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第3部
[52] 3部3章/4 「自ら甘美な牢獄へと身を沈める。」★性描写あり
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【3部3章】
/4
夏の午後。蝉の声が仏田寺の外に満ちていたが、ざわめきは屋敷の奥までは届かない。
真夏でも日の差さない座敷は、薄闇と涼けさに包まれている。母の膝に凭れた三、四歳の藤春がころころと笑い、小さな掌で母の膨らんだ腹を撫でた。
「ここ、赤ちゃん、いるの?」
「ええ、そうよ。藤春はもうすぐお兄ちゃんになるの」
母――仏田泉美は、白い指で藤春の髪を撫でた。絹のように柔らかな髪が指の間をこぼれ落ち、藤春は目を輝かせてはしゃぐ。
「にぃに、にぃに! ここ、赤ちゃんいる!」
声に応えて、少し離れた場所に座る光緑が微笑んだ。少年にしては大人びた顔つきで、眼差しには既に母と同じ慈しみの光が宿っている。
「光緑、藤春。二人で協力して、この子を守ってあげてね」
白い着物を纏った泉美は、膨らんだ腹を抱いた。薄明の中の姿は、菩薩のようだった。
「光緑。貴方は、私によく似ているわ」
呼ばれた名に、光緑は背筋を正した。母の声音はやわらかく、それでいて心の奥底まで届く力を持っている。
「顔だけじゃなく、異能の強さも、血の濃さも。そっくりだからこそ、貴方は人を傷つけるかもしれない」
「傷つける……? 母上は、一度も誰かを傷つけたことなどないでしょう」
「いいえ。私だけでなくこの家の血は、人間を容易く壊してしまう力を持っている。癒やせる力が強いほど、壊す力も強い。だから……貴方はここで生きなさい。血を繋ぎ、見守るだけの者として」
光緑は俯いた。
母のように誰かを包みこむ優しい目を持ちたかった。けれど「ここで生きろ」という言葉は、これ以上「何も望むな」という戒めに聞こえた。
「……はい、母上。僕は、母上のお言葉に従います」
その隣で、藤春が無邪気に笑いながら母の腹を撫でている。
「ねえ、赤ちゃん。早く出てきて。にぃにと遊ぼ」
幼い声に泉美も光緑も微笑んだが、その笑顔の裏にある不安を言葉にはしなかった。
泉美の身体は弱かった。光緑を産んだ時点で、医師たちはもう出産は危険だと告げていた。
けれど十年後、現当主である夫――仏田和光が寺に戻り、唐突に「もう一人産め」と命じた。彼女の身体を気遣うこともなく、ただ血統のために。
泉美は従順にその命を受け入れた。三人目の子を宿したのは、もはや奇跡に近いことだった。
奇跡は二度とは訪れない。命を削りながら子を宿している。
この出産が終われば、母はもう「役目を終える」。胸の奥が重く沈んだ光緑は、その事実を直視できず、目を伏せる日々を送る。
父が母を優しく扱うところを、光緑は一度も見たことがなかった。愛する姿など想像できず、母はただ血の器としての役目を果たすよう命じられただけ。
――自分たちは、ただ血を継いでいくだけ。それ以上の生を、望んではいけない。
無垢な笑顔で母に甘える藤春を見つめながら、その幸福を壊さぬよう、ただ静かに母の声を聞き続けていた。
夕暮れが、仏田寺の屋根を金に染めていく。寺の住職・依貞が、丸くなった腹を抱える泉美のもとを見舞いに訪れた。
その傍らには、息子の頼道がいる。着物の袖に夏の匂いを染み込ませた少年は、丁寧に正座し、父の言葉を聞く姿が凛々しかった。
いくつかの挨拶と近況を交わしたのち、泉美は頼道へ手招きをする。
「頼道くん。光緑のことを、これからもよろしくね」
背筋を伸ばす頼道。少年らしい純粋で真剣な眼差しが、薄明かりの中で一際きらめく。
「お任せください。絶対に俺が光緑様をお守りします。隣で……ずっと」
その言葉の真っ直ぐさに、光緑の胸が温かくなった。
年も同じ少年のはずなのに、頼道の声音には不思議な重みと誠実さが宿っている。
「僕も、頼道がいれば……大丈夫です。頼道がいてくれたら、百人力ですから」
言いながら光緑は頬を染め、恥ずかしそうに俯いた。
母は二人を見比べ、目を細めて微笑む。
「ふふ……頼もしいわね。貴方たちが一緒なら、ずっとこの家の封印を守っていけるわ」
言葉の意味をまだ深く理解できぬまま、二人は顔を見合わせ、照れくさそうに笑う。
風も暑さも忘れたその一刻、静かな約束が二人の間をそっと通り過ぎていった。
◆
――隣にいて守ると言ってくれた。あの約束は、何だったのだろう。
思いたくもない問いを、光緑は幾度も胸の中で繰り返していた。
鍛錬のため、七年の修行へと旅立った頼道。あの日、大きな背を見送るふりをしながら、心の底では何度も叫んでいた――行かないで、と。
頼道が去ったその直後から、再び地獄は始まった。「寺に居る味方に光緑を守るよう呼びかけた」と頼道は言っていたが、彼らは何も出来なかった。父の命により、光緑の身は多くの者たちの手に渡された。
低く笑う父の声が、何度も耳を刺す。
「お前の肉体が仏田家の繁栄にどれほど役立つか、分かるな?」
昼は、鍛錬と称した陵辱。父の配下を名乗る教育係たちに、夜が来るまで快楽を躾られる。
「当主のご命令だ。光緑様を娼婦として育てろとな」
「そんな美しい顔をしているのだから、人を悦ばせる術を覚えるのです」
「ほら、昨日のように乱れてごらんなさい。昨晩の喘ぎ声、可愛らしかったですよ」
叱責と命令が交錯する声が、耳の奥にこびりつく。
部屋の外に手を伸ばしたこともあった。助けてと懇願を、何度もした。どんなに嫌と訴えても、男たちは何度も光緑を犯した。
そして夜は、札束を積まれ、欲望に彩られた饗宴が始まる。
「なんという美貌。その顔が涙で濡れるところを見せてくれ」
「奇跡の力を見せてみろ。そのために金を払っているのだ」
「何人も咥えておきながら、いつまで経っても清らかな処女のよう」
――かつて「外の世界に触れたい」と願った。「人のためにこの力を使いたい」と頼道に語ったこともあった。
けれど、その願いがこんな形で果たされるとは、夢にも思わなかった。
拒めば、藤春と柳翠に同じ目を向けると脅された。自分だけが汚れれば、弟たちは救われる――そう信じることでしか、心を保てなかった。
身を捧げるたび、母の言葉が胸を刺す。これが母の約束を破り、頼道を追いかけて外に出た報いなのだろうか。
連日、客人たちの前で辱められ、体を引きずりながら自室に戻る。
頼道の部屋はもう空っぽで、彼の気配すら残っていない。だからたったひとりの畳の上で、声にならない嗚咽を漏らすしかない。
膝が崩れ落ち、震える手で唇を押さえ、涙を堪える。屋敷に響くのは、父の命令を遂行する者たちの足音と、縄や鎖の軋む音だけ。
(……助けて……頼道……)
名を呼んでも、誰にも届かない。
日々が続く。泣きながら朝を迎え、また男たちに縄で縛られ、首輪を引かれ、羞恥に震えるしかない昼が始まる。
肌を掠める荒い手。耳を裂くような声。逃げ場のない重み。怖い。嫌だ。苦しい。――それでも、心だけは壊れてしまわぬように、光緑はひとつの幻想に縋りついた。
(……これは、頼道だ……)
目を閉じれば、粗暴な掌は逞しい腕に、押しつけられる体の重みは、頼道の温もりに変わる。
縄の擦れる痛みさえ、頼道の手が自分を抱き寄せている証のように錯覚した。
耳を打つ荒い息遣いは、懐かしい頼道の低い呼吸音となり、恐怖の輪郭を和らげていく。
(頼道は、こんなふうに求めてくれなかった。……いつも優しくて、遠慮して、触れることすら躊躇っていたのに)
