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幕間2
[37] 幕間2/1 「わたしの中で! わたしのものになって!」
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【幕間2】
/1
陵珊山は、とても冬が冷たかった。風がひとたび吹けば、松の梢が悲鳴を上げ、岩肌を撫でるように雪が舞い上がる。白く閉ざされた谷間には、声ひとつ響かない。鳥も飛ばず、獣の足跡さえ早々に掻き消える。
人の住む地ではない。
けれども、天に近い。
『日本のへそ』とも呼ばれるその中央の山脈は、地脈が交わり、自然の霊力が渦を巻く特異な地だった。
人の祈りが届かぬ代わりに、異界の気配が濃く宿る。それが、人ではないものにとっては、この上なく心地よい住処だった。
夜。風は一段と冷たく、山奥の庵では灯明が揺れていた。
マキョウと名乗る異形の女が、眠る娘ノリコの頬に唇を寄せる。
「かつて我らの神は言った。世界を我らの餌場とすると」
声は囁きのように柔らかく、しかし底には冷えた炎が宿っている。
「生き物は餌。我らの腹を膨らませるためのもの。全てを喰らい、我らは世界の頂点として君臨する。全てを平らげたときこそ、我らは報われる。今はただ、力を貯める時。真の支配者となる日のために」
子守唄のような声だ。夜の静けさに包まれながら、マキョウは娘の髪を撫でる。
指先は優しく、そして不気味に美しい。灯火の影が頬をなぞり、異端の瞳が細められる。母のような眼差しの奥に潜むのは慈しみではなく、支配だった。
庵の隅で、川越は黙ってその光景を見つめていた。手にはまだ筆が握られている。医師としての習慣が指先に染みついているのだろう、眠るとき以外は何かを描き、記し、手を動かしていたはずの男の指が、その瞬間だけ止まっていた。
「……愚かだな」
低く呟いた声は、周囲の空気を削いでいった。
マキョウが顔を上げ、首を傾げる。
「何が愚かだというの?」
冷ややかに川越は笑った。
「お前たち異端の神も、所詮は拠点争いをしているだけ。他者を虐げ、見下し、喰らって、己が頂点に立ちたい……成り立ちが人間と違うというだけで、やっていることは同じだ。……いや、人間より質が悪いか」
「質が悪い?」
灯を見据え、川越は言葉を紡ぐ。
「そうだ。お前たちは理を持たぬ。飢えのままに喰い、欲のままに支配する。人間は愚かだが、祈る。悔いる。赦しを願う。だが鬼はそれを持たないし、持とうともしない。だからこそ滅ぶ」
マキョウは娘の頬を指先で撫でながら、平然と笑う。笑いの端に、冷たい硝子のような光が差している。
「祈りなど、弱者の嗜みね。赦しなど、支配する側には不要の飾り。人間は敗者の理屈を好む。だからお前たちは、いつまでも地を這う」
言葉は微笑の形を取りながらも、背筋を刺すように冷たい。川越は溜め息を吐く。
「お前たちは天に近すぎる。だから地の痛みが分からぬのだ。痛みを糧とすることを、人は成長と呼ぶ。お前たちはただ、喰らうだけだ」
一瞬、マキョウの微笑が翳った。灯明が揺れ、彼女の影が壁に伸びる。角のように尖ったその影が、眠るノリコの顔をゆっくりと覆った。
「喰らい、奪い、憎まれてなお、世界は我らの存在を必要としている。そうでなければ、なぜ天はこの陵珊山を我らに与えた? 我らからすれば、人間たちも戦を起こし、土地を奪い、民を虐げ、血の上に国を築いて秩序を謳っている。人を喰らっているのと、まったく変わりはないと思うのだけれど」
川越は言葉を飲み込んだ。あまりにも正鵠を射ていたからだ。
外では雪がさらに激しさを増し、山の闇がうねり、獣の遠吠えが木霊する。
マキョウは変わらぬ声で、娘の額に指を滑らせる。
「人と鬼の違いなんて、皮を剥げば同じよ。ただ、我らは偽らないだけ」
「偽らないなら、滅びるのも早い」
「滅びるのは、人の方よ。貴方たちは脆い。私がひと噛みすれば、この娘も貴方も簡単に死ぬ。貴方たちのような手の込んだ食事は不要。ただひと噛み。それだけで殺せるし、長くを生きられる。私は成長しない喰らうものだと言ったけれど、どちらが種として優秀か、よく考えてみて」
火の揺らめきが二人の顔を交互に照らし、影を沈ませる。
外の雪は絶え間なく降り続け、やがて全てを覆い隠す。白に呑まれる世界の中で、二つの論が静かに交わり、また凍りついた。
「……お前が私に近づいた理由が、餌として私を喰らうためか」
川越の低い声に、マキョウは微笑んだ。灯明の光がその頬を滑り、妖しく艶めく。
「そうよ。貴方は、私好みの味に違いない。優秀でありながら、苦悩している。人を救えず泣き叫び、同時に人を裁いて愉悦に沈む。……負の感情を好む異端にとって、これほど芳醇な餌がある?」
女の言葉は、まるで愛の告白のように甘やかだった。
「貴方を喰らえば、私は何倍にも大きくなれる。真の姿を得て……人間をすべて平らげるほどの成長を遂げられるかもしれない」
川越は目を細め、唇の端をわずかに歪めた。
「なら、何故すぐ食べない。お前が言ったではないか。ひと噛みで殺せると」
小さく息を笑うマキョウは、娘の髪を撫でた。
「貴方はまだ絶望していないもの。……負の感情は熟成させるほど味が増す。悲しみ、怒り、後悔、嫉妬、それらが煮詰まって濃くなるほど、私は豊かに育つの。貴方が優秀であるほど、堕ちるほどに、私は大きくなる。だから焦らない。貴方の中の腐敗を、時間をかけて熟させる」
