さわれぬ神 憂う世界

マーサー

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第1部

[7] 1部2章/3 「恥ずかしいモノを、オレに見せて。」★性描写あり

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【1部2章】

 /3

 柔らかすぎる寝具に沈む感触で、圭吾はうっすらと意識を取り戻した。
 天井は高く、高級感あるルームランプが仄かな灯りを落としている。
 重厚なカーテン越しに夜の街明かりが透け、ここが自宅のマンションではないことを、すぐに理解させた。

 ――幼い頃。自分が特別だと思ったことは一度もなかった。
 魔術を使えることも、研究所の機械に育てられた日々も、「そんなものだ」と信じていた。
 だが十八歳で上京してから、それが「異常な世界」だということを知る。
 山奥の寺では、異能は空気のように当たり前だった。都市では全てが戯言として扱われ、乖離に打ちのめされるたび圭吾は笑うしかなかった。
 燈雅もまた、このギャップを味わったのだろうか。あの閉ざされた世界の只中で育った彼は――。

 ぼんやりとした思考の中、圭吾はその名を胸に呼んだ。
 燈雅。
 夢と現の境を漂う意識の底で、もう一度あの声を聞きたいと願う。

 視界が揺れ、ソファーに寄りかかる人影が見えた。
 光を受けて紫紺の深みを帯びる長い髪。瞳は夜の底に灯る燈火のように濃く、静かな慈愛をたたえていた。少年の日に胸へ刻まれたものと同じでありながら、いっそう澄んだ輝きを増している。
「おはよう、圭吾」
 柔らかな声が響いた瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
 忘れられぬ声音と眼差し。疑う余地などないのに、現実を信じ切れず、圭吾の声は震える。
「……燈雅、なのか」
 愛しい彼がいた。
 駆け寄りたかった。だが体は重く、全身に鉛を詰められたかのような倦怠が動きを阻む。生気を吸われた余韻が、まだ身体の芯を支配していた。
「燈雅……そのっ……」
 手を伸ばすことすら難しい。喉の奥で嗚咽がこみ上げる。
 それでも視線だけは逸らさなかった。
 遠くからでも焦がれ続けた人。いま目の前にいるその現実を、決して逃したくなかった。

「圭吾が尋ねたいことを、話してあげようか」
 微笑を絶やさぬまま、燈雅はゆるやかに口を開く。
「ここは我が家が所有しているホテルだよ。都内で休める場所と言ったらここぐらいしか思いつかなくてね。圭吾は今、その最上階のスイートに寝かされている」
 圭吾は、ようやく周囲を見渡す。
 見慣れぬほど豪奢な天井と調度品だった。目を奪われるべきは目の前の男だったので、一等ホテルのことなど気にならなかった。
「どうして、山の外へ……?」
「オレは危険な異端を狩っていた。世の中にはさっきみたいな化物が紛れているからね。我が家のような魔術結社は古くからそれらを狩って人々を護り、見返りとして援助を受けてきた。圭吾もそのくらいは覚えているだろう?」
 脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。
 ――仏田家の屋敷。血の匂い、夜陰に響く祈祷の声、そして幼い自分に囁かれた言葉。
「ああ……。燈雅は、助けてくれたんだな」
 再会の余韻に酔っていた胸に、確かな実感が宿る。
 自分にはどうにもできなかった怪異を、目の前の男は易々と討ち払った。
 燈雅は人の手にはおえない危険を相手にし、倒す術を持つ者……仏田家という異能組織に生きる存在なのだと思い出させてくれる。
「ありがとう……助けてくれて」
 倦怠に縛られた体は起き上がることもできなくても、圭吾は深く、心からの感謝を告げる。
 燈雅の紫水晶のような瞳が、細められた。