今は違う。激しく執拗に、まるで「お前が必要だ」と叫ぶように、誰かの手が自分を掴んで離さない。
嫌悪と痛みの奥で、光緑の胸に熱い幸福が密かに灯る。
現実では決して訪れなかった光景。頼道が、こんなにも自分を求めてくれる日が来るなんて。
(……夢が叶ったみたいだ。……大好きだよ、頼道……)
蹂躙されながらも、光緑は幻の幸福に身を委ね、眠ることを覚えた。
苦しみと恐怖の只中で見出した幻想は、残酷なほど甘やかで、泣きたくなるほど優しい夢だった。
日が経つにつれ、心はますます深く幻に沈んでいく。
乱暴に引き寄せられる感覚は、逞しい腕の抱擁に変わり、粗野な声は少年の頃から恋い慕った声に変わる。
淫らだと嘲られる言葉でさえ、「傍にいる」という約束に聞こえた。
優しく慎重で、決して踏み込んでこなかった頼道が、今は自分を強く抱いてくれている。
そう信じることでしか、生き延びる術がなかった。
誰がそこにいようと、何を奪われようと、関係ない。幻だけが安らぎの檻。自ら甘美な牢獄へと身を沈める。幸福という名の虚構に抱かれ、眠ろうとした。
――そして目を開けると、見慣れた天井があった。
天蓋も金箔も無い。改修を終えたばかりの仏田寺の、あの息苦しいほど豪奢な部屋ではない。
木の節目が残る天井板。煤けた柱。風が紙障子をやわらかく鳴らしている。
ここは、霜月村。子供達だけで暮らしていた、ひっそりとした山里の家である。
そして胸の上に落ちる布団の重み。光緑は、夢の残滓を振り払うように深く息を吸った。
「……光緑? どうした?」
名前を呼ぶ低い声がした。
顔を向けると、頼道がいた。
布団の端に座り、半身を起こした光緑を覗き込む。大きな掌が、いつものように髪を撫でる。その掌は温かく、重く、そして穏やかだった。
「なんだよ、疲れてるのか。そのまま寝てろ。お前に無理はさせられない」
その声音に、光緑の胸がじんわりと緩んだ。
――そうだ。頼道はいつだって、僕を気遣う人だった。強くて、優しくて、決して踏み込むことを急がない。
あの悪夢のような夜々で見た誰かは、どこまでも偽物だった。
優しさに包まれた瞬間、光緑は心の奥底で何かがほどけていくのを感じる。
もう、恐怖に縋る必要はない。もう、幻に頼らなくていい。
「ううん、ごめんね、頼道……」
「なんで謝ってるんだ?」
「えっと、なんでだろ、その……。頼道、頼道の口付けが、欲しいな」
頼道が噴き出す。
「なんだなんだ、いきなり! ……積極的だな」
からかう声が、どこまでも柔らかい。困ったような笑みを浮かべながらも、光緑の頬に指先を添えた。
唇が触れ合う。最初は触れるだけ。次いで、光緑から縋るように舌を伸ばす。何度も舌と舌とでお互いの存在を確かめ合い、息と息を混ぜていく。
優しい。本当に優しい。力でも命令でもなく、ただ愛おしむように交わされる温度。唇をようやく放した光緑は、頼道の胸に顔をうずめた。
すぐ傍で鳴る鼓動が、大好きな彼の存在を確かに伝えてくれる。胸の奥の恐れが、ゆっくりと溶けていった。
「……頼道。大好き……」
震える声で囁くと、頼道は照れくさげに微笑んだ。淡い光が差し込む夜の闇に、二人の息遣いが溶け合う。
「頼道……今夜は僕に、奉仕させてほしい」
夜の静けさの中で、光緑はそっと身を起こす。
これまで何度も頼道に守られてきた。そのたびに、守られることしかできない自分が悔しかった。だから今夜は、せめて自分の手で彼を癒したいと思えた。
「光緑、本気で言ってるのか?」
頷く光緑は、頼道の膝にそっと触れる。帯を緩め、慎重に、壊れ物を扱うように肌へと指を滑らせる。
布越しに感じる熱。雄々しいものを露わにすると、迷いなく舌先を伸ばした。そっと触れるたび、頼道の吐息が微かに揺らぐ。
「んっ……」
「お、おい、そんな、いきなりっ……!」
「いいんだ……頼道のなら……んちゅ……んんぅ……。ふふ、頼道の、こんなに熱い……」
ひたむきに、ただ愛しい人のためだけに奉仕を続ける。
舌は優しく、しかし貪欲に絡みつく。
「光緑にそんな顔をされたら、熱くもなるさ」
頼道の熱を全て受けとめるように顔を寄せ、舌全体で口付けを落とした。
声は微かに鼻にかかり、艶やかな響きを帯びる。大きすぎるものを口全体で咥えるのは小柄な光緑には一苦労だったが、必死に舌を這わせ、ぺろぺろと浅く、しかし執拗に刺激を続けた。
「……光緑っ。ん、は……ああ……」
頼道の息が乱れ、指が布団をぎゅっと掴む。
汗ばんだ肌が、夜の空気に微かに震えた。
「光緑。……もう、抱かせてくれ」
はっきりと願いを口にする頼道に、光緑は優しく微笑んで頷く。
着物を脱ぎ捨て、白い肌が夜気に晒した。布団の上に横たわり、頼道の手が脚をそっと開かせる。羞恥に震える身体を、大きな体温が覆い被さるように包み込んだ。まるで守るための檻のように、愛の巣のように。
そのまま、重なった。最初は浅く、恐る恐る。柔らかく、ゆっくりと、けれど確実に、頼道は光緑の中へと侵入していく。熱い脈動が、奥底まで染み渡った。
「っ……頼道……」
「……痛いか?」
「ううん……もっと、来て……頼道を、感じたい……全部……」
唇を震わせながら、光緑は抱きしめた。
動きは深まり、温もりは強くなっていく。交わるたび、愛が擦れ合う。痛みと快楽、恥じらいと安堵が混じり、光緑の細い脚が頼道の腰に絡まり、奥へ、奥へと導いてくる。
頼道に抱かれている。
頼道を愛している。
頼道に世界の全てをあげてもいい――そう思えるほど光緑は絡まり、縋っていた。
「頼道……好き……好きだよ……」
「俺も、お前が……たまらないくらい、大事だ」
唇が、深く落ちた。ただの口付けではなく、重く切ない熱を宿した、魂の交わり。
大きな体で覆い重なられ、呼吸を奪われ、何も動けなくなる。
それでも拒まない。むしろ、もっと深く、もっと近くと両腕で頼道の首に絡みついた。腰をゆっくりと引き、再び深く押し入れるたびに、光緑の喉が甘く鳴る。
「頼道の……重さが、嬉しい……ねえ、もっと……もっと、感じたい……」
「……そんなこと言うな、止まれねえ」
頼道の動きが、少しずつ激しくなる。
大きな手が光緑の腰を支え、もう一方が背中を撫で、彼の体温を奪うように包み込む。ぎゅっと締めつける感触と、奥で重なる熱。そのたびに、光緑の身体がぴくんと反応し、甘い痺れが全身を駆け巡った。
囁き合う声が絡み、唇と唇が何度もぶつかり合う。頼道は光緑の頰に汗混じりの口付けを落とし、首筋、鎖骨、胸元へと舌で辿った。湿った軌跡が、肌に火を灯す。
「やっ……あっ! 大好き……頼道……全部……壊して……」
全身で交わる感触が、心の奥まで響き渡る。光緑は、涙混じりに微笑む。
誰にも見せたくない、誰にも渡したくない。この胸の中で、ずっと……ずっと眠っていたくなった。
――衝撃が、意識を裂いた。
息が零れる。胸の奥が焼けつくように疼き、視界の輪郭が波打つ。
光緑は薄く瞼を開け、天井を見上げた。磨き上げられた金の仏具、朱塗りの柱。極楽を模した地獄のように、華美で冷たい。改修を終えたばかりの広間は、どこまでも人工的な静けさに満ちていた。
そこは、頼道と暮らした山里ではない。あの温もりの腕も、額に触れた唇も、何ひとつ存在しなかった。
代わりに残されたのは、痺れるような脱力と、皮膚の下をちかちかと走る痛み。
自分は倒れ、ただ力尽きただけなのだ。逃げる術も、拒む力も持たず、与えられた快楽の毒に沈み、意識を奪われた。
(……夢……?)
