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第4部
[71] 4部4章/2 「この魂の海は、終わりのない慟哭で満ちていた。」
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【4部4章】
/2
翌朝。メディアは、一様にある著名人の失踪を報じていた。
冷ややかな文章が羅列される。情報として処理され、誰の胸にも深く届くことのない一つの出来事。誰も知らない。本当の志朗が、仏田家の当主の内奥に密かに幽閉されていることなど。
喫茶店のテレビには、志朗の顔写真が映っていた。
鮮明で整った輪郭。公の場で露出された冷徹な瞳が、今は「行方不明者」という肩書のもとに無機質なラベルを貼られている。
「……ふざけてる」
新座が呟く。手の中のマグカップが小さく震えていた。熱いココアが指先に触れても、その感覚すら意識しない。
隣に座る鶴瀬は、黙したままテレビを見つめていた。凪のように静かな横顔には、怒りも焦りも刻まれていない。淡々と状況を咀嚼し、次に取るべき手を思考している気配があった。
「監視カメラは全滅。警備記録も跡形も無い。結界に異常も検知されなかった……完璧に消された。志朗さんの誘拐、あれは人間のやり口じゃないな」
「むぐ。……どんな手を使ったと思う?」
「はわ。……分からない。人間以外の魔法は、無限にあるから」
それを解き明かすのが本来、異能研究所である機関の役目だ。
だが機関に背を向けたレジスタンスにとって、望むべくもない支援である。
二人は並んでココアを口に運びながら、テレビに視線を戻す。
『現在も捜索は続いておりますが、有力な手がかりは得られておりません。仏田志朗氏は、違法組織との関与も取り沙汰されており……』
アナウンサーの無表情な声が、粛々と続いていた。
「怒りは後回しにしよう。次の手を考えなきゃいけない。機関の内部を揺さぶるためにも……新座くん、新しい作戦を用意してるんだろう?」
「まあね。スパイを送り込む案を考えてたけど……。さすがにちょっと、滅入ってきたよ」
新座は、自嘲気味に笑う。その声は、芯を失った弦のようにどこか虚ろだった。
「これでも僕、志朗お兄ちゃんのこと、90%は信じてたんだよ? その人が本物の悪者で、それも即日で何の痕跡もなくいなくなるなんて……」
「でも10%は疑ってたんだろ。で、その案、早く聞かせてもらえる?」
「鶴瀬くん。そういう冷たさ、ほんと怖いよ」
軽口を叩きながらも新座の心の奥では、一つの祈りが声にならずに繰り返されている。
――お願いだから生きていて。どんなに酷いことを言われたって、どんな顔をして現れたって、あの人は僕の憧れで、誰よりも大切な兄なんだから。
言葉にできない叫びが、胸の奥で燃えていた。
そのとき、控えめなドアベルの音が店内に鳴った。
「やあ」
春の風のように、温かく柔らかい声。穏やかな微笑み。人好きのする表情。
どこか抜けているようで、けれど不思議なほどに人の心の距離を詰める存在――上門圭吾が立っていた。
「圭吾さん、来てくれたんだ!」
新座が顔を綻ばせた。
圭吾という男は、戦力として特別秀でているわけではない。政治力も情報も持たない。ただそこにいるだけで、周囲の人間の呼吸がほんの少しだけ、楽になる。そんな不思議な人間だった。
先日、新座とときわがレジスタンスへの加入を促したとき、圭吾は難しい顔をしていた。それでも今日、こうして顔を見せてくれる。それだけで、傷心の新座にとっては何よりも心強かった。
「新座くん。テレビ、見たよ。その、お兄さんのこと……。俺、いてもたってもいられなくてさ」
圭吾は申し訳なさそうに頭を掻くと、新座の隣にそっと腰を下ろした。
「あのさ、新座くん……元気出して、なんて軽々しくは言えないけど……」
「むぐ。……そういう圭吾さんの無計画に優しいところ、僕は好きですよ」
言いながら、新座の声が小さく震えた。
けれど、その震えの中には確かに笑いの音がある。細く儚く、けれど紛れもなく希望の名残のような笑いだ。
「燈雅お兄ちゃんも……圭吾さんのそういうとこ、きっと好きだったと思う。あの人も、見かけによらずフワフワものが好きだから」
「じ、冗談はやめてくれよ……!」
圭吾は照れたように耳を赤らめ、髪を掻き上げた。
気恥ずかしい仕草を遮るように、鶴瀬が一つ咳払いをする。
場の空気が切り替わる。新座は頷き、再び現実へと意識を戻す。
冷めかけたココアを一息に飲み干しながら、これからの作戦を語り始めた。
12月。空気は凍てつき、夜は長くなるばかり。ぬくもりだけでは凌げない、厳しい冬の戦が始まろうとしていた。
◆
夕刻の光が本堂の障子を透かし、赤く畳に滲む。光はどこか血のように生々しく縁側へと長い影を落としてゆく。
