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第3部
[48] 3部2章/5 「誰が、僕を慰めてくれる?」
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【3部2章】
/5
光緑に降りかかる教育は、あの夜を境に姿を変えた。
修行とは言えぬ名ばかりの奉仕であり、取引となる時間。来賓の席にて白絹の衣に包まれた姿は、人としてではなく「奇跡の器」として扱われていた。
拒む権利はない。その力……触れたものの血を巡らせ、病を癒やし、時に老いさえ和らげる力が、金と権力のため、売られていく。
――政財界を牛耳る大財閥の頭領が、永遠の命を求めてその体を求めた。
不老不死を授けるほどの力こそなかったが、老人の肌は一夜にして若返り、彼は確信した。「神を抱いた」と。
その後も幾度となく光緑を呼び寄せ、貪るようにその力を求めた。
――国外の富豪にも名が届いた。
かつて戦争で負った癒えぬ傷を、光緑の唇が一度の口づけで消した。皮膚が若葉のように再び息づき、富豪は歓喜した。彼は約束の何倍もの札束を置いて去り、仏田家の金庫はさらに満たされた。
――有名宗教団体の教祖もまた、光緑を買った。
交わりの直後、「神の声を聞いた」と叫び、異能の啓示を得たと狂信した。以来、その教団は新たな教義として仏田家を崇め、幹部たちは力欲しさに寺を訪れ、次々と光緑を抱き回した。
――政を司る男もまた、その名を求めた。
退官したばかりの官僚上がりの大臣。彼は光緑に触れたのち、数日のうちに驚異的な威勢を得て、政界で再び脚光を浴びる。仏田家はその恩を売り、さらなる権力の座を手にした。
光緑は、もはや一人の人間ではない。奇跡を与える代償として、彼は少しずつ神の道具へと変えられていった。
当主・和光は、その変化に微塵の痛みも感じなかった。息子の体が生む富と繋がりは、彼の想像を超え、仏田家をこの国の奥底に根づかせていった。
だがその繁栄の底で、光緑という名の少年は――ひとり、静かに朽ちていった。
拒むことを許されず、逃げることも叶わない日々の中で、擦り切れていく。
命令と沈黙だけが往来する廊下を、彼は人形のように歩く。暴力を躊躇しない父とその部下たちが、力づくで光緑の体を従わせる。もし傷を負うほどのことをされても、父の言葉は鉄のように冷たかった。
「早く治せ。血を無駄にするな。商売ができんだろうが」
当主の声に逆らえば、また痛めつけられる。光緑の体は、もはや彼自身のものではなくなっていた。
それでも、自由を与えられるとき光緑は頼道の部屋を訪れた。足音を殺し、息を潜めて。
戸口に立つ光緑は、どこか別の世界にいるような目をしている。焦点の定まらない瞳。微かに揺れる肩。
頼道は、そっとその身体を抱き寄せる。掛ける言葉が無い。ただ、抱きしめることしかできなかった。
――藤春と柳翠は、連れ去られたまま戻らなかった。
頼道が何度訴えても、返ってくるのは決まり文句のような説明だけだった。
「治療のため、機関の施設で引き取る」
それ以上は語られない。誰が、どこで、どのように、その全てが闇の中に沈んでいた。
もし本当に、言葉どおりの治療や教育が施されているのなら、何も言うまい。
だが、この数年で頼道は痛いほど知ってしまった。仏田家の教育とは、慈しみではなく矯正の名を借りた破壊だということを。
まだ十歳ほどの藤春が、どんなに怯えながら兄を呼んでいたか。
ようやくひとりで外を駆け回れるようになった柳翠が、どれほどの恐怖に晒されているのか。
光緑を安心させる言葉を、頼道はどうしても告げられない。言葉無く光緑の体を撫でるしかなかった。
「……僕が、東京で増やした……眷属を……売り物にするって、森田さんが言ってて……」
その夜の声は、喉の奥から絞り出されるように震えていた。
頼道は一瞬、意味が分からなかった。眷属。その言葉が、まるで呪いのように耳に響く。
「僕が、血を吸って……鬼にしてしまった人たち……あれを、金にする計画を始めるって。僕の血が、もしかしたら……藤春たちの血が、悪用される。人を、人じゃなくする道具として、使われるかもしれない」
光緑の目から、涙が零れ落ちた。
「そんなの、やっちゃいけない……母上は、そんな使われ方をさせないようにって戒めてきたのに……」
頼道が小刻みに触れる体へ手を伸ばそうとすると、光緑は、自分の両手を胸に押し当てた。
「……僕が、外に出たいって言ったから……こんなことになったの?」
声には、ただ自らを罰する響きがあった。
「僕の力、誰かのためになったらって……そう思ったから……こんなに、求められることになったの? 僕のせいで……」
言葉の途中で、光緑の喉が震えた。頬を伝った涙が、膝の上でひと粒、ふた粒と弾ける。
その雫が畳に滲む音が、静寂の中で痛いほど鮮やかに響いた。
「光緑のせいなんかじゃない!」
迷いなく抱きしめ、叫ぶ。それは慰めでも理屈でもなく、胸の奥底から絞り出した叫びだった。
――外の世界へ連れ出したのは、頼道自身だ。奥座敷に閉じ込められ、庭の外さえ知らなかった少年に、風の匂いを教えてやりたかった。あのとき、それが自分にできる唯一の正義だと思っていた。
霜月の村へ行こうと願ったのも、都会へ連れて行きたいと願ったのも、全ては頼道の手引き。