 ……そもそもただのチンピラが、路地裏で女に絡むときに霊的結界を張る訳がない。
 結界のおかげで異変に気付けたのに、何もかも頭から抜けていた。都会の表の世界に慣れすぎ、後先考えなかった末路である。その油断が命を奪うところだったのだから情けない。
 自らの鈍さを悔いていると、思考を断ち切るように衣擦れの音がした。
 ベッド脇に立った燈雅が、軽やかに腰を下ろしている。
 圭吾が仰向けに倒れたままのシーツの上に影がふわりと覆い、燈雅の白い指が迷うことなく伸びた。
 柔らかく、なぞる。
 虚脱した体を撫でられた。熱と冷たさが同時に走る。
「圭吾は相変わらずだね。いつもあんなふうに誰でも助けてしまうの?」
 低い声が、耳に溶ける。
 圭吾は重たい瞼をかろうじて持ち上げ、その姿を見つめた。
「あのな……助けるとかの問題じゃなかったのは、燈雅も見てたなら分かるだろ」
「ふふ、オレが近くに居なかったら危なかったね。……居なかったら、吸血鬼に先に食べられていた。誰彼構わず声を掛けるのは良くない」
「そりゃそうだろうけど……俺が声を掛けなきゃって思ったら勝手に体が動いてたんだよ。仕方ない」
 横たわる体を撫でる手が、優しい。
 その手の温度が、懐かしい。
 記憶に焼き付いた美しい面影がそこにある。それは時を経てさらに磨かれ、今は幻のように気高い青年へと成長している。
 撫でられるたび、過去と現在が重なり合い、胸の奥で熱が疼いた。
 ただ……眼差しだけが変わっていた。あの頃の柔らかさは影を潜め、今の燈雅は深く、底知れぬ光を帯びていた。

「ずいぶん力を奪われたな」
 低い囁きは、憐れみにも冷徹な観察にも聞こえる。
「あ、ああ……大丈夫。たまにこうなるんだ。少し休めば動ける」
 虚勢の言葉とは裏腹に、身体は鉛のように重く、指先すら動かせなかった。
 すると燈雅の指が圭吾の顎をそっと支え、逃れられぬ角度へと顔を導く。
「圭吾。応急処置をしてあげようか」
 囁きと同時に、温もりが触れた。
 燈雅の唇が、躊躇いもなく圭吾の唇に重なり――世界は一瞬にして音を失った。

 虚脱の底で、呼吸が奪われる。
 心臓が痛いほどに跳ね、圭吾は混乱した。これは処置なのか、それとも別の意味を持つのか。考えるより先に、甘美な錯覚が全身を覆い尽くしていく。
 ――夢にまで見た相手に、口づけられていた。
 ただ見上げる瞳に吸い込まれ、言葉は喉の奥で凍りつく。
「……と、う、が……?」
 全身が震えた。
 燈雅の吐息に混じる香りは甘く、血の底にまで染み入る。これは治療、魔術的な処置……必死にそう言い聞かせても、理屈を超えて鼓動は荒れ狂い、耳の奥で痛いほど鳴り響いた。
「……ん」
「んんっ、と、燈雅……えっと、これは……」
 掠れ声に応えるように、燈雅は仰向けの圭吾に覆い被さった。
 そして頭上から、妖しくも慈悲深い微笑を湛える。
「これは手当てだよ、圭吾。オレの力を分けてあげる。儀式だと思って」

 言葉と同時に唇が重なり、舌先が深く侵入する。
 熱が体の奥へ流し込まれ、枯れ果てていたはずの四肢に力が戻っていく。
 虚脱感は薄れ、代わりに眩暈にも似た熱狂が血流を駆け巡った。
 ――処置である。そう信じたい。だがこの接吻の温度は、冷静な医術のものではない。もっと私的で、抗いがたい何かに満ちていた。
「ぅ、ん」
「んん……ぅ……ふ、ぁ……」
 ――応急処置で、こんな濃厚なキスをするものか。
 胸の奥で警鐘が鳴る。それでも口腔にはなおも熱が注ぎ込まれ、柔らかな舌が深く絡みついた。
(これが治療なんだ? ……動揺するな、落ち着け、落ち着け……)
 だが理性がいくら否を突きつけても、身体は別の反応を示す。
 舌を這わせられるたび、乾いた喉が鳴り、痺れるような熱が背筋を駆け上がった。
「……ん、ちゅ」
 唇から力を分け与えられている。そう説明されれば納得できるはずなのに、心臓の鼓動はますます高鳴り、肌は灼けるように敏感になっていく。
「ふぁ……んぁぁ……ぅうんっ」
 堪えきれずに零れた声に、自分自身が一番驚いていた。
 拒絶の声を出したかったのに、どうしてこんなに甘く聞こえるのか。
 燈雅は微笑んで、唇の端で囁く。
「……圭吾。可愛い声を出すね」
 眼差しに射抜かれ、圭吾は言い訳の余地を失っていた。