灯が揺れ、二人の影が壁に滲む。川越は嘲るように息を吐いた。
「やはり愚かだな。得意げに手の内を明かした以上、私は決してそうはならん」
「そうかしら? 人は皆、己を信じて堕ちるのよ。救いを求めるほど、深く沈む。貴方もいずれそうなる。私を“愚か”と呼びながら、その言葉の意味を最期に噛み締めるのね」
「お前の望むような苦悩は、くれてやらん」
「ふふ……それもまた、いい香り。抗う者ほど、美味しいもの」
川越は黙したまま、筆を滑らした。紙に墨が吸い込まれる音が、庵の静寂に溶ける。
影の中で、マキョウの瞳が赤く閃く。
その光は、獣の眼にも似て――けれどどこか、人間よりもずっと静かで、理性的だった。
冬は長く、雪は絶え間なく降り続けた。
山裾に建つ庵は、風の音と焚き火の爆ぜる音だけで生きていく。
男と、鬼の女と、そして拾われた娘の三人暮らしは、言葉少なに、不自然な均衡の上に成り立っていた。
忌み子として捨てられた娘は、よく笑う子になった。マキョウと手をよく繋いで歩き、川越が書き物をしていると隣に座り、墨の匂いを嗅いでは鼻をくすぐって笑った。
その笑いが響くたびに、庵の空気が少し柔らかくなった。
元はマキョウが、川越を堕とすために拾った捨て子である。哀れな半人半妖の娘を助ける医師の心に、同情と責任、そして情愛が芽生える。それを利用するのが鬼の狙いだった。
だが時を経るごとに、狙いは曖昧になっていった。
純粋に母と父を慕う娘。血の繋がりのない三人が、一つの火を囲んで過ごす夜。娘がはしゃいで転んで膝を擦りむけば、川越は駆け寄り、薬草をすり潰して傷に当てた。「痛むか」と問えば、首を横に振って笑う。その笑顔を見て、マキョウはいつも少しだけ目を伏せた。
足を大事にするため、マキョウはノリコに茶を勧める。川越もまた、マキョウに茶を勧めた、が。
「私が飲めるものは、人の血。私が噛めるのは、人の肉。それぐらいだもの」
そう妖しく笑いながらも、マキョウは茶碗を受け取っていた。
日々は続く。季節が進み、山に光が差す頃には、三人の生活はすっかり家族の形をしていた。
ノリコが母の袖を引き、「お花が咲いたよ」と笑う。
川越が振り返り、その言葉に穏やかに頷く。マキョウは何も言わず、ただその光景を見つめた。拾われた命が、わずかな春の光の中で微笑んでいる。
それは、鬼の理にも、人の理にも属さぬ、あまりにも小さな奇跡だった。
◆
命は、着実に消えかけていた。
人を喰らわなければ生きられない異端。穏やかで歪な家族は、いずれ終わる。
魔鏡の手は、日に日に冷たくなっていった。
いつも男や娘の前では涼しげに笑っていたが、その指は細く、透けるように白くなっていった。
「手が冷たいよ」
ノリコがそう言ったとき、マキョウはすっと唇を曲げて笑った。
「また冬が来たから。鬼にも、寒さは沁みるのよ」
その言葉に川越は言い返せなかった。彼は知っていた。女の身体が衰えている理由を。……数年、人の命を喰らっていないからだった。
囲炉裏の前で、男は思う。
そこにいるのは、死んではほしくない命だ。彼女に死んでほしくはない。川越の力は鬼には効かない。手っ取り早く彼女を救う方法は、食事だ。
しかし、人の命を犠牲にすることは許さなかった。
それでも良いのだと、マキョウは床のつく。
ノリコが、そっとマキョウの膝に頭を乗せる。
「良くないよ。やだよ……死なないで。わたし、いっしょのお布団も、髪を梳いてくれる手も、全部、大好きなのに……」
かつて雪原に置いていかれた少女は、鬼に出会い、生まれて初めて誰かに愛されたと感じた。
「誰でもいい、食べて……元気になって、お願い……死なないで……」
弱った鬼は指を伸ばし、娘の髪をゆっくりと梳いた。かつては艶やかだったその爪も、今は欠け、痛々しいほどに薄い。
「私も貴女を愛しているわ。ノリコ」
マキョウはゆっくりと、川越を見上げる。
「このまま私が死ねば、川越、貴方は後悔する。絶対悲しむわね。だけど……それでも、私に、喰わせないのでしょう? 貴方は、そういう人。そしてきっと、堕ちるわね。私好みの男になる。……私が喰らえないのが、悔しいわ……」
目の前の女は、異端であり、母であり、川越にとって愛しい女になっていた。
人々を守る聖人として、悪しき鬼を餓死させることは正しい。
医者として、死に逝くしかない母を娘と共に看取らせることは正しい。
だが男として、愛する女を殺すことは、許されることではなかった。
その矛盾がなんと美味いのかと、マキョウは笑った。穏やかに。どこまでも愛おしそうに。
呼吸は、次第に浅くなっていった。
寝台に横たわる身体は、まるで蝋。燃え尽きる寸前の蝋燭の芯のように、命の灯火を微かに灯している。
川越は傍に座り込んでいた。ずっと何日も、何十時間も。答えの出ない問いを、胸の内で繰り返していた。
人を喰らう彼女に『相応しい餌』を与え、生かすべきか。それとも自分の信じてきた『人を救う』道を貫くべきか。
目の前の魔鏡は、もはや鬼などではなかった。病に倒れた人間のように、ただ静かに死を待つばかりの女だ。救いたい。心の底から思った。
例えば……近くには、か弱い少女がいた。この少女を食べさせたらどうだろう。
