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第2部
[29] 2部2章/1 「好きだ。たとえ、それが哀れな錯覚でも。」
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【2部2章】
/1
地下最奥。そこは既に人の理を拒む光景だった。
実験室の中心に据えられた巨大な円環は、血と灰と魂で描かれた層をいくつも重ね、呼吸している。
切断された肢体が冷たく光を反射し、瓶詰めにされた心臓が淡く鼓動を続ける。魂片は淡い霧のように宙に浮かび、音もなく消えたり現れたりを繰り返していた。
それら全てが巨大な胎動。地獄の心音を形成している。
タイムリミットは、刻一刻と近づいていた。12月30日。だが主任研究員・夜須庭 航は慌てなかった。
世界が終わる寸前であろうと、彼は相も変わらず冷めたコーヒーを啜るように、分厚い羊皮紙を捲る。
「……う~ん、やっぱりここの接続句、入れた方がいいなぁ~」
独り言のように呟きながら、ペン先を走らせる。
指先は静かに震えていたが、それは恐怖でも焦燥でもない。完璧な構文を組み立てる悦楽の震えだった。
その様子を、ひとりの男が無言で見下ろしていた。同じ白衣を纏いい、長い髪を無造作に垂らしたまま、この世の埒外にいるような佇まい。
瞳には、もはや人間的な温度というものが存在しなかった。
「夜須庭。……供物が足りないとは思わないか」
冷たく、無機質な声。
航は首を傾げ、薄く笑んだ。その笑みは、血に濡れた秤の上で計算を愉しむ者のそれ。
「んー、そうですねぇ……。千年前の存在を完全に呼び戻すとなると、もう少し血が欲しいですね。魂の分量も少し薄い気がする。まあ、今から調達するには時間が足りませんけど」
「余計なことは考えなくていい。お前は儀式の完成に集中しろ」
「は~い、了解です~」
夜須庭は軽く肩を竦め、羊皮紙の束を持ち直した。
淡々と、しかしその声には異様な高揚が滲む。
「……ところで。レジスタンスとかいう連中が近づいてるって噂、どうなりましたぁ? 外の封鎖、もう解けかけてるとか」
「それも考えなくていい。上門所長の領分だ」
「あらあら。お忙しいことで」
くすりと笑い、メモに新たな数式を走らせる。
赤黒い血が床を伝い、魔法陣の溝に吸い込まれていった。やがて航は、ペンを止める。
「さて、これで計算上は完成ですねぇ。……ただ」
彼はゆっくりと指を五本、立てた。
「あと五体。できれば女児がいいですね。依頼主の要望で“女神”を形成したいらしいので。女性の器の方が、波長が近いんですよぉ」
唇の端が吊り上がる。
「もちろん、無理なら男性でも構いませんけどね。当主様くらいの立派な血筋なら文句は言えませんし……ただ、今から用意するのは難しいでしょうねえ。柳翠様なら……ご用意できますか?」
長髪の男が、殆ど表情を動かさぬまま命じた。
「匠太郎。今の会話を聞いていたなら――用意を」
「かしこまりましたー!」
静寂の中、返答の声が響く。地下の空気がひときわ濃くなる。
血の香り、腐敗した夢のような甘い匂い。魔法陣が微かに光り、空気が鼓動を打った。
夜須庭の唇から愉悦の吐息が漏れた。音楽でも奏でるかのように。
「ふふ、いいですねぇ。ようやくこの世界の終わり方が、絵になってきた」
数刻ののち、地下の空気が微かに揺らいだ。鉄の扉が開き、怯えた子供たちが列を成して導かれてくる。
年の頃は八つから十二歳、いずれも異能を宿す《器》として育てられた者たちだった。瞳の奥には、まだ世界を知らぬ光と、世界に裏切られた影が同居している。
彼女たちは、まるで羊の群れのように押し出され、祭壇の前に跪かされた。足音ひとつ立てることさえ許されない静寂。
誰も泣かなかった。泣くことがどういう意味を持つのか、この施設がそれを徹底して教え込んでいた。
処刑人が、軽快な口笛を吹く。白衣の下、袖をまくった腕には返り血の痕がまだ乾いていない。
その無造作な手つきに、子供たちは肩を強ばらせる。香炉から立ちのぼる甘い煙が、恐怖と血の匂いを包み隠していった。
夜須庭は、祭壇の脇の机に腰を掛けたまま、羊皮紙の文献に視線を落とす。何かの研究発表を前にした教授のように、淡々と呟いた。
「うーん……魂波長、少し荒いねぇ。でもまあ、許容範囲かな。じゃあ、頭は要らないから……捌いてどうぞ」
声音には一片の感情も無い。検体処理を指示するだけの事務的な口調が終わると同時に、金属音が静かに鳴る。
刃が、祈りの間を滑る。小さな体が震え、空気が凍りつく。瞬間、血が弧を描いた。
温かな赤が床に散る。術式がその血を吸い、魔法陣が淡く光を帯びる。光は呼吸し、呻き、やがて微かな脈動となって地の底に響き始めた。
その光景を見つめる者がいた。
壁際に立つ男――仏田柳翠。
瞳は静かに、しかし異様な熱を孕んでいた。彼の中では、恐怖も憎悪もとうに焼き尽くされ、残っているのは狂信にも似た執着だけだった。
(もうすぐだ)
唇が歪む。人間らしい温度を失った笑みが、赤い光に照らされていた。
血の匂いが濃くなるほどに、彼の胸の奥では確信が形を持っていく。
(もうすぐ会える。いっしょになろう。ひな。ずっといっしょに。そのためなら、どんな地獄も何度でも踏み越えてみせる)
たとえそれが地獄であろうと構わない。愛する者に手が届くのなら。
柳翠はそのためなら、何度でも、この地獄を踏み越えていくつもりだった。
◆
吐く。そう思った瞬間には、胃の中のものが喉を逆流していた。
仏田寺の冷たい石畳に、まだ消化しきれぬ朝食がぶちまけられた。静謐な葬送の朝に、不釣り合いな音がひとつ響く。
緋馬は唇を押さえたまま、震えていた。
酸と胆汁が混じった鋭い臭いが鼻腔を刺し、涙が滲む。何度もえずきながら、ようやく息を整えたときには、世界がゆらゆらと揺れていた。
ざわめきが起きた。喪服に身を包んだ親族たちが顔を見合わせ、誰かがそっと声を掛けてくる。
「大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」
「寒さでやられたんじゃないか?」
皆が、体調不良という枠に押し込めようとしていた。その方が都合がいい。緋馬も、否定しなかった。
けれど、本当は違う。
昨日……いや、「前の世界」で、見てしまったのだ。
喰い破られた肉。砕けた骨。血に染まる寺。伯父の死。人々の絶叫。それらが今も瞼の裏にこびりつき、焼けるように離れない。
そして今日、再びそれが始まると知っている。世界の中でただひとり、それを知っているという孤独が、何よりも恐ろしかった。
背後で靴音が止まる。気づくより早く、肩に手が置かれた。
あたたかく、包み込むような掌。その感触だけで、誰の手かすぐに分かる。藤春だった。
「緋馬、無理するな」
緋馬は顔を上げられなかった。嘔吐の飛沫が手の甲に残っている。情けなさが、羞恥と共に胸を刺す。
それでも藤春は咎めなかった。背に手を添え、ただ寄り添う。
「今日は……納骨なんだ。大事な日なんだぞ」
穏やかな声。その言葉の意味を、緋馬は痛いほど分かっていた。
今日は12月31日。「年内に全てを終えたい」との遺族の意向で、義母・あずまの納骨式が急ぎ行われる日。
喪主としての務めを果たす藤春にとって、愛した人への最後のけじめの日だ。
やっとの思いで顔を上げる。藤春の横顔は、相変わらずあたたかい。
その瞳のどこにも、あの夜の記憶は無い。彼はまた、同じ運命を歩もうとしている。妻との別れを。甥との死に別れを――もう一度。
「寝室で休め。顔色が悪すぎる」
優しい言葉の裏に、葬儀の混乱を避けたい大人の配慮が滲んでいた。
それも当然だった。今の自分は喪主の甥であり、取り乱してはならない立場なのだ。