 これは処置。儀式の一環。そう言ってた。――なら、キスで感じてしまうなんて、やってくれている燈雅に失礼だった。
 必死にそう繰り返しながらも、体の芯まで震える。
 頭では否定しているのに、身体は正直に、燈雅を受け入れようとしていた。
「……だ、だめだっ! 燈雅、もう、やめてくれ……!」
 顔を背ける。掠れた声が出る。懇願に近かった。
 ベッドの上で逃げ場を失った息が震え、胸の奥で絡み合っては細い喘ぎとなって零れる。
 しかし燈雅は覆い被さったまま、長い指で圭吾の体をなぞる。
 首筋、肩口、布越しの胸板。触れられるたび、理性とは裏腹に圭吾の身体は過敏に反応し、無意識に身を跳ねさせた。
「やめて? ……どうして?」
 耳元で囁く声は甘い。そして、残酷だった。
「オレはただ、久々に会えた幼馴染を救いたくて……手当てをしているだけなのに」
 ふふ、と微笑む。
 間近に迫ったその顔は、痛いほど美しい。
「でも……! こ、これ以上は……」
 逃げようとする背に、柔らかな寝具があるだけ。どれほど腰を退けようとしても、燈雅の重みが覆い被さり、指先一つ動かす隙すら奪っていく。
「……これ以上は、いきすぎている。俺が、正気でいられなくなる。だから、やめてほしい……」
 圭吾は必死に絞り出した。
 だがすぐ上空から返ってくる囁きは、願いを踏みにじるものだった。

「圭吾。そんなに怯えた顔をして……でも身体は、正直」
 長い髪が近づく。毛先が頬を撫でる。細い指が圭吾の胸を、腹を、布越しになぞっていく。
 触れるたびに神経が火花を散らすようにざわめいた。抗えば抗うほど過敏に反応してしまう。
 燈雅は愉悦を隠そうともせず、唇を再びゆっくりと重ね、逃げ場を封じた。
 囁きながら、舌先がさらに深く侵入する。呼吸が塞がれ、抗う声は熱に呑まれ、震えに変わっていく。
「んんっ、んぅ、ぁ、だめ、だって……」
「……ん。……おや?」
 燈雅の指先がふと、布越しの股間に触れた。
 膨らみに触れた瞬間、圭吾の全身が跳ねた。
 紫の瞳が愉快そうに細められる。指先は意地悪に確かめるように、柔らかく、しかし逃がさぬようぐりりと圧し撫でた。
「待っ、待て……!」
「ふふ。圭吾……ここ、膨らんでいるね。キスしていただけなのに。これは手当てだったのに……感じてしまったんだ?」
 言葉は囁きというより、からかう笑いに近かった。
 声音が耳の奥に染み入り、圭吾は顔を火照らせる。
「い、言わないでくれ……恥ずかしい……」
 消え入りそうな声で懇願する。
 だが願いとは裏腹に、指先が留まるたび羞恥は募り、拒絶の震えすら熱を孕んでいく。燈雅は、唇を歪めた。弄ぶ愉悦を隠そうともしない。
「可愛い、圭吾。そんなふうに真っ赤になって。オレから逃げたいのに……身体は正直に、ここで答えている」
 布越しの圧力が、羞恥を確かな現実として刻み込む。
 圭吾は視線を逸らすが、閉じた瞼の裏にも、燈雅の笑みが焼きついて離れなかった。
「治療はもう充分かな、終わりにするよ。魔力は分けてあげられたみたいだし。……じゃあ、これからは、サービスしてあげよう」
 甘い冗談のようでありながら、逃れようのない確信を孕んでいた。
 圭吾の瞳が大きく揺れる。
 長い指が、圭吾のモノの先端をコリコリと摩った。コリコリ、クリクリと。先っぽを執拗に刺激され、甘く痺れる。圭吾は体を捩って逃げようとするが、彼の指たちから逃れられない。
「ぁ……! あっ……そこ……やめ……」
 懇願は弱く、押し出した声は快楽に震えた。
「ぁ、あ、もう、充分だから……!」
「圭吾のここ、触ってほしいから大きくなってるんだろ?」
「ちがうっ……! こんなの、ダメだろ、やめてくれ……」
 燈雅は微笑みを崩さず、圭吾の盛り上がったモノへ、直接触れようと中へと侵入する。その動きに、圭吾はびくりと大きく震え、苦しげに喘いだ。
 下衣をずらされた。途端、ぶるんと、圭吾のモノが顔を出す。
 すると燈雅は笑った。嘲るようでもあり、慈しむようでもある……掴みどころのない、美しい笑みを見せた。
「ほら。もっとオレの刺激が欲しいって動きだ」
 指が直接、圭吾のモノへと滑り落ちる。
「っ……恥ずかしい……お願いだ、やめてくれ……」
「だーめ。恥ずかしいモノを、オレに見せて」

