さわれぬ神 憂う世界

マーサー

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第4部

[69] 4部3章/3 「止めたいと思うのが正義の味方ってもんでしょ?」

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【4部3章】

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 午後七時。空は灰と墨の境界を彷徨いながら、薄雲に滲んだ夜をじわじわと広げている。
 志朗は黒のロングコートを翻し、古びたビルの前に立っていた。
 鉄骨はむき出しのまま、無骨で、重い。外壁のタイルは黒ずみ、ネオンサインは幾度も修理を繰り返した痕で歪んでいる。
 三階の外壁には、色褪せた看板がぶら下がっている――“AMUSEMENT ARCADE”。掠れた英字が、過去の時間に取り残されたように揺れていた。
 仏田邑子が生前、水面下で接触していた人物の痕跡がこの場末の場所へと繋がっている。そのような報告に、自ら足を運ぶ。
 何が出てきてもおかしくはない。低く呟き、足音を殺してエントランスを抜けた。
 押し開けた扉の向こうには、色彩と暗闇が交錯する音と光の迷宮が広がっている。
 機械音と電子音。煙草とカップ麺の混ざったような空気。並ぶ筐体はどれも古く、電飾が壊れかけの明滅を繰り返していた。
 壁には破れかけたポスター。奥のカウンターには、目元を隠すように帽子を深くかぶった男たち。モニターの青白い光に照らされた顔は、異物の匂いを纏っていた。
 歩を進める。この中に、シキを知る者がいるかもしれない。
 いたなら、連れ戻す。それだけだ。
 格闘ゲーム筐体の前でたむろする若者たちを無視し、志朗はゆっくりと店内を進んでいく。

 カウンターの奥、肌の浅黒い男が近づいてきた。
 無精髭。帽子を深く被り、何かを隠すような風体。どう見てもサービス業には向いていない。だが、律儀に口を開く。
「遊びに来たにしては、随分場違いな恰好ですね?」
 その影が志朗の影と重なった瞬間、志朗の声が低く落ちた。
「ここに、長耳の奴はいるか」
「さあ……知らないですね。どこの店の子です?」
「長耳だけで通じるか。普通の人間なら聞き返すもんだ」
 瞬間、志朗は発砲していた。

 誰もが「まだ撃たない」と思った刹那、躊躇いなく銃が抜かれて火を噴いた。予兆すら与えぬ早業だ。
 しかし、男は撃たれていない。
 弾丸の直前で、がガキンと音を立てて浮かび上がる。男の眼前に現れた透明な壁が、弾丸を逸らしていた。
「問答無用かよ!?」
「へえ、能力者か。やっぱりな。じゃあ、お前はうちの金になる」
「気でも狂ってんのかお前!?」
 男は怒鳴り、腰を落として構えた。
 同時に、志朗の背後に影がふっと揺れる。
 地面に落ちた光の死角から、影がほどけるように人影がひとつ、ふたつと滲み出た。黒い絵具を水に垂らしたような滑らかな動き。影の中から姿を現したのは――霞だった。
 無駄な物音はひとつもなく、最初からいたかのような自然さで、続いて足元の影、天井の梁が落とす影、廃材の投げかける影――ありとあらゆる闇が、密やかに形を変えていく。
 現れたのは――組でも最も選抜された精鋭たち。その一糸乱れぬ沈黙は、人間よりも軍用兵器のそれに近かった。
「いいぞ霞! ここにいる人外、全員連行対象だぁ!」
「ぜ、全員! 応戦っ……!」
 店内にいた少年たちが、一斉に椅子を蹴り上げて立ち上がる。
 中には小柄な少女、義手の青年、刺青を刻んだ巨漢まで。彼らは、ただの客ではなかった。誰もが銃器、刃、魔道具としか思えぬ道具を構え、志朗たちに向き直る。
 だが志朗が「やれ」と低く命じた瞬間、銃弾の破裂音が店内を切り裂いた。火花が弾け、煙が渦巻き、筐体のガラスが爆ぜるように砕けた。
 爆風の中、ゲームのBGMだけが、警告音のように無限ループで流れ続けた。