緋馬は、唇を噛みしめて頷いた。歩きながら、涙を拭った。それは悲しみの涙ではない。悔しさと恐怖と、どうしようもない無力への涙だった。
寝室として宛がわれた仏間の一室に、緋馬は重力に抗えず、布団へ身を投げた。
床の間には墨の香りを残す掛け軸が垂れ、年季の入った箪笥が黙して時を抱えこんでいる。障子越しの光は薄く、冬の陽の冷たい白が畳に沈んでいた。
ここは、かつて藤春が暮らしていた部屋だ。十数年をこの寺で過ごし、眠り、夢を見て、季節を越えてきた空間。あの人の呼吸の名残が、まだ空気の底に沈んでいるようだ。
だから、緋馬は自然と彼のことを思い出してしまう。
――自分と藤春は、死ぬ。
何度繰り返しても、変わらず命を奪われる。叫んでも届かず、掴んだ手はすぐに崩れ落ち、抱いた体は冷えていく。
優しい声も、微笑も、血と絶叫の中で粉々に砕かれてしまう。何もかもが壊れる。そしてまた……。
「……やだ」
唇の隙間から、掠れた声が零れた。
死にたくない。あの痛みを、もう二度と味わいたくない。
焼かれ、裂かれ、喉を潰して叫ぶあの瞬間を、何度も繰り返すのはもう嫌だ。
生き延びたい。
そして、おじさんを救いたい。
(俺はあの人に告白して、拒まれた。あの人は、俺を守りきったことなんて一度もない。……それでも)
幻滅できなかった。失望することさえ、できなかった。
胸の奥には、未だに温かな光が燃えている。
食卓を囲んだ日々。季節が巡るたび、横顔を見つめていた午後。名前を呼ばれるたびに滲む優しさ。撫でられた髪の感触。叱られた後、胸に芽生えた安心に似た寂しさ。その全てが、拒絶されたあの日にも消えない。
何度死なれても、愛しさだけが燃え残っていた。
仰向けに倒れたまま顔を布団に埋めていると、柔らかな足音が近づいてきた。
気配だけで分かる。この歩幅、この呼吸の間合い。藤春だ。
短い沈黙。ノックの代わりのような間を置いて、藤春が部屋に入ってくる。
「……起きてるか?」
布団の中で身じろぎし、緋馬は顔を覗かせた。藤春は「納骨、終わったよ」と静かに告げる。
喪服のまま、ネクタイを少しだけ緩めた姿。手に握られた白いハンカチは、目元を何度も拭ったのだろう、角がくしゃりと折れていた。
「今日は冷えるな……。東京よりずっと寒い。緋馬の体には、少しきついかもしれないな」
まるで遠い記憶を手探りするような視線。その顔を、緋馬はただ黙って見つめた。
堅くこわばった頬。押し殺された呼吸。丁寧に整えられた所作の奥に、破れそうな静けさがある。
誰よりも寂しいくせに、平気なふりをしてここにいる。それが痛いほど伝わってきた。
「緋馬の顔を見たら、また皆に挨拶に行くよ」
「……おじさんこそ、無理しないで。俺なんかのために、時間を取らせて……ごめん」
言い終えると、沈黙が部屋を満たした。
藤春は緋馬を見つめ、微かに微笑む。その笑みは、元気づけようとするあまり不器用で、優しかった。
「『俺なんか』なんて言うなよ。これからもおじさんは、お前の傍にいる。安心して、休め」
立ち上がろうとする藤春の手を、緋馬は咄嗟に掴んだ。
横たわったまま伸ばした指先が、上着の裾を引き止める。
「……おじさん……」
か細い囁き。
顔を伏せたまま、震える声で問う。
「……触って……いい……?」
触れたい。拒まれたくない。ただ、それだけだった。
藤春は静かにその手を取る。
何も言わずに緋馬の身体を引き起こし、穏やかに両腕を広げた。
強くもなく、弱くもなく、ただ確かに背を包み込む抱擁。
緋馬の身体がびくりと震え、張り詰めていたものが崩れ落ちるように力が抜けた。
拒絶を恐れていたのに、この腕の中には、安堵しかなかった。
(……好きだ。たとえ、それが哀れな錯覚でも)
藤春の服をぎゅっと掴む。藤春は何も言わず、背を撫で続けた。
掌のぬくもり、呼吸の律動。緋馬は目を閉じる。
夜が来る。炎が満ち、死が訪れる。けれど今だけは、生きている。この人の胸の中に、自分は確かにいる。
張り詰めていた心の糸が、ふと緩んだ。
ぽたり、ぽたり……頬を伝って涙が零れる。言葉にならなかった感情が、ようやく形を得てしまった。
冬の光が障子を透かして柔らかく差し込み、布団の縁を白く縁取る。泣き疲れた緋馬は、藤春の胸元に身を預けたまま微動だにしなかった。
ただ時間だけが何の音も立てずに流れ、空気の温度だけがゆるやかに変わっていく。
やがて、緋馬は小さく唇を動かした。
「……おじさん。二人で、マンションに帰ろう」
藤春が目を見開く。
息を整えながら緋馬は、言葉を選ぶようにして続けた。
「ここにいたら、きっとまた……何かが起きる。嫌なことが起きて、取り返しがつかなくなる。だから、ここにいちゃ、いけないんだ……」
藤春は茶化さず、遮らず、真剣に聞いていた。静かな傾聴が、かえって緋馬を切なくさせる。
「信じて。お願い……信じてほしい」
声が震えた。
前の世界では、同じ言葉を笑われた。「夢を見たんだ」と優しく撫でられた頭の温もりが、そのときはただ残酷に思えた。
けれど、今回は違う。
藤春は笑わない。唇を噛み、ほんの少し目を伏せ――そして。
「……分かった。すぐ帰ろう」
短く、しかし確かに頷いた。
緋馬の肩が震える。心の奥底で希望が灯る。もしかしたら、今回は変わるのかもしれない。
「緋馬。俺までいなくなるんじゃないかって、不安になったんだな」
いつものように穏やかな声。
「大丈夫。おじさんはまだ生きてる。お前の傍に、ちゃんといる」
優しい声音、胸の奥を撫でる。
けれど、次の言葉が全てを打ち消した。
「新年が明けたら、すぐに帰ろうな」
にこやかに、あたたかく、何の疑いもなく、世界がまだ続くことを信じている人の声だった。
「今日は寺の人たちにもきちんと礼を言わないと。……今夜はもう休め。もう無理はさせない。な?」
常識的で、あまりにも現実的な言葉。その優しさが、緋馬の胸に鈍い痛みを残した。
頭を撫でる掌が温かくて、泣きたくなるほど痛い。
――言葉は届いた。信じてもらえた。
それでも、動けない。優しさが枷になる。愛情が現実を変えない。
緋馬は目を伏せたまま、唇を噛んだ。
もう分かってしまった。優しい人だからこそ、日常を壊せない。何も起きていないこの時間を、平穏として守ろうとする。
「……うん」
無理に笑ってみせた。その笑顔が、自分でも分かるほど痛々しく歪んでいた。
皆に顔を見せてくると言い残し、藤春はネクタイを締め直して立ち上がった。
扉の向こうにその背が消えるまで、緋馬は布団の中で見送った。
会食――精進落としが始まる時間だった。緋馬は行かない。行かなくていい、と藤春が言ってくれた。
本当は行かないでほしい。ずっと傍にいたい。近くにいれば、もしあの時がまた訪れても……守れるかもしれない。
そう信じたかった。けれど、藤春はいつだって忙しなく動き、最期を迎える。残された空気が少しずつ冷えていく。
孤独が戻った途端、夜の記憶が波のように押し寄せた。
炎の音。焦げた匂い。ぬめりとした触手の感触。肉が裂ける鈍い音と、血の生臭さ。誰かの悲鳴。藤春の、断末魔。
全てをもう一度見るようだった。焼け落ちる天井、崩れる梁、呼吸を失っていく伯父の顔。記憶の中で藤春が死ぬたび、心臓の奥が焼けるように軋んだ。
12月31日の夜になったら、化け物が現れる。
怪しい研究所の、怪しい連中が、怪しい儀式をして怪物を呼び出し、みんなを殺す。自分も、伯父も、焼かれ、潰され、食い散らかされる。
そんな馬鹿げた夢を、もう何度見た。夢だ。あれは全部、夢だ。三度も惨殺される夢なんて、現実であるはずがない。
これは悪夢の中で、さらに悪夢を繰り返しているだけなんだ。だから今日は何もしない。部屋に閉じこもって、ただ眠っていればいい。
(そして、何もせずに……殺される?)