犬伏頼道は仏前に香を手向けたまま、目を閉じていた。香煙が淡く揺れる。祈りの余韻の中、突き刺すような沈黙が流れた。
電話が鳴る。ゆるやかに立ち上がり、受話器を取る。聞こえてきたのは、擦れた声だった。
電話先の藤春の声は、ひどく細かった。
「……頼道兄さん。あずまが、妻が……事故で亡くなりまして……」
無理に形を保とうとするその震えに、頼道の喉の奥が軋む。
だが住職としての静けさを崩さず、深く合掌し、一礼した。
「そうか。……ご愁傷様でした」
形式的な言葉。しかしそれは、魂を守るために必要な、最初の衣だった。
「葬儀はこちらで預かろう。仏田寺にて滞りなく整えさせてもらう。火葬の手配、香典返し、その他の事務は追って詳細を伝える」
事務のように淡々と。だがその言葉の行間には、確かな温度が宿っていた。
頼道は声音を和らげ、語り掛ける。
「藤春。お前、食べてるか?」
一拍の沈黙が、場を包んだ。
「……いや。あんまり」
やはり、と思った。泣いていないのではない。泣く余裕もなく、心の全てが凍りついている。
仏間の柱の影に頼道は目をやった。そこに在るはずのない面影、亡き光緑の姿を、なぜか幻視してしまう。
その弟が今、電話の向こうで震えている。光緑と同じ優しい声。人の痛みにあまりにも敏くて、自分のことをいつも後回しにする男。頼道は息を吸い、懐かしい声を上げた。
「藤春が全部背負う必要はない。寺に来い。あとは俺がやる。……寒い時季だ、お前が倒れてどうする。緋馬くんを守らねばならんだろう?」
応えはなかった。
だが、沈黙が何より雄弁だった。
「……ありがとう、頼道兄さん」
かつて仔犬のように懐いてきた少年。その隣に、いつも光緑がいた。藤春の幼い声が聞いた今、廊下の奥からあの三兄弟が笑っていた声が聞こえてくる気がする。
死してなお骨の奥に焼きついた、光緑の囁き。思わず藤春の声を前に、涙腺が緩む。
――会いたい。今もなお、会いたくてたまらない。
恋しさを押し殺し、頼道は己の胸に言い聞かせるように呟く。
「……気張れよ、藤春」
激励というよりも、己自身への戒めだった。光緑の代わりに残された者を守ると誓う、兄の役目として。
受話器の向こうで、小さく息を呑む音がした。
「もちろん、気張ります。俺には、緋馬もいる。……父親役の俺が参ってたら、あいつが……苦しむでしょうから」
その言葉に、頼道は目を伏せた。ああ、と、深く心の内で嘆息する。
変わらない。人を思い、人のために踏ん張るその優しさが、いつまでも藤春の中には生きている。
それは光緑が愛した家族として、何より誇らしい生き方だった。
「ああ。緋馬のためにも、踏ん張って生きろ。仏田の家なんざ、お前には戻りたくもない場所かもしれん。だが兄貴役の俺がいる。嫌なことを言う奴がいたら、俺がぶん殴ってやる。安心して帰ってこい」
その声音には、もはや住職の威厳も仏田の格式もない。愛する者の家族を迎える、一人の男の言葉だ。
「……はは。人を殴るとか、貴方、できないでしょうに。でも、助かります、頼道兄さん。……柳翠にも、よろしくお伝えください」
「ああ。伝えておくよ。あいつも最近は……まあ、ちっとは丸くなった。きっと優しくするさ、お前にも、緋馬にも」
電話が切れた後、頼道はそっと手を合わせた。
仏前の灯明が揺れていた。
葬儀とは、ただの終わりではない。失われた者と残された者とがもう一度、結び直すための祈りの場だ。
守らねばならない。光緑の弟を。そして、柳翠の子を。
誓いながら、頼道は冷え切った廊下を歩き出した。
冬の風が、廊の硝子戸を細く叩く。乾いた音が一度だけ鳴り、静けさの中に消えていく。
頼道は袂を揺らしながら、仏田家本邸の長い廊下を歩いていた。
無数の時代を飲み込みながらなお佇むこの邸の奥、その心臓部へ向かう。そこは重々しく、気配さえも封じる無言の道だった。
「現当主様にも、伝えねばな」
独りごちた言葉が、廊に反響する。誰に聞かせるわけでもない声だったが、冬の静寂はそれを殊更大きく返した。
燈雅――この家を今、束ねる若き当主。
その胸の内を推し量ることは、容易ではない。実の弟である志朗が突如として消息を絶ち、冷ややかな報道だけが、世間にその名を流し続けている。内情を知る者すら、真実に触れられぬまま戸惑い、沈黙していた。
燈雅は、いつもと変わらぬ顔をして職務をこなしている。その平然さこそが何よりの痛ましさだと、頼道には見えた。
(……燈雅くんにも、心の灯を支えてくれる誰かがいればいいが)
そして、もう一人。彼の母であり、前当主の妻・邑子もまた、専用の離れに籠もったまま人前に姿を見せていない。
決して声を荒げず、涙を見せず、いつも微笑のうちに在った女性。だからこそ、今の沈黙が何より痛々しい。
頼道は歩を緩め、目を伏せた。彼らは皆それぞれに欠損を抱え、痛みに蓋をしている。
若すぎる当主。心を凍らせて引きこもっている母。まるで声を上げることさえ忘れてしまったように、時を耐えている。
