さわれぬ神 憂う世界

マーサー

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第1部

[17] 1部4章/4 「オレの傍にいれば死なんて無いんだよ。」

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【1部4章】

 /4

 滑らかなシーツの中で、圭吾は寄り添う燈雅の黒髪をそっと撫でた。
 肩にかかる長い髪が、夜の風のように指の間をするりと抜けていく。その感触に、圭吾はふと遠い記憶を思い出した。
 縁側の木の香り。傾きかけた陽のぬくもり。あの頃はただ、言葉を交わすだけで満たされていた。空を見上げてどうでもいいことを笑い合い、約束などなくとも傍にいることが当然だった。
「……ずっと、こうしていられたらいいのに……」
 腕の中で、燈雅が呟く。
「……こんな日なら、何回でもあったっていい。ずっと今日みたいな日が繰り返されたら……幸せだろうな……」
「俺も、そう思うよ」
 圭吾の唇が触れると、燈雅は安心したように瞼を閉じた。
 唇が重なるたびに、微笑が生まれる。吐息は甘く、微かな温度を帯びて圭吾の胸を震わせた。
「なあ、燈雅。実は今日が、俺の誕生日なんだよ」
「……おめでとう。……オレ、それ言いたかったんだった」
 その一言に、胸の奥が熱くなる。
 兄・悟司に先に祝われたことは、口を噤んだ。燈雅が外に出てまで自分を待っていた理由が、ようやく理解できたからだ。
 その想いに気づいた途端、圭吾は自分の不器用さを悔い、そして……これほど優しい祝福が、この世にあっただろうかと感じた。
 燈雅の指先が圭吾の頬を撫でる。冷えた指先が、春のように温かい。互いの呼吸が重なり合い、部屋の空気がゆっくりと和らいでいく。
 外では冬の風が、遠くの木々を揺らしていた。涼やかな音が、遠い世界の出来事のように聞こえる。
 ここは別の場所……時間さえも凍てつく世界の片隅で、二人だけが息をしている、閉ざされた夜の聖域だった。
「圭吾も三十三歳か。そろそろ寿命が尽きるな」

 あまりに自然な言葉だった。
 笑みを浮かべたまま、燈雅は当たり前のことを言うように口にする。
 あたたかい布団の中にいたはずの圭吾は、急に冬の風が吹き込んできたように感じた。
「……確かに俺は、三十で機能停止すると言われた。もう三年も生き延びてるけど……」
 無理に笑う。けれど、声の震えは止められない。
 それでも、燈雅は穏やかに微笑んでいる。とても優しく。
「うん。でも、オレといっしょにいれば、大丈夫だよ」
「……え?」
「ずっといっしょにいてくれれば、ね」
 声には、優しさと同時に何か底の見えないものが混ざっていた。
 温もりと冷たさ、光と闇。相反するものが同居する声の響きに、圭吾は思わず息を呑む。
「オレの傍にいれば死なんて無いんだよ。だから、圭吾……約束してくれたら嬉しいのだけど」
 少し照れたような声色。薄闇の中、口ごもる燈雅の瞳には、恥じらいと慈愛が混じっている。
 どういう意味だと問い質そうと口を開いた、その時。廊下の向こうから、低く通る声が響く。
「燈雅様。お話がございます」
 静寂を切り裂くような声に、夜が軋んだ。

 まだ早朝とも言えない時刻。外は群青の深みに沈み、風すらも眠っていた。
 そんな沈黙の底を破るように、廊下の向こうから男の声が響いた。澄み渡る低音。凛として夜を切り裂くような声である。
 燈雅は表情を曇らせた。迷いが影を落としていたが、いつもの微笑に戻ると、ゆらりと布団から身を起こす。床に落ちていた寝間着を拾い上げ、羽織った。
「すぐ戻る」
 短く言い残し、廊下へと姿を消す。圭吾はその背中を、見送ることしかできなかった。
 声を掛けようとしても、何を言えばいいのか分からない。胸の奥に、正体の分からないざらついた不安だけが残る。
 思わず目を泳がせ、時計を探した。朝にしては静かすぎる。本当に今は早朝なのか。だが、確かめたくてもどこにも無い。壁にも、棚にも、机の上にも。
(……この部屋には、時計が無いのか)
 そのことを理解したとき、背筋にひやりとする。
 時間の流れが、ここには存在していない。燈雅の一日は始まりも終わりも、全てあの従者の声で告げられている。
 つまり彼自身の時間は、他者の管理下にある。外の世界とは断絶された場所。時計という社会との接点を失った空間。圭吾は初めて、息苦しいほどの異世界をを意識した。