いいや、『人の命を糧に生きる』という鬼の本質だけは、どうしても赦せない。自分に食べさせるためにこの捨て子を拾ってきたとしても、彼女が愛した娘を、どうして餌にできるものか。
マキョウが薄く目を開き、川越を見た。目には恨みも、嘆きもなかった。ただ愛しげな微笑だけだった。
男と女は、決別した。
その静寂を、ノリコの叫びが裂いた。
川越が振り向く。あまりにも悲痛な悲鳴だった。女らしいか細い身体の中に異質な熱が満ちた、恐ろしい慟哭だった。
「どうして見殺しにするの!? わたしは一緒にいたい! 貴方と一緒にいたい! 貴方たちと一緒にいたい! 二人だって、ずっと一緒に生きたいって言ってるのに!」
川越は言葉を失った。
「だったら、わたしが喰ってやる! 全部! わたしの中で! わたしのものになって! わたしといっしょに! ずっと! わたしといて!」
憧れ、愛、救済、歪んだ渇望。
川越が立ち上がるより早く、ノリコはマキョウの腕を取り、肌に歯を立てた。血が滲む。薄くなっていたマキョウの肌が、音を立てて裂ける。
涙を流しながら、微笑みながら、彼女は彼女を喰らい始めた。
マキョウは、抵抗しなかった。細い指が、最後に娘の髪を撫でる。
「ノリコ、愛しているわ。たとえ私がいなくなっても、貴女が生きていくなら」
私はずっと貴方といっしょに。
静かに息を吐いて、彼女は終わった。
川越は絶叫した。駆け寄ったときには、女の胸はもう二度と上下しなかった。
娘の唇は血で染まっていた。その目が川越を真っ直ぐに見つめる。川越の心は、悲鳴と共に軋んだ。愛していた女は娘の口の中で消え、娘は母を喰らうことで生きようとしている。
倫理と愛、医師としての誓いと家族としての情、どれもが地獄のように交錯する。そして愛しき家族が壊れてなお、地獄は続く。
「わたしは全てを継いだの。鬼として。そして、貴方もそうあるべき。貴方だって愛してるでしょう!? 彼女のことも、わたしのことも! だったら……一緒に、食べてよ……」
ノリコの声は歪んでいたが、泣いていた。血に濡れた口元。涙で濡れた頬。目の奥にはどうしようもない愛だけが宿っている。
川越は膝をつく。歪んだ涙に手足が震える。胃がひっくり返るような吐き気が襲う。だが、それ以上に胸が痛んだ。
マキョウの亡骸は、美しい。
死してなお、凛としたその姿はまるで深い眠りについているかのよう。
彼女の頬に手を伸ばす。冷たかった。だが、手が離れなかった。
――私は、医者だ。人の命を守ると誓った。
口の中で言葉が崩れる。もう、それすら意味を成さなかった。
――でも、オレは、君たちを愛してしまったんだ。
目の前でノリコが差し出した指先には、マキョウの一片、愛した女の肉が乗っていた。
「食べて」
罪悪感と絶望と愛情の果てで、川越は指先を取り、口へ運んだ。
鉄のような血の味。温かい涙のような甘さ。不思議な感覚が、舌を満たす。咀嚼するたびに、愛しい声が胸の中に響いた気がした。
「愛しているわ」
声が中から響く。記憶の中の声か、それともノリコを通じた囁きか、判然としない。
だが確かに、肉体の奥で、マキョウが生きている。
ノリコが川越の首に腕を回す。外では春の雪が静かに舞う。その白は、彼らの背徳を静かに包んでいた。
◆
仏田寺は、いつしか病と祈りの場となっていた。
白衣を纏い、人々の命に寄り添い続ける男――橘 川越は、四季の移ろいと共に年を重ね、髪は雪のように白く染まっていた。
彼の手は、今も変わらず温かい。病に苦しむ者の額にそっと触れ、熱を計り、痛みを受けとめる。その姿はまさに救い人そのものであり、民の間では『仏の医師』とまで呼ばれていた。
だがその胸の奥には、消えぬ炎がある。
罪と愛。幾千の命を救おうとも、二人が喰らった罪だけは、彼自身が赦すことを許さなかった。
そんなある日。山奥にそびえる寺の門前に、ひとりの女が現れた。
若く瑞々しく、春の果実のような香りを纏った女。全てを知っているような微笑を浮かべ、川越を見つめている。
「お久しぶりですね」
その声に、川越の心臓が軋んだ。見覚えのない女だが、その目は、声は、気配は、決して忘れられるものではない。
「……その顔は、ノリコ、ではないな」
「ええ。ヒトを三人ほど頂きましたので、ちょっと若返ったんです。似合いますか?」
女は艶やかに微笑む。
瞳は深い闇の奥に紅い火を灯していた。川越は動けなかった。
「あのヒトを喰ったあの日から、わたしはあのヒトの力が使えるようになった。元々、異端でしたの、わたし。だから孤独だった。その傷を癒してくれたあのヒトと同じ力が使えるようになって、わたしはとても幸せ」
「顔はノリコでなくても、君はノリコなんだな」
「そのノリコを、貴方は探そうともしなかった。わたしがいなくなっても、山の上のお寺で他人を見てばっかり。わたしのことを、赦していなかったのですね」
「……赦せるはずがない。だが、それでも……忘れられるはずもなかった」
女――ノリコは、静かに川越へ歩み寄る。
器は成熟した女そのもの。だが動作の一つ一つが、昔の幼さを思わせた。
「あのヒトは、わたしの腹に生きていた。だけどわたし、器を変えてしまった。ヒトを喰らうことで、彼女を食べた体ではなくなってしまったの」
「……そんな当たり前の禁忌に、お前は気付けなかったのか。愚かな娘だ」
