さわれぬ神 憂う世界

マーサー

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第3部

[53] 3部4章/1 「桜を見るたびに思い出す。」

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【3部4章】

 /1

 薄曇りの空の下、仏田寺の境内には湿った朝の匂いが漂っていた。
 本堂での勤行が終わり、僧たちが散っていく。山門前の砂利道で、頼道は竹箒を持つ。
 いつの間にか、寺にも若い僧の手が増えた。だがどれほど人手が整おうと、こうした作務だけは頼道自身の手で欠かさない。
 三十代後半となり、住職としての貫禄も身についた。だがそれでも変わらずに、朝のこの時間を大切にしていた。
「住職。失礼いたします」
 砂利を撫でる箒の音に、別の靴音が混じる。スーツ姿の男が、砂利を踏みしめて近づいてきた。
 背筋を真っ直ぐに伸ばした初老の男。仏田光緑の秘書官として長年、もう十年以上仕えている人物である。
 男は深く一礼し、声を低めて言う。
「当主様には、しばらくのご静養が必要と判断されました」
 竹箒を動かしていた頼道の手が、ぴたりと止まった。
「……静養? 当主様が?」
 風が一陣、松葉をさらっていく。
 砂利が小さく鳴り、空気が揺れた。
「近頃、発言に一貫性がなく、記憶の断絶が見られるようでございます。昨日の会議でも、予定された議題を読み違え、既に亡くなられた方の名を口にされました。声を荒らげられたかと思えば、次の瞬間には無言で立ち尽くされ……」
 男の言葉は淡々としていたが、内容は重い。
「ご家族も了承されております。当主代行職は、長男の燈雅様が継がれることに。対外的な一切の業務は、秘書部にて引き継がせていただきます」
 言葉を終えた男が、もう一度深く頭を下げる。動作の端々には、長年仕えてきた者の哀惜が滲む。
 頼道は、しばらく口を開けなかった。竹箒を握る手の震えを押し殺す。
 やがて、喉の奥で削れたような声が落ちた。
「……分かりました。燈雅くんも、もうすぐ成人。当主様の勤めを持つことはできるでしょう。何かお手伝いできることがありましたら、自分にも言ってください」
「ありがとうございます」
 そう告げた男は再び頭を下げ、静かに去っていった。
 庭に残された頼道の耳に、竹箒が風に揺れる乾いた音だけが続いていた。
 ――この十数年で仏田光緑は仏田家を、そしてあの機関を、日本屈指の組織へと押し上げた。
 冷徹な判断力、理を貫く才覚、激情を封じた冷酷さ。人間を超えたようなあの男は、いつから病に蝕まれていたのだろう。どんな兆しがあったのか。誰も気づけず、誰も止められなかったのか。
 頼道は息を吐き、竹箒を立てかけた。視線の先には、仏田寺の屋根が霞の中に浮かんでいる。
 そのさらに奥――白く光る巨大な建物が見えた。
 ガラス張りの研究棟。今も稼働を止めない、あの機関の中枢。
 朝の光が、その白を鈍く照らしていた。冷たいほどに清潔で、どこまでも無機質な輝きだった。


 午後の陽は、やわらかな金色を帯びて畳の上に降りている。
 仏田家本邸の奥。かつて権威の間であった和室は、今は療養室と呼ばれていた。
 頼道は、部屋の前で息を整える。
 磨き上げられた白木の柱、淡墨で描かれた山水の掛け軸。風に撓む紅葉が、障子越しに朱の影を投げている。季節の終わりの光が、部屋の空気をやわらかく染めていた。
 その中心に、介護用の寝具が置かれている。
 薄手の寝間着に包まれた体は、かつての威厳を思わせぬほど痩せていた。
 だが、その姿にはどこか……懐かしい透明さがあった。
 彼も頼道と同じく、年は三十代後半である。年を重ね、随分と男らしい顔立ちにはなった。細くなった肩や青白い頬が、余計に年を感じさせる。
 けれど、どこか……不思議なほど若く見えた。少年だった頃の柔らかい光を、その身にうっすらと纏っている。
 かつて世界を動かした男は、今は静かに目を閉じていた。
「頼道です。当主様のお見舞いに上がりました」
 いつも通りの声でそう言い、頼道は丁寧に頭を下げる。
「燈雅様と先ほどご挨拶をしましたが、滞りなく本日の会合には代理で出席するとのこと。予定研究所との調整も順調です。祭事の執行にも滞りはありません。どうか、心置きなくお休みください」
 そう口にしながら、頼道の目が細く揺れた。
 あまりにも痩せた頬。その現実を前に、声が自然と震える。
「こんなに痩せちまって。二十年も、馬車馬みたいに働き詰めで……無理しすぎなんだよ、お前は」
 その声音には、叱責にも似た情が滲んでいた。
 抑え込んだ焦りと、どうしようもない憐れみが、静かな部屋にこぼれる。

