さわれぬ神 憂う世界

マーサー

文字の大きさ
2 / 79
第1部

[2] 1部1章/1 「大事に守られてきた次期当主様を、自分は連れ出してしまったのだ。」

しおりを挟む
【1部1章】

 /1

 夕日があまりに綺麗だった。ただ、それだけの理由で彼を連れ出した。

 仏田ほとけだてらが鎮座する陵珊りょうさん山の麓に、人々に忘れ去られたようにひっそりと佇む小さな社がある。社殿の裏手には低い崖があり、そこから臨む夕映えの街は、幼い日の圭吾にとって世界で一番の絶景だった。
 十七年しか生きていない。に生まれた子どもの経験は薄く、外界で小中高を過ごせた自分ですら、遠出の記憶は殆どない。だからこそたった一つ知っている景色を、大事な燈雅に見せてやりたかった。
 境内の離れにひとり籠っていた彼の手を取り、初めての遠出へと誘う。わずか数キロ、ほんの数十分の道のり。それでも圭吾にとっては「遠出」だった。

 ――大事に守られてきた次期当主様を、自分は連れ出してしまったのだ。

 思いつきに近い行動だった。
 インスタントカメラを抱え、滅多に履かぬ燈雅の草履を無理やり履かせ、気づけば日は落ちていた。
 冷静になれば、もし大事な大事な次期当主が連れ去られたと知れたなら、どれほどの騒ぎとなるだろう。圭吾の父は間違いなく烈火のごとく叱りつけるに違いない。
 それでも……そんな未来のことなど、今の圭吾にはどうでもよかった。

 夕日が既に沈んだ神社の境内で、二人は寝転んでいた。
 どうして腕枕をすることになったのかは覚えていない。ただ燈雅は圭吾の腕に身を委ね、不安定な体勢のまま安らかな寝息を立てている。
 痺れる腕を意識しながらも、起こす気にはなれなかった。視線は沈んだ空ではなく、ただ彼の横顔へと吸い寄せられていた。

 ――この、無防備な顔が、好きだ。

 風が吹く。夏だというのに、ひやりとした涼しさを孕んでいた。
 着物姿の燈雅に掛けてやる上着はなく、懐中電灯すら持っていない。闇に包まれた道をどう帰るのか、不安が胸をよぎる。
 それでも圭吾は、「そろそろ戻ろう」と言い出せなかった。
 ほんの少しでも、この時間を長らえたかった。

 寺の外の景色を。寺の外の空気を。寺の外の時間を。
 彼に与えられるのは、そんな些細なことばかりだ。

(燈雅が「行きたい」と言ったわけじゃない。俺が勝手に腕を引いて、無理に連れ出しただけだ)
 それでも……このひとときだけは、間違いではなかったと信じたかった。


 次期当主である燈雅は、常に寺の奥に在った。彼が知る外界は、人づての噂と、小説の頁、そして圭吾が持ち帰る写真だけだった。
 拙い写真を見せるたび、燈雅は目を輝かせた。手ぶれも構図も稚拙な、ただの素人の一枚でさえ、彼にとっては世界の窓だった。
 本物はもっと鮮やかで、もっと雄大なのだと圭吾は伝えた。
 けれど燈雅は、微笑んで「これで十分」と言った。自分に実物を見る機会など与えられぬことを、もう悟ってしまっていたのだ。
 それは違う、と圭吾は思った。
 自分には外を歩く自由がある。燈雅には、走ったことがなくとも走れる足がある。石段を下りて少し駆ければ、あの絶景にだって辿りつける。ならば自分が先導すれば、彼にその景色を見せることができる――。
 そして願いは、思いのほか容易に叶った。
 これまで小さな写真一枚に感動していた燈雅が、実際の夕景に触れた瞬間、圭吾の腕の中で大きく瞳を揺らし、胸の底から息を呑んでいる。その表情を見たとき、圭吾は次の夢を見ずにはいられなかった。
 もっと遠くへ。もっと大きな感動へ。
 世界には、この夕日の何倍もの美しさがあるはずだ。
「燈雅。……逃げるか?」
 腕に寄り添い眠る彼に、そっと囁く。
 本当は「逃げよう」と言いたかった。
 だがそれは命令になってしまう。強く言えば、きっと燈雅は頷くだろう。確信はあった。
 けれど、後に待つであろう罰の影が、圭吾の喉を塞いだ。怖れに負け、彼に選択を委ねる形を取ってしまう。
 やがて、不安に揺れる圭吾の息遣いの変化に気づいたのか、燈雅は目を開けていた。
 その瞳は、言葉を待っていた。圭吾が告げきれなかった真の願いを、求めるように。