 混沌の中心で、霞が素早く志朗の前に出る。拳を一閃するたび、三人が吹き飛んだ。
 銃声と叫び声の交錯が始まる。床には破片、血の飛沫、破れた衣服。かつてここは、人々が娯楽に身を委ねた場所。それが今、血と怒声にまみれた阿鼻叫喚の巣窟と化していく。
 志朗の目は、ある応戦した青年に向けられた。
「今すぐ言え。エルフは、ここにいたのか」
 問いは低く、突き刺すような鋭さを孕む。
 だが青年は揶揄するような笑みを浮かべ、軽く肩を竦めた。
「さあな。ただ一つ、教えてやるよ。……あんたのせいで、あの子はずっと苦しんでた。救われて自由になる権利が、あの子にはある」
 その言葉が、志朗の表情を変える。
「あいつを自由にするのは、俺だ」
 霞の拳が閃光のように走った。乾いた音が響き、青年の顔面が殴り飛ばされる。
 悲鳴と共に、青年のもとへ女が駆け寄る。
「よくもぉ……!」
 人の動きではなかった。獣めいた疾走。志朗を蹴り飛ばそうと女が飛ぶ。
 だが即座に、女に向けて銃弾が炸裂した。乾いた破裂音が一発、二発、三発と空気を裂き、高速移動の女を貫く。
 古びたメタルスラッグの筐体が砕け、火花を散らしながら床に倒れた。そして志朗の命令が飛ぶ。
「一般人ごと構わん。障害は、全て殺せ」
 声を合図に、霞が怒声を上げた。
「全員展開! 掃討開始!」
 組の兵士たちが、一斉に動いた。
 散弾銃を構えた男がカウンター内を薙ぎ払い、機関銃を担いだ別の兵が景品棚ごと客を蜂の巣にする。
 抵抗ではない。ただの制圧。虐殺。
 志朗の身体には一発の攻撃も届かない。事前に霞が施していた、術師による防護の術式。だからこそ、彼は戦場の中央で冷静に命を刈り取ることができた。
「きゃあああああっ!」
「助けて、やめてぇ……!」
 血が弾け、液晶が割れ、硬貨が床を転がって跳ね返る。
 ゲームセンターは、もう娯楽の場ではない。準備されていた虐殺の舞台となった。
「おい、やめろ! ここには一般人もいるんだ、無関係な人間まで……!」
 若い男の叫びが、銃声にかき消される。
 彼の肩が銃弾で吹き飛び、悲鳴が反響した。
 逃げ惑う人々。子猫のようなしなやかな少女が立ち塞がる。震えながらも、彼女は声を張り上げた。
「避けて! 防御壁、展開ッ!」
 光の術式が疾走し、爆発を光膜が押し留める。彼女は震える親子を庇い、必死に後方を指差す。
「非常階段がある! 子どもを連れて、逃げて!」
 その顔には恐怖ではなく、決意があった。
 そのような動きができるなど、もはやただの少女ではない。守る者として、立派に戦場に立っていた。つまり……。
「ああ、そういう顔をするってことは。革命ごっこ遊びのメンバーか。……R号は徹底的に潰せ!」
 志朗が叫び、霞が頷く。その手が懐から小さな符を取り出し、指で裂いた瞬間、空気が歪んだ。
 黒い稲妻のような魔力が床を走り、フロア全体に結界が展開される。
 出口を目指していた若者が、見えない壁に激突し、弾き返された。喚き声が上がる。
「と、閉じ込められた!? 結界か!? 外に出られねぇ!」
「結界完了。志朗兄さん……対象は非戦闘員を含め、全員内部に閉じ込めました。いつでも排除可能です」
「おう。……人質は揃った。さあ、喋れ。お前さんが知っていることを吐け」
 志朗が、再び浅黒い青年に問いを投げる。
 その間にも、銃声が響く。拳が唸り、魔術が飛ぶ。ゲームセンターという狭く閉ざされた空間は、確実に地獄へと変貌していた。
「ふざけてるッ!」
 カウンターの上から、レジスタンスの少年が怒声を上げる。
 魔術の衝撃波が炸裂し、古いプリクラ機が吹き飛び、兵士の一人を床に叩きつけた。
「関係ない人たちまで……殺す気かよ!? お前ら正気かよ!?」
 志朗の声が、冷ややかに返す。
「正気なわけがない。俺たちは、地獄から来たんだ」
 少年の胸元に、銃弾が貫通した。魔術の残光が宙に舞い、やがて散った。
 スクリーンは凍結し、光は止まっている。ただ一つ「Continue?」という言葉だけが、どこか滑稽に明滅を繰り返していた。

 レジスタンスの若者が、怒声とともに飛び出す。
 拳を握りしめ、志朗に殴りかかる。だがその刹那、霞の掌が先に男の胸を捉えた。
 閃光。雷撃の魔術が男の腹を貫く。短い悲鳴。焦げた肉の臭いが、血と煙の濁流に紛れて立ち上る。
 瓦礫と死体と散乱するゲーム機の残骸の中。その中心に、捕らえられた浅黒い男がいた。志朗は無言で近づき、銃口を額に押し当てる。
 帽子が銃口の衝撃で跳ね飛ばされる。現れたのは、不釣り合いなほど柔らかな猫の耳だった。
「……おっさん面のくせに、随分と可愛いもんつけてるじゃねえか」
 志朗が冷えた声で嘲る。
「さあ、教えてくれないか。お前らが盗んだものは、どこに隠してる?」
 男は笑わなかった。絞るような声を漏らす。
「教えれば……助かるのか?」
「さあな。俺の気分次第だ。悪いが、今はあまり機嫌がいいとは言えない」
 後方では断末魔が断続的に響いていた。
 銃撃、火炎、悲鳴。志朗の背後で兵たちは次々と処理を続けている。
「殺すしか知らないのかよ、お前らは!?」
 レジスタンスの少女が涙で濡れた顔を上げ、両手を掲げて術式を展開する。
 残された仲間を護るための、最後の防壁だった。
 しかし、結界の内側に救いはなかった。
 ここは襲撃ではない。圧殺だ。希望など、最初から一つもない。
 煙と血の匂いが入り混じり、機械の火花が飛び交う。既にゲームセンターの電子音は消え失せ、代わりに響くのは、生者の悲鳴と死者の沈黙だけだった。
「た、助けて……誰か……!」
 プリクラ機の陰から、少女が瓦礫の隙間を這うようにして出てきた。
 銃声が走った。肩口から、腕が吹き飛ぶ。
 少女は絶叫した。けれど、その叫びは誰にも届かない。この空間は結界で封じられている。世界から切り離され、沈黙の底にある。