 当主が、ゆっくりと目を開いた。
「……頼道……なの……?」
 聞いた光緑の口元が、震える。なぜか声が、幼い。三十代後半だった男が大きく若返り、まるで小さな子供へ戻ったかのような、幼稚な言い回しだった。
 寝惚けている。冷徹に仕事一辺倒だった男にも、そんなときはあるものだ。そう思った頼道は、思わず笑って続ける。
「頼道です。まさか当主様、誰だか分からなかったんですか?」
 言いながら頼道は、目の前の男に眼差しを注ぐ。
「……眠っていたんだ。長い間……夢を見ていて……」
 瞬間、頼道の胸をひやりとしたものが撫でていった。

 言葉の調子。目の奥の光。首を傾ける仕草。
 紫色の瞳は、怯えを湛えていた。頼道を見上げるこの男の顔には、威厳の影が一切無い。
 言葉を慎重に選び、喉の奥で転がしながらも、懸命に平静を装おうとする仕草。どう見ても、長い年月を経て鍛え上げられた成人男性のそれではない。
 まるで二十年前のあの日の続きからふいに現れた、ただの少年のよう。
(そんなはずが、あるものか)
 目の前にいるのは、二十年近く、仏田家の屋台骨を支え、無数の儀式を執り行い、命と記録の重みをその背に刻みつけてきた男。家のために己を削り、感情すら棄ててきた冷徹な当主。
 それだから、自分は距離を保っていた。表の住職として、裏の当主に対して、過干渉しないと……もう、抱きしめられる距離に近づいてはいえけないと。
 もう二十年経つのだから、あの頃の記憶や感情に決着をつけようと何度も自分に言い聞かせていた。なのに。
「……頼道……」
 どうして今更、出てくる。
「夢の中で……頼道と、何も考えずに、縁側で座ってた。藤春の笑い声もあった。柳翠の拗ねた声も……何度も、何度も、聞いた」
「……なん、で」
「起きたくなかったから……でも……お前の帰りを、待ってたんだよ。……頼道、寺に帰ってきたんだね。おかえり」
 遅すぎる挨拶。二十年分の沈黙を破る、たったひとつの「おかえり」。
 いったい何年越しの言葉だ。
 怒ってもよかった。あの日の約束を破られた。もっと早く戻るべきだったと責めても良かった。
 けれど光緑の瞳は、あまりに無垢すぎた。長い苦しみを越え、ようやくこの世界に戻ってきた少年を突き飛ばす言葉など出せるわけがない。
 頼道は、ベッド脇に立ったまま動けなかった。
 長い間、立ち尽くす。ようやく喉の奥から言葉がこぼれるまでに、どれほどの沈黙が流れただろう。
 絞り出した声は掠れ、震えを帯びていた。
「……光緑も、おかえり。よく……よく、目覚めてくれたな」
 その一言に、光緑の表情がほどけた。穏やかな安堵が胸の奥まで広がったように、微笑みが浮かぶ。
 微笑みは生まれたての光のように脆く、美しい。
 光緑が躊躇いもなく、ベッドの外へと手を伸ばした。細く、震える指先。伸ばせば受け取ってもらえると信じきった、ひどく無防備な手。頼道を求めることをやめられない、儚い願いに満ちた手だった。
「頼道……もっと、僕の傍へ……」
「ああ。……お前が眠ってる間に、俺の指はちょっと不器用になっちまった。あまり上手くは動かせない。触れるだけで、いいか?」
 頼道が差し出した手は、大きく、歳を重ねた分だけ皺が深く刻まれていた。光緑は、その手にそっと頬を寄せる。
 まるで、何もかもを肯定するように。
 まるで、その手の記憶だけを頼りに帰ってきた魂が、そこへ還ってゆくかのように。
「……ありがとう、光緑」
「また……いっしょにいられるんだね」
 二人の間に深い静寂が降りた。
 長い時間の孤独や痛みを、そっと包み直すような静けさ。懐かしさと、再び始めるための優しさに満ちた沈黙。
 時を失った二人が、ようやく同じ場所へ帰り着いたことを告げる、穏やかな時間だった。