「でも、わたしね、どうにかまたいっしょになれないか考えた。ずっと探してたの、手段。あの愛した声を、貴方の優しさを、あの日々をもう一度味わうためにはどうしたらって。ねえ、だから」
「だから?」
「あのヒトを蘇らせましょう! あのヒトが貴方に教えようとしてた秘術を、二人で……いえ、『みんなで、大勢で』探せば絶対に成就できる筈! わたし、また三人でいたい! 何年経っても、何人喰らって代わっても忘れられなかった。それだけ愛しているの! 三人の時間を! ……あのヒトを、再び、絶対に呼び寄せましょう!」
川越の眼差しに、深い痛みが宿った。
姿を消し、姿を変えた彼女は、もはや娘でも、かつての家族でもなかった。だが愛してしまった罪もまた、確かに胸の内にある。
山の寺に風が吹き、娘の願いが反響する。林がざわめき、どこか遠くで鈴の音が……娘を肯定するかのように鳴り始める。
彼は、目を閉じた。同時に心も。
そうして開いた口の先に、姿を変えたノリコは、瞳を細めて微笑む。
その微笑はどこか母に似ていて、また女らしく、男の体へすり寄った。
◆
仏田寺の堂宇は年を経るごとに石のような重厚さを増し、静謐の中に狂気を孕み始めていた。
そこはもはや、単なる病と祈りの場ではなかった。血と契約、呪と法具、禁断の知識が脈打つ異能結社の心臓へと変貌を遂げていた。
中心に立つのは、女。かつて鬼と呼ばれたものの血肉を継ぎ、今やその再来たるべく暗躍する半妖。
「この国の支えるのは優しさや癒しではではないの。圧倒的な強さ、大量の智慧よ。忘れられた神を蘇らせるためには、幾年を超える力が要る」
彼女は川越の人脈を使った。医師として各地を救い、感謝と尊敬を一身に集めてきた男の名声。その名のもとに弟子と称した者たちを集め、結社は姿を変えて肥大していった。
「異能者として生きた者の血脈は、とても都合が良いの。愛された人々は盲目的に私を信じる……貴方が愛されたのだから、当然でしょう?」
彼女はよく笑う。孤独で閉じこもっていた娘だったが、母のおかげで愛嬌の良い美女となった。あの昔、母に抱きついていた面影を宿しながら、何人もの供物を手にすることができるようになっていた。
川越とノリコは間に子をもうけた。その血は人間と異端の狭間にあり、マキョウを受胎する器として幾度も試され、失われていった命も少なくなかった。
川越は人を救いながらも、ただ見ているしかなかった。
愛してしまった。過ちと知りながら、止める術をとうに手放していた。
これは贖罪なのか。あるいは罰か。己の子が次々に命を落としていく様に、彼は祈るしかできなかった。マキョウのおかげで冴えた頭も、授かった医学も法も、娘の悪魔的な意思の前には無力だった。
「貴方は人間。このままだと、あのヒトに会う前に寿命で肉体が死んでしまう。だから……わたしと同じように、肉体を食らって他の人間になるといい。聯合のやり方、教えてあげる。まずはわたしの血を啜って……」
「いいや、そこまでは赦さない。オレは、橘 川越として死ぬよ」
「啜って。そして貴方も生き延びて。でないと、三人での生活が送れない」
「……人間は百年も生きられない。五百年先も無理だ。オレはもう会えないんだよ、彼女に」
「七百年先なら可能性があるというのに!? たった数百年我慢すれば彼女に会えるのよ!? わたしは、会いたい! そのためになら何だってするわ! 貴方だってそうでしょう!? ……わたしだけにしないでッ!!」
小さな子供のような絶叫に、川越は否定できなくなった。
自分は、やりたくない。人を救いたい、人の道を外れたくない。でも、彼女も止めたくない。彼女の望みは美しい、そして激励してしまう。そんな曖昧な想いのまま、年老いていく川越は目を瞑った。
自分が天寿を全うした後……誓いは罪と愛を超えて、呪いへと変わっていくだろう。そして仏田寺は、呪いを胎内に孕んだ巣窟になってしまうだろう。
それが心残りで、最期の最後に、頷いてしまった。
川越が亡くなったのは、静かな冬の朝だった。
最期まで誰かを診ていた。最期まで悪魔に口づけをされながらも、人として逝った。
「貴方の死は、終わりじゃないの。あのヒトを還すための始まりなのよ」
結社の始祖となる偉大な男の死を悼む者たちを、ある若い女が抱きしめて慰めた。その手は温かく、その笑みは美しく、その声は涙を誘った。
そうして彼女は若い女の肉を喰らった。少しずつ。誰にも気づかれぬよう、まるで修行僧の断食のように。
数十年ごとに「孫娘」として姿を変えて寺に現れた。時に、本堂に篭る修行僧の娘。時に、隣町から来た奉仕の若女。何代もの住職たちを「おじいさま」と呼び、信頼を積み上げた。
川越とノリコの子――その血を引く者たちは、代々仏田寺を継いだ。
そしてその裏で彼女は常に『母』として暗躍し、彼らを導き、時に操り、時に潰した。
「仏の顔で生贄を喰らう。どれほど滑稽な喜劇かしら。……でも、きっとあのヒトは喜ぶ。だってあのヒトも人を喰らう異端だったのだから。人間の皮の中で、異端は笑うものよ」
彼女は結社を完成させていく。
病に苦しむ人々に癒しを与え、死にゆく者の力を奪い、絶望する者には新たな種を囁いた。
やがて仏田寺は隠された本殿に『心臓』を祀り始める。それは娘として持ち去った、母の遺骸の一部。そこに多くの血と器を注ぎ込めば、再び異端は形を得ると信じて。