 ――そういえば。いつもなら時間を確かめるときは携帯電話を見ていた。
 そんな当たり前のことを、思い出すのに少し時間がかかった。
 部屋の隅を振り返った。そこには、放り出されたままの荷物がある。上着を羽織った圭吾は鞄の前に膝をつき、携帯電話を探す。
 寺に入るとき、電波が途絶えがちだったので電源を切っていた。長押しをして、液晶に青白い光を灯す。それだけで現実に戻った気がした。
 短い振動音と共に、画面に次々と現れる通知。
「着信:新座」
 通話履歴もメッセージも、彼の名前が表示される。
 無事か。生きているか。状況はどうだ。短い言葉のひとつひとつが、圭吾の胸を静かに叩いた。
(そりゃあ、心配するよな。丸二日も放ってたんだ)
 苦笑しながら、親指で文字を打つ。無事だよ。それだけを送信した。
 通信の遅い山の奥では「送信中」が永遠のように長い。やがて「送信しました」と表示された瞬間、圭吾は小さく息をついた。
 次の刹那、手の中の携帯が震えた。
 新座からの、折り返しの着信だった。
「もしもし」
 囁くように声を出すと、受話口の向こうから即座に応答があった。
「……何時に返信してるんですか、圭吾さん」
 新座の声は静かだ。冷静な調子の奥に、押し殺した焦燥と苛立ちが混じっている。
 圭吾は思わず、小さく笑って誤魔化した。
「えっと、何時だい?」
 短い沈黙。やがて、溜息が落ちる。
「……三時すぎです。むぐ。その呑気な声を聞く限り、ご無事のようですね」
 皮肉のようでいて、安堵を滲ませた声音だった。
 携帯の向こうで、風の音が微かに鳴る。どこかで車の走る音もする。何気ない生活音が、圭吾の胸に深く沁みた。
(……外の世界の音だ。時間が、ちゃんと動いてる)
 仏田寺に来てからというもの、時間の流れが歪んでいた。昼夜の区別も曖昧で、人の気配も限られたこの館では、現実が遠のいていく。電話越しの声が、まるで異界との通信のように感じられた。
「というか新座くん、こんな時間なのに外に居るんだね?」
「……事件の対応に追われていました。知り合いの女性が、大変なことになりまして。後で話しますが、まずは圭吾さんの方を伺っていいですか?」
「ああ。えっと、まずは何から話したらいいやら……とりあえず、寺の中で……前にあったクラブと同じことはしてたかな」
 少しだけ襖を開き、廊下の先を確かめる。燈雅と従者の男の姿は無い。会話が聞かれる恐れは無いと思いつつも、明確な事は口走れなかった。
 それでも新座は圭吾の意図を察したのか、低い呼吸音で返してくる。
「僕が実家を出る前は、そんなことはありませんでした。そこまで不潔なものを家に持ち込んでるんですね。最悪」
 抑えた声。しかし怒りが込められている。
 圭吾は頷きながらも襖の向こうの闇に耳を澄ませた。まだ誰の足音もない。なるべく内容を緩くぼかしながら、伝える。
「それと……俺の弟や妹たちが、凄く……評判らしい。大人気でさ……これは雑談だけど、現代日本でクローンとか人間の生成って禁止されてるよな?」
「明確な法的禁止まではありません。けれど倫理的には完全にアウトです。社会は許さないでしょうね」
「だよな……あとは」
「結構ありますね。話が長くなりそうなら後日にしましょう。安全な場所に戻ってからでも構いません」
「そうだな……」
 圭吾は一拍の沈黙を置き、それから何かを思い出したように呟いた。
「あっ、そうだ。兄貴からプレゼントを貰ったんだ」
「プレゼント?」
「うん。全然俺の趣味じゃない物を渡してきたから、何か意味があるんじゃないかと思う」
 布団の脇に置いた鞄を引き寄せる。
 中を探ると、紙束が指に触れた。端が黄ばみ、墨跡は掠れて読みにくい『何か』だった。
「古い本……だな。俺はアンティーク趣味とか一切無いんだけど。なんて書いてあるんだ、これ……」
 携帯の光を頼りに、圭吾はゆっくりと文字を追う。
 墨は褪せてなお、微かに湿ったような艶を残していた。生き物の皮膚のように、古文書が手の中で呼吸している気がする。
「死を……なす……永。永遠の“永”だな、これ。あとは、なに、えーと……最後の字は……“呪縛”、かな」