 志朗は無造作に煙草を咥えた。火をつけるのは、黙って控えていた霞だ。炎が揺れ、灰がゆっくりと落ちる。
 礼もそこそこに、志朗は足元の男の顔面を無言で踏みつけた。
 靴底に圧されて、鼻梁が砕ける。呻きながら転げる男の両膝は撃ち抜かれていた。まともに声も出ない。
 だが、それでも志朗は問う。
「言えよ。シキは、どこだ?」
 男は血を吐き、歯を噛みしめたまま、黙り込んでいた。
 志朗は薄く笑う。怒りも焦りもない。ただ冷たい愉悦の色だけがある。
「霞。次は、眼球だ」
 霞が頷き、懐から銀色の細工道具を取り出した。男の目前で構える。
「や、やめてくれっ……! 俺は……ただ、知り合いに連絡を頼まれただけでっ……ぐあっ、あああっ……!」
 金属が眼球を抉る、湿った音が響いた。生々しい悲鳴が、煙と熱の中に溶けていく。
 その様子を物陰で見ていた親子がいた。互いにしがみつき、ただ震えていた。祈るように、怯えるように。
「お願い、もう、やめてくれ……これ以上は……!」
 懇願の声に、志朗は一瞥すらせず呟いた。
「あそこ……うるさいな」
 迷いなく、引き金を引いた。
 母親の頭部が、破裂する。柔らかい肉片が飛び、子供の頬を赤く染めた。
 子供は何も言えなかった。声すら恐怖に凍りついた。志朗は煙草を咥え直しながら、ゆっくりと銃口を下げる。
「これで、お前の声が聴きやすくなった」
「……貴様、人間じゃない……反吐が出る、悪魔め!」
 呻くように吐き出された言葉に、志朗は唇の端を僅かに持ち上げた。
「猫耳つけたオッサンが人語を喋ってる方が、俺には気持ち悪いがな」
 言って、燃え尽きかけた煙草の火を、男の頬に押し当てる。
 皮膚が焦げ、血と汗と硝煙が混じりあう。
「お前のせいで、ここにいる奴らは全員死ぬ。言いたくなったら言え。何人死のうが知ったことじゃない」
 誰かが助けを叫ぶ。けれど全て結界の内に吸い込まれ、消えていく。
 警察もマスコミも、ここには来ない。仏田家に楯突いた者たちの末路は誰の記録にも残らぬまま、音もなく闇に沈む。
「シキはどこだ……あいつに会わせろ。知ってるんだろ、お前」
 志朗は、血まみれで蹲る男の髪を掴み、引きずり上げる。
 睨みつける瞳が、血と憎悪に濁っていた。
「し、知らねえ!」
「ああ、そうかい。お前みたいな雑魚が俺の邪魔をした。連れて帰る。喉が裂けるまで、吐かせてやるよ」
 引きずられる男が悲鳴を上げかけた、そのときだった。
「やめなよ、お兄ちゃん」
 それは、音ではなく空気を変える声だった。

 静かに、しかし鋭く。冷たい刃のように空間に落とされた言葉。
 志朗の動きが止まる。霞も振り返る。

 ――そこに立っていたのは、白いコートの青年。
 志朗と似た顔立ちの中に、別種の冷たさを宿す輪郭。

 瞳は虚無。微笑には感情がない。氷の仮面のように、無関心のまま世界を見下ろしていた。
「新座」
 志朗の唇が、歪む。
 仏田家の末子にして、天才。読めない男。
 味方か敵かすら掴めず、いつも傍観者であり続けてきた弟が、ついに、舞台へと歩み出てきた。
 新座は歩み寄り、志朗の手に掴まれた男へと一瞥を送る。
 目には、哀れみも怒りもなかった。冷えた水面のように、兄を見つめて澄んでいた。

「その人を拉致してどうするの? シキお兄ちゃんの居場所を吐くまで嬲るつもり? ……でも、知らないって言ってるじゃないか。知らない人を叩いたって出ないものは出ないよ」
 声音は、空気を切り裂く針のようだ。無感情さが、胸の奥を鋭く刺す。
「……お前。何をしに来た?」
 志朗が唸るように問う。
 少しだけ首を傾けて、新座は答えた。
「志朗お兄ちゃんの暴走を止めに来た。これ以上やったら……シキお兄ちゃんに、嫌われるよ」
 その一言は、志朗の心臓を貫く。
「……なぜお前が、ここにいる?」
「騒ぎがあったから。駆けつけただけだよ」
 瓦礫のビルの中、血と硝煙の残り香がまだ立ち込める空気の中で、志朗の問いが響いた。
 足元には砕けたガラスと死体の山。焦げた機械の残骸が火花を散らし、淡い光が無感動な弟の輪郭を照らしている。
「……普通は逃げるもんだろ。騒ぎがあったら」
 新座は小さく肩を竦めた。そして微笑を返す。
「確かに、そうだね」
 だが笑みはすぐに消えた。淡々と、続ける。
「でも、駆けつけるよ。仲間が殺されそうで、無関係な人まで巻き込まれそうで……それを止めるためなら」
 瞳に宿る光が変わった。燃える炎ではない。氷のように冷たい、だが確かな意志を帯びた光。吐き捨てるような口調で、言葉を放つ。
「悪意が暴れていたら、止めたいと思うのがってもんでしょ?」
 目は、もはや兄を見ていなかった。
 過去に慕った存在ではなく、今ここにいる敵を見据えていた。
 志朗は沈黙のまま、真正面から受け止める。次いで、低く乾いた笑いを漏らした。