閉ざされた日々から抜け出し、空を仰ぎたい。誰かの痛みを癒したい――そんな純粋な願いを、どうして咎めることができよう。
どんな歪な因果が後に訪れようと、それを光緑の罪と呼んではならない。
「霜月に行ったことも、上野に行ったことも……全部、俺が仕組んだことだ。光緑と、一緒にいたかった。だから……どうか、自分を責めないでくれ」
言葉の奥に、血を吐くような悔恨が滲む。
霜月である男に出会ってしまったこと、上野である女と出会ってしまったこと、それが歪みの原因など、頼道には言い切れない。
腕の中の光緑を、頼道は壊さぬよう抱き続けた。胸元で震える体が、泣きながら呼吸している。その温もりがどれほど傷つき、どれほど怯えてきたのか、もう数えきれない。
守ると誓った。けれど、守るたびに何かを奪ってきた気がする。腕の中にある命が、掌の熱で消えてしまいそうで、頼道は抱き締める以外できない。
問いは喉の奥で凍りつき、答えは一つも浮かばない。互いの息づかいだけが、崩れかけた夜の中で確かな現実として残っていた。
「光緑様、お勤めの刻が参りました」
冷ややかな声が、頼道の部屋の外から響く。
廊下から聞こえる死の宣告のような声に、光緑の肩がびくりと震え、頼道の胸にしがみついた。
細い指が衣を掴む。爪が布を裂きそうなほどに強く。頼道の胸元に、押し殺した嗚咽がかすかに震える。
――嫌だ、行きたくない。
その囁きは、頼道にしか届かないほど微かなものだった。声を殺しても、涙は止まらなかった。震える身体が、頼道の腕の中で小刻みに波打つ。
頼道もまた、胸の奥で同じ言葉を呟いていた。
――行かせたくない。
だが、現当主の命令には誰も逆らえない。
寺に仕える者たちは、己の恐怖と忠誠に縛られていた。誰もが光緑の境遇を知っていた。それでも、誰も止めようとしなかった。皆が、見て見ぬふりをした。
――助けたい。今すぐにでも、この腕を掴んで山から逃げ出したい。今すぐにでも、この腕を掴んで山を駆け下りたい。
だがその先に待つのは、救いではなく地獄だ。逃げる術もない。行く宛もない。
そして何より光緑がいなくなれば、残された藤春や柳翠がどうなるか……その報復がどれほど非道なものになるか、頼道は知っていた。
光緑もまた、それを理解していた。自らを犠牲にすることでしか、弟たちを守れない。その理不尽を、覚悟していた。
光緑は、ゆっくりと頼道の胸から離れていく。涙に濡れた顔を上げ、無理に微笑もうとする。
「……行ってくるね……」
泣きながらも真っ直ぐな声に、頼道の胸を鋭く貫いた。
止めたいのに、声が出なかった。伸ばした指先は空を掠めただけで、彼の袖にすら触れられない。
足音が遠ざかるたび、頼道の心臓が沈んでいった。その一歩ごとに、光緑の運命が削られていく。頼道は膝を折り、唇を噛み、祈ることしかできなかった。
――どうか、もうこれ以上、彼を壊さないでくれ。
その祈りさえ、誰にも届かないことを知りながら。
◆
真冬の名残がまだ空気に滲む、夕暮れの刻だった。
仏田寺の本堂裏。普段はほとんど使われることのない客間に、頼道は呼び出されていた。
畳の上に射す夕陽は薄く、障子の外の山影が橙に沈んでいる。部屋の中央、灯の届かぬ座に、父――仏田寺住職・犬伏依貞が静かに座していた。
かつての父は、穏やかで快活な人だった。冗談を言い、笑いながら茶を啜るような人情味のある男。その面影は、いまや跡形もない。
背筋を伸ばし、眉ひとつ動かさず、仏像のように冷たく沈黙していた。
「来月から、本山の宗教学校へ入れ。手続きは既に済ませてある」
言葉には決定の重みだけがあり、情の余白は一つもなかった。
「……俺は、いずれ僧侶になるために修行をしていた。けど、なんで今、外に出ろなんて言うんだ? しかも、こんな急に」
問いに、父は目を伏せた。
指が動く。脇に置かれた分厚い書類の束を、無言で頼道に差し出した。
「受け入れは確定している。光緑様の御政道が進む中、お前の進路も明確に定めねばならん」
瞬間、頼道は悟った。
これは教育ではない。追放だ。
藤春や柳翠の所在を知りたいと、幾度も訴えたこと。光緑の苦境を前に、上層部の非を正面から咎めたこと。それら全てが『仏田家の方針に背いた者』として帳簿に記され、粛々と処理されたのだ。
胸の奥に、じくじくとした熱が滲む。
「……どうしてだよ」
理性で抑えていた声が、勝手に飛び出す。
「どうして!? なんで父さんは助けてくれない!? 俺は……俺は光緑を、あの地獄から引きずり出したいだけだ! 藤春も、柳翠も……! あんな小さな子らが、あんな場所で……!」
叫びが天井を打った。木造の梁が震え、火が揺れる。
しかし依貞の顔色は、一片たりとも動かない。動作は長年の修行で磨かれた所作のように静かで、無駄がなかった。
「頼道。今の仏田家が何を為そうと、それは彼らの業。我らの使命は、封印を守るだけだ。お前が口出しし、何かあれば、寺は滅ぶ。我らは誰の味方でもない。……仏田家が真に堕ちたときが我らは動かなければならぬ」
風が岩を撫でるように、感情を含まない音。言葉に情のかけらもない。
「そんな理屈で……! あれが、まだ堕ちてないだと!? 理屈じゃねぇ、あいつらは生きてるんだ! 苦しんでるんだ! 誰かが手を伸ばさなきゃ……!」
頼道の声が割れた。拳を握り、震える声で叫ぶ。
「お前が差し出す手は、救いではなく、火種だ。そして……真の火は、お前が止めなければならぬ」
依貞は、人を救うよりも秩序を守ることを選んだ目をしていた。