あれは、幸福に見せかけられた毒だった。
頼道の声も、優しい手も、安らぎの吐息も、すべて夢が見せた幻。
現実に戻った途端、胸の奥が冷たく締め付けられる。
(現実に戻ってこられたと思ったのに……あれが……夢で……)
悪夢だと信じたものが、本当の世界。
身体の奥を鈍痛が走る。夢では優しさだった感触が、現実では痛みと痣に変わっていた。
美しく抱き締められたはずの腕の痕が、残酷な縄の跡となって肌に刻まれている。
(嫌だ……頼道と、もう一度、あの場所で……)
涙が零れ落ちた。誰の手もない世界で、嗚咽だけが小さく響く。
もしもう一度眠れば、夢の中で頼道に会えるだろうか。
あの声を、もう一度聞きたい。
あの腕の中で、ただ眠りたい。
(会いたい……)
頼道に。
今まで頼道がいたから我慢できた。隣に居て守ってくれていた彼。傍にいてくれたから、ずっと苦痛に耐えてきた。でも、もう。
(会いたい……触れてほしい。頼道。僕には、お前が必要なのに……)
七年待て――あの日の約束が、虚しく胸に響く。
七年の間に自分が死ねば、もう二度と会えない。
死なずにいても、自分はきっともう自分ではなくなってしまう。
(会いたい。会いたい。ずっと傍にいてほしい。僕の傍に。永遠に……)
暴力で言葉を削られ、恥辱で感情を研がれ、それでも生かされた。当主としての形を残すために。
度重なる陵辱で、手も足も、意志に従ってくれなかった。だからできることと言えば、体を地に伏せたまま、心の奥で大事な名を呼ぶだけ。
そこへ、足音が落ちてきた。
踏み下ろされる音。それだけで、光緑の背がびくりと震えた。
冷えた空気が裂かれ、そこに立つ影が一つ。
父だった。仏田和光。仏田家の絶対者。家を支配する権威の象徴であり、呪いそのもの。光緑を、藤春を、柳翠を、そして家そのものを掌に握り潰してきた男。彼は――人間ではなく、悪魔だった。
堕落を愛し、快楽を糧とし、苦痛の叫びを嗤って聴く者。目の奥に宿るのは、理性でも激情でもない。空洞。闇に浮かぶ二つの瞳だけが、燃え残った灯火のように揺れている。
その和光が、何も言わない。
倒れ伏す光緑を見下ろし、口の端を歪めた。
光緑は息を止めた。何をされるのか分からない。痛みか、辱めか、それとも死か。和光の唇が、震えた。
「……会いたい」
その声は、遠い夢の残響のようだった。
光緑への言葉ではない。もっと別の、見えぬ誰かに向けられている。
「あの女と。いっしょに」
光緑は目を瞬いた。
父の焦点は虚空に彷徨い、現実を見ていなかった。
「違う……違うんだ……!」
声が歪む。和光は片手で己の肩を抱き、もう片方の手で空を掴む。
見えぬ誰かを追い払うように、身を震わせる。
「オレは……あいつとは、終わった。あいつとは……もう縁を切った……」
その声は、懺悔にも似ていた。
だが誰に向けたものでもない。何かに向けられていたが、光緑には分からず、その変貌を息を呑んで見つめた。
泣き叫ぶような声。それは、人間の涙ではなかった。
「もう、あいつの傍にはいられない……。オレは……手を汚しすぎた……会えない……会えないんだよ……! 違う、それは……オレの声じゃない……」
和光は自らの頭を抱え、蹲った。
「うるさい、黙れ! もう……もう、オレの中で喋るな!! これはオレの体だぞ!? お前らのものじゃねえ!」
拳で自分の頭を打ちつける。骨の鳴る音が室内に響いた。
威厳でも恐怖でもなかった。ただ、狂気――精神を喰らう闇が人の皮を被って蠢いていた。
光緑は身を起こせない。殴られ、辱められ、言葉で内側を削られ続けた身体は、もはや人の形を保つだけの殻だった。
和光が影を伸ばす。その足元の闇が蛇のように這い寄る。
される――今日もまた、何かを奪われる。そう覚悟したその瞬間。
「……会いたい。あの女と、いっしょに……」
和光の目は彼を見ていない。
闇の中の誰かに、脳裏に巣食う何かに、喋りかけていた。
「あいつは……もうオレと会っちゃいけないんだよ……! 会いたい……! もう、あいつの傍にはいられない……! 違うっ!! それはオレの声じゃない!! うるさい!! 黙れ!! もう……オレの中で喋るなああああっ!!」
唇が泡立ち、声が次第に軋む。
和光は虚空から短い刃――儀式用の短刀を抜き放ち、自らの左腕をざくりと裂いた。
肉が割れ、血が噴いた。光緑は反射的に体を引こうとしたが、力は残っていない。
和光は血を滴らせた腕を振りかざし、狂ったように叫んだ。
「継承だ、光緑……! お前に、当主をやる! 空っぽになったお前の器なら、こいつらはきっと馴染む……! 全部受け取れッ!!」
噴き出す血の中から、切り裂かれた筋肉を指で掴む。
彼はそれを千切った。赤黒く脈打つ肉を光緑の口へと押し込む。
「これで……オレは、自由だ!!」
拒む力など、もう残っていない。
虚ろな目で光緑は、父の肉を噛み、嚥下した。熱と血と皮脂が舌に絡まり、喉を焦がす。嗚咽も抵抗も、生理的な嫌悪すら、どこか遠くにあった。
会いたい。
耳ではない。胸の内でもない。脳の芯に、声が流れ込んできた。
無数の声。低く、熱く、叫びのように、嗚咽のように。
――会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会いたい。
全身の毛穴から溶け出すように、声が体を侵す。指先が痺れ、視界が白濁する。食べたのは肉ではなかった。魂だった。彼の狂気ごと、和光という男の全てが流れ込んできた。
混乱の中で、ただ一つ、浮かび上がった。
頼道。
会いたい。あの夜、あの時、あの腕の温もり。何度も何度も、呼びかけたくなる名前。
心身ともに衰弱し、空っぽとなりつつあった心にある声がひたひたと満たされていく。光緑は、呟いた。
――僕も、同じだよ……君達と……同じ……。
大好きな人に会いたい。
呟きは静かに、深く、自らの意志で狂気の海に身を沈める音だった。
◆
血潮の生温さが肌を這い、焼けつくような熱を残して広がっていく。
その中で、光緑は緩やかに――まるで操り糸を辿るように――立ち上がった。
「……なんだ、この体は?」
崩れていた膝は、確かな重力を取り戻していた。衣の裾が風を孕み、血に染まった前裾が静かに揺れる。
その姿は『生きた人間』ではない。『再構成された存在』として、そこにいる。
目には涙が無い。怯えも痛みも、叫びも消え去り、氷のように澄んだ光だけが宿す。
和光は、その場に腰を下ろしていた。
廃人のように虚空を見上げるその男を、光緑は見据える。もはや父を父とも認識せず、まるで異物を見るように、無垢な眼差しで。
「驚いた、こんなにも完成された器があるなんて……。今代の当主は、よく出来た術師のようだ」
声は、確かに光緑のものだった。
だが響きの奥には、別の者の息が混じっている。声帯は同じでも、漏れる魂の温度が違っていた。