 静寂。世界から音が抜け落ちた。
 携帯の向こうでは微かなノイズだけが、遠くで風のように揺れている。
 新座からの返事が無い。耳に当てた携帯から、呼吸音だけが伝わる。しかしその息は浅く、震えていた。
「……それを、悟司さんから貰ったんですか?」
 低く、押し殺した声。普段の理性的な口調が崩れていた。
「うん。貰った。なんでか」
「圭吾さん。絶対に、それを開かないでください」
「……なん、で?」
 思わず声が裏返る。新座の豹変に、古書を握る手が思わず震えた。
 その紙は乾いているのに、まるで生き物のように手のひらで脈打っている。
「絶対に開かないで。読もうとしないで。早くしまって。誰にも見せないで。奪われないで」
 新座の声は震えていた。これまで一度として取り乱すことのなかった男が、明らかに動揺している。その異常さが、何より恐ろしかった。
「……これ、やばいものなのか?」
「そうです」
 一拍も置かずに返された、容赦がない声。
「絶対に持ち帰ってください。早く山を下りてください。いいですね? 今すぐです。僕が車を出します。迎えに行きますから、一時間後……いや、三十分後に合流しましょう」
 冷静な調子が崩れている。焦燥と恐怖が入り混じり、彼の理性を震わせていた。
 圭吾の胸の奥がざわつく。
「い、いや、さすがにそれは……」
 圭吾は障子の向こうを見た。廊下の奥には、燈雅の従者たちがいるかもしれない。彼らの監視の目を思うと、軽率に動くことはできなかった。
 それに……真夜中の山は、外気が凍る。軽装のまま飛び出せば命に関わるものである。
「いきなり外に出るのは無理だ。これ、いったい何なんだ? そんなに危ないものなのか?」
 返ってきたのは、息を呑む音。
 そして、噛み殺すような声。
「……『圭吾さんは、剥き出しの核爆弾を持っている』」
 その一言に、心臓が止まる。
「……は?」
「この例えで、ヤバさが伝わりますか?」
 言葉は比喩のはずなのに、耳の奥で現実の爆音のように響いた。
 圭吾の手が震える。薄い巻物が、鉛のように重い。
「専門知識がある僕が回収します! 早く山を出てください、圭吾さん! 今すぐ!」
 新座の声が、一段高く跳ねた。焦りと恐怖が限界に達している。
 圭吾は息を詰め、古書を見下ろす。墨の線がゆらりと歪んだ気がした。まるで書かれた言葉そのものが、意識を持って蠢いているように見える。
「……分かった。山は下りる。できるだけ早くに。でも、今すぐは無理だ。燈雅が――」
 そのとき。廊下の奥で、微かな軋みがした。
 圭吾は咄嗟に携帯の電源を切り、息を殺す。
 通話の向こうで、新座の声が焦れたように囁いた。
「圭吾さん。今すぐ決断してください。そこは――もう、安全じゃない!」
「誰と話をしていたんだ?」
 圭吾の心臓は激しく跳ねた。
 襖が開かれると共に降ってくる声は穏やかだ。けれど、その静けさの底には氷のようなものが潜んでいた。
 振り返るまでもなく分かる。燈雅だ。圭吾は反射的に、携帯電話を古びた書物と一緒に鞄へ押し込んだ。
「圭吾、こんな遅くに電話?」
 声は柔らかい。しかしその柔らかさが、不気味なほど作られている。
「し、職場の人だ。お前もお話がございますって仕事の話をされるみたいに、俺も……たまに電話がかかってくることあるんだよ」
 言いながら、自分でも言葉が空虚だと分かっていた。
 燈雅の沈黙が、嘘の輪郭をなぞるように長く続く。
「ふうん……そんなに慌てて隠すようなこと?」
 瞬間、圭吾の体に温もりが落ちた。
 燈雅が圭吾の背中を包んだ。後ろから抱きしめ、ひやりとした掌が、胸に絡む。
 圭吾は息を詰めた。肩から揺蕩う燈雅の髪が頬を掠め、湿った吐息が首筋を撫でる。柔らかいのに、異様な緊張を孕んだ密着だった。
「……誰かに電話されたから、出ていくの?」
 耳元で問う声。冷水のような声が、脳の奥に流れ落ちていく。
 どこまで聞かれたのか分からない。だが、「山を下りる」と口走ったのは事実だった。圭吾は、震えを抑えるように答えた。
「その、な、元々、二泊ぐらいで帰る予定だったんだ。あちらさんと会う約束をしててさ。だから、朝にはここを出るよ……」
 言い終えると同時に、締め付ける腕の力が増した。
 細い指が蛇のように絡みつき、圭吾の胸元を押し潰す。
 冷たい指先。圭吾は息を詰める。そして燈雅の声が、首筋に落ちた。
「圭吾。……行かないでほしい」
 だが切実な腕の力に反して、声音は泣いているようにも聞こえた。