自分は、彼らに何ができるのだろう。代々と仏田の当主を正す住職という立場にありながら、どれほどの光を灯してやれるのか。
祈ることだけはできる。傷ついた者たちが、たとえ声を無くしても、手を伸ばし、互いを見捨てずにいられるように。壊れた心と心が、なお繋がっていけるように。
(寄り添ってやろう。いつまでも、ここで)
それが自分の背負うべき役目だと、頼道は自覚していた。
襖の前に立ち、深く一礼する。寒気を孕んだ廊下に、袈裟の裾が揺れていた。祈りと共に、ゆっくりと襖へと伸びていった。
◆
ここは、肉の内側。死の先。黒く底知れぬ虚無。目など、ある筈がなかった。それでも志朗は、見ていた。
光はなく、影さえない。あるのは海中のような、無限の底。真っ赤な海を漂う。血の海の中、溶け込むように蠢く、無数の声。
――あいしたい。かえりたい。わたしをみつけて。ころしてくれ。まだここにいる。
祈りとも呪詛ともつかぬ言葉。か細い嘆願。断末魔。懺悔。名もなき魂の残響が、この空間の隅々にまで染みついている。
志朗は、その中にいた。意識は泡のように脆く、肉体の感覚も、時間の流れも、とうに剥ぎ取られていた。それでも志朗という名を持つ何かとして、なおここに在ることをやめなかった。
生きているのではない。死にきれず、残されているとしか言いようがなかった。
誰にともなく発した呟きが、波紋のように広がり、やがて他の声と絡まり、溶けていく。嘲笑のように。あるいは、泣き崩れるように。
志朗は、その輪に混ざっていた。
仏田の当主たち――かつて名を持ち、権威を帯び、人を喰らい、また喰われ、器に沈んでいった男たち。
贄となった者たち――名も告げられず、忘却の彼方に葬られ、死してなお叫び続ける者たち。
――しにたい。なぜわたしが。ここに。しにたくなかった。おなか。へった。あの子に。あいたい。おかあさん。たすけて。あいたい。
三百年の時を越えて積み重ねられた嘆きが、煤のようにこの器の中に堆積していた。
新しき魂も、古びた魂も、皆が同じように呻き、叫び、そして崩れ、音もなく融けていく。
志朗も、気づけば口がひとりでに動いていた。
「……会いたい……」
彼の胸に浮かんでいた面影は、一つだけ。
白銀の髪。空のような瞳。静かに自分を見つめていた青年。唯一の存在。
「……お前に、もう一度……会いたい……」
その祈りもまた、無数の嘆きの中に沈んでいく。
誰のものとも判然としない「会いたい」の波の中に、一粒の涙のように吸い込まれていく。
声の海は、志朗の意識を包み込んでいった。
泡のように浮かび、弾け、また沈む魂たち。断片化した記憶が脳裏に明滅し、それがまた波となって襲いかかる。
「……シキ……俺は……お前を……」
名を呼んだ瞬間、胸の奥が灼けるように熱く軋んだ。
何度も、幾夜も、シーツの中であの名を喉奥に押し殺してきた。
奉仕される自分が、抱いてはならぬ感情。
だが今は違った。ここでは何も所有せず、何も縛られない。名を呼ぶことが、ようやく許された。
誰に聞かせるでもなく、祈るように声が零れた。
「……愛してる」
そのときだった。
虚空の片隅、揺らめく歪みの中に、微かな面影が浮かんだ気がした。
樹海の香りがした。その中で、白銀の髪、青の瞳が、見えた。崩壊した筈の自分は『新たな器』に移り、『兄の体』から彼を見ていた。
彼は何も語らずに、去っていく。
首輪を着けない彼が、自分を確かに見つめた後に……自由に歩いていく。
(……生きていた。自由になったんだ、あいつは)
思った。願いが、叶ってしまったのだと。
皮肉にも、自分が囚われ、拷問され、殺され、魂だけの存在となったことによって。
志朗は、笑った。苦笑でも、涙でもなかった。それは、限りなく安堵に近い笑みだった。
(お前は……ちゃんと、自由になれたんだ……)
数えきれぬ魂が喚く中で、志朗の意識だけが、ゆっくりと、深く沈んでいく。
声も、痛みも、もうどうでもよくなった。
この魂の海は、終わりのない慟哭で満ちていた。
声の無い声。形を持たぬ悲鳴。千年の闇の底で誰かを呼び続ける亡者たちの、果てなき祈り。
「……会いたい……」
どこからともなく響いた囁きは、驚くほど幼く、痛ましく、懐かしかった。
仏田光緑の声だった。
地獄の使いのごとき鬼畜とまで称された男が、まるで迷子の子供のように、誰かを求めて泣きじゃくっていた。
「……頼道……僕は……お前と……ずっと……」
尊敬と恐怖の対象だった父親が、声は途切れがちに震えながら、必死に縋るように誰かの名を呼んでいた。
次いで、低く熱を孕んだ声が、魂の濁流をかき分けるように響く。
聞き覚えのない声。しかし、その奥底にはどこか、照行を思わせる輪郭が滲んでいた。
おそらくは仏田家に連なる者。名も知らぬまま、この器に沈んだ、別の時代の犠牲者。
彼は、女の名を叫んでいた。