「……正義の味方、だとよ」
 足元の瓦礫を踏み砕く音が、ゆっくりと空間を満たす。
 靴の先には、誰のものとも知れぬ血が滲んでいた。口元に笑みを浮かべたまま、志朗は問う。
「じゃあ、何だ? 俺が悪だってわけか?」
 笑っている。目だけは、ひたすらに冷えていた。
「違うの? ここで今、何人死んだ? 誰の命令で。どれだけの無辜の人間が。どう見たって、悪者じゃん」
 新座の声は変わらない。静かで、鋭い。静けさが志朗の内部にある何かを、容赦なく穿つ。
「黙れ」
 唸るような低音が落ちる。
 志朗の肩が震えた。怒りか羞恥か。あるいは、もっと名のつかない感情か。
「正義の味方なんて口にするな……お前も、あの家で育った。俺がどう生き延びてきたか知らない筈がないだろうが!」
「知らないよ」
 新座の返答は、あまりにあっさりしていた。
 だがその淡白さが、志朗をなおさら深く切り裂く。
「四六時中、志朗お兄ちゃんを見張ってたわけじゃない。お家のこともいつしか僕には届かなくなったって言ったよね。でもさ……」
 声は鋼だ。音量を上げずとも、強く響く芯がある。
「知らないからって、同じ家にいたからって、届かなくなったからって……それで今、目の前にある悪を見逃していい理由にはならない」
 志朗の目が見開かれる。怒りの叫びが膨れ上がっていく。
 志朗は新座の胸ぐらを掴み、壁へと叩きつけた。破れた壁紙が舞い、鈍い蛍光灯の光が、二人の影を不穏に揺らした。
「新座……お前、R号なのか」
「違うよ。レジスタンスだ」
 即答だった。
 淡々と、しかし揺るぎなく続ける。
「人外種族を捕まえて、弄んで、捨てる。そんな馬鹿げた奴らに抗うために作られた組織……僕が、作った」
 志朗の瞳が揺れる。
 怒りが臨界に達し、拳が振り上がる。
「なら、俺の敵だな。……お前らが、あいつを奪った。俺のものを! 正義の一言で……俺の全てを!」
「……哀れだね、志朗お兄ちゃん」
 新座の声は、夜の氷柱のように冷え切っている。
 兄を呼ぶ声音なのに、温度は限りなく零度。
「順序が逆なんだよ。頭、冷やしたら? ――燃やすけど」
 刹那、爆ぜる炎。
 紅蓮が床を抉り、空気が悲鳴を上げる。熱で視界が揺らぎ、志朗の頬を炙った。

 霞が叫び、影のような速度で志朗の腕を引いた。
 退避の一瞬、炎が空気を焦がす音が耳を裂く。
「志朗兄さん! 銃弾除けしか張ってないんですよ、退いてください!」
 霞が前へ躍り出る。右腕に纏った重力魔術が黒く凝縮し、拳の周囲の空間が歪む。
 剛力の魔法が重なり、骨が鳴る音が聞こえるほどの重量と加速が拳に宿った。その一撃は、人間の骨格で耐えられる力ではない。
 沈黙。そして、世界が砕けた。
 霞の拳が放たれた刹那、空気圧が爆発し、壁が蜘蛛の巣状にひび割れる。
 そこに新座は、いなかった。
「カスミちゃん、一撃一撃が重すぎるよ」
 薄紅色の魔力。それが花弁のように新座の周囲に散り、霞の拳を受け止める結界となった。
 金属的な音を立てて魔術壁が震え、火花のような魔力が四散する。
 霞が歯を食いしばる。踏み込み直し、二撃目の構え。だが新座は身をひるがえし、軽やかに床を滑った。
「逃げるなよ!」
「逃げてないよ。カスミちゃんが遅いから、ちょっと歩いただけ」
 炎の軌跡が夜闇を裂く。
 その紅い光は、さながら極彩の蛇がうねるように、残像を何本も残しながら奔る。
 志朗は低く、短く命じた。
「やれ!」
 闇が破裂したように、黒衣の戦闘部隊が一斉に飛び出す。
 影から生まれた者たちの動きは音すら持たない。気配を殺したまま、新座の死角を同時に突く。
 十数の刃が同時に振るわれ、左右上下から新座の体軌道を塞ぐ。
 その中心、新座は――笑った。幼子のように無邪気な、しかし悪魔そのものの笑みだ。
 掌に宿った火球が膨れ、紅蓮の閃光が舞う。炎弾が空気ごと焼き裂いた。
 衝撃波がフロアを逆巻き、黒衣の数人が吹き飛ぶ。影の兵の一人は炎に呑まれ、悲鳴すら上げずに床へと崩れ落ちた。
 だが部隊は止まらない。躊躇も恐怖も存在しない。影の意思はただ、志朗の命令のみ。
 霞が再び、前へ出る。
「新座――ッ!!」
 大気が唸り、重力魔術が床を軋ませる。新座は笑いながら炎を操り、霞の拳を迎え撃つ。
 火と衝撃がぶつかり合う。爆ぜる音が響き、床材が弾け、天井の照明が軋んだ。
 烈火が、真に牙を剥き始めた。
「知ってる? 僕……病弱だった燈雅お兄ちゃんの代理にさせられる程度には、天才なんだよ」
 その言葉が落ちた瞬間、空気が炸裂した。
 新座の足元に、紅蓮が咲く。
 炎は生き物のようにうねり、床板を溶かす熱を走らせながら、軽やかに新座の周囲へと舞い上がる。
 まるで自分が勝者であることを誇示するかのように、紅い波が散った。
 志朗の部隊が、影から躍り出る。黒衣の兵たちは片手に刃、片手に封呪の符を握り、炎に対抗するための特殊装備で身を固めている。
 しかし、新座は笑った。
「……みんな、で強化された従者たちじゃん? 僕も同じ血なんだけど、敬うべきじゃない?」
 新座が指先を軽く弾いた瞬間、炎柱が三本、地面から跳ね上がる。
 影から突撃してきた兵士二人が直撃し、炎に呑まれて悲鳴すら上げず消えた。
「鬼にされた子供たちが、鬼の親玉に勝てるわけないんだよな。……子分のカスミちゃんだって、例外じゃない」
 煽るような声とともに、炎の矢が十本、一斉に放たれた。
「っ――全員、伏せろ!!」
 影の部隊が反射的に床へ身を沈めた刹那、炎矢が空間を裂き、壁ごと焼き貫く。
 炎が渦を巻き、新座の足元から吹き上がる。次の瞬間、床が爆ぜ、新座の姿が煙に消えた。
 霞が叫び、志朗を中心に防御結界を張る。火球が結界に衝突し、眩い爆音が広間全体を震わせる。衝撃波が周囲の機材や壁を一瞬で粉砕し、熱波が渦巻いた。
 爆煙の奥、新座が微笑む。炎が揺らめき、彼のシルエットだけが紅く滲んだ。