永い年月を経て磨かれた、均衡の冷たさが宿っている。
「見捨てるのかよ……あの兄弟を……!」
「もう一度言う、頼道、聞け。我らの使命は、封印を守ることだ」
「……もう、決まってるんだな」
「そうだ。本山には既に推薦状を送ってある。七年、鍛錬に励め。いずれ、この寺に戻る日もあるだろう。……だが、今ではない」
七年。今ではない。その言葉が、何よりも深く突き刺さる。
つまり――この寺に、今この瞬間、頼道の居場所は無いということ。
頼道は、書類に手を伸ばす。指先が紙に触れる寸前で止まり、拳へと変わる。
(俺は、ただ……守りたいだけなのに)
――俺は、ただ守りたかっただけなのに。
藤春が苦しんでいた。柳翠が泣いていた。光緑は、二人を救うために声を上げた。それを見て、ただ傍に立った。それだけのことだったのに。
「頼道には、守ってもらわなければならない物がある」
「……それは、伝統?」
「それもある。この家は、新しい風に揺れている。揺らしてはならない物を我らは守っている。頼道、お前は、聡明でなければならない。気を強く持つため、鍛錬に励みなさい」
父なりの慰めだと思えた。突き刺さる優しさに、深く頭を下げる。
だが頭を下げながらも、胸の奥のどこかで非難したくて、誰かの泣き声が空耳として聞こえた。
それが藤春と柳翠のものだったのか、光緑のものだったのか。あるいは、自分自身のものだったのか。もう、分からなかった。
◆
冬の大雨が、静かに屋根を叩いていた。しとしとと続く雨脚が、まるで寺全体を包み込む。
頼道の部屋には、大きな荷包みが置かれている。身の回りのものは少ない。だが、どうしても持っていかなければならないものがあった。
かつて、あの子どもたちと囲んで描いた落書き。
藤春の、濃淡を考えながら引かれた慎重な線。柳翠の、兄の筆を真似て描いた拙く幼い線。その上には、当時の笑い声までもが残っているようだった。
指先が震え、紙の端をなぞる。何も言わずにそれを折りたたみ、懐へとそっと仕舞った。
そのとき、戸が音もなく開いた。
振り返らずとも分かった。気配だけで、それが誰なのか心が即座に応えた。
光緑だった。
畳に足音を落とさぬよう、静かに立っている。目には焦点が無い。魂が置き去りにされたような虚ろな瞳。そこに立つだけで、部屋の空気が震えた。
頼道は、背を向けたまま言葉を探す。
この別れを、直視させるべきではないと思った。
彼の中に、残酷な現実として刻みたくはなかった。
「七年ほど、勉学に励んでくる。霜月でも上野でも、時はあっという間だった。終わって戻る頃には、光緑も一人前だ。……当主にだってなれるさ。だから大人しく、父さんの指示にでも従って……」
言い切る前に、背中に重みがのしかかった。
光緑が、無言のまま頼道の背にしがみついていた。
細い腕が必死に伸ばされ、額が肩甲骨に触れる。震えと熱が、頼道の背を伝って滲み込んでいく。
「……頼道がいなくなったら……」
掠れた声が、背中で震えた。
「誰が……藤春と柳翠を庇ってくれるんだ……。誰が、僕を慰めてくれる?」
声が小刻みに崩れていく。嗚咽が混じり、言葉の形を失っていく。その一音ごとに、頼道の胸が裂けるように痛んだ。
肩が震えるたび、光緑の息が衣を濡らす。その涙の重さが、頼道の決意を何度も揺らがせた。
「……叔父上の事務所にいたとき。東京で、毎日あの女に詰められていたとき……お前がいてくれたから、どうにか、どうにかやってこれたんだ……!」
吐き出されるたびに、言葉が刃のように空気を裂く。
光緑の声には、涙と後悔がないまぜになっていた。
「弟たちが、目の前で苦しんでいても……僕は何もできなかった。すぐ駆けつけることすら、できなかった……!」
光緑の手が頼道の衣を掴み、涙の熱がじわじわと布越しに滲みてくる。
それは痛みよりも重く、ゆっくりと心の奥に沈んでいくようだった。
「でも、頼道だけが……あの子たちの前に立ってくれた。僕の情けなさも、弟たちの痛みも……全部、お前が引き受けてくれた……。散々……汚されて、嬲られて……それでも、夢の中でお前が笑ってくれてたから……僕は耐えられたんだ……」
声が詰まり、嗚咽がその代わりに漏れ出した。
「頼道……お願いだ……いなくならないで……お前だけは……」
振り返らずにはいられなかった。
目の前にいたのは、見たこともない光緑の顔だった。涙で腫れ上がり、表情が歪んでいる。いつもの整った美貌の影もない。
けれどその泣き顔が、藤春や柳翠の涙にあまりに似ていた。守りたいと願った幼い面影が、そこに重なって見えた。
頼道は、躊躇わず抱きしめた。
胸の奥から溢れ出した衝動のままに、腕をまわし、光緑を強く包み込む。
兄が、泣く弟をあやすように。光緑の背に手をまわし、指先で髪を撫でる。
――このまま、光緑を抱えて……逃げ出してしまえばいい。
あまりにも細い。あまりにも脆い。この腕の中に、あの大きな家の重圧と、弟たちを背負わされて潰れかけている若き当主がいるなど、信じたくなかった。
このまま、連れて逃げよう。
胸の奥で、熱のような衝動が弾けた。
光緑を抱いたまま、このまま裏門へ出て、山を越えて、どこか遠くへ。
そうすれば少なくとも、もう誰も彼を汚せない。
喉の奥で、声が形になりかけた。
(光緑……逃げよう。俺が守る。……逃げるんだ)
だが脳裏をよぎったのは、二人の幼い顔。藤春と柳翠。――あの子たちは、どうなる?