「あと少し。たった数年だけの我慢。もう少しだけ、ここに血肉を注げば――わたしの愛するマキョウが蘇る」
戦争も疫病も飢餓も見届けた。いつの時代も人は弱く、悪魔を呼び込む穴だらけで、絶望した最高の味付けの血肉はいくらでも手に入った。
西暦も2000年が近い頃。
仏田寺の地下には、千年分の血肉を吸いこむ胎蔵が完成していた。
憲子は「仏田寺の表の姿」として大企業となった機関の所員として、再び地上に顔を出す。
愛され、祝福され、信じられながら、その目だけが千年前とまったく同じ闇を宿していた。
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陵珊山は、とても冬が冷たかった。風がひとたび吹けば、松の梢が悲鳴を上げ、岩肌を撫でるように雪が舞い上がる。白く閉ざされた谷間には、声ひとつ響かない。鳥も飛ばず、獣の足跡さえ早々に掻き消える。
人の住む地ではない。
けれども、天に近い。
『日本のへそ』とも呼ばれるその中央の山脈は、地脈が交わり、自然の霊力が渦を巻く特異な地だった。
人の祈りが届かぬ代わりに、異界の気配が濃く宿る。それが、人ではないものにとっては、この上なく心地よい住処だった。
夜。風は一段と冷たく、山奥の庵では灯明が揺れていた。
マキョウと名乗る異形の女が、眠る娘ノリコの頬に唇を寄せる。
「かつて我らの神は言った。世界を我らの餌場とすると」
声は囁きのように柔らかく、しかし底には冷えた炎が宿っている。
「生き物は餌。我らの腹を膨らませるためのもの。全てを喰らい、我らは世界の頂点として君臨する。全てを平らげたときこそ、我らは報われる。今はただ、力を貯める時。真の支配者となる日のために」
子守唄のような声だ。夜の静けさに包まれながら、マキョウは娘の髪を撫でる。
指先は優しく、そして不気味に美しい。灯火の影が頬をなぞり、異端の瞳が細められる。母のような眼差しの奥に潜むのは慈しみではなく、支配だった。
庵の隅で、川越は黙ってその光景を見つめていた。手にはまだ筆が握られている。医師としての習慣が指先に染みついているのだろう、眠るとき以外は何かを描き、記し、手を動かしていたはずの男の指が、その瞬間だけ止まっていた。
「……愚かだな」
低く呟いた声は、周囲の空気を削いでいった。
マキョウが顔を上げ、首を傾げる。
「何が愚かだというの?」
冷ややかに川越は笑った。
「お前たち異端の神も、所詮は拠点争いをしているだけ。他者を虐げ、見下し、喰らって、己が頂点に立ちたい……成り立ちが人間と違うというだけで、やっていることは同じだ。……いや、人間より質が悪いか」
「質が悪い?」
灯を見据え、川越は言葉を紡ぐ。
「そうだ。お前たちは理を持たぬ。飢えのままに喰い、欲のままに支配する。人間は愚かだが、祈る。悔いる。赦しを願う。だが鬼はそれを持たないし、持とうともしない。だからこそ滅ぶ」
マキョウは娘の頬を指先で撫でながら、平然と笑う。笑いの端に、冷たい硝子のような光が差している。
「祈りなど、弱者の嗜みね。赦しなど、支配する側には不要の飾り。人間は敗者の理屈を好む。だからお前たちは、いつまでも地を這う」
言葉は微笑の形を取りながらも、背筋を刺すように冷たい。川越は溜め息を吐く。
「お前たちは天に近すぎる。だから地の痛みが分からぬのだ。痛みを糧とすることを、人は成長と呼ぶ。お前たちはただ、喰らうだけだ」
一瞬、マキョウの微笑が翳った。灯明が揺れ、彼女の影が壁に伸びる。角のように尖ったその影が、眠るノリコの顔をゆっくりと覆った。
「喰らい、奪い、憎まれてなお、世界は我らの存在を必要としている。そうでなければ、なぜ天はこの陵珊山を我らに与えた? 我らからすれば、人間たちも戦を起こし、土地を奪い、民を虐げ、血の上に国を築いて秩序を謳っている。人を喰らっているのと、まったく変わりはないと思うのだけれど」
川越は言葉を飲み込んだ。あまりにも正鵠を射ていたからだ。
外では雪がさらに激しさを増し、山の闇がうねり、獣の遠吠えが木霊する。
マキョウは変わらぬ声で、娘の額に指を滑らせる。
「人と鬼の違いなんて、皮を剥げば同じよ。ただ、我らは偽らないだけ」
「偽らないなら、滅びるのも早い」
「滅びるのは、人の方よ。貴方たちは脆い。私がひと噛みすれば、この娘も貴方も簡単に死ぬ。貴方たちのような手の込んだ食事は不要。ただひと噛み。それだけで殺せるし、長くを生きられる。私は成長しない喰らうものだと言ったけれど、どちらが種として優秀か、よく考えてみて」
火の揺らめきが二人の顔を交互に照らし、影を沈ませる。
外の雪は絶え間なく降り続け、やがて全てを覆い隠す。白に呑まれる世界の中で、二つの論が静かに交わり、また凍りついた。
「……お前が私に近づいた理由が、餌として私を喰らうためか」
川越の低い声に、マキョウは微笑んだ。灯明の光がその頬を滑り、妖しく艶めく。
「そうよ。貴方は、私好みの味に違いない。優秀でありながら、苦悩している。人を救えず泣き叫び、同時に人を裁いて愉悦に沈む。……負の感情を好む異端にとって、これほど芳醇な餌がある?」
女の言葉は、まるで愛の告白のように甘やかだった。
「貴方を喰らえば、私は何倍にも大きくなれる。真の姿を得て……人間をすべて平らげるほどの成長を遂げられるかもしれない」