 ゲームセンターは、炎の咆哮と金属の響きに包まれた。瓦礫が舞い上がり、赤い光が天井を染める。焦げた電子筐体が、歪んだ断末魔を吐き出した。
「霞、全戦力を解放しろ。外の待機班も総動員だ……時間をかけてでも、奴らを、奴を潰す!」
 霞は無表情のまま頷き、すぐさま指示を飛ばす。残された仏田の兵たちが再び装備を整え、炎の海に身を投じようとする。
 新座の瞳が、ゆっくりと志朗に向けられた。
「……まだやるの? 志朗お兄ちゃん」
 声音は静かで、痛烈だ。
 掌に再び、炎の魔法陣が浮かぶ。熱が空気を歪める。
「やめなよ。これ以上は、死人が増えるだけだ」
「もう出てる」
 志朗の声は、冷ややかに澱んでいた。
「お前たちのせいで、俺の商品がどれだけ潰されたか……戻らねぇんだよ。だから、全部取り戻すしかない」
「商品……? それで怒ってるの?」
 新座の眉が、微かに動く。
「違うでしょ、お兄ちゃん」
 その一言には、明確な拒絶があった。
「金のためなんかじゃない。怒ってるのは、ただの意地だ」
「……うるせぇッ!」
 志朗の怒声と共に、霞が結界班に号令を送る。一斉に術式を構築し始める。
 以前――仏田の古い魔術師だった中垣が行なっていたものと同じ、全フロアを包む大規模魔術。焼き尽くすための陣が、息を吸い始めていた。
 既に指示を送る志朗の瞳は、狂気と執念に染まっている。だが新座は怯まず、攻める。
 両掌に浮かぶ火球を融合させ、巨大な炎弾へと昇華し、志朗に迫る。
「燃えてッ!」
「間に合わない! 新座、お前から焼かれろ!」
 怒号が飛ぶ。衝突する結界と爆裂する火球。
 暗殺者とレジスタンス、兄と弟の思念と執念が、燃え尽きるような夜の戦場で激突した。