何度も。激しく。まるで呪詛のように、暴力的な執着とともに。
愛する女を叫ぶ男は、まだ、いる。さらに古い時代を思わせる男が、狂気的な目を輝かせて嗤っていた。
「有栖……! お前のもとに……オレは、オレは行く……なあ、有栖……今行くぞ……!」
魂の奥底にまで絡みつくような怨嗟と恋慕が、その声には宿っていた。
誰よりも強く、誰よりも多く、彼の声は器全体に響く。
そして、さらに深い淵から別の声が浮かび上がる。
静かで痛切で、限りなく優しい声。
「……会いたいな……」
微かな溜息のように、胸の奥を焼く後悔とともに、最も古い男は言った。
その声の主は過ちを犯し、異端を愛した男。
触れてはならぬものに手を伸ばし、狂おしいほどの情念を抱いたまま、ここに堕ちてきたのだ。
「……殺してしまったお前に、また触れたいと思うのは……罪だろう……。それでも、オレは……どうしても、忘れられない……お前を……マキョウ……」
魂の器の中でさえ、最古の叫びは絶えることがなかった。
想いは時を越え、名を超えて、繰り返し繰り返し、同じ言葉へと回帰する。
――会いたい。
愛し、失い、引き裂かれ、それでもなお、執着する声。それだけが、ここにはあった。
誰の名ともつかぬ愛の残滓が、重油のように沈殿し、一つの海を成していた。
その中に、志朗もいる。
けれど彼は、もう声を上げない。
(……もう、会えない。……去っていったから。……自分の足で)
そう、思った。
どれほど焦がれても、どれほど慕っても、自分の手で自由を与えてしまったあの存在に、もう二度と触れることはないのだと。
願いは叶ってしまった。
シキは、自由になった。
会いたい――けれど、会わなくていい。
志朗は、そう思った。そう思えた自分自身に、微かな驚きすら覚えながら。
この器の中で、ただ一つの異端となった。
沈む誰もが声を枯らして名を叫ぶ中で、たった一つの願いを共に紡ぎ上げることで強大な力を創り出している中で……志朗だけが、沈黙を選んでいた。
願いを叶えてしまった者の沈黙。手放した愛に、二度と手を伸ばさぬと決めた者の、静かなる終焉。
沈黙は叫びの海にあって、ひときわ異様で、美しかった。
志朗は、ただそこに在った。
名を呼ばず、声を上げず。
それでも、確かに、想っていた。
声なき声で。
魂の深奥で。
――それが志朗だけの、終わりだった。
◆
静寂の中に、ひとひらの揺らぎが生まれた。
書院の奥、仏田家本邸の最奥にある居間。障子越しに差し込む薄光が、文机の縁を白々と照らしている。
淡く差し込む冬陽に、文机の漆がわずかに煌めいていた。その前に座する燈雅の肩が、ごく小さく震えた。
すぐさま襖の陰から歩み出たのは、忠義に生きる従者・男衾だった。異変を見逃す者ではない。彼の声は静かでありながら、主の内奥に寄り添うような柔らかさを湛えている。
「燈雅様。いかがなさいましたか」
声に燈雅は目を閉じ、呼吸を一拍整えた。
そして低く、確かな声音で命じた。
「……上門所長と夜須庭先生、それと、柳翠叔父上を呼べ。今すぐだ。儀式は……必ず今年の12月31日に決行する。来年はない。これは、決定事項だ」
言葉の一つ一つが、氷のような明瞭さを持って空間を切り裂いた。
男衾は目を見開いた。
だが、忠臣の顔には感情の翳り一つなくすぐに深々と頭を下げ、気配を消すようにその場を後にする。
再び訪れた静寂の中、燈雅は自身の腹部へと手を添えた。
内奥には、仏田家千年の血が凝縮された器がある。
歴代の当主たちの魂を封じた、忌まわしくも誇るべき、魂の収蔵庫。
幾多の当主の記憶と怨嗟が沈殿し、織りなされた忌まわしき遺産。それをこの肉体に宿していた。強い声が、燈雅の中に鳴り響いている。
絶対に神を蘇らせろ。願いを叶えろ。絶対だ。絶対に。
そう叫び続ける声ばかりの器に、微かな異物がある。
「……不協和音がある。反抗ではないが、和を乱している」
燈雅の目がすうっと細まり、背筋にぞわりと冷気が這い上がった。
魂の潮流に逆らうように、内側で燻る火――それは、志朗の魂だった。
弟。惜しい男だった。無慈悲で抜け目なく、だが愛というものに対しては誰よりも無防備だった。
その魂が、未だ燃えている。
屈しもせず消えもせず、器の奥底で微かに息づいている。
「……お前か、志朗。困った弟だな。お前の存在のせいで、うまく力が引き出せなかったら……計画が潰れてしまうよ」
言いながらも、燈雅の口元に微かな笑みが浮かぶ。
懐かしむようでいて、どこか冷ややかな、憐憫に似た微笑。
だが、情には流されない。
もはやこの身は個としての自我ではなく、千年前の妄執が生んだ器そのものである。
神を呼び寄せる壇であり、千年の継承を成就させる執行者であり、一つの意志の集積体だった。
「千年を越えて、ようやくここまで辿り着いた。これ以上の遅延も、逸脱も許されない。……そう訴える、鬼のような当主がいるんでな。オレは従うしかないんだよ」