「その……燈雅のためなら、何でもしてやる……とか、言ってみたいなって、思ったんだけど」
「ふふっ、『思ったんだけど』? 何だ?」
「と、燈雅の身が……一番大事だから。だから……帰るのも……」
「そうか」
「お、俺は……もっと遠くに行きたい。けど……その……」

「じゃあ、今日はここで帰ろう。もう十分だ。楽しかった。この胸の昂ぶりは、しばらく醒めそうにない。当分はこの記憶を肴にできる」

「ごめん。気を遣わなくていいんだ。つまらなかったなら、そう言ってくれ」
「なぜ嘘をつかなきゃならない。圭吾が急に手を引いたときは驚いたが……」

 そう言って、燈雅は右の手首を差し出した。
 そこには、うっすらと圭吾の指の痕が残っている。どれほど必死に連れ出そうとしたか、一目でわかる色だった。

「……ごめん」
「謝るな。さっきから圭吾は謝ってばかりだな。――オレは、嬉しかったんだぞ。心から」

 燈雅は目を閉じ、今度は圭吾の胸に顔を寄せる。腕枕ではなく、胸枕。
 すぐ傍らで見上げてきた顔は、意地悪げに、しかし楽しげににんまりと笑っていた。落ちかけた陽に沈む社の薄闇の中、その笑みだけが鮮やかに浮かび上がって見えた。

「オレは、圭吾が好きだ」
「……え?」
「好きなお前が、オレのためにしてくれたことを――どうして喜ばないでいられる。圭吾にとっては些細なことかもしれない。けれど、オレはきっと、今日のことを忘れない」
「……燈雅……」
「……なんて言えばロマンティックか? ははは、小説の台詞を再現するのは難しいな!」
 燈雅は、声を立てて笑った。
 口にした言葉は、どこかで読んだ恋愛小説の常套句に過ぎない。だと分かっているのに、まるで騙されたみたいに、胸の奥では本気で震えている圭吾がいた。
 茶化すように笑う彼の顔がなければ。その瞬間、きっと口走っていただろう――お前のことが好きだ、と。

 燈雅に「顔が赤いぞ」と小突かれていたそのとき、不意に懐中電灯の白光が闇を裂いた。
 瞬きする間もなく、複数の光が一斉に襲いかかり、圭吾たちは見つかった。
 冒険が、終わった。
 たった数時間、寂れた神社で過ごしただけ。行き当たりばったりの、無計画な小さな旅。それでも、胸の奥に刻まれたその時間は、何ものにも替えがたいものだった。

 燈雅とは、すぐに引き離された。
 次期当主は厳重に保護され、圭吾は父親のもとへ突き出される。頑固親父、雷親父、そんな言葉を体現した父の叱責は烈火のごとく耳が潰れるほどの怒声が続いた。
 だが、それでも。
 圭吾の心に宿った想いだけは、揺るがなかった。あの短いひとときは、確かに有意義で、消えることのない記憶となった。


 ――陵珊山の頂にそびえ立つ仏田寺。その奥に住まうのが、千年以上の歴史を有する仏田家である。
 異能の研鑽に身を捧げてきた、旧き一族。
 仏田家には古より伝わる伝説があった。曰く、仏田家を創設した始祖は、この陵珊山を根城とした超越的存在と邂逅し、人智を超える叡智を授かった。その叡智によって如何なる力も制御し、飽くなき探求へと歩を進めたのだという。
 千年に渡る異能研究は近代科学と結びつき、いまや飛躍的な成果を見せていた。仏田家を頂点に据え、外部の研究者たちを糾合して築き上げられた「超人類能力開発研究所機関」。それは日本にとどまらず、世界でも稀に見る異能研究の拠点として、今なお探求を続けている。
 燈雅は、その始祖の血を純粋に継ぐ直系の長子。次期当主として誰もが認める少年であり、すでに大人顔負けの術師でもあった。だが一方で、生来やや病弱で、体調を崩しやすい脆さを抱えていた。
 彼には新座にいざという弟がいる。健康で、能力も申し分ない才子。その存在ゆえに、家中では「継承の行方」を巡る密やかな議論も交わされていた。
 しかし血統の正統さにおいて、燈雅こそ第一位の継承者であることは疑いようがない。
 要するに……燈雅は、替えの利かぬ存在なのだ。高潔にして優秀、だが儚く病弱。そんな彼が、ただの子どもの気まぐれで全力疾走の脱走劇など起こしてよいはずもない。