 そのときだった。
 天井近くのガラスが、夜空の雷鳴よりも鋭い破裂音を立てて弾け飛んだ。
 高層階を覆っていた結界が、まるで紙細工のようにひしゃげ、硝子片が閃光を撒き散らしながら室内へと降りそそぐ。
 破片が空気に触れた瞬間、音よりも速い一発の弾丸が、志朗の喉元を正確に射抜かんと飛びこんだ。
 疾風のように霞が跳び込み、志朗の前に立ちはだかった。
「か、霞……!? おい、霞っ!」
 肉を抉る嫌な音がして、霞の胸から鮮血が花のように散る。
 重い体が崩れ落ちるより早く、志朗の背に戦慄が走った。
 これは、ただの鉛ではない。この弾は呪術で“殺意”そのものを凝縮した、魔獣級の殺傷意志を持っていた。
 空気が裂ける。砕けた窓の向こう、夜の闇を切り裂くように、一筋の銀光が落ちてきた。
 滑るような着地。跳ねた髪は淡いエメラルド。尖った耳が月光を宿し、人ならざる美貌が一瞬で戦場を支配する。
 ――エルフ。シキと同じ種族の、美しい戦士。
 ただ存在するだけで、影のような威圧を撒き散らす異形の剣士。
 その手に握られていたのは、月光を凝固させたかのような細剣――冷たく、静かで、神域の刃。
 人の技ではない力。志朗の兵たちは“斬られている”ことにすら気づけなかった。
 胴が割れ、肩口が裂け、喉が背後から貫かれる。斬撃は風のように舞い、鮮血だけが刃の通過を証明する。音は、あまりに遅かった。
「な、なんだこいつ……ッ!?」
 そのとき、低く、重い銃声が遠方から響く。
 ズドン。
 空気の層を焼き切るような、異質な一発。弾丸は結界を貫通し、壁を抉りながら落ちる。
 狙いは外してあった。それは警告、あるいは宣戦布告。
「狙撃手がいる!」
 志朗が呟いたとき、砕けた窓枠の外に影が立っていた。
 白銀の月を背に、黒衣の狙撃手が風にほどけるように姿を見せる。
 長くしなやかな肢体に宿るのは、血の気配。その双眸は夜の獣のように冷たく、携える銃は墓場の土と月光を混ぜて鍛えたような、禍々しくも美しい黒。
 ――吸血鬼。
 次弾が放たれた瞬間、仏田の兵が四人同時に沈んだ。
 致命の部位ぎりぎりを外した、正確無比の射撃。殺すためではなく、戦場を制圧するための無力化。そして……。
「はーい! みんなこっちー! 逃げるよー! 走ってぇー!」
 戦場に似つかわしくないほど朗らかな声が、瓦礫の向こうから弾んだ。
 破れた筐体の煙の中から現れた影は……巨大だった。
 二メートル超の巨躯。巨人。抱える鉄板は、もはや盾というより壁。その動きは優雅ですらあり、瓦礫の間から少女の腕をそっと抱えて救い出す。
「くそっ、あの巨体……民間人を攫ってるぞ! 撃て!」
「えっ!? 攫ってないんだけど……むしろ助けてるよ!?」
 巨人は怒鳴られながらも困ったように眉をひそめ、さらに一人、また一人と民間人を抱えて救出していく。
 その進路を塞ごうとした兵の前に、「邪魔は、させない」と、銀の閃光が割り込んだ。
 エルフの細剣が一閃し、兵の手首を綺麗に斬り落とす。断末魔よりも先に、赤い噴水が床を染めた。
 吸血鬼の狙撃、エルフの斬撃、そして巨人の救出。三者が、まるで長年の舞台を共にしてきたかのように、完璧な連携で戦場を掌握していく。
 ――レジスタンスが動いたのだ。
「……っ、クソがァ! 人間に逆らいやがって!!」
 人外らの抵抗に、志朗が叫ぶ。
 怒りとも焦燥ともつかない声音。しかしその叫びは、すぐさま静寂に呑まれた。
 背後に、風が立つ。
「動くな」
 声は低く、淡々としていた。
 刀身が光を掠めた刹那、志朗以外の仏田の暗殺者たちは――全員が、膝から崩れ落ちる。
 息を吸う間すらなかった。音すら置き去りに、時間が断たれたような斬撃。その中心に立つのは、黒いスーツの青年。
 ――鶴瀬正一。

 新座が肩を竦めて笑う。
「むぐ……さすが鶴瀬くん。来て一分でほとんど片づけちゃうなんて……おかしすぎでしょ」
「はわ……先走るの良くないよ、新座くん!」
 瓦礫に落ちたガラス片が、月光を受けて微かに震えた。
 その振動は、彼らが現れてから僅か一分にも満たない時間の証だった。
 一分。それだけで、志朗以外の仏田の戦闘員は一人残らず沈黙していた。
 血の霧がまだ空中に滞留し、硝煙の残滓が焦げた遊戯機器に絡みついている。ネオン看板は焼け落ち、そこに映ったのは、歪に揺れる紅い光。
「俺たちは一人じゃ弱い。二人でも届かない。大きな組織相手なら尚更だ。でも……なんだから。そうだろ?」
「むぐー、ごめんなさーい。……みんな、助けに来てくれて、ありがと」
 その中心でただ一人、志朗は膝をついていた。
 ――戦闘は、終わっていた。


 志朗の息が、浅くなる。
 汚れたスーツが血と煤で重く貼りつき、背後で縛り上げられた両腕が痺れ始めていた。
 拘束した鶴瀬の手際は、あまりにも静かだった。
 霞も動かない。他の部下たちも同じだ。剣も魔術も持たぬ志朗に残されたのは、言葉だけだった。
「……俺が捕まったところで、どうせすぐ釈放される。警察も裁判も全部、うちに繋がってる」
 搾り出した声は、血の匂いに混じって掠れていた。
「俺ひとり潰したところで意味なんてねぇよ。明日にはまた同じことを……」
 ふいに、その言葉が途切れた。新座が、静かに歩み寄ってきたからだ。
 志朗の前に膝を折り、視線を同じ高さに合わせる。
 その目は、温度が無い。けれど、憎しみもない。怒りですらない。
 ただ、揺るぎない確信だけが宿っていた。
「悪いことをした人は、ちゃんと罰を受ける。……それが、正しいことだよ。志朗お兄ちゃん」
 穏やかな声だった。けれど、それゆえに残酷だった。
 志朗の胸奥で、何かが凍りついた。敗北の実感。もう何を言っても、届かないという絶望。
 新座の声がもう一度、はっきりと告げる。
「志朗お兄ちゃん……もう終わりだよ」
 その一言が、最後の引き金だった。志朗の肩から、音もなく力が抜けた。
 かつてその身に纏っていた威圧、怒り、誇りすらも全て、崩れた瓦礫の下に埋もれていった。