「ふん、和光もよくオレを引き剝がせたもんだ。最後まで面倒な男だったなあ! クソが! ……ああ、父上。お勤めご苦労様でした」
激昂する言葉から一転し、氷のような皮肉。
そこには情感が消えていた。
「本日をもって、私が仏田家の当主を継承いたします。魂は、既にこの身に受け取りました。貴方が俗世で生かしていた智慧も、肉も、血も……全て、私の中で処理され、再構成されました」
何かを言おう和光の口が震えるが、声にはならなかった。
口元からは涎が垂れ、眼球だけが微かに震えている。
「どうぞ、安らかにお休みください。貴方が築いた機関は、さらに発展させましょう。今まで通り、仏田家は守ります。……いいや、成長させてみせるさ。我々は、ついに千年を迎える。始祖の遺した意志を遂げ、世界の終わりまで見届けてやろう」
眼差しは地へ、内なる闇へと根を下ろす。
「……このオレが、全ての当主の意志を継ぎますとも」
微笑が浮かぶ。それは、人の感情が刻む笑みではなかった。
幾つもの魂を呑み込み、個を失った器が見せる、恐ろしくも純粋な肯定の表情。
仏田家の中にあった光緑という個人は、完全に死んだ。
そこに立っていたのは仏田家の意志そのもの――血を継ぎ、肉を呑み、千年を歩くためだけの器だった。
「……しかし、この器……優秀ではあるが、もって十数年、というところだな。せっかく千年まで、あと少しというのに……惜しいなあ」
細い指が、美しい輪郭をなぞる。
手の動きはまるで、鏡の中の自分を愛おしげに撫でる少女のよう。
「なら、早く後継者を作ろう。これほど優秀な器だ。良い子を継げるはず」
目線は遠い。空の、誰にも届かぬ彼方を見ている。
まるで既に次の“器”を見据えているかのように。
「とっとと子作りさせて、次に進ませよう。それがいい。……効率的だ」
声に湿り気が混じった。それは感情ではない。
血の底から立ち上る熱。生殖という本能を、冷徹に計算する悪魔の知性。
「外堀は……有栖がうまく整えてくれるだろ。あの女ならやってくれる。昔から、お利口だったしなあ」
今回もよくやってくれたし、と愛おしげに女の名を口にし、微笑む。
そして、吐息に似た囁きが零れる。
「……早く会いたい」
声の先に、誰もいない。
けれどそこには確かに“誰か”を待つ熱があった。
それは祈りでも恋でもなく――血に刻まれた呼び声。
「早く会いたいな」
涙を流して名を呼んだ光緑は、もういない。
いま此処に立つのは、無数の声を宿し、欲望と宿命を昇華した一つの器。
その笑みは――悪魔のように残酷で、純粋だった。千年の呪いが、今、確かに息を吹き返した。
◆
山々に抱かれた仏田の地にも、いつしか風景の一部として馴染んでしまったものがある。
硝子と鋼で組まれた巨大な複合研究施設――超人類能力開発研究所機関。
外から見れば、新薬や生体医療を担う最先端の研究拠点。実態は、魔術理論と異能技術を交錯させた、神と人との領分を踏み越えるための実験場である。
所長となった上門の巧みな舵取りにより、施設は国際特区の指定を受け、政府直轄の肝煎りとして、世界的な企業群と資本提携を結ぶに至った。
そして、その顔となったのが、仏田光緑である。
政治、経済、宗教、学術。どの世界でも彼の名を知らぬ者はいなかった。
裏の家業を取り仕切る叔父たち、財界に顔を持つ後継者たち、海外資本の重鎮たち。誰もがその若き当主の才を称え、笑顔の裏で頭を垂れた。
一方、犬伏頼道もまた、己の務めを果たしていた。
仏田寺の僧として法務を行いながら、研究所と寺との緩衝帯、つまり仏田の良心としての役割を担っていた。
来客の応対、供養の司宰、境内の整備、地元との交渉。その全てが、仏田という巨大な機構の「表の顔」を支える仕事であった。
頼道が立っているだけで、人々は安堵した。
彼の存在は、魔に傾いた家の正統性を保証する聖域のように扱われた。
気づけば、日々は濁流のように過ぎていた。
藤春は静かな青年へと変わっていた。感情を押し殺し、与えられた仕事を淡々とこなす姿に、誰もが「次男としては上出来だ」と頷いた。
柳翠は成人し、整った顔立ちの男となり、一族随一の才能を示していた。
彼が受け継いだ“ある秘術は、仏田家の千年の系譜を繋ぐ要とされ、応用実験棟の副主任に抜擢されるほどだった。
光緑の子どもたちも順調に成長していた。
長子・燈雅は病弱ながらも幼くして異能を操り、次子・志朗は学業全てで主席を収め、末子・新座も非凡な資質を示していた。
――全てが整然と、計画的に進んでいた。
穏やかで、恵まれた日々。多忙ではあったが、順調だった。
誰もが言った――「皆、立派になった」と。
だが時折。本堂の畳を掃くとき、ふと胸の奥に影が過る。
あの頃の記憶。土の匂い、夜風の冷たさ。震える声も出せずに寄り添うしかなかった思い出。
己を犠牲にして弟を守ろうとした彼は、いったいどこへ消えたのか。
繁栄とは、いったい何を犠牲にして築かれるのだろうか。人は記憶とともに成長するのではなく、記憶を捨てることで成熟できるのだろうか、と。
どんなに思考しても、忙しさは多くを押し流していく。
朝が来れば、また来客がある。鐘が鳴り響けば、僧たちが一斉に動き出す。縁側の拭き掃除、式の支度、来訪者の応対、境内の管理。住職となった犬伏頼道には、日々やることがあった。
仏田家の当主・光緑と公式の場で顔を合わせることは、多い。
研究所の記念式典、寺での供養、政財界の名士との会合。互いに視線を交わし、形式的な言葉を交わし、儀式を進めていく。かつての秘密も、夜の誓いも、もう誰の口にも上らない。
光緑は一族を束ね、頼道は地域を守る。
藤春は結社の外に出て、柳翠は未来の理を築く。
何もかもが機能していた。傷ついた歯車であっても、組み込まれた仕組みの中で、正確に回り続けていた。
仏田家という巨大な機構は、静かに、絶え間なく繁栄していった。
――その繁栄の地の底に、かつて交わされた約束と涙が埋もれていることを、誰ひとり口にする者はいなかった。
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夏の午後。蝉の声が仏田寺の外に満ちていたが、ざわめきは屋敷の奥までは届かない。
真夏でも日の差さない座敷は、薄闇と涼けさに包まれている。母の膝に凭れた三、四歳の藤春がころころと笑い、小さな掌で母の膨らんだ腹を撫でた。
「ここ、赤ちゃん、いるの?」
「ええ、そうよ。藤春はもうすぐお兄ちゃんになるの」
母――仏田泉美は、白い指で藤春の髪を撫でた。絹のように柔らかな髪が指の間をこぼれ落ち、藤春は目を輝かせてはしゃぐ。
「にぃに、にぃに! ここ、赤ちゃんいる!」
声に応えて、少し離れた場所に座る光緑が微笑んだ。少年にしては大人びた顔つきで、眼差しには既に母と同じ慈しみの光が宿っている。
「光緑、藤春。二人で協力して、この子を守ってあげてね」
白い着物を纏った泉美は、膨らんだ腹を抱いた。薄明の中の姿は、菩薩のようだった。