 囁きは鋭い刃のように鼓膜を震わせ、圭吾の理性を削っていく。
 燈雅の指先はゆるゆると表面を軽く撫で、焦らすように動きを止めた。ぎこちないわざとらしい動きが、かえって圭吾の羞恥を焚きつける。
 指がコスコスと擦られた。そのたび圭吾の体は震え、反射のように息を詰めてしまう。
 最初は拒絶のために閉ざそうと必死になっていた口も、燈雅の指が巧みに隙間を探り、熱を流し込んでくると、抗う力は次第に削られていった。
「んっ、や、やめっ、あ、あ……!」
 身動きができない肉体から発せられる、声にならぬ抗議。触われるたびに呑み込まれ、溶かされていく。
 燈雅はわざとゆっくりとした調子で、性器に指先を、唇に舌先を、何度も圭吾に押しつけた。ひとつひとつの口づけは仕草の柔らかさとは裏腹に、圭吾の理性を踏みにじる命令のよう。
「ふふっ……ほら、気持ち良さそうに大きくなっていく。圭吾、最近お疲れだったのかな?」
 からかう囁きが耳元をかすめ、圭吾は全身を震わせた。
「……ぁ……ぁぁぁ」
 胸の奥で理性が「拒め」と叫ぶ。だが同時に心の奥底に燻り続けていた渇きが「欲しい」と疼く。
 だって――十数年、忘れるまいとして忘れられなかった面影。いま目の前にいるのは、成長した愛しい人に、違いないのだから――。

「……っ! だめだ、燈雅っ、で、出ちまう、から……!」
 拒絶の言葉が空々しく響く。
 それでも燈雅の指は止まらない。唇を塞がれ、舌を絡め取られる。
 甘やかすように、しかし逃がさぬ支配の熱。抗おうと伸ばした腕も、結局は相手の肩に縋りつくようにして沈んでいく。
 びりっと快感が駆け巡った。零れる吐息も、胸を焦がす熱も、圭吾の全身を覆うのは――抗えないほどの燈雅の支配そのもの。
「は、あ……!? ああっ、ああああ……!?」
 こりっと一番敏感な箇所を突かれて、びくん、びくんびくんと体が跳ねる。
 荒い吐息が止まらない中、圭吾は燈雅の掌に、精を盛大に吐き出した。

 ……優しい感触のシーツの海に身を預ける。
 耐え切れずに全てを晒してしまった体は、ただ熱と余韻に痺れた。
 視界の端では燈雅がゆったりと身を上げ、余裕の笑みを浮かべている。
 汗ひとつ見せず、相変わらずの妖艶な面差し。まるで圭吾がこうなることを最初から知っていたかのように微笑み、汚れた掌を……べろりと舐め上げた。
「言っただろ」
 紫の瞳が、ベッドに項垂れる圭吾を慈しむように見つめていた。
 舐めていた指先で、汗で濡れた前髪を梳く。
「オレは経験豊富だから、お前を満足させられるって。……いや、そんな昔の話、覚えているわけないか」
 燈雅の声音は、あまりに自然だった。
 けれど軽やかな調子の奥に潜むかすかな寂しさを、圭吾は聞き逃さない。
 項垂れていた顔をゆっくり上げる。息はまだ整わない。唇は震えて声にならなかったが、それでも……圭吾は応えた。

 十代の夜。ほんの一言交わしただけの、無邪気な約束めいた挑発。
 それが長い年月の中でどれほど自分を支えていたか。どれほど何度も夢に見て、会いたいと願ってきたか。
「……忘れるわけ、ないだろ……」
 掠れた声でようやく紡いだ言葉。
 燈雅は……ふっと、今までと全く違う微笑みを、深めた。