    ◆

 志朗は、魔術結界で補強された特別車両へと、抵抗の余地すら与えられず押し込まれた。
 外観だけは一般車両と見紛うように偽装されているが、車体の継ぎ目には封印術式が蜘蛛の糸のように走り、外部からは決して読み取れぬ細工が施されている。
 行政も、警察も、監視網も欺くための、緻密で周到な装置。仏田家が長年にわたり築いてきた支配の構造を逆手に取るかのような、レジスタンスの知恵が詰まった箱だった。
 後部座席に沈み込んだ志朗の瞳は、虚空を見ていた。
 窓の外を走る街の灯りは、色も形も剥奪された光の粒となって流れていく。
 あまりに静かな移送だった。まるで死体を運ぶ葬列のように。

 辿り着いた先は、無音の部屋だった。
 窓はなく、壁は分厚く、外界からの揺らぎを一切遮断する構造。
 レジスタンスが地下深くに築いた、純粋な隔離の領域――仏田家の影が絶対に触れられぬ、唯一の聖域。
 金も、血筋も、権威も、ここでは役を失う。
 志朗が積み上げてきた肩書は、この空間ではただの紙片のように薄っぺらだった。
 中央に据えられた金属製の椅子に、志朗は腰を下ろす。
 両手首と足首には、物理拘束と魔術封印を兼ねた鎖が絡みつき、背もたれのない椅子に、彼は像のように静かに座したままだった。

 天井の光は白ではなく、地下水を透かしたような青白さで空間を満たしていた。
 蛍光灯の唸りもなければ、換気の音すらない。
 温度も匂いも、時間の気配さえも存在しない部屋――この場所では、世界が止まっている。
 志朗は、瞼をゆっくり閉じた。呼吸は浅く、冷え切っていた。
 脳裏に浮かぶのは、過去の断片。
 十三歳の頃。照行と出会った日。暴力が秩序であり、金が正義であり、残酷が当然とされる世界。
 どす黒い現実の中で、初めて「ここにいていい」と思えた。
 それは救いだった。歪んだ形でも、確かに救いだった。
 間違ってはいなかった。ずっと、そう信じたかった。
 だが、内側から聞こえる声がある。他人の声のように冷たく、淡々とした声。
 ――全部、お前が選んだ道だろう?
 霞が倒れた。無敵だった部下が、音もなく崩れた。信じてついてきた者たちが、みな死んだ。
 母は兄に殺された。けれど止められなかった自分もまた、殺したのと同じだった。
 そして――シキ。
 一年近く会っていない。声も、温度も、長い髪を撫でたときのしなやかさも、もう薄れていく。指先に残っていたはずの感触が、遠い。
 これは、本当に間違いではなかったのか。
 自分の歩いてきた道は、本当に「正しい」と呼べるものだったのか。
 椅子に縛られたまま、志朗はゆっくりと息を吐いた。
 罪と共に生きてきた日々が、静かに沈んでいく。
 崩壊ではない。静かな失効だった。


 鉄扉が軋み、重い音を残して開いた。
 無音に沈んだ地下空間へ落とされたその音は、深い井戸に石を投げたように、静寂の底で小さな波紋を広げる。
 踏み込んできた二つの気配。
 視線を上げずとも、志朗には分かった。来るべき者が、ついに来たのだと。
「……志朗お兄ちゃん」
 呼びかけは、あの日の少年のまま澄んだ声だった。
 だが立っているのは、少年ではない。新座はすっかり青年となり、あどけない面影を残しつつも、その瞳だけは鋭く研がれていた。
「僕らは……お兄ちゃんに裁きを下させるよ」
 新座の声に残酷さではなく、どこか救済の響きを孕んでいる。
「正しい裁きを。正しい手順でね」
 乾いた喉が、くぐもった笑いを零す。唇を歪め、息を整えながら、皮肉を滲ませた。
「なぁ、新座。お前いくつになった? 正しさで腐った世界をどうにかできると、本気で思ってんのかよ」
 新座は、答えない。
 逸らすことなく、兄の姿を見つめていた。
「お前は自由を選んだ。善人ぶって、空に手ぇ伸ばしてるつもりなんだろ。……でもな、新座。俺は地べたを這いずり、裏側を腐らせて生きてきたんだ」
 志朗の唇が吊り上がる。
「殺せるもんなら殺してみろよ。法だの裁きだの、正義だの……俺には全部似合わねぇんだよ」
「……昔、燈雅お兄ちゃんにも似たようなこと言ったけど……」
 目元に、痛むような影が落ちる。
「お兄ちゃんたちのそういう“かっこつけ”、似合わないね。僕、いつものお兄ちゃんとおしゃべりしたいな……いつもみたいに」
 その言葉に、志朗は目を細めた。

 ――十三歳までのあの頃。
 何をしても求めてもらえなかった。誰からも見られず、褒められず、認められなかった。息ができないほど泥の底に沈んでいた志朗に、ごく普通に手を伸ばしてくれたのは、新座だった。
 誰よりも優しく、誰よりも自然に話しかけてきてくれた少年。その光に救われてしまった自分を、志朗はずっと忘れられなかった。
 だからか。どこまで塞ぎ込んだとしても、志朗は――新座に求められたら、向き合わなければと顔を上げてしまった。