「光緑。貴方は、私によく似ているわ」
呼ばれた名に、光緑は背筋を正した。母の声音はやわらかく、それでいて心の奥底まで届く力を持っている。
「顔だけじゃなく、異能の強さも、血の濃さも。そっくりだからこそ、貴方は人を傷つけるかもしれない」
「傷つける……? 母上は、一度も誰かを傷つけたことなどないでしょう」
「いいえ。私だけでなくこの家の血は、人間を容易く壊してしまう力を持っている。癒やせる力が強いほど、壊す力も強い。だから……貴方はここで生きなさい。血を繋ぎ、見守るだけの者として」
光緑は俯いた。
母のように誰かを包みこむ優しい目を持ちたかった。けれど「ここで生きろ」という言葉は、これ以上「何も望むな」という戒めに聞こえた。
「……はい、母上。僕は、母上のお言葉に従います」
その隣で、藤春が無邪気に笑いながら母の腹を撫でている。
「ねえ、赤ちゃん。早く出てきて。にぃにと遊ぼ」
幼い声に泉美も光緑も微笑んだが、その笑顔の裏にある不安を言葉にはしなかった。
泉美の身体は弱かった。光緑を産んだ時点で、医師たちはもう出産は危険だと告げていた。
けれど十年後、現当主である夫――仏田和光が寺に戻り、唐突に「もう一人産め」と命じた。彼女の身体を気遣うこともなく、ただ血統のために。
泉美は従順にその命を受け入れた。三人目の子を宿したのは、もはや奇跡に近いことだった。
奇跡は二度とは訪れない。命を削りながら子を宿している。
この出産が終われば、母はもう「役目を終える」。胸の奥が重く沈んだ光緑は、その事実を直視できず、目を伏せる日々を送る。
父が母を優しく扱うところを、光緑は一度も見たことがなかった。愛する姿など想像できず、母はただ血の器としての役目を果たすよう命じられただけ。
――自分たちは、ただ血を継いでいくだけ。それ以上の生を、望んではいけない。
無垢な笑顔で母に甘える藤春を見つめながら、その幸福を壊さぬよう、ただ静かに母の声を聞き続けていた。
夕暮れが、仏田寺の屋根を金に染めていく。寺の住職・依貞が、丸くなった腹を抱える泉美のもとを見舞いに訪れた。
その傍らには、息子の頼道がいる。着物の袖に夏の匂いを染み込ませた少年は、丁寧に正座し、父の言葉を聞く姿が凛々しかった。
いくつかの挨拶と近況を交わしたのち、泉美は頼道へ手招きをする。
「頼道くん。光緑のことを、これからもよろしくね」
背筋を伸ばす頼道。少年らしい純粋で真剣な眼差しが、薄明かりの中で一際きらめく。
「お任せください。絶対に俺が光緑様をお守りします。隣で……ずっと」
その言葉の真っ直ぐさに、光緑の胸が温かくなった。
年も同じ少年のはずなのに、頼道の声音には不思議な重みと誠実さが宿っている。
「僕も、頼道がいれば……大丈夫です。頼道がいてくれたら、百人力ですから」
言いながら光緑は頬を染め、恥ずかしそうに俯いた。
母は二人を見比べ、目を細めて微笑む。
「ふふ……頼もしいわね。貴方たちが一緒なら、ずっとこの家の封印を守っていけるわ」
言葉の意味をまだ深く理解できぬまま、二人は顔を見合わせ、照れくさそうに笑う。
風も暑さも忘れたその一刻、静かな約束が二人の間をそっと通り過ぎていった。
◆
――隣にいて守ると言ってくれた。あの約束は、何だったのだろう。
思いたくもない問いを、光緑は幾度も胸の中で繰り返していた。
鍛錬のため、七年の修行へと旅立った頼道。あの日、大きな背を見送るふりをしながら、心の底では何度も叫んでいた――行かないで、と。
頼道が去ったその直後から、再び地獄は始まった。「寺に居る味方に光緑を守るよう呼びかけた」と頼道は言っていたが、彼らは何も出来なかった。父の命により、光緑の身は多くの者たちの手に渡された。
低く笑う父の声が、何度も耳を刺す。
「お前の肉体が仏田家の繁栄にどれほど役立つか、分かるな?」
昼は、鍛錬と称した陵辱。父の配下を名乗る教育係たちに、夜が来るまで快楽を躾られる。
「当主のご命令だ。光緑様を娼婦として育てろとな」
「そんな美しい顔をしているのだから、人を悦ばせる術を覚えるのです」
「ほら、昨日のように乱れてごらんなさい。昨晩の喘ぎ声、可愛らしかったですよ」
叱責と命令が交錯する声が、耳の奥にこびりつく。
部屋の外に手を伸ばしたこともあった。助けてと懇願を、何度もした。どんなに嫌と訴えても、男たちは何度も光緑を犯した。
そして夜は、札束を積まれ、欲望に彩られた饗宴が始まる。
「なんという美貌。その顔が涙で濡れるところを見せてくれ」
「奇跡の力を見せてみろ。そのために金を払っているのだ」
「何人も咥えておきながら、いつまで経っても清らかな処女のよう」
――かつて「外の世界に触れたい」と願った。「人のためにこの力を使いたい」と頼道に語ったこともあった。
けれど、その願いがこんな形で果たされるとは、夢にも思わなかった。
拒めば、藤春と柳翠に同じ目を向けると脅された。自分だけが汚れれば、弟たちは救われる――そう信じることでしか、心を保てなかった。
身を捧げるたび、母の言葉が胸を刺す。これが母の約束を破り、頼道を追いかけて外に出た報いなのだろうか。
連日、客人たちの前で辱められ、体を引きずりながら自室に戻る。
頼道の部屋はもう空っぽで、彼の気配すら残っていない。だからたったひとりの畳の上で、声にならない嗚咽を漏らすしかない。
膝が崩れ落ち、震える手で唇を押さえ、涙を堪える。屋敷に響くのは、父の命令を遂行する者たちの足音と、縄や鎖の軋む音だけ。
(……助けて……頼道……)
名を呼んでも、誰にも届かない。
日々が続く。泣きながら朝を迎え、また男たちに縄で縛られ、首輪を引かれ、羞恥に震えるしかない昼が始まる。
肌を掠める荒い手。耳を裂くような声。逃げ場のない重み。怖い。嫌だ。苦しい。――それでも、心だけは壊れてしまわぬように、光緑はひとつの幻想に縋りついた。
(……これは、頼道だ……)
目を閉じれば、粗暴な掌は逞しい腕に、押しつけられる体の重みは、頼道の温もりに変わる。
縄の擦れる痛みさえ、頼道の手が自分を抱き寄せている証のように錯覚した。
耳を打つ荒い息遣いは、懐かしい頼道の低い呼吸音となり、恐怖の輪郭を和らげていく。
(頼道は、こんなふうに求めてくれなかった。……いつも優しくて、遠慮して、触れることすら躊躇っていたのに)
今は違う。激しく執拗に、まるで「お前が必要だ」と叫ぶように、誰かの手が自分を掴んで離さない。
嫌悪と痛みの奥で、光緑の胸に熱い幸福が密かに灯る。
現実では決して訪れなかった光景。頼道が、こんなにも自分を求めてくれる日が来るなんて。
(……夢が叶ったみたいだ。……大好きだよ、頼道……)
蹂躙されながらも、光緑は幻の幸福に身を委ね、眠ることを覚えた。
苦しみと恐怖の只中で見出した幻想は、残酷なほど甘やかで、泣きたくなるほど優しい夢だった。