脳裏で、囁く声がした。
それは他人の声ではなく、自分の声だった。
(夢だから、いいんだ。体調が悪いんだから、眠っていれば……あんなに痛い思いを、また? ここで? 同じように?)
理屈が崩れる音がした。緋馬の頭はもう限界だった。
大声を上げたら迷惑になる。伯父がまた心配して駆けつける。だから、口を押さえる。布団を頭まで被って、声を飲み込む。熱い息が布団の中で籠もり、酸素が薄くなる。心臓が乱打し、血の音が耳を突く。
(やだよ……もう、なんなんだよこれ……)
歯を食いしばり、喉を潰しながら叫びを抑えた。
思考がねじ切れそうだった。恐怖の記憶が、夢と現の境界を侵していく。
あの触手のぬめり、焼け焦げた肉の匂い、伯父の血が跳ねる音。何も起きていないはずなのに、世界のどこかで何かが始まっている気がした。
(来るな。来るな。来るな……!)
布団の中で押し殺した声が、裏返る。
嗚咽が止まらない。涙が喉に詰まり、呼吸ができなくなる。
違う、夢なんだ。全部夢だ。体調不良だから、眠っていればいい。そう自分に言い聞かせる。いやだ。いやだいやだいやだ。思考が絡まり、悲鳴が内側で爆ぜる。息が荒くなり、喉の奥から低い音が漏れた。
「……うあ、あ、あぁ……」
口の中に血の味が広がる。噛み締めた唇の隙間から、熱い呼気が漏れる。藤春の顔、炎、血、焼けた匂い。布団の中、涙とも汗ともつかぬ液が頬を伝う。心臓は暴れ、喉が焼け、息ができない。世界が回る。畳の匂いが鉄に変わり、闇の底から聞こえる。――肉を裂く音が。
「うるさい、うるさい、やめろ……っ!」
叫びは声にならず、喉の奥で潰えた。
まだ夜は、来ていなかった。本当の痛みは、これからなのに。
少しでも、逃げたい。助かりたい。けれど、寺の外へは行けない。
伯父を置いていくわけにはいかなかった。自分だけ助かって、あの人がまた死ぬ……そんな未来を想像するだけで、呼吸が詰まる。
たとえ何度死んでも、一緒にいたい。その執着が、すでに鎖のように緋馬を縛りつけていた。
それに、常識が囁く。12月31日の夜、雪の気配が漂うこの山道を下るのは不可能だ。暗闇の中、灯も車もない。理屈が、逃げようとする心を絡め取る。
だから緋馬は……寺からほんの少しだけ離れる代わりに、墓地へと向かった。
義母の墓。納骨が済んだばかりのまだ新しい墓石。今日ここに足を運ぶのは初めてだったが、以前の世界では、この前で最期の別れを告げた。同じ場所に、また立っている。
冬の山は、陽が落ちるのが早い。空は群青の底へと沈み、吐く息はすぐ白く砕ける。
境内の霊園には小さな灯明がいくつも並び、完全な闇ではなかった。緋馬はそっと手を合わせる。冷たさで指の感覚が薄れていく。掌の震えが、寒さからなのか恐怖からなのか分からない。
(……おばさんに助けを求めても、困るよな……)
死者に祈っても意味はない。この世にいない人間に縋ったところで、何も変わらない。それでも、祈らずにはいられなかった。
(お願いだよ、おばさん……あれはただの悪夢で、今回は大丈夫だって言ってよ……)
声にならない願い。喉の奥が焼けるように痛い。泣き出す寸前のようだった。
けれど、何も聞こえない。
墓石は黙したまま。風が通り抜け、影が揺れる。祈りはただ、凍りついた空気に吸い込まれていった。
冷気に膝が震え、唇が割れ、指先が凍える。それでもなお、何かが返ってくることを信じたい。
この世のどこにも救いがないのなら、せめて死者の国にだけは、優しさが残っていてほしい。緋馬は息を呑む。何も変わらない。何も起きない。いつもと同じ、恐ろしく静かな夜が始まる。
緋馬は墓石に額を押しつけ、震える声で呟いた。
「……怖いよ……助けて……」
白い息が零れ、涙が頬を伝って凍りつく。
涙の下で、心臓の音がうるさかった。
灯明の炎が揺れた。風が止んだと思った瞬間、背後で砂利を踏む音がする。
緋馬ははっとして顔を上げた。涙の向こう、暗がりの中からひとつの影が近づいてくる。
「緋馬くん」
低く、穏やかな声。霊園の静寂の中で、その声音だけが温もりを帯びていた。
黒い僧衣を纏った大柄な男。仏田寺の住職であり、今日の葬式を取り仕切った僧――寄居の父である。
「こんな所でひとりで泣いていたら、風邪を引くだけじゃない。気が滅入るぞ」
叱るでも慰めるでもない、ただ包み込むような声。
緋馬は慌てて手の甲で目を拭った。涙で濡れた頬はもう凍え切っていて、皮膚が裂けるように痛い。
「……ごめんなさい。少しだけ……お寺に居たくなくって」
掠れた声。
和尚は無言のまま、隣に歩み寄ってきた。大きな掌が、緋馬の肩にそっと置かれる。その掌はごつごつしていて歪だが、炉の残り火のように温かい。
「お寺は……不気味で、居たくないか?」
声は低く、少し笑っていた。
「確かにあそこはいかにも幽霊が出そうな場所だからな。でも、霊園の方がもっと出るぞ」
冗談のように言いながら、僧は墓石を見回した。無数の石塔が並び、冬の空気の中に呼吸を潜めている。
「冷たい石畳ばかりの外は、心も体も冷やしてしまう。あたたかい所であたたまれば、少しは落ち着くぞ」
口調は軽いが、声の奥にあるのは本気の気遣いだ。
それが分かるからこそ、緋馬は苦しかった。常識的な大人の励まし。理屈として正しい慰め。でも、それでは届かない。今、自分が恐れているのは寒さなんかじゃない。
胸の奥のざらついた感情が、喉を焦がすようにせり上がってくる。そして、震える声で問うた。
「……住職さんは、あのお寺にいたら……怖い怪物に遭遇しますよ、って言われたら、信じますか?」
住職が、眉を動かした。
驚きの色は見せない。風が二人の間を通り抜けた。灯明の火が揺れ、彼の横顔を赤く染める。その目は冗談ではなく、本気で少年の言葉を受けとめようとしている眼だった。
「怖い怪物、か。鬼か何かかな?」
数珠を指先で転がしながら、小さく息を吐いた。
声は穏やかだったが、どこか遠いものを見ている。
「まあ、そういう……人外です。それが、あのお寺に出る……そんな夢を見てしまって」
俯いたまま、吐く息を震わせて答える。声の先にあるのは、怯えとも焦りともつかない、不安の塊。
それを聞いた彼は、しばらく無言のまま見つめていた。やがて、意外な言葉が唇から零れる。
「――鬼に会えるなんて。羨ましいな」
凍りついて顔を上げた。
冗談とも本気ともつかないその一言。――あんなにも恐ろしい存在を、羨ましいと?