光緑を連れて逃げれば、あの二人は、報復の道具にされる。
自分たちの代わりに地獄の中で、同じ目に遭うかもしれない。同じように辱められ、光緑のように……いや、反逆した兄への見せしめのため光緑以上に壊されるかもしれない。
それに光緑はそれを知ったら、どうするだろう。きっと、自分を責めて戻ってしまう。弟たちを置いて逃げることなど、絶対に許さない。
想像した瞬間、頼道の胸に冷たい現実がのしかかる。家の者も、ヤクザも、研究者たちも、総出で追ってくる。
捕まれば自分も光緑も、生きては帰れない。逃げ切る術など、最初からない。
今は、無理だ。この手には、まだ何も掴めない。誰かを救う力も、抗う力も、どこにも無い。
悔しさが喉の奥で煮えたぎる。歯を噛み締める。けれど……腕の中で震える温もりを、離したくはない。
(今じゃない……今でなければ……)
その想いが、心の底で固まっていく。
いずれ――自分が住職になれば? 光緑が、次の当主になれば?
その時こそ、全てを変えられる?
頼道は、震える唇で呟いた。
「……大丈夫だ、光緑。俺たちは、今は何もできなかった。だけど……」
言葉の奥には、まだ燻る火がある。
諦めではなく、燃え残った誓いの火。それだけを胸に頼道は光緑を抱く腕に、もう一度力を込めた。
「七年経てば……何かが変わるかもしれない。和光様は、お前を当主にしないとは言っていない。俺も、勘当されたわけじゃない。……帰って来いって言われたんだ。だったら……変われる。絶対に……」
光緑は何も返さなかった。顔を頼道の肩に埋め、ひたすら声を殺して泣いていた。
「味方は、ちゃんといる。寺の全員が、お前を苦しめるわけじゃない。俺がそうさせない。必ず守るように、皆にも言っておく。……それに」
震える吐息が、頼道の首筋にかかる。
涙の重さを受け止めるように、頼道はそっと腕を回し、光緑の体を支えた。
「……ただ修行に行ってくるだけだ。俺は、お前とこれからもずっと生きるつもりなんだ。戻ってきたら……機関の連中をどう追い出すか、一緒に考えよう」
それでも光緑は、何も言わなかった。ただ、沈黙のまま頼道の顔を見上げていた。
焦点を持たない瞳。それでも確かに、頼道だけを映している。
「……僕は、そこまで考えられない。弱いから」
「俺が支える。言っただろ、俺が傍で見守ってやるから、お前は心配しなくていい。……帰ってきたらさ、機関を追い出して、ついでに、寺も全部吹き飛ばすぐらいのこと、やってやろうぜ」
「…………ごめん、弱くて。強がることすら、できなくて」
頼道はゆっくりと首を振る。
「強がるほうが、よっぽど見苦しいよ。今のお前は……ちゃんと生きてる。……好きだ」
頼道の胸元をそっと掴んだ光緑が、迷いなく顔を寄せた。
唇と唇が静かに、触れ合う。
頼道は目を見開く。光緑の瞳は潤みをたたえたまま、だが、羞じらいはなかった。
長い年月をかけて心の奥に堆積していた孤独と、愛しさと、誰にも打ち明けられなかった想い、それら全てが今、唇という形を借りて零れ落ちた。
「……光緑。お前が、今こうして俺に縋ってくれたこと。それだけで……俺は、もう十分に報われる」
体格だけが良いだけで、暴力も権力も何一つ力を振るうことができない自分が、どれほど光緑の為になれたか。
何も持たず、何も為せなかった筈の自分が、ただその傍にいたというだけで、誰かの支えになれた。その事実が、胸を満たしていく。
身を屈めた頼道は、光緑の額にそっと唇を寄せる。
祝福のように。あたたかく、優しく。
「……頼道。いつか、また……二人で……」
ぽつりと、光緑が呟いた。声音は、夢の残り香のように頼りなく、今にも消えてしまいそうだっ。
けれど、確かに……そこには、願いが宿っていた。
「二人で、どうしたい?」
問いかけは軽やかだったが、耳を澄ませるような静けさを湛えている。
一拍だけ黙した光緑は、小さく首を振った。
「……ううん。なんでもない。……ただの僕の我儘だから」
「言えよ。当主様の命令なら、俺はなんでも聞くって」
ようやく光緑は、少しだけ笑みを浮かべた。
ほんのりと頬を染め、目を伏せる。
「……だから言わないんだ。命令じゃなくて……僕の、願いでいたいから」
言葉の余韻を断ち切るように、光緑はもう一度、そっと唇を重ねた。
交わされた温もりの中に、全ての感情が宿る。
確かにそれは、愛だった。沈黙の中に浮かび上がる、秘やかな誰にも語られぬ愛の形だった。
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光緑に降りかかる教育は、あの夜を境に姿を変えた。
修行とは言えぬ名ばかりの奉仕であり、取引となる時間。来賓の席にて白絹の衣に包まれた姿は、人としてではなく「奇跡の器」として扱われていた。
拒む権利はない。その力……触れたものの血を巡らせ、病を癒やし、時に老いさえ和らげる力が、金と権力のため、売られていく。
――政財界を牛耳る大財閥の頭領が、永遠の命を求めてその体を求めた。
不老不死を授けるほどの力こそなかったが、老人の肌は一夜にして若返り、彼は確信した。「神を抱いた」と。
