煉獄の歌 

文月 沙織

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 言われても、ぼんやりと敬は相手を見ていた。ほとんど大人にかまってもらえなかった敬は、言語能力もかなり劣っていたのだ。
「可哀想に……。敬、こっちおいで」
 臭気も気にせず、少年は敬を抱きよせた。
「おい、女将、これはどういうことだ!」
 当時勇はまだ中学生だったはずだが、廊下でおろおろしている女将を呼ばわり、怒鳴りつけていたのは、さすがに極道の跡取り息子らしい貫録だった。
 敬にとってはひどく恐ろしかった女が、まだ子どもの勇を前に狼狽うろたえ、必死になにか弁明している声が聞こえる。
「こんなところに弟を置いておけるか!」
 その日のうちに敬は兄の手によって本家である今の屋敷に連れて行かれた。 
 勇の母である本妻は、さすがに敬の様子を見て事情を察し、敬を女将のもとに戻すことはせず、勇のしたいようにさせてくれた。この義母はのちに肺癌で亡くなるのだが、このときすでに体調が思わしくなく、家政からは一線を引いていた。
 その日から敬の生活は天と地ほどに変わった。日当たりの良い居心地の良い部屋をあたえられ、着るものも食べ物も、身の回りの世話も、今までとはくらべようにならないほど良くなり、体躯の大きな男たちから、坊ちゃん、坊ちゃんとうやまわれるようになった。
 なにより自分を気にかけてくれる兄の存在が、五歳の幼子のてついていた心をいっぺんに蕩かしてくれた。かなり遅れていた発達も嘘のように早くなり、もともと聡明だったせいか、小学校に入ると成績はつねに上位で勇を喜ばせた。
 父はおなじ家に暮しても、あくまでも組長であり、どこか遠い人であったが、兄は常にあふれる情愛を敬に向けてくれた。
 血の繋がった兄というだけではなく、優れた容貌に、男性的な肉体、それでいて時折り光る知性を秘めた双眼、どれをとっても慕わしかった。優れた人品人柄に、文武両道に秀でた勇は、敬にとって尊敬という言葉をとおりこして、ほとんど尊崇そんすうの的であった。この兄と同じ血がながれていることは敬にとって誇りであり、喜びだった。

 そんな兄弟としのて愛情に、どこか艶めいたものが入りはじめたのは、敬が小学六年生になった晩春の夕暮れのことである。
 安賀邸には、敷地内に道場があり、そこに木刀が置かれてある。時折り、敬もそこで素振りの練習をしたりもするが、あるとき、興味本位で納戸の引き戸を開けてしまった。 
 そこは触れてはならないと言われていたが、子どもゆえの好奇心で、敬は納戸の奥をさぐり、小型金庫を見つけた。
 不用心なことに、そのときたまたま中の物を出したらしく、鍵が外れていたのを見ると、敬は我慢できず、金庫の扉に手をかけた。
 そこにあったのは、数丁の拳銃である。
 たまに組員が手入れをすることになっており、今日はその日だったようだ。
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