彼はそんな緋馬の動揺など意に介さず、そっと手を合わせた。数珠が、乾いた音を立てる。その所作は、祈りというより、懐かしい友に語りかけるようだ。
「仏田寺にはな、人ならざるものがいた。この山には、この場所には……それが棲んでいたんだ」
掠れた低音で語る横顔に、灯明の光が映る。
目は遠く、過去の景色を見つめている。
「鬼神と呼ばれる存在だ。近くの集落では人ではない怪物だと恐れられていたが、とても美しかった。力を与え、病を癒し、心を導く。……そんな優しい異端。人に害をなすとも言われたが、けれど……仏田寺の鬼は美しく、優しい。……癒しの神だ」
呼吸が止まる。何かを知っているような言い方。
数珠を握り合わせる穏やかな声は、どこか哀しみに濡れている。宗教的な敬意よりも、もっと個人的な温もりが宿った言い方は、あたかも、かつてその鬼と語り合ったことがあるかのようだ。
「……俺も会えるものなら、会いたい」
まるで、懺悔。緋馬は、胸の奥に得体の知れないざわめきを覚えた。
それは恐怖ではなく、もっと深い……引きずり込まれるような共鳴。
「癒し……なわけないじゃないですか」
吐き出す声が震える。喉の奥から零れ落ちたような声になった。
「鬼っていうなら、怪物でしょう。例えば……腕が何本もあるとか、目がいくつもあるとか、そういうものじゃないですか」
それは、知っている形だった。だって見たから。
目を閉じても消えない。あの夜の、焼け焦げた廊下、血の中で蠢いていたそれら。
住職はそんな緋馬の言葉を静かに聞く。僧衣の裾が風に揺れ、彼の横顔が灯明に照らされる。その影は古い仏像のように動かず、静謐。低い声が、墓地の冷気を震わせる。
「……そうだな。鬼神は、何でもできた。腕が何本もあるみたいに万能で、目がいくつもあるように何でも知っていた。……人智を越えた存在だから」
そうじゃない。そういう意味じゃない。けれど声に出せなかった。
声はあまりに穏やかで、口調には信仰の重みがある。彼がこんなことを言うということは……この山で行われている儀式や、あの研究所の連中が呼び起こそうとしている“それ”は、ただの怪物なんかじゃないということになる。
この土地に根付いた、古い神話。住職自身が語り継ぐほどの、由緒ある存在。
彼は灯明の揺らぎを見つめながら、言葉を続けた。
「鬼神は、人を救う存在。人の穢れを喰らい、痛みを取り除く。……代わりに、その身を裂き、血を啜ることもあった」
「そ、その、怪物は……癒しだとか言いますけど、もしその怪物が、人をいっぱい殺すとして……住職さんなら、理由は何だと思いますか?」
冷たい風が吹き抜け、木々の枝が軋む。数珠を指で転がしながら、僧は目を閉じた。
沈黙は、短いようで長かった。緋馬の胸が、鼓動の音を立てて痛いほど鳴る。
彼は、微笑んだ。哀しみの底に沈むような笑みだった。
「……救いかな」
たった一言。凍えるような重みの、一言。
「人を殺すことで、苦しみを終わらせる。穢れを断ち、痛みを喰らう。それが癒しになることもある。鬼神というのは、そういう矛盾を抱えた存在なんだ」
救い。この地で語られる神の、殺意の理由。
やはり、馬鹿げていた。救いのために殺す。痛みを癒すために、血を流す。本末転倒だ。
自分が今ここにいる理由を思い出す。……死にたくなくて来たのだ。あの夜の記憶を否定したくて、焼け焦げた寺の夢を見たくなくて、生き延びたくて、神頼みのために霊園に来た。
それなのに、その神が人を殺すというのなら……。
緋馬は、ぎゅっと拳を握りしめた。爪が手のひらの肉に食い込み、傷む。
(俺は……救われたいんじゃない。生きたいだけだ。……おじさんと)
誰にも信じてもらえない恐怖の中で、願っていることは、ただそれだけ。
「……もし、もしですよ、その……怪物が、鬼神が、本当にいたとして」
灯明の光が墓石を濡らし、白い吐息が震えて散る。
吐息の先に、僧衣の黒がある。静かに数珠を撫でながら、何も言わずに聞いていた。
「……あの寺で、目覚めた神様に会ってしまったとして」
自分でも何を言っているのか分からない。けれど、止められなかった。
言葉を口にすることでしか、心の破裂を防げなかった。
「その、信心深い住職さんには酷な話かもしれないですけど、救われたくない俺は……どうやったら逃げられると思いますか? 生き延びる方法はありますかね? ……俺はただ、生き延びたいです」
自分の口から出た言葉があまりに滑稽で、情けなく思えた。
理屈も現実もない。正気のふりをしている狂人だ。
でも、今だけは笑わないでほしかった。子供の妄言でもいい。義母を失った少年の錯乱でもいい。この夜の恐怖を、誰かが受け止めてくれれば……それだけで良かった。
「神様のごとき尊き存在の行ないを、人が曲げることなど不可能だよ」
声は、哀れみでも怒りでもない。
長い年月を生きて諦めを熟成させた人間の声。
緋馬の胸に、その言葉はゆっくりと沈んでいく。温度を持たない刃のように。
「神様自身が折れてくれる。……そうなることを祈る。人の身にできることなど、それぐらいさ」
絶望という言葉は、あまりに軽い。
逃げられないという現実が、言葉よりも先に身体に染み込んでいく。
(……祈る、だけ? また襲われたら、また殺されるのを待つしかないのか)
神という存在が本当にこの地にいるのなら、きっと人間の祈りなど聞かないのだろう。
助けを乞う声も、血も、涙も。神にとってはただの雑音と塵でしかない。
冬の夜の空気が、痛みのように肌を刺す。
吐息が白く消え、世界が静まり返る。祈りの届かない夜の底で、緋馬は自分の心が折れる音を聞いた。
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地下最奥。そこは既に人の理を拒む光景だった。
実験室の中心に据えられた巨大な円環は、血と灰と魂で描かれた層をいくつも重ね、呼吸している。
切断された肢体が冷たく光を反射し、瓶詰めにされた心臓が淡く鼓動を続ける。魂片は淡い霧のように宙に浮かび、音もなく消えたり現れたりを繰り返していた。
それら全てが巨大な胎動。地獄の心音を形成している。
タイムリミットは、刻一刻と近づいていた。12月30日。だが主任研究員・夜須庭 航は慌てなかった。
世界が終わる寸前であろうと、彼は相も変わらず冷めたコーヒーを啜るように、分厚い羊皮紙を捲る。
「……う~ん、やっぱりここの接続句、入れた方がいいなぁ~」
独り言のように呟きながら、ペン先を走らせる。
指先は静かに震えていたが、それは恐怖でも焦燥でもない。完璧な構文を組み立てる悦楽の震えだった。
その様子を、ひとりの男が無言で見下ろしていた。同じ白衣を纏いい、長い髪を無造作に垂らしたまま、この世の埒外にいるような佇まい。
瞳には、もはや人間的な温度というものが存在しなかった。
「夜須庭。……供物が足りないとは思わないか」
冷たく、無機質な声。
航は首を傾げ、薄く笑んだ。その笑みは、血に濡れた秤の上で計算を愉しむ者のそれ。