    ◆

 仏田家当主の療養室――そう名づけられて久しいその一室は、多くの訪問者を拒んだ。
 分厚い扉は外界を遠ざけ、壁に埋め込まれた防音材は、まるで内部の声すら封じこめるために存在している。
 部屋の中央には、過剰なまでに補強された医療用の寝台がひとつ。その上に、光緑がいる。
 白の寝衣を纏った彼は、数日後、両腕と両脚を絶対に解けぬ拘束具で縛られていた。
 かつて当主様と呼ばれ、あらゆる命運を握ってきた男とは思えぬ姿が、あまりに痛々しい。
 入室に付き添った機関所属の心霊医師が、頼道に「五分程度でお願いします」とだけ言い残して部屋を去る。
 残されたのは二人だけ。頼道は、思わず言葉を失った。
「……頼道? 来てくれたの?」
 老いた声のはずなのに、響きだけはあの頃のままだった。
 幼く、穏やかで、ひどく儚い光緑の声。
 頼道はようやく硬直していた身体を動かし、一歩、また一歩と近づいた。
 長く封じられていたものを押し出すように、胸の奥から零れた問いが落ちる。
「……どうして、こんなことになった?」
 光緑は首を僅かに傾け、小さく笑った。皮肉と疲労が滲む笑みだった。
「俺が秘書から聞いたのは……復帰して、会議室で暴れて、倒れちまったって」
「覚えていないんだ。会議室に入ったところまでは記憶にある……けど、気づいたら、ここだった」
 声は折れそうに弱く、それでいて妙に澄んでいる。
 眉間に寄った皺は、痛みよりも戸惑いの深さを物語っていた。
「なんだか……父上のことを思い出すよ。僕が小さかった頃は、おかしなことはなかった。酒だってあんなに飲まなかったのに……笑って、怒鳴って、物を投げて、暴れて……これも遺伝なのかな」
 仰向けに拘束された光緑の紫の双眸に、天井灯の白い光が淡く宿っていた。
 頼道は言葉を探しながら、ただ苦しげに眉を寄せる光緑の顔を見つめてしまう。
「頼道。……ついさっきまで、妻と息子が来ていたんだ」
 記憶を手探りで拾い上げるように、光緑が言葉が続く。
「今後のことを話に来たんだって。けど、内容が……少し今の僕には、難しくて」
 小さく笑った。
 その笑みには、ただ自嘲だけが光っている。
「素直にそう言ったら、二人とも分かってくれたよ。……もう僕の前では、話を控えると言ってくれた」
「光緑、それは……」
「申し訳ないとは、思ってる」
 遮るように、光緑がゆっくりと言った。
「あんな女性に会ったことないし、僕にあんな息子がいただなんて、知らないんだ。愛情が無いとは……言い切れない。僕を気遣う、いい人達なんだって伝わってくるから。でも……彼女たちと会話をしていたのは、僕じゃない」
 光緑は、苦しげに息を吸った。
 少し首を振る。拘束具が微かに音を立てた。
「別の『僕じゃない当主』が、彼女たちを担当していたみたいなんだ。……僕自身は、うまく……彼女たちと話せなかった。仕事とか、会議とか、言われても……『仕事を担当していた当主』が別にいて、僕は何も……」
 途切れた言葉が、そのまま彼の喪失を示していた。
 頼道はゆっくり息を吐き、声を絞る。
「……光緑。……休もう」
 低く、掠れた声になった。
「きっと……倒れたときに頭を打って、記憶が混乱してしまったんだ。邑子さんや燈雅くんのことは、そのうち思い出せる。仕事は他の連中に任せておけばいい。お前は誰よりも仏田を背負ってきたんだから、ゆっくり休んだって罰は当たらない」
「違う……頼道、僕、何も知らなくて」
「弟たちのことも、自分の感情も……全部押し殺して、前に進み続けた。だから疲れが出たんだ。それは人間なら当然のことだ」
「僕、ずっと眠っていて、それで……僕じゃない人が」
「休め、光緑。昔……お前が疲れたとき、俺の部屋に来てくれただろう。何もしなかった。何も言わなかった。ただ、そこにいた。あれと同じでいい……そうなろう」
 拘束された腕に触れ、指先でそっと撫でる。動かぬ手でも、温もりは確かに伝わる。
 静けさの中で、遠い昔の夜が蘇る。
 何も考えず、ただ寄り添っていたあの時間。歩み寄るだけで互いを救えた、あの頃の温度を深く、深く思い出す。
「……僕、忘れているだけなのかな」
「このまま忘れたままでいい。落ち着くまで、ゆっくり眠れ。今までのお前には、それすら許されなかっただろ」
「……ずっと僕、眠ったままの方が、良かったの?」
「それは違う。……俺が隣に居ても、嫌か?」
 頼道の問いに、光緑は静かに笑った。笑みは弱くて、けれど確かな光を帯びている。
 そっと、頼道の手に指を絡めた。
「嫌じゃない……頼道が、傍にいてくれるなら……」
 頼道は、光緑の寝台の傍に座り続けた。静かに彼が眠りに落ちるまで。
 それは長い歳月を越えて、もう一度光緑のために生きようと決めた男の細やかで、深い時間だった。