    ◆

 ――甲高い電子音が、無理やり圭吾を朝という現実へ引き戻す。
 ホテルの静謐を破るアラームの連打は、夢の続きを奪う冷たい手のように無情で、重たい瞼をこじ開けさせた。
 腕を伸ばして目覚ましを止めると、機械の横に、一枚の封筒も便箋もない、簡素なメモが置かれていることに気づく。白いカード紙に整った筆致で、ただ要件だけが記されていた。

・チェックアウトは自由な時間でいい。
・支払いは済ませてある。気にせず出ていって構わない。
・食事用意あり。朝食を食べていってもいい。
・オレは帰還する。
・あまりお人好しなのは気を付けろ。

 手紙というよりは、箇条書きのメモのようだった。
 だがその機械的な文が、燈雅という人物を思わせる。とても分かりやすくて助かる。読み終えた瞬間、圭吾は長く息を吐いた。
 胸の奥に、安堵と混乱と、言葉にならない熱が渦を巻く。
(夢じゃなかったんだ)
 昨夜の光景、指先の熱、甘くも恐ろしい囁き。虚脱するほどの余韻。全て幻ではなく、燈雅は確かにここにいて、そして今はもう去ってしまった。
 ベッドの上で再び背を預けた圭吾は、ゆっくりと目を閉じた。
 メモ書きには、小さく最後に、こう一言。

・また会いたい。

 残されたのは、豪奢なスイートの静けさと、短い手紙一枚。
 それでも……彼の影があったことを示すには、十分だった。

 最高級ホテルのダイニングで取った朝食は、信じがたいほどに整えられていた。
 白磁の皿に並ぶのは、目玉焼きひとつにしても黄金色の縁が美しい。フルーツは甘みと酸味の調和を見事に計算し尽くし、コーヒーは香りだけで胸を温める。
 ひとつひとつを味わいながら、圭吾は同時に……燈雅の存在そのものを、舌の上に思い描いていった。
 胸の奥に押し寄せる波を持て余しながら、ホテルを後にする。出社すればいつものデスク、いつもの資料。好きな筈の仕事、没頭できる筈の数字と文字。
 だが今日に限っては、ページの隙間に紫色の瞳を見てしまい、メールの文面に微笑の影を探してしまう。
(集中しろよ、俺)
 苦笑いと共に仕事を片づけはするが、心は一向に晴れなかった。

 真っ直ぐ帰路につく。寄り道も酒も、今日は要らない。
 マンションのドアを開けると、弾む声が出迎えた。
「圭吾さん、おかえりなさーい!」
 リビングでまるでこの部屋の主のように寛ぐ弟のときわ。変わらぬ笑顔で手を振ってくる彼に、圭吾は思わず玄関で立ち止まる。
「……もしかして、ときわ。昨日から居たか?」
 驚きと疲労の混ざった声音で問う。
 ときわはぱちくりと目を瞬かせ、首を振った。
「今さっきからお邪魔してます!」
 軽やかな調子に、胸の奥で張り詰めていた何かがふっとほどけていく。
 けれど次に飛んできた問いは、圭吾を一気に現実に引き戻した。
「昨日がどうしたんです? 何かあったんですか?」
 無邪気な眼差しが、鋭く心を突いた。

 朝帰りの仕事着を脱ぎながら、何気ない一言のように圭吾は……震えないよう心掛け、告げる。
「昨夜、吸血鬼に襲われた」
「えっ!?」
 ときわの目が大きく見開かれた。驚愕のあまりぴょんと飛び跳ね、すぐに圭吾の顔や体を確認するように視線を走らせる。
 その心配は、圭吾の顔色を見れば容易に嘘ではないと理解できるだろう。圭吾自身も、自分の体がまだどこか浮ついているのを感じていた。
「大丈夫だ。こうして帰ってきてる」
 そう言いながら、圭吾はすぐさまソファーに身を沈め、額に手を当てる。
 昨夜の出来事を思い返すと、胸の奥がざわつき、落ち着かなかった。

