性は様々な難所がある。長いバランス、ソロで使う扇、コーダでは32回の大回転。
「最後まで踊れるのか?」
「おまえこそもう振付覚えてないだろ?」
晴也は長い睫毛の下の薄茶色の瞳を輝かせ、晶の挑発に真っ向から言い返す。こうでないと、俺のハルさんは。彼が男なのにトウシューズでキトリを踊る異様さなど、最早どうでも良かった。どんな踊りをするんだ、見せてみろ。
スタンバイすると、生徒たちがわっと手を叩いた。観客の拍手はいつも晶を高揚させる。母がいくわよ、と言って音楽をスタートさせた。
華々しく小気味の良いフルオーケストラの音がレッスン場に響いた。最初はキトリの友人たちの群舞の音楽だ。晶は晴也の細い腰に左手を添え、薬指と小指の間に黒子のある右手を取った。その手に普段の彼が見せる躊躇い混じりの拒絶は一切無く、むしろ晶をパートナーとして信頼する気持ちさえ伝わって来た。
自分たちを観る人たちと、自分たちのために。このパ・ド・ドゥはキトリ役が肝だ。踊り始めると、早々にリフトと回転がある。晴也が自分の知る限りで最高に美しく見えるように踊ろう。晶は彼の赤いトウシューズをちらりと視界に入れ、顔を上げた。主役の二人が登場することを告げるべく、音楽のテンポが緩む。呼吸を合わせ、軽く舞台に駆け出す。
目を開けると、見慣れた天井が視界に飛び込んできた。晶は数度瞬きして、自分が酷くがっかりしてしまったのを見出す。めちゃくちゃ楽しい夢だった。続きが見たいと思って目を閉じてみたが、これ以上寝ると遅刻しそうだったので諦める。
股間が緩く勃っていた。仕方ないなと晶は思うが、朝は自慰しないようにしている。ここのところほぼ毎晩しているし、朝にすると本当に会社に行く気がなくなりそうだからだ。
晶はあの生意気な(と彼のほうが歳上なのに思ってみたりする)女装男子に、自分の認識以上に夢中になっていると気づかされて、顔を洗いながら胸の内で自嘲する。腹立たしくて、愛おしい。そのうち絶対、俺の腕の中でひいひい言わせてやる。……というほどセックスに自信は無いが。
ハルさんと踊れたら、楽しいだろうな。もう少し彼の態度が軟化したら、提案してみよう。ダンスは観る専ではつまらない。阿波踊りでも言うではないか、同じ阿保なら踊らにゃ損損。
晶はそんな訳で、最近は目覚めが良い。だが、2日ほど顔を見ないと晴也不足になるのが、ちょっと困りものだ。自分が思っているほど、あちらは自分を気にしていないだろうと思うと、不足感に切なさが混じる。
……こんな気持ちをもっと早くに知っていたら、ロンドンにいた頃にもっといい踊りが出来ただろうか。晶はりんごを剥きながら考える。それは無いものねだりだった。今、この環境でなければ、晴也と出会えなかったし、もし出会っていたとしても、恋心を抱かなかったかも知れないから。晶は人生がやや皮肉に思えたが、でなければ楽しくないと思い直して、一人頬を緩めた。
☆バレエ「ドン・キホーテ」(1869年初演)
レオン・ミンクス(作曲)、マリウス・プティパ(振付)
《ハルさんと踊る 完》
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