 背中に感じる燈雅の体温が、じわじわと熱を帯びていく。
 圭吾に身を寄せるその仕草は、シーツの上で重なり合ったときと同じ、甘く脆い余韻を思わせた。
「……燈雅」
 名前を呼ぶと、耳元に返る息が震える。
「出るなんて言わないで。……オレといっしょにいてほしい。もうオレから離れないで」
 その声は、恐ろしいほど真っ直ぐだ。
 取引でも懇願でもない。幼子が夜に母を求めるような、純粋で無垢な欲求そのもの。
 その一言ごとに、圭吾の胸の奥で何かが軋む。痛いほどに、愛おしい。そう想ってしまうのは確かだ。
「オレは……圭吾とずっと、いたい。いっしょになりたい。……大好きだから……」
 燈雅の指先が、圭吾の胸元を撫でる。服越しに鼓動を確かめている。
 かつて縁側で笑っていた少年の面影が見えて、圭吾は喉の奥が熱くなり、息を整えるように小さく呟いた。
「……ああ、もう離れない」
 背中に抱きついた燈雅の体が小さく震えた。そして、声が弾む。
「そっか、なら……」
 笑った。圭吾の胸元に寄せられた頬が、ほっとしたように緩む。
 だが圭吾はそのぬくもりに包まれたまま、ゆっくりと言葉を継いだ。
「でも、朝には一度帰らせてもらう」
 空気が静まる。
 微かな沈黙のあと、燈雅の腕がわずかに止まるのが分かった。
「燈雅、聞いてくれ。ちょっと……大事な用事があってさ。それを終わらせたら、また来る。新年が明けたらすぐ戻るよ。職場にもまだ有給が残ってる。来月も、再来月も……何度でも来る。だから」
 圭吾は、言葉をひとつひとつ噛み締めるように置いた。
 拒絶ではなく、約束として。
 それだけ、燈雅を否定したくなかった。ただ、ここを出なければならない理由がある。新座に言われたからではなく、社会に生きる者として当然の言葉でもあった。それを穏やかに伝える。
 背中に伝わる吐息が変わる。安堵から、微かな緊張へ。
 腕にかかる力が、まるで「逃がさぬ」と言うように強くなっていく。
 そっと圭吾は、その手を包み返した。
「大丈夫だよ。約束する。すぐ戻ってくる」
 これは優しい嘘ではない。本気でそう思っていた。
 想いが通じたのか……燈雅の体が、静かに離れていく。ゆらりとした動作で、燈雅は布団の上へと戻る。白いシーツの上に、座した。

 燈雅は、微笑んでいた。さっきまでの痛ましい表情ではなく、静かな微笑を浮かべている。
 分かってくれたのか。圭吾は安堵して立ち上がる。
 ――燈雅に求めてもらえていることが、嬉しくないわけがない。
 愛しかった人物に熱い言葉で求められて、胸が高鳴らないわけもない。圭吾は「ありがとう」と感謝を述べる。
 彼が俯き、長い前髪が頬に落ちた。少しずつ部屋を照らしてきた朝の光が、その瞳の奥を照らす。
 燈雅の唇がゆっくりと、まるで独り言のように動いた。
「男衾。圭吾の足、いらない」
 囁くほどの小さな声。なのに部屋の空気を一瞬で変えるほどの威圧。
 圭吾は意味を理解できなかった。
 ――従者の名前? なぜ今、その名を?