呟きは誰に向けられるでもなく、空へと零れた。
声には確かな決意があった。愛と血とを錯綜させながら、幾千の魂が家を繋ぎ、崩し、そしてまた再生させてきたもの。だが――。
「ふふ。もしオレが情で止まるようなことがあったら、志朗のせいにするからな。……お前に邪魔される前に、仏田家を終わらせるため、世界を終わらせよう」
それが燈雅という男が選び取った、最後の意志だった。
ふと、襖の向こうから声が掛かる。
「当主様、燈雅様。失礼致します。犬伏です。お話がございます」
住職・犬伏頼道の声。穏やかでありながら、凛とした響きを携えた声。
この家に残っている光――のようでいて、この家を終わらせる一手を、知らず知らず作ってしまった恩人。彼自身知らないだけで、この世界で一番の災厄――。
優しくも残酷な彼を出迎えるべく、燈雅は立ち上がり、優しい笑顔を作る。
儀式の火は、既に灯っていた。
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翌朝。メディアは、一様にある著名人の失踪を報じていた。
冷ややかな文章が羅列される。情報として処理され、誰の胸にも深く届くことのない一つの出来事。誰も知らない。本当の志朗が、仏田家の当主の内奥に密かに幽閉されていることなど。
喫茶店のテレビには、志朗の顔写真が映っていた。
鮮明で整った輪郭。公の場で露出された冷徹な瞳が、今は「行方不明者」という肩書のもとに無機質なラベルを貼られている。
「……ふざけてる」
新座が呟く。手の中のマグカップが小さく震えていた。熱いココアが指先に触れても、その感覚すら意識しない。
隣に座る鶴瀬は、黙したままテレビを見つめていた。凪のように静かな横顔には、怒りも焦りも刻まれていない。淡々と状況を咀嚼し、次に取るべき手を思考している気配があった。
「監視カメラは全滅。警備記録も跡形も無い。結界に異常も検知されなかった……完璧に消された。志朗さんの誘拐、あれは人間のやり口じゃないな」
「むぐ。……どんな手を使ったと思う?」
「はわ。……分からない。人間以外の魔法は、無限にあるから」
それを解き明かすのが本来、異能研究所である機関の役目だ。
だが機関に背を向けたレジスタンスにとって、望むべくもない支援である。
二人は並んでココアを口に運びながら、テレビに視線を戻す。
『現在も捜索は続いておりますが、有力な手がかりは得られておりません。仏田志朗氏は、違法組織との関与も取り沙汰されており……』
アナウンサーの無表情な声が、粛々と続いていた。
「怒りは後回しにしよう。次の手を考えなきゃいけない。機関の内部を揺さぶるためにも……新座くん、新しい作戦を用意してるんだろう?」
「まあね。スパイを送り込む案を考えてたけど……。さすがにちょっと、滅入ってきたよ」
新座は、自嘲気味に笑う。その声は、芯を失った弦のようにどこか虚ろだった。
「これでも僕、志朗お兄ちゃんのこと、90%は信じてたんだよ? その人が本物の悪者で、それも即日で何の痕跡もなくいなくなるなんて……」
「でも10%は疑ってたんだろ。で、その案、早く聞かせてもらえる?」
「鶴瀬くん。そういう冷たさ、ほんと怖いよ」
軽口を叩きながらも新座の心の奥では、一つの祈りが声にならずに繰り返されている。
――お願いだから生きていて。どんなに酷いことを言われたって、どんな顔をして現れたって、あの人は僕の憧れで、誰よりも大切な兄なんだから。
言葉にできない叫びが、胸の奥で燃えていた。
そのとき、控えめなドアベルの音が店内に鳴った。
「やあ」
春の風のように、温かく柔らかい声。穏やかな微笑み。人好きのする表情。
どこか抜けているようで、けれど不思議なほどに人の心の距離を詰める存在――上門圭吾が立っていた。
「圭吾さん、来てくれたんだ!」
新座が顔を綻ばせた。
圭吾という男は、戦力として特別秀でているわけではない。政治力も情報も持たない。ただそこにいるだけで、周囲の人間の呼吸がほんの少しだけ、楽になる。そんな不思議な人間だった。
先日、新座とときわがレジスタンスへの加入を促したとき、圭吾は難しい顔をしていた。それでも今日、こうして顔を見せてくれる。それだけで、傷心の新座にとっては何よりも心強かった。
「新座くん。テレビ、見たよ。その、お兄さんのこと……。俺、いてもたってもいられなくてさ」
圭吾は申し訳なさそうに頭を掻くと、新座の隣にそっと腰を下ろした。
「あのさ、新座くん……元気出して、なんて軽々しくは言えないけど……」
「むぐ。……そういう圭吾さんの無計画に優しいところ、僕は好きですよ」
言いながら、新座の声が小さく震えた。
けれど、その震えの中には確かに笑いの音がある。細く儚く、けれど紛れもなく希望の名残のような笑いだ。