「んー、そうですねぇ……。千年前の存在を完全に呼び戻すとなると、もう少し血が欲しいですね。魂の分量も少し薄い気がする。まあ、今から調達するには時間が足りませんけど」
「余計なことは考えなくていい。お前は儀式の完成に集中しろ」
「は~い、了解です~」
夜須庭は軽く肩を竦め、羊皮紙の束を持ち直した。
淡々と、しかしその声には異様な高揚が滲む。
「……ところで。レジスタンスとかいう連中が近づいてるって噂、どうなりましたぁ? 外の封鎖、もう解けかけてるとか」
「それも考えなくていい。上門所長の領分だ」
「あらあら。お忙しいことで」
くすりと笑い、メモに新たな数式を走らせる。
赤黒い血が床を伝い、魔法陣の溝に吸い込まれていった。やがて航は、ペンを止める。
「さて、これで計算上は完成ですねぇ。……ただ」
彼はゆっくりと指を五本、立てた。
「あと五体。できれば女児がいいですね。依頼主の要望で“女神”を形成したいらしいので。女性の器の方が、波長が近いんですよぉ」
唇の端が吊り上がる。
「もちろん、無理なら男性でも構いませんけどね。当主様くらいの立派な血筋なら文句は言えませんし……ただ、今から用意するのは難しいでしょうねえ。柳翠様なら……ご用意できますか?」
長髪の男が、殆ど表情を動かさぬまま命じた。
「匠太郎。今の会話を聞いていたなら――用意を」
「かしこまりましたー!」
静寂の中、返答の声が響く。地下の空気がひときわ濃くなる。
血の香り、腐敗した夢のような甘い匂い。魔法陣が微かに光り、空気が鼓動を打った。
夜須庭の唇から愉悦の吐息が漏れた。音楽でも奏でるかのように。
「ふふ、いいですねぇ。ようやくこの世界の終わり方が、絵になってきた」
数刻ののち、地下の空気が微かに揺らいだ。鉄の扉が開き、怯えた子供たちが列を成して導かれてくる。
年の頃は八つから十二歳、いずれも異能を宿す《器》として育てられた者たちだった。瞳の奥には、まだ世界を知らぬ光と、世界に裏切られた影が同居している。
彼女たちは、まるで羊の群れのように押し出され、祭壇の前に跪かされた。足音ひとつ立てることさえ許されない静寂。
誰も泣かなかった。泣くことがどういう意味を持つのか、この施設がそれを徹底して教え込んでいた。
処刑人が、軽快な口笛を吹く。白衣の下、袖をまくった腕には返り血の痕がまだ乾いていない。
その無造作な手つきに、子供たちは肩を強ばらせる。香炉から立ちのぼる甘い煙が、恐怖と血の匂いを包み隠していった。
夜須庭は、祭壇の脇の机に腰を掛けたまま、羊皮紙の文献に視線を落とす。何かの研究発表を前にした教授のように、淡々と呟いた。
「うーん……魂波長、少し荒いねぇ。でもまあ、許容範囲かな。じゃあ、頭は要らないから……捌いてどうぞ」
声音には一片の感情も無い。検体処理を指示するだけの事務的な口調が終わると同時に、金属音が静かに鳴る。
刃が、祈りの間を滑る。小さな体が震え、空気が凍りつく。瞬間、血が弧を描いた。
温かな赤が床に散る。術式がその血を吸い、魔法陣が淡く光を帯びる。光は呼吸し、呻き、やがて微かな脈動となって地の底に響き始めた。
その光景を見つめる者がいた。
壁際に立つ男――仏田柳翠。
瞳は静かに、しかし異様な熱を孕んでいた。彼の中では、恐怖も憎悪もとうに焼き尽くされ、残っているのは狂信にも似た執着だけだった。
(もうすぐだ)
唇が歪む。人間らしい温度を失った笑みが、赤い光に照らされていた。
血の匂いが濃くなるほどに、彼の胸の奥では確信が形を持っていく。
(もうすぐ会える。いっしょになろう。ひな。ずっといっしょに。そのためなら、どんな地獄も何度でも踏み越えてみせる)
たとえそれが地獄であろうと構わない。愛する者に手が届くのなら。
柳翠はそのためなら、何度でも、この地獄を踏み越えていくつもりだった。
◆
吐く。そう思った瞬間には、胃の中のものが喉を逆流していた。
仏田寺の冷たい石畳に、まだ消化しきれぬ朝食がぶちまけられた。静謐な葬送の朝に、不釣り合いな音がひとつ響く。
緋馬は唇を押さえたまま、震えていた。
酸と胆汁が混じった鋭い臭いが鼻腔を刺し、涙が滲む。何度もえずきながら、ようやく息を整えたときには、世界がゆらゆらと揺れていた。
ざわめきが起きた。喪服に身を包んだ親族たちが顔を見合わせ、誰かがそっと声を掛けてくる。
「大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」
「寒さでやられたんじゃないか?」
皆が、体調不良という枠に押し込めようとしていた。その方が都合がいい。緋馬も、否定しなかった。
けれど、本当は違う。
昨日……いや、「前の世界」で、見てしまったのだ。
喰い破られた肉。砕けた骨。血に染まる寺。伯父の死。人々の絶叫。それらが今も瞼の裏にこびりつき、焼けるように離れない。
そして今日、再びそれが始まると知っている。世界の中でただひとり、それを知っているという孤独が、何よりも恐ろしかった。
背後で靴音が止まる。気づくより早く、肩に手が置かれた。
あたたかく、包み込むような掌。その感触だけで、誰の手かすぐに分かる。藤春だった。
「緋馬、無理するな」
緋馬は顔を上げられなかった。嘔吐の飛沫が手の甲に残っている。情けなさが、羞恥と共に胸を刺す。
それでも藤春は咎めなかった。背に手を添え、ただ寄り添う。
「今日は……納骨なんだ。大事な日なんだぞ」
穏やかな声。その言葉の意味を、緋馬は痛いほど分かっていた。
今日は12月31日。「年内に全てを終えたい」との遺族の意向で、義母・あずまの納骨式が急ぎ行われる日。
喪主としての務めを果たす藤春にとって、愛した人への最後のけじめの日だ。
やっとの思いで顔を上げる。藤春の横顔は、相変わらずあたたかい。
その瞳のどこにも、あの夜の記憶は無い。彼はまた、同じ運命を歩もうとしている。妻との別れを。甥との死に別れを――もう一度。
「寝室で休め。顔色が悪すぎる」
優しい言葉の裏に、葬儀の混乱を避けたい大人の配慮が滲んでいた。
それも当然だった。今の自分は喪主の甥であり、取り乱してはならない立場なのだ。
緋馬は、唇を噛みしめて頷いた。歩きながら、涙を拭った。それは悲しみの涙ではない。悔しさと恐怖と、どうしようもない無力への涙だった。
寝室として宛がわれた仏間の一室に、緋馬は重力に抗えず、布団へ身を投げた。
床の間には墨の香りを残す掛け軸が垂れ、年季の入った箪笥が黙して時を抱えこんでいる。障子越しの光は薄く、冬の陽の冷たい白が畳に沈んでいた。
ここは、かつて藤春が暮らしていた部屋だ。十数年をこの寺で過ごし、眠り、夢を見て、季節を越えてきた空間。あの人の呼吸の名残が、まだ空気の底に沈んでいるようだ。
だから、緋馬は自然と彼のことを思い出してしまう。
――自分と藤春は、死ぬ。
何度繰り返しても、変わらず命を奪われる。叫んでも届かず、掴んだ手はすぐに崩れ落ち、抱いた体は冷えていく。