川越は目を細め、唇の端をわずかに歪めた。
「なら、何故すぐ食べない。お前が言ったではないか。ひと噛みで殺せると」
小さく息を笑うマキョウは、娘の髪を撫でた。
「貴方はまだ絶望していないもの。……負の感情は熟成させるほど味が増す。悲しみ、怒り、後悔、嫉妬、それらが煮詰まって濃くなるほど、私は豊かに育つの。貴方が優秀であるほど、堕ちるほどに、私は大きくなる。だから焦らない。貴方の中の腐敗を、時間をかけて熟させる」
灯が揺れ、二人の影が壁に滲む。川越は嘲るように息を吐いた。
「やはり愚かだな。得意げに手の内を明かした以上、私は決してそうはならん」
「そうかしら? 人は皆、己を信じて堕ちるのよ。救いを求めるほど、深く沈む。貴方もいずれそうなる。私を“愚か”と呼びながら、その言葉の意味を最期に噛み締めるのね」
「お前の望むような苦悩は、くれてやらん」
「ふふ……それもまた、いい香り。抗う者ほど、美味しいもの」
川越は黙したまま、筆を滑らした。紙に墨が吸い込まれる音が、庵の静寂に溶ける。
影の中で、マキョウの瞳が赤く閃く。
その光は、獣の眼にも似て――けれどどこか、人間よりもずっと静かで、理性的だった。
冬は長く、雪は絶え間なく降り続けた。
山裾に建つ庵は、風の音と焚き火の爆ぜる音だけで生きていく。
男と、鬼の女と、そして拾われた娘の三人暮らしは、言葉少なに、不自然な均衡の上に成り立っていた。
忌み子として捨てられた娘は、よく笑う子になった。マキョウと手をよく繋いで歩き、川越が書き物をしていると隣に座り、墨の匂いを嗅いでは鼻をくすぐって笑った。
その笑いが響くたびに、庵の空気が少し柔らかくなった。
元はマキョウが、川越を堕とすために拾った捨て子である。哀れな半人半妖の娘を助ける医師の心に、同情と責任、そして情愛が芽生える。それを利用するのが鬼の狙いだった。
だが時を経るごとに、狙いは曖昧になっていった。
純粋に母と父を慕う娘。血の繋がりのない三人が、一つの火を囲んで過ごす夜。娘がはしゃいで転んで膝を擦りむけば、川越は駆け寄り、薬草をすり潰して傷に当てた。「痛むか」と問えば、首を横に振って笑う。その笑顔を見て、マキョウはいつも少しだけ目を伏せた。
足を大事にするため、マキョウはノリコに茶を勧める。川越もまた、マキョウに茶を勧めた、が。
「私が飲めるものは、人の血。私が噛めるのは、人の肉。それぐらいだもの」
そう妖しく笑いながらも、マキョウは茶碗を受け取っていた。
日々は続く。季節が進み、山に光が差す頃には、三人の生活はすっかり家族の形をしていた。
ノリコが母の袖を引き、「お花が咲いたよ」と笑う。
川越が振り返り、その言葉に穏やかに頷く。マキョウは何も言わず、ただその光景を見つめた。拾われた命が、わずかな春の光の中で微笑んでいる。
それは、鬼の理にも、人の理にも属さぬ、あまりにも小さな奇跡だった。
◆
命は、着実に消えかけていた。
人を喰らわなければ生きられない異端。穏やかで歪な家族は、いずれ終わる。
魔鏡の手は、日に日に冷たくなっていった。
いつも男や娘の前では涼しげに笑っていたが、その指は細く、透けるように白くなっていった。
「手が冷たいよ」
ノリコがそう言ったとき、マキョウはすっと唇を曲げて笑った。
「また冬が来たから。鬼にも、寒さは沁みるのよ」
その言葉に川越は言い返せなかった。彼は知っていた。女の身体が衰えている理由を。……数年、人の命を喰らっていないからだった。
囲炉裏の前で、男は思う。
そこにいるのは、死んではほしくない命だ。彼女に死んでほしくはない。川越の力は鬼には効かない。手っ取り早く彼女を救う方法は、食事だ。
しかし、人の命を犠牲にすることは許さなかった。
それでも良いのだと、マキョウは床のつく。
ノリコが、そっとマキョウの膝に頭を乗せる。
「良くないよ。やだよ……死なないで。わたし、いっしょのお布団も、髪を梳いてくれる手も、全部、大好きなのに……」
かつて雪原に置いていかれた少女は、鬼に出会い、生まれて初めて誰かに愛されたと感じた。
「誰でもいい、食べて……元気になって、お願い……死なないで……」
弱った鬼は指を伸ばし、娘の髪をゆっくりと梳いた。かつては艶やかだったその爪も、今は欠け、痛々しいほどに薄い。
「私も貴女を愛しているわ。ノリコ」
マキョウはゆっくりと、川越を見上げる。
「このまま私が死ねば、川越、貴方は後悔する。絶対悲しむわね。だけど……それでも、私に、喰わせないのでしょう? 貴方は、そういう人。そしてきっと、堕ちるわね。私好みの男になる。……私が喰らえないのが、悔しいわ……」
目の前の女は、異端であり、母であり、川越にとって愛しい女になっていた。
人々を守る聖人として、悪しき鬼を餓死させることは正しい。
医者として、死に逝くしかない母を娘と共に看取らせることは正しい。
だが男として、愛する女を殺すことは、許されることではなかった。
その矛盾がなんと美味いのかと、マキョウは笑った。穏やかに。どこまでも愛おしそうに。
呼吸は、次第に浅くなっていった。
寝台に横たわる身体は、まるで蝋。燃え尽きる寸前の蝋燭の芯のように、命の灯火を微かに灯している。
川越は傍に座り込んでいた。ずっと何日も、何十時間も。答えの出ない問いを、胸の内で繰り返していた。