その後も幾度となく光緑を呼び寄せ、貪るようにその力を求めた。
――国外の富豪にも名が届いた。
かつて戦争で負った癒えぬ傷を、光緑の唇が一度の口づけで消した。皮膚が若葉のように再び息づき、富豪は歓喜した。彼は約束の何倍もの札束を置いて去り、仏田家の金庫はさらに満たされた。
――有名宗教団体の教祖もまた、光緑を買った。
交わりの直後、「神の声を聞いた」と叫び、異能の啓示を得たと狂信した。以来、その教団は新たな教義として仏田家を崇め、幹部たちは力欲しさに寺を訪れ、次々と光緑を抱き回した。
――政を司る男もまた、その名を求めた。
退官したばかりの官僚上がりの大臣。彼は光緑に触れたのち、数日のうちに驚異的な威勢を得て、政界で再び脚光を浴びる。仏田家はその恩を売り、さらなる権力の座を手にした。
光緑は、もはや一人の人間ではない。奇跡を与える代償として、彼は少しずつ神の道具へと変えられていった。
当主・和光は、その変化に微塵の痛みも感じなかった。息子の体が生む富と繋がりは、彼の想像を超え、仏田家をこの国の奥底に根づかせていった。
だがその繁栄の底で、光緑という名の少年は――ひとり、静かに朽ちていった。
拒むことを許されず、逃げることも叶わない日々の中で、擦り切れていく。
命令と沈黙だけが往来する廊下を、彼は人形のように歩く。暴力を躊躇しない父とその部下たちが、力づくで光緑の体を従わせる。もし傷を負うほどのことをされても、父の言葉は鉄のように冷たかった。
「早く治せ。血を無駄にするな。商売ができんだろうが」
当主の声に逆らえば、また痛めつけられる。光緑の体は、もはや彼自身のものではなくなっていた。
それでも、自由を与えられるとき光緑は頼道の部屋を訪れた。足音を殺し、息を潜めて。
戸口に立つ光緑は、どこか別の世界にいるような目をしている。焦点の定まらない瞳。微かに揺れる肩。
頼道は、そっとその身体を抱き寄せる。掛ける言葉が無い。ただ、抱きしめることしかできなかった。
――藤春と柳翠は、連れ去られたまま戻らなかった。
頼道が何度訴えても、返ってくるのは決まり文句のような説明だけだった。
「治療のため、機関の施設で引き取る」
それ以上は語られない。誰が、どこで、どのように、その全てが闇の中に沈んでいた。
もし本当に、言葉どおりの治療や教育が施されているのなら、何も言うまい。
だが、この数年で頼道は痛いほど知ってしまった。仏田家の教育とは、慈しみではなく矯正の名を借りた破壊だということを。
まだ十歳ほどの藤春が、どんなに怯えながら兄を呼んでいたか。
ようやくひとりで外を駆け回れるようになった柳翠が、どれほどの恐怖に晒されているのか。
光緑を安心させる言葉を、頼道はどうしても告げられない。言葉無く光緑の体を撫でるしかなかった。
「……僕が、東京で増やした……眷属を……売り物にするって、森田さんが言ってて……」
その夜の声は、喉の奥から絞り出されるように震えていた。
頼道は一瞬、意味が分からなかった。眷属。その言葉が、まるで呪いのように耳に響く。
「僕が、血を吸って……鬼にしてしまった人たち……あれを、金にする計画を始めるって。僕の血が、もしかしたら……藤春たちの血が、悪用される。人を、人じゃなくする道具として、使われるかもしれない」
光緑の目から、涙が零れ落ちた。
「そんなの、やっちゃいけない……母上は、そんな使われ方をさせないようにって戒めてきたのに……」
頼道が小刻みに触れる体へ手を伸ばそうとすると、光緑は、自分の両手を胸に押し当てた。
「……僕が、外に出たいって言ったから……こんなことになったの?」
声には、ただ自らを罰する響きがあった。
「僕の力、誰かのためになったらって……そう思ったから……こんなに、求められることになったの? 僕のせいで……」
言葉の途中で、光緑の喉が震えた。頬を伝った涙が、膝の上でひと粒、ふた粒と弾ける。
その雫が畳に滲む音が、静寂の中で痛いほど鮮やかに響いた。
「光緑のせいなんかじゃない!」
迷いなく抱きしめ、叫ぶ。それは慰めでも理屈でもなく、胸の奥底から絞り出した叫びだった。
――外の世界へ連れ出したのは、頼道自身だ。奥座敷に閉じ込められ、庭の外さえ知らなかった少年に、風の匂いを教えてやりたかった。あのとき、それが自分にできる唯一の正義だと思っていた。
霜月の村へ行こうと願ったのも、都会へ連れて行きたいと願ったのも、全ては頼道の手引き。
閉ざされた日々から抜け出し、空を仰ぎたい。誰かの痛みを癒したい――そんな純粋な願いを、どうして咎めることができよう。
どんな歪な因果が後に訪れようと、それを光緑の罪と呼んではならない。
「霜月に行ったことも、上野に行ったことも……全部、俺が仕組んだことだ。光緑と、一緒にいたかった。だから……どうか、自分を責めないでくれ」
言葉の奥に、血を吐くような悔恨が滲む。
霜月である男に出会ってしまったこと、上野である女と出会ってしまったこと、それが歪みの原因など、頼道には言い切れない。
