さわれぬ神 憂う世界

マーサー

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幕間2

[39] 幕間2/3 「僕を誰だと思ってる?」

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【幕間2】

 /3

 山は夜の底に沈んでいた。風は途絶え、梢の間で凍りついたような月光だけが呼吸している。
 静寂を切り裂くように、ひとつの小さな影が駆け抜けていた。
 白銀の毛並みは血に染まり、細い足を引きずっている。瞳には、生きたい、ただそのひとつの願いだけが揺れていた。
 仏田家によって滅ぼされた異能の家系、澄水家の末娘。燃え落ちる屋敷の中で、幼い彼女は己の血に刻まれた術を呼び覚まし、人の形を捨て、子猫の姿となって、炎と屍の間をすり抜けてきた。
 耳の奥には、まだ姉の声が残っている。
 凛として、どこか遠くの鐘の音のように、透き通る声。
 ――逃げなさい。生き延びて、恨みを忘れるな。
 その言葉だけを頼りに、彼女は夜を駆けた。

 血の跡はまだ温かく、地面に点々と続いていた。
 遠くで、鉄が軋むような音が響く。風に乗って届くのは、嗅ぎ覚えのある死の匂い。
 闇の奥から、黒い影が現れた。人の形をしていたが、それはもう人ではなかった。
 仏田家の傘下、嵐山組の下部部隊。澄水の血を根絶するために放たれた、吸血鬼の配下たち。
 彼らの眼は感情を持たず、血に縛られたまま、ただ命令の音に従う。言葉もなく、意思もなく、殺すために生かされた骸の兵である。
 子猫は息を潜め、岩陰に身を寄せた。
 影は一歩、また一歩と近づいてくる。夜の底で、靴音だけが規則的に響いた。
 それは鼓動を持たぬ音。血の流れを忘れた者たちの、静かな行進。黒曜石のような瞳が、月の光を鈍く跳ね返していた。
「……たすけて……」
 声にならない声が喉の奥で震える。
 次の瞬間、足元で小枝が折れた。音が闇を破る。
 子猫は反射的に跳ね出した。
 森が裂け、木々の間を光が縫う。
 崖を転げ、石に爪を立て、血の匂いを撒き散らしながら、ただ逃げた。
 息が切れ、目が焼けつく。それでも走る。生きたいという想いだけが、残酷なほど鮮烈に彼女を動かしていた。
 どれほど走ったのだろう。
 前方に、白い光が見えた。車のライトだった。舗装された車道。現実の匂いが、夢のように遠かった。
 子猫は、闇から光へと飛び込んだ。眩しさが瞳を焼く。世界が爆ぜる。ブレーキの音が夜を裂き、タイヤが土を蹴り上げた。
 光が崩れる。音が遠のく。白い光の中で、子猫の小さな体はぐらりと揺れ、倒れる。
 血が滲み、夜の地面に花のように広がっていった。

 助手席のドアが静かに開いた。
 夜気を切り裂くように、革靴の甲高い音がアスファルトを叩く。靴の主は迷いもなく歩み寄り、血にまみれた子猫を抱き上げた。
 小さな体を包む指先から、体温が染み込んでいく。その温もりに安らぎを見いだす間もなく――風が変わった。
 森の奥から、足音がひとつ、またひとつと近づいてくる。
 無言の兵士たち。瞳には光も思考もない。ただ命令だけが血の中を流れ、殺戮のために動いている。
 運転席から、少し慌てた声が響いた。
「はわっ、新座くん! これ、ただ事じゃないよ!」
 その声の主――鶴瀬正一は、状況を瞬時に察していた。
 闇に散らばる気配が、人ではないことを。仏田家の手によって作られた、異形の兵どもがすでに包囲を完成させていることを。
 だが、男は微動だにしなかった。涼やかな目で、迫りくる黒い波を眺めている。
 恐怖も焦りもなく、むしろ退屈を紛らわせるような眼差し。
 やがて、兵士たちが一斉に前へ出た。その動きは、まるで糸で操られた人形の群れ。
 子猫……異能の一族・澄水家の生き残りを回収、あるいは殺害せよという命令を受けて、無感情に進む。もし常人であれば、この光景に息を呑み、恐怖を覚えたことだろう。
 けれども――仏田新座は、薄く笑った。
 冬の刃のように冷たく、美しい笑みで。
「……僕を誰だと思ってる?」
 声は夜を滑り、兵士たちの鼓膜を撫でた。
「お前たちの主の血を引く者だよ。匂いで分かるだろう? ――お前らの何倍も、偉い人間だってことを」
 言葉が落ちた瞬間、風が止んだ。
 兵士たちの群れが、糸を切られた操り人形のように動きを止める。
 闇の底で彼らの喉の奥から微かな呻きが洩れ、やがて静寂が訪れた。
 新座は血のついた掌で子猫の頬を撫で、薄く笑った。