「燈雅お兄ちゃんも……圭吾さんのそういうとこ、きっと好きだったと思う。あの人も、見かけによらずフワフワものが好きだから」
「じ、冗談はやめてくれよ……!」
圭吾は照れたように耳を赤らめ、髪を掻き上げた。
気恥ずかしい仕草を遮るように、鶴瀬が一つ咳払いをする。
場の空気が切り替わる。新座は頷き、再び現実へと意識を戻す。
冷めかけたココアを一息に飲み干しながら、これからの作戦を語り始めた。
12月。空気は凍てつき、夜は長くなるばかり。ぬくもりだけでは凌げない、厳しい冬の戦が始まろうとしていた。
◆
夕刻の光が本堂の障子を透かし、赤く畳に滲む。光はどこか血のように生々しく縁側へと長い影を落としてゆく。
犬伏頼道は仏前に香を手向けたまま、目を閉じていた。香煙が淡く揺れる。祈りの余韻の中、突き刺すような沈黙が流れた。
電話が鳴る。ゆるやかに立ち上がり、受話器を取る。聞こえてきたのは、擦れた声だった。
電話先の藤春の声は、ひどく細かった。
「……頼道兄さん。あずまが、妻が……事故で亡くなりまして……」
無理に形を保とうとするその震えに、頼道の喉の奥が軋む。
だが住職としての静けさを崩さず、深く合掌し、一礼した。
「そうか。……ご愁傷様でした」
形式的な言葉。しかしそれは、魂を守るために必要な、最初の衣だった。
「葬儀はこちらで預かろう。仏田寺にて滞りなく整えさせてもらう。火葬の手配、香典返し、その他の事務は追って詳細を伝える」
事務のように淡々と。だがその言葉の行間には、確かな温度が宿っていた。
頼道は声音を和らげ、語り掛ける。
「藤春。お前、食べてるか?」
一拍の沈黙が、場を包んだ。
「……いや。あんまり」
やはり、と思った。泣いていないのではない。泣く余裕もなく、心の全てが凍りついている。
仏間の柱の影に頼道は目をやった。そこに在るはずのない面影、亡き光緑の姿を、なぜか幻視してしまう。
その弟が今、電話の向こうで震えている。光緑と同じ優しい声。人の痛みにあまりにも敏くて、自分のことをいつも後回しにする男。頼道は息を吸い、懐かしい声を上げた。
「藤春が全部背負う必要はない。寺に来い。あとは俺がやる。……寒い時季だ、お前が倒れてどうする。緋馬くんを守らねばならんだろう?」
応えはなかった。
だが、沈黙が何より雄弁だった。
「……ありがとう、頼道兄さん」
かつて仔犬のように懐いてきた少年。その隣に、いつも光緑がいた。藤春の幼い声が聞いた今、廊下の奥からあの三兄弟が笑っていた声が聞こえてくる気がする。
死してなお骨の奥に焼きついた、光緑の囁き。思わず藤春の声を前に、涙腺が緩む。
――会いたい。今もなお、会いたくてたまらない。
恋しさを押し殺し、頼道は己の胸に言い聞かせるように呟く。
「……気張れよ、藤春」
激励というよりも、己自身への戒めだった。光緑の代わりに残された者を守ると誓う、兄の役目として。
受話器の向こうで、小さく息を呑む音がした。
「もちろん、気張ります。俺には、緋馬もいる。……父親役の俺が参ってたら、あいつが……苦しむでしょうから」
その言葉に、頼道は目を伏せた。ああ、と、深く心の内で嘆息する。
変わらない。人を思い、人のために踏ん張るその優しさが、いつまでも藤春の中には生きている。
それは光緑が愛した家族として、何より誇らしい生き方だった。
「ああ。緋馬のためにも、踏ん張って生きろ。仏田の家なんざ、お前には戻りたくもない場所かもしれん。だが兄貴役の俺がいる。嫌なことを言う奴がいたら、俺がぶん殴ってやる。安心して帰ってこい」
その声音には、もはや住職の威厳も仏田の格式もない。愛する者の家族を迎える、一人の男の言葉だ。
「……はは。人を殴るとか、貴方、できないでしょうに。でも、助かります、頼道兄さん。……柳翠にも、よろしくお伝えください」
「ああ。伝えておくよ。あいつも最近は……まあ、ちっとは丸くなった。きっと優しくするさ、お前にも、緋馬にも」
電話が切れた後、頼道はそっと手を合わせた。
仏前の灯明が揺れていた。
葬儀とは、ただの終わりではない。失われた者と残された者とがもう一度、結び直すための祈りの場だ。
守らねばならない。光緑の弟を。そして、柳翠の子を。
誓いながら、頼道は冷え切った廊下を歩き出した。
冬の風が、廊の硝子戸を細く叩く。乾いた音が一度だけ鳴り、静けさの中に消えていく。
頼道は袂を揺らしながら、仏田家本邸の長い廊下を歩いていた。
無数の時代を飲み込みながらなお佇むこの邸の奥、その心臓部へ向かう。そこは重々しく、気配さえも封じる無言の道だった。
「現当主様にも、伝えねばな」
独りごちた言葉が、廊に反響する。誰に聞かせるわけでもない声だったが、冬の静寂はそれを殊更大きく返した。
燈雅――この家を今、束ねる若き当主。
その胸の内を推し量ることは、容易ではない。実の弟である志朗が突如として消息を絶ち、冷ややかな報道だけが、世間にその名を流し続けている。内情を知る者すら、真実に触れられぬまま戸惑い、沈黙していた。