腕の中の光緑を、頼道は壊さぬよう抱き続けた。胸元で震える体が、泣きながら呼吸している。その温もりがどれほど傷つき、どれほど怯えてきたのか、もう数えきれない。
守ると誓った。けれど、守るたびに何かを奪ってきた気がする。腕の中にある命が、掌の熱で消えてしまいそうで、頼道は抱き締める以外できない。
問いは喉の奥で凍りつき、答えは一つも浮かばない。互いの息づかいだけが、崩れかけた夜の中で確かな現実として残っていた。
「光緑様、お勤めの刻が参りました」
冷ややかな声が、頼道の部屋の外から響く。
廊下から聞こえる死の宣告のような声に、光緑の肩がびくりと震え、頼道の胸にしがみついた。
細い指が衣を掴む。爪が布を裂きそうなほどに強く。頼道の胸元に、押し殺した嗚咽がかすかに震える。
――嫌だ、行きたくない。
その囁きは、頼道にしか届かないほど微かなものだった。声を殺しても、涙は止まらなかった。震える身体が、頼道の腕の中で小刻みに波打つ。
頼道もまた、胸の奥で同じ言葉を呟いていた。
――行かせたくない。
だが、現当主の命令には誰も逆らえない。
寺に仕える者たちは、己の恐怖と忠誠に縛られていた。誰もが光緑の境遇を知っていた。それでも、誰も止めようとしなかった。皆が、見て見ぬふりをした。
――助けたい。今すぐにでも、この腕を掴んで山から逃げ出したい。今すぐにでも、この腕を掴んで山を駆け下りたい。
だがその先に待つのは、救いではなく地獄だ。逃げる術もない。行く宛もない。
そして何より光緑がいなくなれば、残された藤春や柳翠がどうなるか……その報復がどれほど非道なものになるか、頼道は知っていた。
光緑もまた、それを理解していた。自らを犠牲にすることでしか、弟たちを守れない。その理不尽を、覚悟していた。
光緑は、ゆっくりと頼道の胸から離れていく。涙に濡れた顔を上げ、無理に微笑もうとする。
「……行ってくるね……」
泣きながらも真っ直ぐな声に、頼道の胸を鋭く貫いた。
止めたいのに、声が出なかった。伸ばした指先は空を掠めただけで、彼の袖にすら触れられない。
足音が遠ざかるたび、頼道の心臓が沈んでいった。その一歩ごとに、光緑の運命が削られていく。頼道は膝を折り、唇を噛み、祈ることしかできなかった。
――どうか、もうこれ以上、彼を壊さないでくれ。
その祈りさえ、誰にも届かないことを知りながら。
◆
真冬の名残がまだ空気に滲む、夕暮れの刻だった。
仏田寺の本堂裏。普段はほとんど使われることのない客間に、頼道は呼び出されていた。
畳の上に射す夕陽は薄く、障子の外の山影が橙に沈んでいる。部屋の中央、灯の届かぬ座に、父――仏田寺住職・犬伏依貞が静かに座していた。
かつての父は、穏やかで快活な人だった。冗談を言い、笑いながら茶を啜るような人情味のある男。その面影は、いまや跡形もない。
背筋を伸ばし、眉ひとつ動かさず、仏像のように冷たく沈黙していた。
「来月から、本山の宗教学校へ入れ。手続きは既に済ませてある」
言葉には決定の重みだけがあり、情の余白は一つもなかった。
「……俺は、いずれ僧侶になるために修行をしていた。けど、なんで今、外に出ろなんて言うんだ? しかも、こんな急に」
問いに、父は目を伏せた。
指が動く。脇に置かれた分厚い書類の束を、無言で頼道に差し出した。
「受け入れは確定している。光緑様の御政道が進む中、お前の進路も明確に定めねばならん」
瞬間、頼道は悟った。
これは教育ではない。追放だ。
藤春や柳翠の所在を知りたいと、幾度も訴えたこと。光緑の苦境を前に、上層部の非を正面から咎めたこと。それら全てが『仏田家の方針に背いた者』として帳簿に記され、粛々と処理されたのだ。
胸の奥に、じくじくとした熱が滲む。
「……どうしてだよ」
理性で抑えていた声が、勝手に飛び出す。
「どうして!? なんで父さんは助けてくれない!? 俺は……俺は光緑を、あの地獄から引きずり出したいだけだ! 藤春も、柳翠も……! あんな小さな子らが、あんな場所で……!」
叫びが天井を打った。木造の梁が震え、火が揺れる。
しかし依貞の顔色は、一片たりとも動かない。動作は長年の修行で磨かれた所作のように静かで、無駄がなかった。
「頼道。今の仏田家が何を為そうと、それは彼らの業。我らの使命は、封印を守るだけだ。お前が口出しし、何かあれば、寺は滅ぶ。我らは誰の味方でもない。……仏田家が真に堕ちたときが我らは動かなければならぬ」
風が岩を撫でるように、感情を含まない音。言葉に情のかけらもない。
「そんな理屈で……! あれが、まだ堕ちてないだと!? 理屈じゃねぇ、あいつらは生きてるんだ! 苦しんでるんだ! 誰かが手を伸ばさなきゃ……!」
頼道の声が割れた。拳を握り、震える声で叫ぶ。
「お前が差し出す手は、救いではなく、火種だ。そして……真の火は、お前が止めなければならぬ」
依貞は、人を救うよりも秩序を守ることを選んだ目をしていた。
永い年月を経て磨かれた、均衡の冷たさが宿っている。
「見捨てるのかよ……あの兄弟を……!」
「もう一度言う、頼道、聞け。我らの使命は、封印を守ることだ」
「……もう、決まってるんだな」