日が経つにつれ、心はますます深く幻に沈んでいく。
乱暴に引き寄せられる感覚は、逞しい腕の抱擁に変わり、粗野な声は少年の頃から恋い慕った声に変わる。
淫らだと嘲られる言葉でさえ、「傍にいる」という約束に聞こえた。
優しく慎重で、決して踏み込んでこなかった頼道が、今は自分を強く抱いてくれている。
そう信じることでしか、生き延びる術がなかった。
誰がそこにいようと、何を奪われようと、関係ない。幻だけが安らぎの檻。自ら甘美な牢獄へと身を沈める。幸福という名の虚構に抱かれ、眠ろうとした。
――そして目を開けると、見慣れた天井があった。
天蓋も金箔も無い。改修を終えたばかりの仏田寺の、あの息苦しいほど豪奢な部屋ではない。
木の節目が残る天井板。煤けた柱。風が紙障子をやわらかく鳴らしている。
ここは、霜月村。子供達だけで暮らしていた、ひっそりとした山里の家である。
そして胸の上に落ちる布団の重み。光緑は、夢の残滓を振り払うように深く息を吸った。
「……光緑? どうした?」
名前を呼ぶ低い声がした。
顔を向けると、頼道がいた。
布団の端に座り、半身を起こした光緑を覗き込む。大きな掌が、いつものように髪を撫でる。その掌は温かく、重く、そして穏やかだった。
「なんだよ、疲れてるのか。そのまま寝てろ。お前に無理はさせられない」
その声音に、光緑の胸がじんわりと緩んだ。
――そうだ。頼道はいつだって、僕を気遣う人だった。強くて、優しくて、決して踏み込むことを急がない。
あの悪夢のような夜々で見た誰かは、どこまでも偽物だった。
優しさに包まれた瞬間、光緑は心の奥底で何かがほどけていくのを感じる。
もう、恐怖に縋る必要はない。もう、幻に頼らなくていい。
「ううん、ごめんね、頼道……」
「なんで謝ってるんだ?」
「えっと、なんでだろ、その……。頼道、頼道の口付けが、欲しいな」
頼道が噴き出す。
「なんだなんだ、いきなり! ……積極的だな」
からかう声が、どこまでも柔らかい。困ったような笑みを浮かべながらも、光緑の頬に指先を添えた。
唇が触れ合う。最初は触れるだけ。次いで、光緑から縋るように舌を伸ばす。何度も舌と舌とでお互いの存在を確かめ合い、息と息を混ぜていく。
優しい。本当に優しい。力でも命令でもなく、ただ愛おしむように交わされる温度。唇をようやく放した光緑は、頼道の胸に顔をうずめた。
すぐ傍で鳴る鼓動が、大好きな彼の存在を確かに伝えてくれる。胸の奥の恐れが、ゆっくりと溶けていった。
「……頼道。大好き……」
震える声で囁くと、頼道は照れくさげに微笑んだ。淡い光が差し込む夜の闇に、二人の息遣いが溶け合う。
「頼道……今夜は僕に、奉仕させてほしい」
夜の静けさの中で、光緑はそっと身を起こす。
これまで何度も頼道に守られてきた。そのたびに、守られることしかできない自分が悔しかった。だから今夜は、せめて自分の手で彼を癒したいと思えた。
「光緑、本気で言ってるのか?」
頷く光緑は、頼道の膝にそっと触れる。帯を緩め、慎重に、壊れ物を扱うように肌へと指を滑らせる。
布越しに感じる熱。雄々しいものを露わにすると、迷いなく舌先を伸ばした。そっと触れるたび、頼道の吐息が微かに揺らぐ。
「んっ……」
「お、おい、そんな、いきなりっ……!」
「いいんだ……頼道のなら……んちゅ……んんぅ……。ふふ、頼道の、こんなに熱い……」
ひたむきに、ただ愛しい人のためだけに奉仕を続ける。
舌は優しく、しかし貪欲に絡みつく。
「光緑にそんな顔をされたら、熱くもなるさ」
頼道の熱を全て受けとめるように顔を寄せ、舌全体で口付けを落とした。
声は微かに鼻にかかり、艶やかな響きを帯びる。大きすぎるものを口全体で咥えるのは小柄な光緑には一苦労だったが、必死に舌を這わせ、ぺろぺろと浅く、しかし執拗に刺激を続けた。
「……光緑っ。ん、は……ああ……」
頼道の息が乱れ、指が布団をぎゅっと掴む。
汗ばんだ肌が、夜の空気に微かに震えた。
「光緑。……もう、抱かせてくれ」
はっきりと願いを口にする頼道に、光緑は優しく微笑んで頷く。
着物を脱ぎ捨て、白い肌が夜気に晒した。布団の上に横たわり、頼道の手が脚をそっと開かせる。羞恥に震える身体を、大きな体温が覆い被さるように包み込んだ。まるで守るための檻のように、愛の巣のように。
そのまま、重なった。最初は浅く、恐る恐る。柔らかく、ゆっくりと、けれど確実に、頼道は光緑の中へと侵入していく。熱い脈動が、奥底まで染み渡った。
「っ……頼道……」
「……痛いか?」
「ううん……もっと、来て……頼道を、感じたい……全部……」
唇を震わせながら、光緑は抱きしめた。
動きは深まり、温もりは強くなっていく。交わるたび、愛が擦れ合う。痛みと快楽、恥じらいと安堵が混じり、光緑の細い脚が頼道の腰に絡まり、奥へ、奥へと導いてくる。
頼道に抱かれている。
頼道を愛している。
頼道に世界の全てをあげてもいい――そう思えるほど光緑は絡まり、縋っていた。
「頼道……好き……好きだよ……」
「俺も、お前が……たまらないくらい、大事だ」
唇が、深く落ちた。ただの口付けではなく、重く切ない熱を宿した、魂の交わり。
大きな体で覆い重なられ、呼吸を奪われ、何も動けなくなる。
それでも拒まない。むしろ、もっと深く、もっと近くと両腕で頼道の首に絡みついた。腰をゆっくりと引き、再び深く押し入れるたびに、光緑の喉が甘く鳴る。
「頼道の……重さが、嬉しい……ねえ、もっと……もっと、感じたい……」
「……そんなこと言うな、止まれねえ」
頼道の動きが、少しずつ激しくなる。
大きな手が光緑の腰を支え、もう一方が背中を撫で、彼の体温を奪うように包み込む。ぎゅっと締めつける感触と、奥で重なる熱。そのたびに、光緑の身体がぴくんと反応し、甘い痺れが全身を駆け巡った。
囁き合う声が絡み、唇と唇が何度もぶつかり合う。頼道は光緑の頰に汗混じりの口付けを落とし、首筋、鎖骨、胸元へと舌で辿った。湿った軌跡が、肌に火を灯す。
「やっ……あっ! 大好き……頼道……全部……壊して……」
全身で交わる感触が、心の奥まで響き渡る。光緑は、涙混じりに微笑む。
誰にも見せたくない、誰にも渡したくない。この胸の中で、ずっと……ずっと眠っていたくなった。
――衝撃が、意識を裂いた。
息が零れる。胸の奥が焼けつくように疼き、視界の輪郭が波打つ。
光緑は薄く瞼を開け、天井を見上げた。磨き上げられた金の仏具、朱塗りの柱。極楽を模した地獄のように、華美で冷たい。改修を終えたばかりの広間は、どこまでも人工的な静けさに満ちていた。
そこは、頼道と暮らした山里ではない。あの温もりの腕も、額に触れた唇も、何ひとつ存在しなかった。
代わりに残されたのは、痺れるような脱力と、皮膚の下をちかちかと走る痛み。
自分は倒れ、ただ力尽きただけなのだ。逃げる術も、拒む力も持たず、与えられた快楽の毒に沈み、意識を奪われた。
(……夢……?)