燈雅は、いつもと変わらぬ顔をして職務をこなしている。その平然さこそが何よりの痛ましさだと、頼道には見えた。
(……燈雅くんにも、心の灯を支えてくれる誰かがいればいいが)
そして、もう一人。彼の母であり、前当主の妻・邑子もまた、専用の離れに籠もったまま人前に姿を見せていない。
決して声を荒げず、涙を見せず、いつも微笑のうちに在った女性。だからこそ、今の沈黙が何より痛々しい。
頼道は歩を緩め、目を伏せた。彼らは皆それぞれに欠損を抱え、痛みに蓋をしている。
若すぎる当主。心を凍らせて引きこもっている母。まるで声を上げることさえ忘れてしまったように、時を耐えている。
自分は、彼らに何ができるのだろう。代々と仏田の当主を正す住職という立場にありながら、どれほどの光を灯してやれるのか。
祈ることだけはできる。傷ついた者たちが、たとえ声を無くしても、手を伸ばし、互いを見捨てずにいられるように。壊れた心と心が、なお繋がっていけるように。
(寄り添ってやろう。いつまでも、ここで)
それが自分の背負うべき役目だと、頼道は自覚していた。
襖の前に立ち、深く一礼する。寒気を孕んだ廊下に、袈裟の裾が揺れていた。祈りと共に、ゆっくりと襖へと伸びていった。
◆
ここは、肉の内側。死の先。黒く底知れぬ虚無。目など、ある筈がなかった。それでも志朗は、見ていた。
光はなく、影さえない。あるのは海中のような、無限の底。真っ赤な海を漂う。血の海の中、溶け込むように蠢く、無数の声。
――あいしたい。かえりたい。わたしをみつけて。ころしてくれ。まだここにいる。
祈りとも呪詛ともつかぬ言葉。か細い嘆願。断末魔。懺悔。名もなき魂の残響が、この空間の隅々にまで染みついている。
志朗は、その中にいた。意識は泡のように脆く、肉体の感覚も、時間の流れも、とうに剥ぎ取られていた。それでも志朗という名を持つ何かとして、なおここに在ることをやめなかった。
生きているのではない。死にきれず、残されているとしか言いようがなかった。
誰にともなく発した呟きが、波紋のように広がり、やがて他の声と絡まり、溶けていく。嘲笑のように。あるいは、泣き崩れるように。
志朗は、その輪に混ざっていた。
仏田の当主たち――かつて名を持ち、権威を帯び、人を喰らい、また喰われ、器に沈んでいった男たち。
贄となった者たち――名も告げられず、忘却の彼方に葬られ、死してなお叫び続ける者たち。
――しにたい。なぜわたしが。ここに。しにたくなかった。おなか。へった。あの子に。あいたい。おかあさん。たすけて。あいたい。
三百年の時を越えて積み重ねられた嘆きが、煤のようにこの器の中に堆積していた。
新しき魂も、古びた魂も、皆が同じように呻き、叫び、そして崩れ、音もなく融けていく。
志朗も、気づけば口がひとりでに動いていた。
「……会いたい……」
彼の胸に浮かんでいた面影は、一つだけ。
白銀の髪。空のような瞳。静かに自分を見つめていた青年。唯一の存在。
「……お前に、もう一度……会いたい……」
その祈りもまた、無数の嘆きの中に沈んでいく。
誰のものとも判然としない「会いたい」の波の中に、一粒の涙のように吸い込まれていく。
声の海は、志朗の意識を包み込んでいった。
泡のように浮かび、弾け、また沈む魂たち。断片化した記憶が脳裏に明滅し、それがまた波となって襲いかかる。
「……シキ……俺は……お前を……」
名を呼んだ瞬間、胸の奥が灼けるように熱く軋んだ。
何度も、幾夜も、シーツの中であの名を喉奥に押し殺してきた。
奉仕される自分が、抱いてはならぬ感情。
だが今は違った。ここでは何も所有せず、何も縛られない。名を呼ぶことが、ようやく許された。
誰に聞かせるでもなく、祈るように声が零れた。
「……愛してる」
そのときだった。
虚空の片隅、揺らめく歪みの中に、微かな面影が浮かんだ気がした。
樹海の香りがした。その中で、白銀の髪、青の瞳が、見えた。崩壊した筈の自分は『新たな器』に移り、『兄の体』から彼を見ていた。
彼は何も語らずに、去っていく。
首輪を着けない彼が、自分を確かに見つめた後に……自由に歩いていく。
(……生きていた。自由になったんだ、あいつは)
思った。願いが、叶ってしまったのだと。
皮肉にも、自分が囚われ、拷問され、殺され、魂だけの存在となったことによって。
志朗は、笑った。苦笑でも、涙でもなかった。それは、限りなく安堵に近い笑みだった。
(お前は……ちゃんと、自由になれたんだ……)
数えきれぬ魂が喚く中で、志朗の意識だけが、ゆっくりと、深く沈んでいく。
声も、痛みも、もうどうでもよくなった。
この魂の海は、終わりのない慟哭で満ちていた。
声の無い声。形を持たぬ悲鳴。千年の闇の底で誰かを呼び続ける亡者たちの、果てなき祈り。