「そうだ。本山には既に推薦状を送ってある。七年、鍛錬に励め。いずれ、この寺に戻る日もあるだろう。……だが、今ではない」
七年。今ではない。その言葉が、何よりも深く突き刺さる。
つまり――この寺に、今この瞬間、頼道の居場所は無いということ。
頼道は、書類に手を伸ばす。指先が紙に触れる寸前で止まり、拳へと変わる。
(俺は、ただ……守りたいだけなのに)
――俺は、ただ守りたかっただけなのに。
藤春が苦しんでいた。柳翠が泣いていた。光緑は、二人を救うために声を上げた。それを見て、ただ傍に立った。それだけのことだったのに。
「頼道には、守ってもらわなければならない物がある」
「……それは、伝統?」
「それもある。この家は、新しい風に揺れている。揺らしてはならない物を我らは守っている。頼道、お前は、聡明でなければならない。気を強く持つため、鍛錬に励みなさい」
父なりの慰めだと思えた。突き刺さる優しさに、深く頭を下げる。
だが頭を下げながらも、胸の奥のどこかで非難したくて、誰かの泣き声が空耳として聞こえた。
それが藤春と柳翠のものだったのか、光緑のものだったのか。あるいは、自分自身のものだったのか。もう、分からなかった。
◆
冬の大雨が、静かに屋根を叩いていた。しとしとと続く雨脚が、まるで寺全体を包み込む。
頼道の部屋には、大きな荷包みが置かれている。身の回りのものは少ない。だが、どうしても持っていかなければならないものがあった。
かつて、あの子どもたちと囲んで描いた落書き。
藤春の、濃淡を考えながら引かれた慎重な線。柳翠の、兄の筆を真似て描いた拙く幼い線。その上には、当時の笑い声までもが残っているようだった。
指先が震え、紙の端をなぞる。何も言わずにそれを折りたたみ、懐へとそっと仕舞った。
そのとき、戸が音もなく開いた。
振り返らずとも分かった。気配だけで、それが誰なのか心が即座に応えた。
光緑だった。
畳に足音を落とさぬよう、静かに立っている。目には焦点が無い。魂が置き去りにされたような虚ろな瞳。そこに立つだけで、部屋の空気が震えた。
頼道は、背を向けたまま言葉を探す。
この別れを、直視させるべきではないと思った。
彼の中に、残酷な現実として刻みたくはなかった。
「七年ほど、勉学に励んでくる。霜月でも上野でも、時はあっという間だった。終わって戻る頃には、光緑も一人前だ。……当主にだってなれるさ。だから大人しく、父さんの指示にでも従って……」
言い切る前に、背中に重みがのしかかった。
光緑が、無言のまま頼道の背にしがみついていた。
細い腕が必死に伸ばされ、額が肩甲骨に触れる。震えと熱が、頼道の背を伝って滲み込んでいく。
「……頼道がいなくなったら……」
掠れた声が、背中で震えた。
「誰が……藤春と柳翠を庇ってくれるんだ……。誰が、僕を慰めてくれる?」
声が小刻みに崩れていく。嗚咽が混じり、言葉の形を失っていく。その一音ごとに、頼道の胸が裂けるように痛んだ。
肩が震えるたび、光緑の息が衣を濡らす。その涙の重さが、頼道の決意を何度も揺らがせた。
「……叔父上の事務所にいたとき。東京で、毎日あの女に詰められていたとき……お前がいてくれたから、どうにか、どうにかやってこれたんだ……!」
吐き出されるたびに、言葉が刃のように空気を裂く。
光緑の声には、涙と後悔がないまぜになっていた。
「弟たちが、目の前で苦しんでいても……僕は何もできなかった。すぐ駆けつけることすら、できなかった……!」
光緑の手が頼道の衣を掴み、涙の熱がじわじわと布越しに滲みてくる。
それは痛みよりも重く、ゆっくりと心の奥に沈んでいくようだった。
「でも、頼道だけが……あの子たちの前に立ってくれた。僕の情けなさも、弟たちの痛みも……全部、お前が引き受けてくれた……。散々……汚されて、嬲られて……それでも、夢の中でお前が笑ってくれてたから……僕は耐えられたんだ……」
声が詰まり、嗚咽がその代わりに漏れ出した。
「頼道……お願いだ……いなくならないで……お前だけは……」
振り返らずにはいられなかった。
目の前にいたのは、見たこともない光緑の顔だった。涙で腫れ上がり、表情が歪んでいる。いつもの整った美貌の影もない。
けれどその泣き顔が、藤春や柳翠の涙にあまりに似ていた。守りたいと願った幼い面影が、そこに重なって見えた。
頼道は、躊躇わず抱きしめた。
胸の奥から溢れ出した衝動のままに、腕をまわし、光緑を強く包み込む。
兄が、泣く弟をあやすように。光緑の背に手をまわし、指先で髪を撫でる。
――このまま、光緑を抱えて……逃げ出してしまえばいい。
あまりにも細い。あまりにも脆い。この腕の中に、あの大きな家の重圧と、弟たちを背負わされて潰れかけている若き当主がいるなど、信じたくなかった。
このまま、連れて逃げよう。
胸の奥で、熱のような衝動が弾けた。
光緑を抱いたまま、このまま裏門へ出て、山を越えて、どこか遠くへ。
そうすれば少なくとも、もう誰も彼を汚せない。
喉の奥で、声が形になりかけた。
(光緑……逃げよう。俺が守る。……逃げるんだ)
だが脳裏をよぎったのは、二人の幼い顔。藤春と柳翠。――あの子たちは、どうなる?