    ◆

 見舞いに行くのは、いつしか頼道の習慣になっていた。
 湯呑と菓子折りを手に、いつも通り担当医師にひと言挨拶を交わすはずだった。だがその日は、様子が違っていた。
 医師の顔は強張り、無言のまま目を伏せる。部屋の前には警備を担う者たちも立っていた。
「……今日の面会は、難しいかもしれません」
 低く抑えた声で、医師は告げる。
 頼道は答えなかった。扉に手を掛けた。軋む音とともに開いた療養室の中には、地獄のような光景があった。
 光緑はベッドに縛られていた。い縛られながら暴れていた。
 拘束具がギリギリと軋み、今にも折れそうな音を立てる。骨と金属がぶつかり合うような異様な音。まるで体の内側から、何か異質な存在が蠢いているようだった。
「やめろ……! 戻れ……まだだ、お前たちは……中に、戻れ……!」
 叫ぶ声は、もはや彼のものではない。
 声が、交錯する。老いた男の嘶き、女の悲鳴、少年の笑い声。言葉にならぬ何かが、次々と彼の口から漏れ出してくる。
「違う、俺じゃない……私は……僕はっ……!」
 頼道は、その場に凍りついた。
 目の前のその姿は、紛れもなくかつての親友。けれどその身は、その精神は、もはや彼ひとりのものではない。
 焦点を持たない目。無数の人格、無数の声、男でも女でもない何者かの呻き、怒声、泣き声が、幾重にも彼の中で混じり合い、吠えていた。
「……より……みち……」
 しかしその声だけが、確かに本物だった。
 微かな声。頼道は反射的に一歩踏み出した。
 だが、白衣の医師たちが頼道を押し留める。
「まっ……て……いかな……い……で……」
 術師たちが雪崩れ込んだ。床に術具を広げ、正気を失った当主の体を抑え込む。
 そこに一本の注射器が持ち込まれ、迷いなく光緑の腕に突き立てられた。
 身体がびくりと跳ね、拘束具がまた軋む。そして、音が消えた。
 呻きも罵倒も哀願も嘲笑も、幾多の魂の声が一斉に断ち切られたかのように沈黙する。
 頼道はそっと名を呼んだ。
 ここにいる。帰ってきている。ただいまって言った。俺は傍にいる。ずっといっしょだ。
 何度言葉を投げかけても、返事は無い。虚ろな目を開けて眠る彼は、深い湖底に沈んだままだった。