あれは、幸福に見せかけられた毒だった。
頼道の声も、優しい手も、安らぎの吐息も、すべて夢が見せた幻。
現実に戻った途端、胸の奥が冷たく締め付けられる。
(現実に戻ってこられたと思ったのに……あれが……夢で……)
悪夢だと信じたものが、本当の世界。
身体の奥を鈍痛が走る。夢では優しさだった感触が、現実では痛みと痣に変わっていた。
美しく抱き締められたはずの腕の痕が、残酷な縄の跡となって肌に刻まれている。
(嫌だ……頼道と、もう一度、あの場所で……)
涙が零れ落ちた。誰の手もない世界で、嗚咽だけが小さく響く。
もしもう一度眠れば、夢の中で頼道に会えるだろうか。
あの声を、もう一度聞きたい。
あの腕の中で、ただ眠りたい。
(会いたい……)
頼道に。
今まで頼道がいたから我慢できた。隣に居て守ってくれていた彼。傍にいてくれたから、ずっと苦痛に耐えてきた。でも、もう。
(会いたい……触れてほしい。頼道。僕には、お前が必要なのに……)
七年待て――あの日の約束が、虚しく胸に響く。
七年の間に自分が死ねば、もう二度と会えない。
死なずにいても、自分はきっともう自分ではなくなってしまう。
(会いたい。会いたい。ずっと傍にいてほしい。僕の傍に。永遠に……)
暴力で言葉を削られ、恥辱で感情を研がれ、それでも生かされた。当主としての形を残すために。
度重なる陵辱で、手も足も、意志に従ってくれなかった。だからできることと言えば、体を地に伏せたまま、心の奥で大事な名を呼ぶだけ。
そこへ、足音が落ちてきた。
踏み下ろされる音。それだけで、光緑の背がびくりと震えた。
冷えた空気が裂かれ、そこに立つ影が一つ。
父だった。仏田和光。仏田家の絶対者。家を支配する権威の象徴であり、呪いそのもの。光緑を、藤春を、柳翠を、そして家そのものを掌に握り潰してきた男。彼は――人間ではなく、悪魔だった。
堕落を愛し、快楽を糧とし、苦痛の叫びを嗤って聴く者。目の奥に宿るのは、理性でも激情でもない。空洞。闇に浮かぶ二つの瞳だけが、燃え残った灯火のように揺れている。
その和光が、何も言わない。
倒れ伏す光緑を見下ろし、口の端を歪めた。
光緑は息を止めた。何をされるのか分からない。痛みか、辱めか、それとも死か。和光の唇が、震えた。
「……会いたい」
その声は、遠い夢の残響のようだった。
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「あの女と。いっしょに」
光緑は目を瞬いた。
父の焦点は虚空に彷徨い、現実を見ていなかった。
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「オレは……あいつとは、終わった。あいつとは……もう縁を切った……」
その声は、懺悔にも似ていた。
だが誰に向けたものでもない。何かに向けられていたが、光緑には分からず、その変貌を息を呑んで見つめた。
泣き叫ぶような声。それは、人間の涙ではなかった。
「もう、あいつの傍にはいられない……。オレは……手を汚しすぎた……会えない……会えないんだよ……! 違う、それは……オレの声じゃない……」
和光は自らの頭を抱え、蹲った。
「うるさい、黙れ! もう……もう、オレの中で喋るな!! これはオレの体だぞ!? お前らのものじゃねえ!」
拳で自分の頭を打ちつける。骨の鳴る音が室内に響いた。
威厳でも恐怖でもなかった。ただ、狂気――精神を喰らう闇が人の皮を被って蠢いていた。
光緑は身を起こせない。殴られ、辱められ、言葉で内側を削られ続けた身体は、もはや人の形を保つだけの殻だった。
和光が影を伸ばす。その足元の闇が蛇のように這い寄る。
される――今日もまた、何かを奪われる。そう覚悟したその瞬間。
「……会いたい。あの女と、いっしょに……」
和光の目は彼を見ていない。
闇の中の誰かに、脳裏に巣食う何かに、喋りかけていた。
「あいつは……もうオレと会っちゃいけないんだよ……! 会いたい……! もう、あいつの傍にはいられない……! 違うっ!! それはオレの声じゃない!! うるさい!! 黙れ!! もう……オレの中で喋るなああああっ!!」
唇が泡立ち、声が次第に軋む。
和光は虚空から短い刃――儀式用の短刀を抜き放ち、自らの左腕をざくりと裂いた。
肉が割れ、血が噴いた。光緑は反射的に体を引こうとしたが、力は残っていない。
和光は血を滴らせた腕を振りかざし、狂ったように叫んだ。
「継承だ、光緑……! お前に、当主をやる! 空っぽになったお前の器なら、こいつらはきっと馴染む……! 全部受け取れッ!!」
噴き出す血の中から、切り裂かれた筋肉を指で掴む。
彼はそれを千切った。赤黒く脈打つ肉を光緑の口へと押し込む。
「これで……オレは、自由だ!!」
拒む力など、もう残っていない。
虚ろな目で光緑は、父の肉を噛み、嚥下した。熱と血と皮脂が舌に絡まり、喉を焦がす。嗚咽も抵抗も、生理的な嫌悪すら、どこか遠くにあった。
会いたい。
耳ではない。胸の内でもない。脳の芯に、声が流れ込んできた。
無数の声。低く、熱く、叫びのように、嗚咽のように。
――会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会いたい。
全身の毛穴から溶け出すように、声が体を侵す。指先が痺れ、視界が白濁する。食べたのは肉ではなかった。魂だった。彼の狂気ごと、和光という男の全てが流れ込んできた。
混乱の中で、ただ一つ、浮かび上がった。
頼道。
会いたい。あの夜、あの時、あの腕の温もり。何度も何度も、呼びかけたくなる名前。
心身ともに衰弱し、空っぽとなりつつあった心にある声がひたひたと満たされていく。光緑は、呟いた。
――僕も、同じだよ……君達と……同じ……。
大好きな人に会いたい。
呟きは静かに、深く、自らの意志で狂気の海に身を沈める音だった。
◆
血潮の生温さが肌を這い、焼けつくような熱を残して広がっていく。
その中で、光緑は緩やかに――まるで操り糸を辿るように――立ち上がった。
「……なんだ、この体は?」
崩れていた膝は、確かな重力を取り戻していた。衣の裾が風を孕み、血に染まった前裾が静かに揺れる。
その姿は『生きた人間』ではない。『再構成された存在』として、そこにいる。
目には涙が無い。怯えも痛みも、叫びも消え去り、氷のように澄んだ光だけが宿す。
和光は、その場に腰を下ろしていた。
廃人のように虚空を見上げるその男を、光緑は見据える。もはや父を父とも認識せず、まるで異物を見るように、無垢な眼差しで。
「驚いた、こんなにも完成された器があるなんて……。今代の当主は、よく出来た術師のようだ」
声は、確かに光緑のものだった。
だが響きの奥には、別の者の息が混じっている。声帯は同じでも、漏れる魂の温度が違っていた。
「ふん、和光もよくオレを引き剝がせたもんだ。最後まで面倒な男だったなあ! クソが! ……ああ、父上。お勤めご苦労様でした」
激昂する言葉から一転し、氷のような皮肉。
そこには情感が消えていた。
「本日をもって、私が仏田家の当主を継承いたします。魂は、既にこの身に受け取りました。貴方が俗世で生かしていた智慧も、肉も、血も……全て、私の中で処理され、再構成されました」
何かを言おう和光の口が震えるが、声にはならなかった。
口元からは涎が垂れ、眼球だけが微かに震えている。
「どうぞ、安らかにお休みください。貴方が築いた機関は、さらに発展させましょう。今まで通り、仏田家は守ります。……いいや、成長させてみせるさ。我々は、ついに千年を迎える。始祖の遺した意志を遂げ、世界の終わりまで見届けてやろう」
眼差しは地へ、内なる闇へと根を下ろす。
「……このオレが、全ての当主の意志を継ぎますとも」
微笑が浮かぶ。それは、人の感情が刻む笑みではなかった。
幾つもの魂を呑み込み、個を失った器が見せる、恐ろしくも純粋な肯定の表情。
仏田家の中にあった光緑という個人は、完全に死んだ。
そこに立っていたのは仏田家の意志そのもの――血を継ぎ、肉を呑み、千年を歩くためだけの器だった。
「……しかし、この器……優秀ではあるが、もって十数年、というところだな。せっかく千年まで、あと少しというのに……惜しいなあ」
細い指が、美しい輪郭をなぞる。
手の動きはまるで、鏡の中の自分を愛おしげに撫でる少女のよう。