優しい声も、微笑も、血と絶叫の中で粉々に砕かれてしまう。何もかもが壊れる。そしてまた……。
「……やだ」
唇の隙間から、掠れた声が零れた。
死にたくない。あの痛みを、もう二度と味わいたくない。
焼かれ、裂かれ、喉を潰して叫ぶあの瞬間を、何度も繰り返すのはもう嫌だ。
生き延びたい。
そして、おじさんを救いたい。
(俺はあの人に告白して、拒まれた。あの人は、俺を守りきったことなんて一度もない。……それでも)
幻滅できなかった。失望することさえ、できなかった。
胸の奥には、未だに温かな光が燃えている。
食卓を囲んだ日々。季節が巡るたび、横顔を見つめていた午後。名前を呼ばれるたびに滲む優しさ。撫でられた髪の感触。叱られた後、胸に芽生えた安心に似た寂しさ。その全てが、拒絶されたあの日にも消えない。
何度死なれても、愛しさだけが燃え残っていた。
仰向けに倒れたまま顔を布団に埋めていると、柔らかな足音が近づいてきた。
気配だけで分かる。この歩幅、この呼吸の間合い。藤春だ。
短い沈黙。ノックの代わりのような間を置いて、藤春が部屋に入ってくる。
「……起きてるか?」
布団の中で身じろぎし、緋馬は顔を覗かせた。藤春は「納骨、終わったよ」と静かに告げる。
喪服のまま、ネクタイを少しだけ緩めた姿。手に握られた白いハンカチは、目元を何度も拭ったのだろう、角がくしゃりと折れていた。
「今日は冷えるな……。東京よりずっと寒い。緋馬の体には、少しきついかもしれないな」
まるで遠い記憶を手探りするような視線。その顔を、緋馬はただ黙って見つめた。
堅くこわばった頬。押し殺された呼吸。丁寧に整えられた所作の奥に、破れそうな静けさがある。
誰よりも寂しいくせに、平気なふりをしてここにいる。それが痛いほど伝わってきた。
「緋馬の顔を見たら、また皆に挨拶に行くよ」
「……おじさんこそ、無理しないで。俺なんかのために、時間を取らせて……ごめん」
言い終えると、沈黙が部屋を満たした。
藤春は緋馬を見つめ、微かに微笑む。その笑みは、元気づけようとするあまり不器用で、優しかった。
「『俺なんか』なんて言うなよ。これからもおじさんは、お前の傍にいる。安心して、休め」
立ち上がろうとする藤春の手を、緋馬は咄嗟に掴んだ。
横たわったまま伸ばした指先が、上着の裾を引き止める。
「……おじさん……」
か細い囁き。
顔を伏せたまま、震える声で問う。
「……触って……いい……?」
触れたい。拒まれたくない。ただ、それだけだった。
藤春は静かにその手を取る。
何も言わずに緋馬の身体を引き起こし、穏やかに両腕を広げた。
強くもなく、弱くもなく、ただ確かに背を包み込む抱擁。
緋馬の身体がびくりと震え、張り詰めていたものが崩れ落ちるように力が抜けた。
拒絶を恐れていたのに、この腕の中には、安堵しかなかった。
(……好きだ。たとえ、それが哀れな錯覚でも)
藤春の服をぎゅっと掴む。藤春は何も言わず、背を撫で続けた。
掌のぬくもり、呼吸の律動。緋馬は目を閉じる。
夜が来る。炎が満ち、死が訪れる。けれど今だけは、生きている。この人の胸の中に、自分は確かにいる。
張り詰めていた心の糸が、ふと緩んだ。
ぽたり、ぽたり……頬を伝って涙が零れる。言葉にならなかった感情が、ようやく形を得てしまった。
冬の光が障子を透かして柔らかく差し込み、布団の縁を白く縁取る。泣き疲れた緋馬は、藤春の胸元に身を預けたまま微動だにしなかった。
ただ時間だけが何の音も立てずに流れ、空気の温度だけがゆるやかに変わっていく。
やがて、緋馬は小さく唇を動かした。
「……おじさん。二人で、マンションに帰ろう」
藤春が目を見開く。
息を整えながら緋馬は、言葉を選ぶようにして続けた。
「ここにいたら、きっとまた……何かが起きる。嫌なことが起きて、取り返しがつかなくなる。だから、ここにいちゃ、いけないんだ……」
藤春は茶化さず、遮らず、真剣に聞いていた。静かな傾聴が、かえって緋馬を切なくさせる。
「信じて。お願い……信じてほしい」
声が震えた。
前の世界では、同じ言葉を笑われた。「夢を見たんだ」と優しく撫でられた頭の温もりが、そのときはただ残酷に思えた。
けれど、今回は違う。
藤春は笑わない。唇を噛み、ほんの少し目を伏せ――そして。
「……分かった。すぐ帰ろう」
短く、しかし確かに頷いた。
緋馬の肩が震える。心の奥底で希望が灯る。もしかしたら、今回は変わるのかもしれない。
「緋馬。俺までいなくなるんじゃないかって、不安になったんだな」
いつものように穏やかな声。
「大丈夫。おじさんはまだ生きてる。お前の傍に、ちゃんといる」
優しい声音、胸の奥を撫でる。
けれど、次の言葉が全てを打ち消した。
「新年が明けたら、すぐに帰ろうな」
にこやかに、あたたかく、何の疑いもなく、世界がまだ続くことを信じている人の声だった。
「今日は寺の人たちにもきちんと礼を言わないと。……今夜はもう休め。もう無理はさせない。な?」
常識的で、あまりにも現実的な言葉。その優しさが、緋馬の胸に鈍い痛みを残した。
頭を撫でる掌が温かくて、泣きたくなるほど痛い。
――言葉は届いた。信じてもらえた。
それでも、動けない。優しさが枷になる。愛情が現実を変えない。
緋馬は目を伏せたまま、唇を噛んだ。
もう分かってしまった。優しい人だからこそ、日常を壊せない。何も起きていないこの時間を、平穏として守ろうとする。
「……うん」
無理に笑ってみせた。その笑顔が、自分でも分かるほど痛々しく歪んでいた。
皆に顔を見せてくると言い残し、藤春はネクタイを締め直して立ち上がった。
扉の向こうにその背が消えるまで、緋馬は布団の中で見送った。
会食――精進落としが始まる時間だった。緋馬は行かない。行かなくていい、と藤春が言ってくれた。
本当は行かないでほしい。ずっと傍にいたい。近くにいれば、もしあの時がまた訪れても……守れるかもしれない。
そう信じたかった。けれど、藤春はいつだって忙しなく動き、最期を迎える。残された空気が少しずつ冷えていく。
孤独が戻った途端、夜の記憶が波のように押し寄せた。
炎の音。焦げた匂い。ぬめりとした触手の感触。肉が裂ける鈍い音と、血の生臭さ。誰かの悲鳴。藤春の、断末魔。
全てをもう一度見るようだった。焼け落ちる天井、崩れる梁、呼吸を失っていく伯父の顔。記憶の中で藤春が死ぬたび、心臓の奥が焼けるように軋んだ。
12月31日の夜になったら、化け物が現れる。
怪しい研究所の、怪しい連中が、怪しい儀式をして怪物を呼び出し、みんなを殺す。自分も、伯父も、焼かれ、潰され、食い散らかされる。
そんな馬鹿げた夢を、もう何度見た。夢だ。あれは全部、夢だ。三度も惨殺される夢なんて、現実であるはずがない。
これは悪夢の中で、さらに悪夢を繰り返しているだけなんだ。だから今日は何もしない。部屋に閉じこもって、ただ眠っていればいい。
(そして、何もせずに……殺される?)