 異常を知らせる結界、襲いかかってきた異端、血の匂い。そして現れたのは、他でもない燈雅。
「ときわは……前に言っていただろう。仏田家が人外種族に不当な扱いをしているから、どうにかしたいって」
 圭吾はゆっくり言葉を選びながら吐き出す。
「俺には、少し分からなくなってきたよ」
 ときわの表情が、きゅっと引き締まった。抗議の言葉を飲み込み、ただ耳を傾けている。
「俺を襲ったのは、人の姿をした吸血鬼だった。……人を餌にして結界まで張る、野生の獣みたいな存在だ」
 圭吾の手が膝の上で拳に変わる。
「けど、救ってくれたのは……仏田家の術師だった。燈雅だ」
 その名を口にした瞬間、胸の奥に熱いものが蘇る。
 あの微笑、あの声。記憶の中で何度も呼び続けた名が、今は現実として圭吾の唇から零れていた。
「俺は……彼に、助けられたんだ」
 ――仏田家。異能の一族。不当な支配者として語られる存在。
 だが圭吾にとって、昨夜はただ一つの真実を刻みつけた。自分を救ったのは、他でもなくその家の男。
 ときわは、何も言えずに圭吾を見つめていた。沈黙は、抗議か理解か、判断がつかない。
 けれど、圭吾の心にはひとつ確かな揺らぎが生まれていた。

 静かな部屋の空気を切り裂くように、ときわが口を開く。
「……確かに、仏田家は異能結社として、異端なものを狩ることで力を得てきた一族です」
 言葉を紡ぐ声音は真剣で、けれども哀しみが滲んでいた。
「ですが、それがのも事実なんです。確かに圭吾さんは、危険な吸血鬼に襲われましたと言いました。でも、世の中には危険じゃない吸血鬼もいるんです。人間と共に静かに暮らしている人たちも……。そんな人たちまで、仏田家は狩ってしまうんです。それが問題で……」
 真っ直ぐな視線。若さゆえの理想論ではなく、現実を憂う熱に裏打ちされた言葉だった。
 圭吾は、ゆっくりと瞼を閉じた。
 燈雅の顔が、脳裏に鮮やかに浮かぶ。昨夜の妖艶な微笑、忘れがたい声、そして自分を救ってくれた事実。
「うん、そっか……そうなんだな」
 ときわは、縋るように言葉を重ねる。
「圭吾さん、信じて。僕は……間違ったことを言ってません! 仏田家がしていることは、全部が正義じゃないんです」
 その熱を真正面から受け止めながらも、圭吾は小さく首を振った。
「信じていないわけじゃないよ、ときわ」
 声は穏やかで、どこか遠い。
「でも俺は……少し安心しただけなんだ」
 胸の奥に渦巻く矛盾。ときわの正義も、燈雅の力も、どちらも否定できない。圭吾は、自分の揺らぎを認めざるを得なかった。
 ときわは黙って圭吾を見つめた。言葉を返せず、ただその苦悩を受けとめるしかなかった。

 会社からの帰宅とときわとのやりとりも終え、マンションの自室はしんと静まり返っていた。窓の外には都会特有の白々しい灯が瞬き、月をかき消すように天を覆っている。
 圭吾はしばらくソファーに深く身を沈め、ぼんやりと天井を仰いでいた。
 ――実家は、悪の結社だ。
 そう言われて、そうなのかと思った。子供の頃は考えもしなかったが、確かに目の前で実験や修行をしていた気がする。冷酷なシーンも見た気がする。それが、世間一般には正義とは呼べないものなのかもしれない。
 だが昨夜、救われた。
 吸血鬼に吸われ、死にかけた自分を、燈雅は確かに助けてくれた。あれは冷酷さでも実験でもない。ただ一人の命を救う行為だった。
「……良心は、あるんだ」
 言葉が、自分の胸に重く落ちていく。

 ならば。
 仏田家は悪だけの塊ではない。
 暴力もある、理不尽もある。だが同時に守ろうとする意思もあるのかもしれない。完全な黒ではないのかもしれない。

 圭吾は息を吐き、拳を握った。
「潜入捜査とかじゃなくて、普通に……戻ればいい。実家に帰るつもりでいればいいんだ」
 潜入だのスパイだのと身を固くして考えるから心が乱れる。そうじゃない。ただ帰るだけだ。
 かつて自分が暮らした山、寺、研究所。あの空気の中に足を踏み入れるだけだ。
 心にそう言い聞かせると、不思議と恐怖は薄らいだ。
 潜入でも裏切りでもない。あの場所を、自分の目で確かめ直すだけ。
 圭吾は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。夜空の光の中で、紫紺に光る記憶の瞳を思い出す。
 ――行こう。燈雅のもとへ。
 会いたいと言ってくれたのなら、尚更。決意は静かに、だが揺るぎなく胸に根を下ろした。
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