 仏田寺へ戻った燈雅は、厳重な警備に囲まれたまま奥へと連れ去られていった。
 一方の圭吾は、数えきれぬ大人たちからこてんぱんに叱られ続け、ようやく数時間後、兄弟たちの雑魚寝部屋に戻された。
「よく、その日のうちに帰ってこられたな」
 迎えたのは兄・悟司さとしだった。呆れた口調に隠しきれぬ安堵がにじむ。
 眼鏡越しの利発そうな眼差し。圭吾より二つ年上で、父の遺伝子を同じく持ちながらも、母親似の顔立ちは圭吾とはあまり似ていない。
「兄貴。写真屋には、いつ行ける?」
「いきなり何だ。……新学期の初日なら授業は半日だけだ。そのときついでに寄れるだろう」
「そっか。その日のうちに現像してくれるかな……。一週間で、あいつに渡せるかな」
「カメラは没収されなかったのか。……暫くは燈雅様に近づくな。今、お前が燈雅様を“誘拐した”って話で持ち切りなんだぞ。反省は言葉じゃなく態度で示せ。今年いっぱいは大人しくしていろ」
 まだ八月だというのに来年まで会うな、と言うのか。
 胸にせり上がる反発の言葉を、圭吾は呑み込んだ。兄としては正しい叱咤なのだと分かっていたから。

 悟司は弟を部屋へ迎え入れると、それだけで関心を断ち切るように本へと視線を落とした。
 年の差は二つしかないというのに、態度は冷静な大人そのもので、圭吾にとっては「いつかこうなりたい」と思わせる憧れの兄だった。
 これほど落ち着いた人間なら、燈雅を不満にさせることもないのだろう。
 無計画に突っ走ってしまう自分を思えば、恥ずかしさが込み上げる。せめて今日くらいは大人しくしていようと布団に転がり込んだ。
(俺が大人しくなんてできるワケないけど)
 枕元のスクラップノートが目に入る。そこには、まだ燈雅に見せていない写真が貼られていた。
 遠出に必要な車を写した一枚。……いつか免許を取ったら、格好いい車を買って、あの人をどこへでも連れて行ってやろう。
 寺では口にできないチョコやケーキといった洋菓子を写した一枚。……大人になって金を自由に使えるようになったら、好きなだけ食べさせてやろう。
 部屋に戻ってきても、思考はすべて燈雅に向かってしまう。
 悟司は「暫く会うな」と言った。父も、燈雅の世話役たちも、皆カンカンに怒っている。所詮自分は一介の機関所員の息子にすぎず、あの高貴な血筋と釣り合うはずもない。誰も自分を歓迎してはいないことなど、考えるまでもなくわかっている。
 それでも……兄のように賢くはない馬鹿だからこそ、止まることができなかった。

 同室の悟司が寝息を立て始めたのを確かめると、圭吾はそっと布団を抜け出した。
 目指すのは、燈雅の暮らす離れの屋敷。境内の片隅に建つ別館にすぎず、走ればすぐに辿り着ける距離だ。神社へ連れ出したときに比べれば、遥かに近い。
 また見つかれば、また叱られるだろう。けれど、叱責など恐れるに足らない。
 その代償で燈雅の姿をひと目見られるのなら、むしろ安いものだ。
 一目惚れして以来、胸に火を点した心は、もはや止まる気配を見せなかった。

 圭吾の父は機関の重役であり、仏田家現当主・光緑みつのりと深い縁を持っていた。その父に伴われ、直系一族へと挨拶を許されたのは、燈雅と偶然出会ってから、ほんの数日後のことだった。
 燈雅とは同い年。けれど、同じ時代を生きているとはとても思えなかった。一目で男とわかるはずなのに、答えを濁したくなるほど線が細く、纏う着物の格調や、指先に至るまでの所作の美しさが、まるで異なる世界に生まれ落ちた存在なのだと圭吾に痛感させた。
 初めて出会ったその晩から、美しい彼の姿が脳裏を離れなかった。思い出しては胸の奥が疼き、どうしようもなく悶える。
 再び会う方法を兄に相談すれば、「お前は生きているだけで優秀だ。そのうち向こうから会いに来るさ」と、まるで煙に巻くような答えしか返ってこない。仕方なく、圭吾は決心した。とにかく真っ直ぐに、品行方正に生きようと。
 不出来と罵られぬよう学び、快活に振る舞った。異能の腕も磨いた。どうやら自分は先天的に魔力の貯蔵量が多いらしく、要領を掴めば褒められるほどの水準には届いた。その甲斐あってか、燈雅に近づいても訝られることはなくなり、少々の羽目外しも笑って流される程度で済むようになった。
(さすがに、一日に二度も叱られるのはごめんだが)
 それらしい言い訳を胸の内に用意しながら、圭吾は離れの屋敷へと足を向ける。