 兵士たちは一歩も動かなかった。
 命令の糸を握る主の血――その気配を前にして、誰ひとり抗うことができない。
 冬の山道に、ようやく風が戻る。木々がざわめき、枝に残る雪が細かく降り注いだ。
 鶴瀬がエンジンをかける。低い唸りが静寂を押しのけ、タイヤが湿った土を蹴る。
 立ち尽くす兵士たちの群れの中から、無線の奥で誰かの声が掠れた。
「……目標、排除不能……」
 無機質な報告が、夜の空気に虚しく溶けていく。
 だが、その言葉を気に留める者はもういなかった。

 車は滑るように山道を下った。
 スピードメーターの針がじりじりと上がるたび、森の影が後方に引き裂かれていく。
 車内には血と獣の匂いが満ちていた。鉄と脂、そして焦げた草のような匂い。
 膝の上では、子猫が浅い呼吸を繰り返している。命の灯は細く、今にも消え入りそうだった。
 新座は無言でストールを取り出し、血にまみれた体を包み込む。
 光を吸い込むような艶を放つ、深紅のカシミヤ。その柔らかさが、冷えた小さな体を和らげた。包まれた子猫はかすかに身じろぎ、弱々しく爪先を動かす。
「いいの、新座くん? それ、志朗さんからの誕生日プレゼントだっただろうに」
 運転席の鶴瀬が、ルームミラー越しに苦笑を浮かべた。
 肩を竦めた新座も、唇の端を吊り上げる。
「お兄ちゃんだったら、こういう使い方を“粋だ”って言うと思うよ」
 赤黒い血が布地に染み、絹の光沢の奥で静かに広がっていく。
 ひどく冷たい身体。毛の隙間には無数の傷跡。どれほどの痛みに晒されてきたのか、その小さな生命は骨ばって、儚い。
 新座は長く息を吐き、瞳の奥を翳らせた。
「むぐ……。さっきの連中、何だったの?」
「はわ……。分かって追い払ったんじゃなかったの?」
「見覚えあるんだよね、に。もしあれがうちの部隊なら、なんでこんな小さな子猫を虐めてたのさ? ……まあ、ただの猫じゃないのは確かだけど」
 鶴瀬は片手でハンドルを押さえ、慎重にカーブを曲がった。体を揺らす新座はストールの上から子猫の頭を撫で、呟く。
「この子、能力者だよね。猫に化けてるのかな……魔力の放ち方が普通じゃないし。相当、強い子だ」
「意識を取り戻してくれれば、人間の姿に戻るかもしれないけど……いや、元が猫の可能性もあるなぁ。分からないね。新座くんすら分からないならお手上げだよ……」
「……強すぎる異能だから追われていた、かな。ねぇ、これ、助けていいやつだった?」
 二人が朝から山道を走っていた理由。それは仏田家も嵐山組も関係のない、ひどく個人的なものだった。
 車の後部には、若葉マークが貼られている。鶴瀬は、免許を取ってまだ数日。従兄弟の新座とドライブで遊びに行こう――本当にそれだけの、ありふれた週末の出来事であるはずだった。
 だが偶然はいつだって、血の匂いを選んで落ちてくる。
「あーあ、厄介なことになったなー……」
 新座はまたも溜息を吐いた。
 けれど鶴瀬は前方の暗闇を見つめたまま、微かに笑う。
「新座くんはさ、それが助けちゃいけないやつだって分かってたら、放り出しちゃうタイプ?」
 その問いに、新座は目を細める。
「まさか。――正体が世界を終わらせる邪神とかじゃない限り、助けちゃうタイプさ。怖いものに追われてる悲劇のお姫様かもしれないだろ? ヒーローなら助けてあげないと、格好がつかない」
 微笑を浮かべ、子猫の頬を指で撫でた。

 車はゆっくりと街へと進んでいく。
 車内で血に濡れたストールの中、小さな命がまだ震えていた。まるで、夜の底から掬われた一滴の光のように。
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