人を喰らう彼女に『相応しい餌』を与え、生かすべきか。それとも自分の信じてきた『人を救う』道を貫くべきか。
目の前の魔鏡は、もはや鬼などではなかった。病に倒れた人間のように、ただ静かに死を待つばかりの女だ。救いたい。心の底から思った。
例えば……近くには、か弱い少女がいた。この少女を食べさせたらどうだろう。
いいや、『人の命を糧に生きる』という鬼の本質だけは、どうしても赦せない。自分に食べさせるためにこの捨て子を拾ってきたとしても、彼女が愛した娘を、どうして餌にできるものか。
マキョウが薄く目を開き、川越を見た。目には恨みも、嘆きもなかった。ただ愛しげな微笑だけだった。
男と女は、決別した。
その静寂を、ノリコの叫びが裂いた。
川越が振り向く。あまりにも悲痛な悲鳴だった。女らしいか細い身体の中に異質な熱が満ちた、恐ろしい慟哭だった。
「どうして見殺しにするの!? わたしは一緒にいたい! 貴方と一緒にいたい! 貴方たちと一緒にいたい! 二人だって、ずっと一緒に生きたいって言ってるのに!」
川越は言葉を失った。
「だったら、わたしが喰ってやる! 全部! わたしの中で! わたしのものになって! わたしといっしょに! ずっと! わたしといて!」
憧れ、愛、救済、歪んだ渇望。
川越が立ち上がるより早く、ノリコはマキョウの腕を取り、肌に歯を立てた。血が滲む。薄くなっていたマキョウの肌が、音を立てて裂ける。
涙を流しながら、微笑みながら、彼女は彼女を喰らい始めた。
マキョウは、抵抗しなかった。細い指が、最後に娘の髪を撫でる。
「ノリコ、愛しているわ。たとえ私がいなくなっても、貴女が生きていくなら」
私はずっと貴方といっしょに。
静かに息を吐いて、彼女は終わった。
川越は絶叫した。駆け寄ったときには、女の胸はもう二度と上下しなかった。
娘の唇は血で染まっていた。その目が川越を真っ直ぐに見つめる。川越の心は、悲鳴と共に軋んだ。愛していた女は娘の口の中で消え、娘は母を喰らうことで生きようとしている。
倫理と愛、医師としての誓いと家族としての情、どれもが地獄のように交錯する。そして愛しき家族が壊れてなお、地獄は続く。
「わたしは全てを継いだの。鬼として。そして、貴方もそうあるべき。貴方だって愛してるでしょう!? 彼女のことも、わたしのことも! だったら……一緒に、食べてよ……」
ノリコの声は歪んでいたが、泣いていた。血に濡れた口元。涙で濡れた頬。目の奥にはどうしようもない愛だけが宿っている。
川越は膝をつく。歪んだ涙に手足が震える。胃がひっくり返るような吐き気が襲う。だが、それ以上に胸が痛んだ。
マキョウの亡骸は、美しい。
死してなお、凛としたその姿はまるで深い眠りについているかのよう。
彼女の頬に手を伸ばす。冷たかった。だが、手が離れなかった。
――私は、医者だ。人の命を守ると誓った。
口の中で言葉が崩れる。もう、それすら意味を成さなかった。
――でも、オレは、君たちを愛してしまったんだ。
目の前でノリコが差し出した指先には、マキョウの一片、愛した女の肉が乗っていた。
「食べて」
罪悪感と絶望と愛情の果てで、川越は指先を取り、口へ運んだ。
鉄のような血の味。温かい涙のような甘さ。不思議な感覚が、舌を満たす。咀嚼するたびに、愛しい声が胸の中に響いた気がした。
「愛しているわ」
声が中から響く。記憶の中の声か、それともノリコを通じた囁きか、判然としない。
だが確かに、肉体の奥で、マキョウが生きている。
ノリコが川越の首に腕を回す。外では春の雪が静かに舞う。その白は、彼らの背徳を静かに包んでいた。
◆
仏田寺は、いつしか病と祈りの場となっていた。
白衣を纏い、人々の命に寄り添い続ける男――橘 川越は、四季の移ろいと共に年を重ね、髪は雪のように白く染まっていた。
彼の手は、今も変わらず温かい。病に苦しむ者の額にそっと触れ、熱を計り、痛みを受けとめる。その姿はまさに救い人そのものであり、民の間では『仏の医師』とまで呼ばれていた。
だがその胸の奥には、消えぬ炎がある。
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「……赦せるはずがない。だが、それでも……忘れられるはずもなかった」
女――ノリコは、静かに川越へ歩み寄る。
器は成熟した女そのもの。だが動作の一つ一つが、昔の幼さを思わせた。
「あのヒトは、わたしの腹に生きていた。だけどわたし、器を変えてしまった。ヒトを喰らうことで、彼女を食べた体ではなくなってしまったの」
「……そんな当たり前の禁忌に、お前は気付けなかったのか。愚かな娘だ」
「でも、わたしね、どうにかまたいっしょになれないか考えた。ずっと探してたの、手段。あの愛した声を、貴方の優しさを、あの日々をもう一度味わうためにはどうしたらって。ねえ、だから」
「だから?」
「あのヒトを蘇らせましょう! あのヒトが貴方に教えようとしてた秘術を、二人で……いえ、『みんなで、大勢で』探せば絶対に成就できる筈! わたし、また三人でいたい! 何年経っても、何人喰らって代わっても忘れられなかった。それだけ愛しているの! 三人の時間を! ……あのヒトを、再び、絶対に呼び寄せましょう!」
川越の眼差しに、深い痛みが宿った。
姿を消し、姿を変えた彼女は、もはや娘でも、かつての家族でもなかった。だが愛してしまった罪もまた、確かに胸の内にある。