脳裏で、囁く声がした。
それは他人の声ではなく、自分の声だった。
(夢だから、いいんだ。体調が悪いんだから、眠っていれば……あんなに痛い思いを、また? ここで? 同じように?)
理屈が崩れる音がした。緋馬の頭はもう限界だった。
大声を上げたら迷惑になる。伯父がまた心配して駆けつける。だから、口を押さえる。布団を頭まで被って、声を飲み込む。熱い息が布団の中で籠もり、酸素が薄くなる。心臓が乱打し、血の音が耳を突く。
(やだよ……もう、なんなんだよこれ……)
歯を食いしばり、喉を潰しながら叫びを抑えた。
思考がねじ切れそうだった。恐怖の記憶が、夢と現の境界を侵していく。
あの触手のぬめり、焼け焦げた肉の匂い、伯父の血が跳ねる音。何も起きていないはずなのに、世界のどこかで何かが始まっている気がした。
(来るな。来るな。来るな……!)
布団の中で押し殺した声が、裏返る。
嗚咽が止まらない。涙が喉に詰まり、呼吸ができなくなる。
違う、夢なんだ。全部夢だ。体調不良だから、眠っていればいい。そう自分に言い聞かせる。いやだ。いやだいやだいやだ。思考が絡まり、悲鳴が内側で爆ぜる。息が荒くなり、喉の奥から低い音が漏れた。
「……うあ、あ、あぁ……」
口の中に血の味が広がる。噛み締めた唇の隙間から、熱い呼気が漏れる。藤春の顔、炎、血、焼けた匂い。布団の中、涙とも汗ともつかぬ液が頬を伝う。心臓は暴れ、喉が焼け、息ができない。世界が回る。畳の匂いが鉄に変わり、闇の底から聞こえる。――肉を裂く音が。
「うるさい、うるさい、やめろ……っ!」
叫びは声にならず、喉の奥で潰えた。
まだ夜は、来ていなかった。本当の痛みは、これからなのに。
少しでも、逃げたい。助かりたい。けれど、寺の外へは行けない。
伯父を置いていくわけにはいかなかった。自分だけ助かって、あの人がまた死ぬ……そんな未来を想像するだけで、呼吸が詰まる。
たとえ何度死んでも、一緒にいたい。その執着が、すでに鎖のように緋馬を縛りつけていた。
それに、常識が囁く。12月31日の夜、雪の気配が漂うこの山道を下るのは不可能だ。暗闇の中、灯も車もない。理屈が、逃げようとする心を絡め取る。
だから緋馬は……寺からほんの少しだけ離れる代わりに、墓地へと向かった。
義母の墓。納骨が済んだばかりのまだ新しい墓石。今日ここに足を運ぶのは初めてだったが、以前の世界では、この前で最期の別れを告げた。同じ場所に、また立っている。
冬の山は、陽が落ちるのが早い。空は群青の底へと沈み、吐く息はすぐ白く砕ける。
境内の霊園には小さな灯明がいくつも並び、完全な闇ではなかった。緋馬はそっと手を合わせる。冷たさで指の感覚が薄れていく。掌の震えが、寒さからなのか恐怖からなのか分からない。
(……おばさんに助けを求めても、困るよな……)
死者に祈っても意味はない。この世にいない人間に縋ったところで、何も変わらない。それでも、祈らずにはいられなかった。
(お願いだよ、おばさん……あれはただの悪夢で、今回は大丈夫だって言ってよ……)
声にならない願い。喉の奥が焼けるように痛い。泣き出す寸前のようだった。
けれど、何も聞こえない。
墓石は黙したまま。風が通り抜け、影が揺れる。祈りはただ、凍りついた空気に吸い込まれていった。
冷気に膝が震え、唇が割れ、指先が凍える。それでもなお、何かが返ってくることを信じたい。
この世のどこにも救いがないのなら、せめて死者の国にだけは、優しさが残っていてほしい。緋馬は息を呑む。何も変わらない。何も起きない。いつもと同じ、恐ろしく静かな夜が始まる。
緋馬は墓石に額を押しつけ、震える声で呟いた。
「……怖いよ……助けて……」
白い息が零れ、涙が頬を伝って凍りつく。
涙の下で、心臓の音がうるさかった。
灯明の炎が揺れた。風が止んだと思った瞬間、背後で砂利を踏む音がする。
緋馬ははっとして顔を上げた。涙の向こう、暗がりの中からひとつの影が近づいてくる。
「緋馬くん」
低く、穏やかな声。霊園の静寂の中で、その声音だけが温もりを帯びていた。
黒い僧衣を纏った大柄な男。仏田寺の住職であり、今日の葬式を取り仕切った僧――寄居の父である。
「こんな所でひとりで泣いていたら、風邪を引くだけじゃない。気が滅入るぞ」
叱るでも慰めるでもない、ただ包み込むような声。
緋馬は慌てて手の甲で目を拭った。涙で濡れた頬はもう凍え切っていて、皮膚が裂けるように痛い。
「……ごめんなさい。少しだけ……お寺に居たくなくって」
掠れた声。
和尚は無言のまま、隣に歩み寄ってきた。大きな掌が、緋馬の肩にそっと置かれる。その掌はごつごつしていて歪だが、炉の残り火のように温かい。
「お寺は……不気味で、居たくないか?」
声は低く、少し笑っていた。
「確かにあそこはいかにも幽霊が出そうな場所だからな。でも、霊園の方がもっと出るぞ」
冗談のように言いながら、僧は墓石を見回した。無数の石塔が並び、冬の空気の中に呼吸を潜めている。
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口調は軽いが、声の奥にあるのは本気の気遣いだ。
それが分かるからこそ、緋馬は苦しかった。常識的な大人の励まし。理屈として正しい慰め。でも、それでは届かない。今、自分が恐れているのは寒さなんかじゃない。
胸の奥のざらついた感情が、喉を焦がすようにせり上がってくる。そして、震える声で問うた。
「……住職さんは、あのお寺にいたら……怖い怪物に遭遇しますよ、って言われたら、信じますか?」
住職が、眉を動かした。
驚きの色は見せない。風が二人の間を通り抜けた。灯明の火が揺れ、彼の横顔を赤く染める。その目は冗談ではなく、本気で少年の言葉を受けとめようとしている眼だった。
「怖い怪物、か。鬼か何かかな?」
数珠を指先で転がしながら、小さく息を吐いた。
声は穏やかだったが、どこか遠いものを見ている。
「まあ、そういう……人外です。それが、あのお寺に出る……そんな夢を見てしまって」
俯いたまま、吐く息を震わせて答える。声の先にあるのは、怯えとも焦りともつかない、不安の塊。
それを聞いた彼は、しばらく無言のまま見つめていた。やがて、意外な言葉が唇から零れる。
「――鬼に会えるなんて。羨ましいな」
凍りついて顔を上げた。
冗談とも本気ともつかないその一言。――あんなにも恐ろしい存在を、羨ましいと?