 次の瞬間、空気が裂けた。
 黒い影が、音もなく現れる。光を吸い込むような闇の輪郭が、畳の上を滑るようにして圭吾の前に立っていた。
 何かが閃いた。
 ざくり、と鈍い音が遅れて耳に届く。
 膝の裏が砕け、床が傾く。身体の下半分の感覚が、刈り取られたように消える。
 視線を落とすと、畳の上に紅が滲んでいた。
 温かい液体が、足元――いや、かつて足首があった場所から、ゆっくりと広がっていく。
 鉄と血の匂いが鼻を突く。黒い影が動き、その手に握られた刃が光を吸った。
「!!」
 痛覚が一気に戻る。
 灼けつく痛みが神経を駆け上がり、圭吾の喉から獣のような悲鳴が零れた。
「が、あああああっ!?」
 全身が痙攣し、血が噴き出す。
 だがその赤は、あくまで畳の上で止まっていた。まるで見えない境界が引かれているかのように、白いシーツの方へは一滴も飛ばない。
 清められた結界の内側、そこに燈雅がいた。彼の領域は穢れを許さず、どこまでも静謐で美しかった。
 ――その前には、黒いスーツの男が立っている。燈雅の傍らに仕える従者。無表情のまま、血に染まった床――圭吾を見下ろす。
 その目に人間らしい感情は一切ない。怒りも憐れみも、快楽さえもない。ただ主命を果たしたという事実が、空洞のようにそこにあった。
「ぁ、あ、あ……!?」
 圭吾は必死に這おうとする。
 だが、もう足が切れた。床を掻く指先が、血で滑る。息が詰まり、視界が滲む。
 視線の先の燈雅は、白い布団の上で端然と座っている。
 痛みにのたうつ圭吾を慰めるような――慈悲の表情で。
「あ、あ! あああ……!」
 喉を裂く悲鳴が上がる。畳の上に崩れ落ち、両手で床を掻きむしる。爪の先に畳の繊維が食い込み、声にならない呻きが零れる。
 その光景を見下ろしながら、燈雅が静かに言った。
「男衾。圭吾の荷物を見て。変なものがないか探って」
 命令は、囁くように淡々と告げられた。
 従者――男衾と呼ばれた男は、無言のまま動く。黒いスーツの裾が、血で濡れた畳に触れることもなく揺れた。躊躇いも呼吸すら感じさせない動きで。
 やがて男衾は圭吾の鞄を開く。中から、古びた書物を取り出した。紙の擦れる乾いた音。墨の微かな香り。古びた匂いが、血の匂いと混ざり合う。
 男衾はそれを主人に恭しく差し出した。燈雅の指先が、紙の端に触れた。――瞬間、表情が変わる。
「……なんで。圭吾。なんでこれ、持って帰ろうと……?」
 微笑みを浮かべながら、しかし目だけが異様に見開かれていた。
 唇の端が引きつり、そこに宿るのは穏やかさではなく、抑え切れない怒りと恐怖が入り混じった色。
 ……その目に、かつて縁側で笑っていた少年の面影はもう無い。
 圭吾は、何も答えられなかった。息をすることすらぎこちない。血の味が喉に残る。
 燈雅が、指を鳴らした。パチン、と短い音が響く。
 瞬間、圭吾の全身から痛覚がすうっと抜け落ちた。体が遠ざかる。皮膚の感覚が消え、心臓の鼓動だけが遠くで鳴っている。
 まるで自分という存在が、どこか他人の肉体に移し替えられたように。
「……その顔だと、何にも分かってないみたいだね」
 燈雅の声が、低く落ちる。
 穏やかで優しげ……なのに、冷たく研ぎ澄まされた刃のような響きを持っていた。
「圭吾は……いいように利用されただけだろ。圭吾を、いつもそうやって、いいように使って……! みんな、圭吾のことを何だと思ってるんだ……!」
 書を握り締める指に力がこもり、古い紙が軋んだ。乾いた音が、怒りの代わりに響く。
 圭吾はただ、その姿を見ていた。
 痛みを奪われた体は軽い。けれど、胸の奥はずしりと重い。

 燈雅は血を避けるように、一歩近づく。
 静かにしゃがみ込み、痛みに震えていた圭吾の頬を撫でた。
 その手つきは、恐ろしく優しい。
「大丈夫だ、圭吾。守ってあげるよ。もう決めた。お前は、オレとずっといっしょにいる。いて、じゃない。いる。オレが決めたから。ね?」
 声音には限りない慈愛と、取り返しのつかない狂気が混ざっていた。
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