 もう一人の影が、前へと歩を進める。
 黒のスーツを纏い、肩の線には刃のような緊張を宿し、しかし歩みには一分の乱れもない青年。
 年若さを残しながらも、纏う空気は裁判官のように澄み切っていた。
 青年――鶴瀬正一は、志朗の前で深く頭を下げた。
「仏田志朗さん。お久しぶりです」
「……知らねぇよ、お前なんざ。霞が報告に写真つけてたな。あの目立たねぇ顔、忘れようもなかったよ」
 侮蔑のはずの言葉が、部屋の冷気に溶けるように消える。
 だが鶴瀬は眉一つ動かさず、穏やかに頭を上げた。語尾は柔らかいのに、芯だけは決して揺れない。
「それでも、お久しぶりです。鶴瀬正一といいます。一応、俺たちは従兄弟です。年始の挨拶でお会いしてました。……もっとも、あの頃の俺は新座くんとばかり遊んでいましたから、貴方とは殆ど言葉を交わせませんでしたね。こうして改めて言葉を交わせることを、嬉しく思っています」
 鶴瀬は、声を荒げることなく言葉を繋げる。
 けれど志朗の胸に、その温度は届かなかった。届かないように、何度も自ら切り捨ててきたからだ。
 志朗の中で、鶴瀬という存在は従兄弟ではない。邑子の兄妹の子である鶴瀬は、家系図の上では確かに親戚だ。
 だが邑子と血の繋がりのない志朗にとって、彼は本質的には他人である。
 幼い頃、誰かが「従兄弟だよ」と言ったところで、志朗はいつだって境界線の外側に立たされていた。暖かい円の中に入れてもらった覚えはない。だから、その言葉は志朗の胸ではずっと響かないままだった。
 それでも、鶴瀬の声音は確かだった。
 まるで――血の繋がりなど関係ない、と静かに告げているかのように。
 その声は、凛々しく誠実で、志朗にも気を掛けていた……邑子に少し似ていた。

「本日より、貴方に対する第一次尋問および証拠提示の手続きに入ります。以降の全ての発言は記録され、適切な法的過程を経て、最終的な裁定へと移行されます」
 宣言に志朗は眉一つ動かさず、黙って耳を傾ける。
 皮肉も嘲笑もなかった。あるのは、ただ受け止める者の沈黙だった。
 鶴瀬が分厚い書類束を開く。精密に綴られた文書には、刑法、組織犯罪処罰法、武器等製造法違反、監禁罪、殺人未遂、公務執行妨害――列挙された罪状は無数。条文に照らされ、血で書かれたような文字がそこに在った。
「貴方が関与したとされる行為には、証言者がいます。映像記録、音声データ、通信履歴、被害者の供述、第三者の通報記録、そして機関から流出した内部文書の写しが含まれています」
 志朗の頬が、引き攣る。
 気づいた者はいなかった。いや、気づいても、あえて口にしなかっただけかもしれない。
「我々は、警察機関ではありません。ですが、これは私刑でもない。我々レジスタンスは、貴方を法に基づく裁きへと引き渡す。記録と証拠を全て整えた上で、国家による正当な告発を可能にし、秘密裏の裏社会から、貴方を白日のもとへ引きずり出す。それが我々にとっての正義です」
 沈黙の中で、志朗がふっと鼻を鳴らす。吐き捨てるような嗤いだった。

「……正義ねぇ。そんなもんで俺が壊したもん全部、帳消しにできるとでも?」
「できません」
 即答だった。
 鶴瀬の声は寸分の揺らぎもなく、冷たい刀の切っ先のように明瞭だった。
「帳消しにはならない。戻らぬ命がある。消えた記憶も、壊れた家族もある。……だがそれでも、正義とは、過去を消すためのものではない。これ以上、未来を奪わせないためにあるのです」
 室内に静謐な緊張が走った。怒声でも銃声でもなく、ただ鶴瀬の言葉が残した、静かな裁きの気配だった。
「貴方には黙秘権があります。供述を拒否することも、沈黙を貫くこともできる。ただし、その選択が今後の裁定にどう影響するかは、全て記録された上で判断されます」
 鶴瀬の目は、一切の情を排していた。
 正義を語る男の眼差しは、私怨でもなく憐憫でもなく、ただ峻厳だった。
「公判資料は後日、特別な保護措置のもとで正式に法廷に提出されます。我々は既に、貴方の罪を法の名の下に照らす準備を整えている」
「……随分、丁寧な地獄だな」
「貴方を殺すことなど、容易いことです。それを望む声も、我々には届いている。ですがそれでは、正義にはならない」
 鶴瀬の声は、深く、厳粛だった。
「新座くんも、正しく貴方が裁かれることを、望んでいます」
 その名が呼ばれた瞬間、志朗の視線が横へと動く。
 黙って兄を見つめる新座の姿があった。
 眼差しには、一滴の純粋さが残っている。怒りでも裁きでもない。……まだ、何かを信じようとする光がそこにあった。
 胸の奥が灼けるように痛んだ。屈辱でも、怒りでもない。愛を、喪った痛みだった。
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