    ◆

 仏田家本邸。和洋折衷の意匠が整えられた客間にて、頼道は出された茶に手も触れず黙したまま、対面の女を見つめていた。
 仏田光緑の妻――由緒ある家の出で、完璧な所作と選び抜かれた言葉を身に纏った女・邑子は微笑すら浮かべず静かに告げる。
「主人はもう、お話になられませんの」
 声音に冷たさはなかった。だが、そこに夫を恋う気配もなかった。
 口調は穏やかで、節度もある。しかしまるで遠縁の親族の病状を語るかのように、乾いていた。
 邑子は、語る。自らの苦労を他人の話のように差し出しながら、それでも同情を誘わぬように細心の配慮を施して。その奥ゆかしさが、かえって頼道の胸を締めつけた。
 頼道は言葉を返せなかった。光緑が療養室で目覚めたあの日から、毎日のように見舞いに足を運んでいた。
 二十年の眠りから帰ってきた光緑と、短いながらも確かな時間を過ごしてきた。
 だが、面会のたびに光緑の意識は曖昧になり、言葉は薄れ、時間は短くなっていく。頼道でさえそうなのだ。二十年の歳月を共にした妻・邑子の前では、どれほどの喪失が積み重なっていただろう。
「投薬から意識が戻らなくて、もう三日。ですが夫は、頑張ってくれています」
 邑子の声は静かで、その静けさがかえって痛々しい。
 そのとき、襖が開いた。現れたのは、年若い青年――光緑の長男・仏田燈雅だった。
 長男にして、次期当主。もうすぐ成人を迎える年齢とは思えぬほど、その佇まいは完成されている。
 父譲りの品のある容貌に、母譲りの凛とした眼差し。既に代行としての務めも果たしている若き当主は、頼道が立ち上がり礼をすると、手を軽く上げてそれを制した。
「ご無沙汰しております、頼道さん。父のことでは、いつもお心を寄せていただきありがとうございます」
 丁寧でありながら、堂に入った言葉遣い。
 裏の世界と表の世界、両方を意識し、均衡を保つように育てられた者だけが持つ洗練があった。
「……当主様のご様子は?」
 慎重に言葉を選びながら、頼道は問いかけた。胸の奥では既に不吉な予感が静かに膨らんでいた。
 燈雅は一瞬、視線を落とす。次に顔を上げたとき、声音に躊躇の影すらなかった。
「もう意識は戻らないと思っています」
 あまりに静かな声。
 感情の欠片もない断定が、頼道の胸に重石のように沈んでいく。
「既に父が誰かであることを維持するのは、困難です。研究所側でもそう結論が出ています。幸い、物理的拘束と霊力的結界で器に留めておけますので仏田の安寧は守られています」
「……次期当主。どういうことか、自分にも教えていただけますか」
「母上。生け花のお時間ですね。行ってらっしゃいませ」
 すぐ答えようとはしない燈雅は、代わりに横に控えていた邑子へ向かい、さらりと言葉を投げる。
 ごく自然な口調だった。命令ではないが、しかし逆らうことも許されない種類の導き。邑子は怪訝な顔をすることなく、丁寧に頼道へ礼をして、優雅に退室した。
「父の器は、寿命を迎えました」
「寿命……?」
 思わず反復するように問う。まだ三十代の男に使っていい言葉ではない。
「今からお話しすることは、当主だけが知るべき秘密です。私たち仏田家が犬伏家の全てを把握していないように、犬伏家もまた仏田家の深部には触れていないでしょう。けれど……私たちは千年を共に歩もうとしてきた、魂の縁で結ばれた家同士です。少なくとも私は、そのように信じています。だからこそ、頼道さん。貴方には、この秘密を打ち明けてもよいと判断しました」
「……燈雅くんが良しと判断したのなら、是非、話してほしいです」
「父・光緑の肉体には、光緑だけが宿っているわけではありません。彼という器の内には、と、が、今も共に渦巻いています」
 燈雅の眼差しには、悲哀がない。
「父が、あれほどまでの異能と智慧で人々を圧し、導き、支配できたのは――その身ひとつに宿した六十余名の歴代当主の叡智と、四万を超える亡き者たちの知識と記憶を、全て引き出して使っていたからです。これこそが、仏田の始祖様が目指した神域の形。『聯合』という手段を経て、始祖様は知らぬものの無い、救えぬもののない究極へ至ろうとした。その研究成果の結晶が、当主です」
「……鬼の血という、単純な異能ではなかったのか?」
「いえ。ややこしい話なのですが……当主が聯合によって魂を継ぎ、神域へ到達したという『外付けの構造』と、鬼の血という『本体の力』は、まったく別の問題です」
 燈雅は膝の上で指を組み、講義の続きを語るように言葉を紡ぐ。
「人の器は、複数の魂を収めるようには作られていません。本来なら一人分の荷物しか入らない鞄に、六十人分を詰め込もうとしたら、どうなるでしょう?」
 頼道の胸が、ゆっくりと冷えていく。
「……破れますよね。しかも実際は、四万人分の荷物だ。今の父は、その状態です。ただの人間ではなく、鬼だから十数年も持ったと言いましょうか」
 破れる。器が裂ける。崩れていく。すなわち、寿命。
 言葉を理解した瞬間、頼道の思考が凍りついた。
 ひどく冷たい形で、目の前の青年によって悲惨な未来が告知されたのだから。
 燈雅は、終わりを受け入れている様子だった。柔らかく微笑み、茶を勧める。
「頼道さん。どうか、これからも仏田を見守ってください。……我々は、父の意志を継いで、前へ進む。しばらくしたら『聯合』の準備を致します。今度は自分が、仏田家の当主として導きます。ですので頼道さんのお力、ぜひお貸しください」
 声音は明るいわけではない。だが陰りもなく、当然の未来として語られていた。
 頼道の胸に重いものが落ちる。
「……燈雅くんも、その魂を継ぐのか。そうしたら……お前も、二十年で寿命を迎える。そういうことだろう。……それで、いいのか」
 問いかけは苦く、掠れていた。
 燈雅は数秒黙したあと、微笑みを崩さぬまま答えた。
「この秘密は、数日前……まだ父が倒れる直前に、父自身から教わりました。つまり父、仏田家当主を担っていた父は、既に寿命の限界を悟っていたということです。父は、自分に秘密を明かし……そして倒れました。“当主は血を繋げ”――そう命じられたのです。始祖様の言葉だから聞けと、父は言っていました」
 今の言葉は、答えになっていない。
 命じられたから従う。受け継ぐべきだから受け継ぐ。それは覚悟ではなく、本人の苦悩と痛みが言葉になっていない証拠。燈雅は、重荷をそのまま背負うことでしか道を選べないでいる。
 否定しなければと思った。何かの救済を探した。だが、適切な言葉は何一つとして出てこなかった。
(光緑は……この話を知っていたのか? 二十年前、当主になったあいつは……自分の寿命が二十年と決められていることを、受け入れていたのか?)
 ――いや。
 再会したあの日、目を覚ました光緑が見せた、あの無垢な笑み。
 あの表情。あの震える手。頼道を見つけたときの「嬉しい」という感情のあまりの純粋さ。あれは、何も知らない者の顔だった。
 寿命を奪われていることも、魂を重ねられていることも、当主という役目が“死すための器”であることすら知らず。
 ただ人としての二十年を、奪われ、閉じ込められていた。
 その直感は、胸を凍らせるほど確かだった。