山の寺に風が吹き、娘の願いが反響する。林がざわめき、どこか遠くで鈴の音が……娘を肯定するかのように鳴り始める。
彼は、目を閉じた。同時に心も。
そうして開いた口の先に、姿を変えたノリコは、瞳を細めて微笑む。
その微笑はどこか母に似ていて、また女らしく、男の体へすり寄った。
◆
仏田寺の堂宇は年を経るごとに石のような重厚さを増し、静謐の中に狂気を孕み始めていた。
そこはもはや、単なる病と祈りの場ではなかった。血と契約、呪と法具、禁断の知識が脈打つ異能結社の心臓へと変貌を遂げていた。
中心に立つのは、女。かつて鬼と呼ばれたものの血肉を継ぎ、今やその再来たるべく暗躍する半妖。
「この国の支えるのは優しさや癒しではではないの。圧倒的な強さ、大量の智慧よ。忘れられた神を蘇らせるためには、幾年を超える力が要る」
彼女は川越の人脈を使った。医師として各地を救い、感謝と尊敬を一身に集めてきた男の名声。その名のもとに弟子と称した者たちを集め、結社は姿を変えて肥大していった。
「異能者として生きた者の血脈は、とても都合が良いの。愛された人々は盲目的に私を信じる……貴方が愛されたのだから、当然でしょう?」
彼女はよく笑う。孤独で閉じこもっていた娘だったが、母のおかげで愛嬌の良い美女となった。あの昔、母に抱きついていた面影を宿しながら、何人もの供物を手にすることができるようになっていた。
川越とノリコは間に子をもうけた。その血は人間と異端の狭間にあり、マキョウを受胎する器として幾度も試され、失われていった命も少なくなかった。
川越は人を救いながらも、ただ見ているしかなかった。
愛してしまった。過ちと知りながら、止める術をとうに手放していた。
これは贖罪なのか。あるいは罰か。己の子が次々に命を落としていく様に、彼は祈るしかできなかった。マキョウのおかげで冴えた頭も、授かった医学も法も、娘の悪魔的な意思の前には無力だった。
「貴方は人間。このままだと、あのヒトに会う前に寿命で肉体が死んでしまう。だから……わたしと同じように、肉体を食らって他の人間になるといい。聯合のやり方、教えてあげる。まずはわたしの血を啜って……」
「いいや、そこまでは赦さない。オレは、橘 川越として死ぬよ」
「啜って。そして貴方も生き延びて。でないと、三人での生活が送れない」
「……人間は百年も生きられない。五百年先も無理だ。オレはもう会えないんだよ、彼女に」
「七百年先なら可能性があるというのに!? たった数百年我慢すれば彼女に会えるのよ!? わたしは、会いたい! そのためになら何だってするわ! 貴方だってそうでしょう!? ……わたしだけにしないでッ!!」
小さな子供のような絶叫に、川越は否定できなくなった。
自分は、やりたくない。人を救いたい、人の道を外れたくない。でも、彼女も止めたくない。彼女の望みは美しい、そして激励してしまう。そんな曖昧な想いのまま、年老いていく川越は目を瞑った。
自分が天寿を全うした後……誓いは罪と愛を超えて、呪いへと変わっていくだろう。そして仏田寺は、呪いを胎内に孕んだ巣窟になってしまうだろう。
それが心残りで、最期の最後に、頷いてしまった。
川越が亡くなったのは、静かな冬の朝だった。
最期まで誰かを診ていた。最期まで悪魔に口づけをされながらも、人として逝った。
「貴方の死は、終わりじゃないの。あのヒトを還すための始まりなのよ」
結社の始祖となる偉大な男の死を悼む者たちを、ある若い女が抱きしめて慰めた。その手は温かく、その笑みは美しく、その声は涙を誘った。
そうして彼女は若い女の肉を喰らった。少しずつ。誰にも気づかれぬよう、まるで修行僧の断食のように。
数十年ごとに「孫娘」として姿を変えて寺に現れた。時に、本堂に篭る修行僧の娘。時に、隣町から来た奉仕の若女。何代もの住職たちを「おじいさま」と呼び、信頼を積み上げた。
川越とノリコの子――その血を引く者たちは、代々仏田寺を継いだ。
そしてその裏で彼女は常に『母』として暗躍し、彼らを導き、時に操り、時に潰した。
「仏の顔で生贄を喰らう。どれほど滑稽な喜劇かしら。……でも、きっとあのヒトは喜ぶ。だってあのヒトも人を喰らう異端だったのだから。人間の皮の中で、異端は笑うものよ」
彼女は結社を完成させていく。
病に苦しむ人々に癒しを与え、死にゆく者の力を奪い、絶望する者には新たな種を囁いた。
やがて仏田寺は隠された本殿に『心臓』を祀り始める。それは娘として持ち去った、母の遺骸の一部。そこに多くの血と器を注ぎ込めば、再び異端は形を得ると信じて。
「あと少し。たった数年だけの我慢。もう少しだけ、ここに血肉を注げば――わたしの愛するマキョウが蘇る」
戦争も疫病も飢餓も見届けた。いつの時代も人は弱く、悪魔を呼び込む穴だらけで、絶望した最高の味付けの血肉はいくらでも手に入った。
西暦も2000年が近い頃。
仏田寺の地下には、千年分の血肉を吸いこむ胎蔵が完成していた。
憲子は「仏田寺の表の姿」として大企業となった機関の所員として、再び地上に顔を出す。
愛され、祝福され、信じられながら、その目だけが千年前とまったく同じ闇を宿していた。
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