 理由は明白だ。燈雅にスクラップノートを渡したかった。
 まだ見せていない写真が山ほど貼ってある。神社で撮った一枚が現像されるまでの一週間、そのノートで退屈を紛らわせてほしかったのだ。
 それは、建前にすぎない。本当は、あのとき……「圭吾が好きだ」と告げられた興奮が忘れられず、どうしてももう一度、その顔を見たかったのである。
(どうか――あの艶やかな黒目に、紫の光を帯びた深淵に、俺の姿を映してほしい。眺めるたび胸を灼く甘い痺れを、もし彼も同じように抱いてくれたなら)
 夕暮れに染まる神社に立つ燈雅は、まさしく理想そのものだった。
 本物を知らない彼を喜ばせたい。その想いが偽りでないことは確かだ。だが実際には、自らの欲を押し隠した身勝手な渇望が、より濃く心を占めていた。
 塞ぎきれぬ想いに背を押され、圭吾は燈雅のいる離れへと足を進める。
 そのとき――ふいに、耳を打つ声があった。

 微かな喘ぎ。
 廊下に面した障子の前で立ち止まり、ようやく圭吾はそれが何の声なのかを悟った。
 艶やかに、卑しく、濡れた響き。経験の浅い少年の耳がかつて知ることのなかった、甘美で不穏な音色だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

お兄ちゃんができた!!

くものらくえん
BL
ある日お兄ちゃんができた悠は、そのかっこよさに胸を撃ち抜かれた。 お兄ちゃんは律といい、悠を過剰にかわいがる。 「悠くんはえらい子だね。」 「よしよ〜し。悠くん、いい子いい子♡」 「ふふ、かわいいね。」 律のお兄ちゃんな甘さに逃げたり、逃げられなかったりするあまあま義兄弟ラブコメ♡ 「お兄ちゃん以外、見ないでね…♡」 ヤンデレ一途兄 律×人見知り純粋弟 悠の純愛ヤンデレラブ。

ヤリチン伯爵令息は年下わんこに囚われ首輪をつけられる

桃瀬さら
BL
「僕のモノになってください」 首輪を持った少年はレオンに首輪をつけた。 レオンは人に誇れるような人生を送ってはこなかった。だからといって、誰かに狙われるようないわれもない。 ストーカーに悩まされていたレある日、ローブを着た不審な人物に出会う。 逃げるローブの人物を追いかけていると、レオンは気絶させられ誘拐されてしまう。 マルセルと名乗った少年はレオンを閉じ込め、痛めつけるでもなくただ日々を過ごすだけ。 そんな毎日にいつしかレオンは安らぎを覚え、純粋なマルセルに毒されていく。 近づいては離れる猫のようなマルセル×囚われるレオン

ホワイトルーム

TERRA
BL
ドアノブも窓もない真っ白な部屋で目を覚ました主人公。 朧気な記憶の中で、度々訪れる青年に既視感を覚えたが…。

今日もBL営業カフェで働いています!?

卵丸
BL
ブラック企業の会社に嫌気がさして、退職した沢良宜 篤は給料が高い、男だけのカフェに面接を受けるが「腐男子ですか?」と聞かれて「腐男子ではない」と答えてしまい。改めて、説明文の「BLカフェ」と見てなかったので不採用と思っていたが次の日に採用通知が届き疑心暗鬼で初日バイトに向かうと、店長とBL営業をして腐女子のお客様を喜ばせて!?ノンケBL初心者のバイトと同性愛者の店長のノンケから始まるBLコメディ ※ 不定期更新です。

fall~獣のような男がぼくに歓びを教える

乃木のき
BL
お前は俺だけのものだ__結婚し穏やかな家庭を気づいてきた瑞生だが、元恋人の禄朗と再会してしまう。ダメなのに逢いたい。逢ってしまえばあなたに狂ってしまうだけなのに。 強く結ばれていたはずなのに小さなほころびが2人を引き離し、抗うように惹きつけ合う。 濃厚な情愛の行く先は地獄なのか天国なのか。 ※エブリスタで連載していた作品です

鬼ごっこ

ハタセ
BL
年下からのイジメにより精神が摩耗していく年上平凡受けと そんな平凡を歪んだ愛情で追いかける年下攻めのお話です。

血液製の檻

サンバ
BL
囲い込み執着美形×勘違い平凡受け 受けのことが好きすぎて囲っている攻めと攻めのために離れようとする受け 両片思い 軽い流血表現

処理中です...