    ◆

 数日が経過した。
 もうそこに、人の気配はなかった。
 数週が経過した。
 医師も看護も形ばかり。伴侶や血縁者すら滅多に現れなくなった。誰も彼を「当主」とは呼ばない。
 数月が経過した。
 役目を終えようとしている器に、かつての名を呼ぶ者はいなかった。

 頼道は僧衣の裾を揺らしながら、静かに療養室へ足を踏み入れた。
 窓は固く閉ざされ、空気は澱み、換気すら忘れ去られたかのような無音の空間が広がっている。
 その中央に、光緑はいた。
 過剰に補強された医療用寝台の上、四肢を拘束されたまま仰向けに横たわり、虚ろな眼差しだけが天井を見上げている。
 瞳には何も、本当に何ひとつ映っていなかった。
 首筋には幾度目か分からぬ注射痕。腕には、今日も点滴の管が通っている。
 打たれ続ける鎮静薬は、術核の沈黙を守るためのもの。叫びを止め、暴走を封じる。
 人間らしくあるために薬が打たれた。けれど同時に、彼から人間性という最も繊細な領域を削ぎ落としていく。
 次期当主が当主になるまでの、千年間の宝の貯蔵庫に過ぎないその器へ、頼道は静かに歩を進める。誰にも知られず、誰にも呼ばれず、それでも訪れ続けた面会だった。
「……来たよ、光緑」
 返答は、無い。
 椅子を引き寄せ、ゆっくりと腰を下ろす。
 枕元の水差しから布巾を濡らし、唇を静かに湿らせる。
「喉……乾いてないか?」
 問いというより、願いだった。
 返事が欲しいわけではない。ただ、もしほんの僅かでも光緑の奥に光緑が残っているのなら、この声が届いてほしかった。
 不器用になった手で、縛られた手首にそっと触れる。指は今では力を失い、冷たく沈黙している。
 かつて弟たちを守り、組を導き、幾多の血と理非を選び取ってきた手だった。
「……今日の本堂はな、午前中に三組の檀家さん。午後には修繕の相談が一件。……それと、燈雅くんがまた動いてる。研究所の拡張計画だとさ。……大したもんだ」
 応答は無い。それでも、瞼が僅かに震えた。
 ほんの一瞬だけ。頼道の胸に、“まだここにいる”という細い希望が、一滴だけ落ちた。
 ――もし光緑があの日、静かに急死し、二十年ぶりの「再会」など起こらなかったのなら。
 頼道の胸に芽生えるはずの想いは、こんなにも深く、こんなにも残酷な形にはならなかっただろう。
 忘れずに、光緑の傍に居ようと、ずっと決めていた。たとえ心が離れても、道が違っても、思い出を胸に抱き、彼の最期を見送る覚悟はできていたはずだった。
 けれど、再会してしまった。
 二十年の眠りを破って瞳を開いた光緑が、あの頃と変わらぬまま、愛しい人が愛しい心のまま、もう一度「愛しい」と告げるような目を向けてきた。
 その瞬間、時が戻り、忘れるべき痛みも、置いてきたはずの想いも、全てが一斉に息を吹き返した。
「……もうお前が当主じゃないならさ、俺、お前を連れて行きたい場所があるんだ。……桜を見るたびに思い出す。お前と、初めて東京で花見をした春を」
 庭の桜は、まだ固い蕾を抱いている。
「今年もそろそろ咲くぞ。……お前の目に、また桜を映してあげたい」
 沈黙は続く。それでも頼道は手を離さない。ただひとり、光緑の傍に座り続けた。
 世界から忘れ去られた男の傍に。彼の名を、唯一忘れぬ者として。