彼はそんな緋馬の動揺など意に介さず、そっと手を合わせた。数珠が、乾いた音を立てる。その所作は、祈りというより、懐かしい友に語りかけるようだ。
「仏田寺にはな、人ならざるものがいた。この山には、この場所には……それが棲んでいたんだ」
掠れた低音で語る横顔に、灯明の光が映る。
目は遠く、過去の景色を見つめている。
「鬼神と呼ばれる存在だ。近くの集落では人ではない怪物だと恐れられていたが、とても美しかった。力を与え、病を癒し、心を導く。……そんな優しい異端。人に害をなすとも言われたが、けれど……仏田寺の鬼は美しく、優しい。……癒しの神だ」
呼吸が止まる。何かを知っているような言い方。
数珠を握り合わせる穏やかな声は、どこか哀しみに濡れている。宗教的な敬意よりも、もっと個人的な温もりが宿った言い方は、あたかも、かつてその鬼と語り合ったことがあるかのようだ。
「……俺も会えるものなら、会いたい」
まるで、懺悔。緋馬は、胸の奥に得体の知れないざわめきを覚えた。
それは恐怖ではなく、もっと深い……引きずり込まれるような共鳴。
「癒し……なわけないじゃないですか」
吐き出す声が震える。喉の奥から零れ落ちたような声になった。
「鬼っていうなら、怪物でしょう。例えば……腕が何本もあるとか、目がいくつもあるとか、そういうものじゃないですか」
それは、知っている形だった。だって見たから。
目を閉じても消えない。あの夜の、焼け焦げた廊下、血の中で蠢いていたそれら。
住職はそんな緋馬の言葉を静かに聞く。僧衣の裾が風に揺れ、彼の横顔が灯明に照らされる。その影は古い仏像のように動かず、静謐。低い声が、墓地の冷気を震わせる。
「……そうだな。鬼神は、何でもできた。腕が何本もあるみたいに万能で、目がいくつもあるように何でも知っていた。……人智を越えた存在だから」
そうじゃない。そういう意味じゃない。けれど声に出せなかった。
声はあまりに穏やかで、口調には信仰の重みがある。彼がこんなことを言うということは……この山で行われている儀式や、あの研究所の連中が呼び起こそうとしている“それ”は、ただの怪物なんかじゃないということになる。
この土地に根付いた、古い神話。住職自身が語り継ぐほどの、由緒ある存在。
彼は灯明の揺らぎを見つめながら、言葉を続けた。
「鬼神は、人を救う存在。人の穢れを喰らい、痛みを取り除く。……代わりに、その身を裂き、血を啜ることもあった」
「そ、その、怪物は……癒しだとか言いますけど、もしその怪物が、人をいっぱい殺すとして……住職さんなら、理由は何だと思いますか?」
冷たい風が吹き抜け、木々の枝が軋む。数珠を指で転がしながら、僧は目を閉じた。
沈黙は、短いようで長かった。緋馬の胸が、鼓動の音を立てて痛いほど鳴る。
彼は、微笑んだ。哀しみの底に沈むような笑みだった。
「……救いかな」
たった一言。凍えるような重みの、一言。
「人を殺すことで、苦しみを終わらせる。穢れを断ち、痛みを喰らう。それが癒しになることもある。鬼神というのは、そういう矛盾を抱えた存在なんだ」
救い。この地で語られる神の、殺意の理由。
やはり、馬鹿げていた。救いのために殺す。痛みを癒すために、血を流す。本末転倒だ。
自分が今ここにいる理由を思い出す。……死にたくなくて来たのだ。あの夜の記憶を否定したくて、焼け焦げた寺の夢を見たくなくて、生き延びたくて、神頼みのために霊園に来た。
それなのに、その神が人を殺すというのなら……。
緋馬は、ぎゅっと拳を握りしめた。爪が手のひらの肉に食い込み、傷む。
(俺は……救われたいんじゃない。生きたいだけだ。……おじさんと)
誰にも信じてもらえない恐怖の中で、願っていることは、ただそれだけ。
「……もし、もしですよ、その……怪物が、鬼神が、本当にいたとして」
灯明の光が墓石を濡らし、白い吐息が震えて散る。
吐息の先に、僧衣の黒がある。静かに数珠を撫でながら、何も言わずに聞いていた。
「……あの寺で、目覚めた神様に会ってしまったとして」
自分でも何を言っているのか分からない。けれど、止められなかった。
言葉を口にすることでしか、心の破裂を防げなかった。
「その、信心深い住職さんには酷な話かもしれないですけど、救われたくない俺は……どうやったら逃げられると思いますか? 生き延びる方法はありますかね? ……俺はただ、生き延びたいです」
自分の口から出た言葉があまりに滑稽で、情けなく思えた。
理屈も現実もない。正気のふりをしている狂人だ。
でも、今だけは笑わないでほしかった。子供の妄言でもいい。義母を失った少年の錯乱でもいい。この夜の恐怖を、誰かが受け止めてくれれば……それだけで良かった。
「神様のごとき尊き存在の行ないを、人が曲げることなど不可能だよ」
声は、哀れみでも怒りでもない。
長い年月を生きて諦めを熟成させた人間の声。
緋馬の胸に、その言葉はゆっくりと沈んでいく。温度を持たない刃のように。
「神様自身が折れてくれる。……そうなることを祈る。人の身にできることなど、それぐらいさ」
絶望という言葉は、あまりに軽い。
逃げられないという現実が、言葉よりも先に身体に染み込んでいく。
(……祈る、だけ? また襲われたら、また殺されるのを待つしかないのか)
神という存在が本当にこの地にいるのなら、きっと人間の祈りなど聞かないのだろう。
助けを乞う声も、血も、涙も。神にとってはただの雑音と塵でしかない。
冬の夜の空気が、痛みのように肌を刺す。
吐息が白く消え、世界が静まり返る。祈りの届かない夜の底で、緋馬は自分の心が折れる音を聞いた。
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リュシアン・ティレルはアルファだが、オメガのフェロモンに気持ち悪くなる欠陥品のアルファ。そのことを周囲に隠しながら生活しているため、異母弟のオメガであるライモントに手ひどい態度をとってしまい、世間からの評判は悪い。
ある日、気分の悪さに逃げ込んだ先で、ひとりの王子につかまる・・・という話です。
ヤリチン伯爵令息は年下わんこに囚われ首輪をつけられる
桃瀬さら
BL
「僕のモノになってください」
首輪を持った少年はレオンに首輪をつけた。
レオンは人に誇れるような人生を送ってはこなかった。だからといって、誰かに狙われるようないわれもない。
ストーカーに悩まされていたレある日、ローブを着た不審な人物に出会う。
逃げるローブの人物を追いかけていると、レオンは気絶させられ誘拐されてしまう。
マルセルと名乗った少年はレオンを閉じ込め、痛めつけるでもなくただ日々を過ごすだけ。
そんな毎日にいつしかレオンは安らぎを覚え、純粋なマルセルに毒されていく。
近づいては離れる猫のようなマルセル×囚われるレオン
【BL】捨てられたSubが甘やかされる話
橘スミレ
BL
渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。
もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。
オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。
ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。
特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。
でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。
理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。
そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!
アルファポリス限定で連載中
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