「なら、早く後継者を作ろう。これほど優秀な器だ。良い子を継げるはず」
目線は遠い。空の、誰にも届かぬ彼方を見ている。
まるで既に次の“器”を見据えているかのように。
「とっとと子作りさせて、次に進ませよう。それがいい。……効率的だ」
声に湿り気が混じった。それは感情ではない。
血の底から立ち上る熱。生殖という本能を、冷徹に計算する悪魔の知性。
「外堀は……有栖がうまく整えてくれるだろ。あの女ならやってくれる。昔から、お利口だったしなあ」
今回もよくやってくれたし、と愛おしげに女の名を口にし、微笑む。
そして、吐息に似た囁きが零れる。
「……早く会いたい」
声の先に、誰もいない。
けれどそこには確かに“誰か”を待つ熱があった。
それは祈りでも恋でもなく――血に刻まれた呼び声。
「早く会いたいな」
涙を流して名を呼んだ光緑は、もういない。
いま此処に立つのは、無数の声を宿し、欲望と宿命を昇華した一つの器。
その笑みは――悪魔のように残酷で、純粋だった。千年の呪いが、今、確かに息を吹き返した。
◆
山々に抱かれた仏田の地にも、いつしか風景の一部として馴染んでしまったものがある。
硝子と鋼で組まれた巨大な複合研究施設――超人類能力開発研究所機関。
外から見れば、新薬や生体医療を担う最先端の研究拠点。実態は、魔術理論と異能技術を交錯させた、神と人との領分を踏み越えるための実験場である。
所長となった上門の巧みな舵取りにより、施設は国際特区の指定を受け、政府直轄の肝煎りとして、世界的な企業群と資本提携を結ぶに至った。
そして、その顔となったのが、仏田光緑である。
政治、経済、宗教、学術。どの世界でも彼の名を知らぬ者はいなかった。
裏の家業を取り仕切る叔父たち、財界に顔を持つ後継者たち、海外資本の重鎮たち。誰もがその若き当主の才を称え、笑顔の裏で頭を垂れた。
一方、犬伏頼道もまた、己の務めを果たしていた。
仏田寺の僧として法務を行いながら、研究所と寺との緩衝帯、つまり仏田の良心としての役割を担っていた。
来客の応対、供養の司宰、境内の整備、地元との交渉。その全てが、仏田という巨大な機構の「表の顔」を支える仕事であった。
頼道が立っているだけで、人々は安堵した。
彼の存在は、魔に傾いた家の正統性を保証する聖域のように扱われた。
気づけば、日々は濁流のように過ぎていた。
藤春は静かな青年へと変わっていた。感情を押し殺し、与えられた仕事を淡々とこなす姿に、誰もが「次男としては上出来だ」と頷いた。
柳翠は成人し、整った顔立ちの男となり、一族随一の才能を示していた。
彼が受け継いだ“ある秘術は、仏田家の千年の系譜を繋ぐ要とされ、応用実験棟の副主任に抜擢されるほどだった。
光緑の子どもたちも順調に成長していた。
長子・燈雅は病弱ながらも幼くして異能を操り、次子・志朗は学業全てで主席を収め、末子・新座も非凡な資質を示していた。
――全てが整然と、計画的に進んでいた。
穏やかで、恵まれた日々。多忙ではあったが、順調だった。
誰もが言った――「皆、立派になった」と。
だが時折。本堂の畳を掃くとき、ふと胸の奥に影が過る。
あの頃の記憶。土の匂い、夜風の冷たさ。震える声も出せずに寄り添うしかなかった思い出。
己を犠牲にして弟を守ろうとした彼は、いったいどこへ消えたのか。
繁栄とは、いったい何を犠牲にして築かれるのだろうか。人は記憶とともに成長するのではなく、記憶を捨てることで成熟できるのだろうか、と。
どんなに思考しても、忙しさは多くを押し流していく。
朝が来れば、また来客がある。鐘が鳴り響けば、僧たちが一斉に動き出す。縁側の拭き掃除、式の支度、来訪者の応対、境内の管理。住職となった犬伏頼道には、日々やることがあった。
仏田家の当主・光緑と公式の場で顔を合わせることは、多い。
研究所の記念式典、寺での供養、政財界の名士との会合。互いに視線を交わし、形式的な言葉を交わし、儀式を進めていく。かつての秘密も、夜の誓いも、もう誰の口にも上らない。
光緑は一族を束ね、頼道は地域を守る。
藤春は結社の外に出て、柳翠は未来の理を築く。
何もかもが機能していた。傷ついた歯車であっても、組み込まれた仕組みの中で、正確に回り続けていた。
仏田家という巨大な機構は、静かに、絶え間なく繁栄していった。
――その繁栄の地の底に、かつて交わされた約束と涙が埋もれていることを、誰ひとり口にする者はいなかった。
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「ふふ、かわいいね。」
律のお兄ちゃんな甘さに逃げたり、逃げられなかったりするあまあま義兄弟ラブコメ♡
「お兄ちゃん以外、見ないでね…♡」
ヤンデレ一途兄 律×人見知り純粋弟 悠の純愛ヤンデレラブ。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
(無自覚)妖精に転生した僕は、騎士の溺愛に気づかない。
キノア9g
BL
※主人公が傷つけられるシーンがありますので、苦手な方はご注意ください。
気がつくと、僕は見知らぬ不思議な森にいた。
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色々疑問に思いながらも、1人は寂しくて人間に会うために森をさまよい歩く。
ようやく出会えた初めての人間に思わず話しかけたものの、言葉は通じず、なぜか捕らえられてしまい、無残な目に遭うことに。
捨てられ、意識が薄れる中、僕を助けてくれたのは、優しい騎士だった。
彼の献身的な看病に心が癒される僕だけれど、彼がどんな思いで僕を守っているのかは、まだ気づかないまま。
少しずつ深まっていくこの絆が、僕にどんな運命をもたらすのか──?
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劣等アルファは最強王子から逃げられない
東
BL
リュシアン・ティレルはアルファだが、オメガのフェロモンに気持ち悪くなる欠陥品のアルファ。そのことを周囲に隠しながら生活しているため、異母弟のオメガであるライモントに手ひどい態度をとってしまい、世間からの評判は悪い。
ある日、気分の悪さに逃げ込んだ先で、ひとりの王子につかまる・・・という話です。
ヤリチン伯爵令息は年下わんこに囚われ首輪をつけられる
桃瀬さら
BL
「僕のモノになってください」
首輪を持った少年はレオンに首輪をつけた。
レオンは人に誇れるような人生を送ってはこなかった。だからといって、誰かに狙われるようないわれもない。
ストーカーに悩まされていたレある日、ローブを着た不審な人物に出会う。
逃げるローブの人物を追いかけていると、レオンは気絶させられ誘拐されてしまう。
マルセルと名乗った少年はレオンを閉じ込め、痛めつけるでもなくただ日々を過ごすだけ。
そんな毎日にいつしかレオンは安らぎを覚え、純粋なマルセルに毒されていく。
近づいては離れる猫のようなマルセル×囚われるレオン
【BL】捨てられたSubが甘やかされる話
橘スミレ
BL
渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。
もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。
オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。
ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。
特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。
でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。
理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。
そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!
アルファポリス限定で連載中
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