 老木の枝先には、淡い紅の花がそっと開いていた。風が吹けばひとひら、またひとひらと音もなく零れ落ちてゆく。
 今年の仏田寺の桜は、例年にも増して見事だった。満開手前の花が、境内全体を静かな光で満たしている。

 頼道は、光緑の支度を黙々と整えていった。
 今日処方されたのは、鎮静作用を弱めた軽い薬。医師の許可のもと、ほんの数時間だけ拘束具が外される。
 光緑の伸びた髪を丁寧に梳き、温めた布巾で顔を拭ってやる。
 弱った指先の爪を切り、痩せた手足を揉んで血の巡りを取り戻させる。
 淡い色の外出着に袖を通させると、光緑はそれだけで、どれほど老いと衰えが重なっていようと、いくつになっても美しいと、頼道は思わずにはいられなかった。

 境内の桜までの距離は、わずか数十メートル。
 研究施設の増築で境内の多くの木々が伐られた後でも、奥には数本だけ、古い桜が残されていた。
 老木は幹に深い皺を刻んでいたが、その枝先には今年も鮮やかな花が揺れている。
 その下で、頼道は車椅子のブレーキを引き、光緑の肩に薄手の羽織をかけた。
 そして視線と同じ高さになるよう、そっと正面にしゃがみ込む。
 風が吹いた。初春の冷たさが頬を撫で、桜を揺らした。
 そのせいだろうか。光緑の指が小さく、小さく震えていた。
「見えるか、光緑」
 頼道は両手で光緑の頬を包むようにし、そっと囁く。
「咲いてる。……去年より、ずっと綺麗だ。お前が昔、見ていた桜に、よく似てる」
 返事は無い。瞬きさえ、どこか遠い。
 それでも、頼道は言葉を続けた。
「覚えてるか? お前が寝てたら、代わりに俺が感想を言ってやるって……分担作業だって、笑いながら決めたろう」
 ゆっくりと、昔話をなぞるように微笑む。
「凄く綺麗だよ。……藤春と柳翠も、きっと呼びたがる。……お前も、そう思うだろ? もし……もし少しでも思ったなら、聞かせてくれよ。お前の、感想を」
 沈黙。
 光緑の瞳は空白のまま、視線は定まらず、感情の色も浮かばない。
 器の中で誰が表に出ているのかも分からないまま、ただそこに在るだけ。
 桜の美しさも、風の冷たさも、再会の奇跡も、届いているのかどうか分からない。
 桜の時期だというのに、人影はなかった。面会に来る者は誰もいない。
 けれど、これで叶えられる。――いつか、また、二人で。
 かつての約束が脳裏に浮かぶ。