光緑を連れて逃げれば、あの二人は、報復の道具にされる。
自分たちの代わりに地獄の中で、同じ目に遭うかもしれない。同じように辱められ、光緑のように……いや、反逆した兄への見せしめのため光緑以上に壊されるかもしれない。
それに光緑はそれを知ったら、どうするだろう。きっと、自分を責めて戻ってしまう。弟たちを置いて逃げることなど、絶対に許さない。
想像した瞬間、頼道の胸に冷たい現実がのしかかる。家の者も、ヤクザも、研究者たちも、総出で追ってくる。
捕まれば自分も光緑も、生きては帰れない。逃げ切る術など、最初からない。
今は、無理だ。この手には、まだ何も掴めない。誰かを救う力も、抗う力も、どこにも無い。
悔しさが喉の奥で煮えたぎる。歯を噛み締める。けれど……腕の中で震える温もりを、離したくはない。
(今じゃない……今でなければ……)
その想いが、心の底で固まっていく。
いずれ――自分が住職になれば? 光緑が、次の当主になれば?
その時こそ、全てを変えられる?
頼道は、震える唇で呟いた。
「……大丈夫だ、光緑。俺たちは、今は何もできなかった。だけど……」
言葉の奥には、まだ燻る火がある。
諦めではなく、燃え残った誓いの火。それだけを胸に頼道は光緑を抱く腕に、もう一度力を込めた。
「七年経てば……何かが変わるかもしれない。和光様は、お前を当主にしないとは言っていない。俺も、勘当されたわけじゃない。……帰って来いって言われたんだ。だったら……変われる。絶対に……」
光緑は何も返さなかった。顔を頼道の肩に埋め、ひたすら声を殺して泣いていた。
「味方は、ちゃんといる。寺の全員が、お前を苦しめるわけじゃない。俺がそうさせない。必ず守るように、皆にも言っておく。……それに」
震える吐息が、頼道の首筋にかかる。
涙の重さを受け止めるように、頼道はそっと腕を回し、光緑の体を支えた。
「……ただ修行に行ってくるだけだ。俺は、お前とこれからもずっと生きるつもりなんだ。戻ってきたら……機関の連中をどう追い出すか、一緒に考えよう」
それでも光緑は、何も言わなかった。ただ、沈黙のまま頼道の顔を見上げていた。
焦点を持たない瞳。それでも確かに、頼道だけを映している。
「……僕は、そこまで考えられない。弱いから」
「俺が支える。言っただろ、俺が傍で見守ってやるから、お前は心配しなくていい。……帰ってきたらさ、機関を追い出して、ついでに、寺も全部吹き飛ばすぐらいのこと、やってやろうぜ」
「…………ごめん、弱くて。強がることすら、できなくて」
頼道はゆっくりと首を振る。
「強がるほうが、よっぽど見苦しいよ。今のお前は……ちゃんと生きてる。……好きだ」
頼道の胸元をそっと掴んだ光緑が、迷いなく顔を寄せた。
唇と唇が静かに、触れ合う。
頼道は目を見開く。光緑の瞳は潤みをたたえたまま、だが、羞じらいはなかった。
長い年月をかけて心の奥に堆積していた孤独と、愛しさと、誰にも打ち明けられなかった想い、それら全てが今、唇という形を借りて零れ落ちた。
「……光緑。お前が、今こうして俺に縋ってくれたこと。それだけで……俺は、もう十分に報われる」
体格だけが良いだけで、暴力も権力も何一つ力を振るうことができない自分が、どれほど光緑の為になれたか。
何も持たず、何も為せなかった筈の自分が、ただその傍にいたというだけで、誰かの支えになれた。その事実が、胸を満たしていく。
身を屈めた頼道は、光緑の額にそっと唇を寄せる。
祝福のように。あたたかく、優しく。
「……頼道。いつか、また……二人で……」
ぽつりと、光緑が呟いた。声音は、夢の残り香のように頼りなく、今にも消えてしまいそうだっ。
けれど、確かに……そこには、願いが宿っていた。
「二人で、どうしたい?」
問いかけは軽やかだったが、耳を澄ませるような静けさを湛えている。
一拍だけ黙した光緑は、小さく首を振った。
「……ううん。なんでもない。……ただの僕の我儘だから」
「言えよ。当主様の命令なら、俺はなんでも聞くって」
ようやく光緑は、少しだけ笑みを浮かべた。
ほんのりと頬を染め、目を伏せる。
「……だから言わないんだ。命令じゃなくて……僕の、願いでいたいから」
言葉の余韻を断ち切るように、光緑はもう一度、そっと唇を重ねた。
交わされた温もりの中に、全ての感情が宿る。
確かにそれは、愛だった。沈黙の中に浮かび上がる、秘やかな誰にも語られぬ愛の形だった。
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