 頼道がゆっくりと身を寄せた。
 二十年前の夜に交わした、たった一度の約束の続きを、誰にも見られない春の下で、静かに果たす。
 そっと唇を近づけ、触れるだけの小さな口づけを落とした。
 その瞬間。
 殆ど風の音と見分けがつかないほど微かに、けれど確かに……掠れた息が震え、音になったかどうかも定かでないような、それでも意味を孕んだ“ひと筋の言葉”が漏れた。
「――――」
 頼道は、目を見開いた。
 喉から息が溢れ、咄嗟に光緑の顔を覗き込む。
「……光緑、光緑……!」
 返事はもう無い。
 だが頼道は何度も、何度もその名を呼び続けた。
 桜の枝が風に揺れる。握った指を離さぬよう必死に引き寄せる。
 二度と戻らぬかもしれない魂の端を、どうか、ほんの少しでもこの世界にとどめてくれと祈りながら。

 花びらがひとひら、二人の間に落ちた。
 淡い紅色が、春に置き忘れられた想いのように静かに舞い降りる。
 それは誰にも知られず、誰にも祝福されず、ただ二人だけが触れた小さな奇跡だった。

 ――数日後、仏田光緑の葬儀は粛々と進められた。
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俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

お兄ちゃんができた!!

くものらくえん
BL
ある日お兄ちゃんができた悠は、そのかっこよさに胸を撃ち抜かれた。 お兄ちゃんは律といい、悠を過剰にかわいがる。 「悠くんはえらい子だね。」 「よしよ〜し。悠くん、いい子いい子♡」 「ふふ、かわいいね。」 律のお兄ちゃんな甘さに逃げたり、逃げられなかったりするあまあま義兄弟ラブコメ♡ 「お兄ちゃん以外、見ないでね…♡」 ヤンデレ一途兄 律×人見知り純粋弟 悠の純愛ヤンデレラブ。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

劣等アルファは最強王子から逃げられない

BL
リュシアン・ティレルはアルファだが、オメガのフェロモンに気持ち悪くなる欠陥品のアルファ。そのことを周囲に隠しながら生活しているため、異母弟のオメガであるライモントに手ひどい態度をとってしまい、世間からの評判は悪い。 ある日、気分の悪さに逃げ込んだ先で、ひとりの王子につかまる・・・という話です。

超絶美形な悪役として生まれ変わりました

みるきぃ
BL
転生したのは人気アニメの序盤で消える超絶美形の悪役でした。

ヤリチン伯爵令息は年下わんこに囚われ首輪をつけられる

桃瀬さら
BL
「僕のモノになってください」 首輪を持った少年はレオンに首輪をつけた。 レオンは人に誇れるような人生を送ってはこなかった。だからといって、誰かに狙われるようないわれもない。 ストーカーに悩まされていたレある日、ローブを着た不審な人物に出会う。 逃げるローブの人物を追いかけていると、レオンは気絶させられ誘拐されてしまう。 マルセルと名乗った少年はレオンを閉じ込め、痛めつけるでもなくただ日々を過ごすだけ。 そんな毎日にいつしかレオンは安らぎを覚え、純粋なマルセルに毒されていく。 近づいては離れる猫のようなマルセル×囚われるレオン

ガラスの靴を作ったのは俺ですが、執着されるなんて聞いてません!

或波夏
BL
「探せ!この靴を作った者を!」 *** 日々、大量注文に追われるガラス職人、リヨ。 疲労の末倒れた彼が目を開くと、そこには見知らぬ世界が広がっていた。 彼が転移した世界は《ガラス》がキーアイテムになる『シンデレラ』の世界! リヨは魔女から童話通りの結末に導くため、ガラスの靴を作ってくれと依頼される。 しかし、王子様はなぜかシンデレラではなく、リヨの作ったガラスの靴に夢中になってしまった?! さらにシンデレラも魔女も何やらリヨに特別な感情を抱いていているようで……? 執着系王子様+訳ありシンデレラ+謎だらけの魔女?×夢に真っ直ぐな職人 ガラス職人リヨによって、童話の歯車が狂い出すーー ※素人調べ、知識のためガラス細工描写は現実とは異なる場合があります。あたたかく見守って頂けると嬉しいです🙇‍♀️ ※受けと女性キャラのカップリングはありません。シンデレラも魔女もワケありです ※執着王子様攻めがメインですが、総受け、愛され要素多分に含みます 朝or夜(時間未定)1話更新予定です。 1話が長くなってしまった場合、分割して2話更新する場合もあります。 ♡、お気に入り、しおり、エールありがとうございます!とても励みになっております! 感想も頂けると泣いて喜びます! 第13回BL大賞にエントリーさせていただいています!もし良ければ投票していただけると大変嬉しいです!

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

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