「……会いたい……」
どこからともなく響いた囁きは、驚くほど幼く、痛ましく、懐かしかった。
仏田光緑の声だった。
地獄の使いのごとき鬼畜とまで称された男が、まるで迷子の子供のように、誰かを求めて泣きじゃくっていた。
「……頼道……僕は……お前と……ずっと……」
尊敬と恐怖の対象だった父親が、声は途切れがちに震えながら、必死に縋るように誰かの名を呼んでいた。
次いで、低く熱を孕んだ声が、魂の濁流をかき分けるように響く。
聞き覚えのない声。しかし、その奥底にはどこか、照行を思わせる輪郭が滲んでいた。
おそらくは仏田家に連なる者。名も知らぬまま、この器に沈んだ、別の時代の犠牲者。
彼は、女の名を叫んでいた。
何度も。激しく。まるで呪詛のように、暴力的な執着とともに。
愛する女を叫ぶ男は、まだ、いる。さらに古い時代を思わせる男が、狂気的な目を輝かせて嗤っていた。
「有栖……! お前のもとに……オレは、オレは行く……なあ、有栖……今行くぞ……!」
魂の奥底にまで絡みつくような怨嗟と恋慕が、その声には宿っていた。
誰よりも強く、誰よりも多く、彼の声は器全体に響く。
そして、さらに深い淵から別の声が浮かび上がる。
静かで痛切で、限りなく優しい声。
「……会いたいな……」
微かな溜息のように、胸の奥を焼く後悔とともに、最も古い男は言った。
その声の主は過ちを犯し、異端を愛した男。
触れてはならぬものに手を伸ばし、狂おしいほどの情念を抱いたまま、ここに堕ちてきたのだ。
「……殺してしまったお前に、また触れたいと思うのは……罪だろう……。それでも、オレは……どうしても、忘れられない……お前を……マキョウ……」
魂の器の中でさえ、最古の叫びは絶えることがなかった。
想いは時を越え、名を超えて、繰り返し繰り返し、同じ言葉へと回帰する。
――会いたい。
愛し、失い、引き裂かれ、それでもなお、執着する声。それだけが、ここにはあった。
誰の名ともつかぬ愛の残滓が、重油のように沈殿し、一つの海を成していた。
その中に、志朗もいる。
けれど彼は、もう声を上げない。
(……もう、会えない。……去っていったから。……自分の足で)
そう、思った。
どれほど焦がれても、どれほど慕っても、自分の手で自由を与えてしまったあの存在に、もう二度と触れることはないのだと。
願いは叶ってしまった。
シキは、自由になった。
会いたい――けれど、会わなくていい。
志朗は、そう思った。そう思えた自分自身に、微かな驚きすら覚えながら。
この器の中で、ただ一つの異端となった。
沈む誰もが声を枯らして名を叫ぶ中で、たった一つの願いを共に紡ぎ上げることで強大な力を創り出している中で……志朗だけが、沈黙を選んでいた。
願いを叶えてしまった者の沈黙。手放した愛に、二度と手を伸ばさぬと決めた者の、静かなる終焉。
沈黙は叫びの海にあって、ひときわ異様で、美しかった。
志朗は、ただそこに在った。
名を呼ばず、声を上げず。
それでも、確かに、想っていた。
声なき声で。
魂の深奥で。
――それが志朗だけの、終わりだった。
◆
静寂の中に、ひとひらの揺らぎが生まれた。
書院の奥、仏田家本邸の最奥にある居間。障子越しに差し込む薄光が、文机の縁を白々と照らしている。
淡く差し込む冬陽に、文机の漆がわずかに煌めいていた。その前に座する燈雅の肩が、ごく小さく震えた。
すぐさま襖の陰から歩み出たのは、忠義に生きる従者・男衾だった。異変を見逃す者ではない。彼の声は静かでありながら、主の内奥に寄り添うような柔らかさを湛えている。
「燈雅様。いかがなさいましたか」
声に燈雅は目を閉じ、呼吸を一拍整えた。
そして低く、確かな声音で命じた。
「……上門所長と夜須庭先生、それと、柳翠叔父上を呼べ。今すぐだ。儀式は……必ず今年の12月31日に決行する。来年はない。これは、決定事項だ」
言葉の一つ一つが、氷のような明瞭さを持って空間を切り裂いた。
男衾は目を見開いた。
だが、忠臣の顔には感情の翳り一つなくすぐに深々と頭を下げ、気配を消すようにその場を後にする。
再び訪れた静寂の中、燈雅は自身の腹部へと手を添えた。
内奥には、仏田家千年の血が凝縮された器がある。
歴代の当主たちの魂を封じた、忌まわしくも誇るべき、魂の収蔵庫。
幾多の当主の記憶と怨嗟が沈殿し、織りなされた忌まわしき遺産。それをこの肉体に宿していた。強い声が、燈雅の中に鳴り響いている。
絶対に神を蘇らせろ。願いを叶えろ。絶対だ。絶対に。
そう叫び続ける声ばかりの器に、微かな異物がある。
「……不協和音がある。反抗ではないが、和を乱している」
燈雅の目がすうっと細まり、背筋にぞわりと冷気が這い上がった。
魂の潮流に逆らうように、内側で燻る火――それは、志朗の魂だった。
弟。惜しい男だった。無慈悲で抜け目なく、だが愛というものに対しては誰よりも無防備だった。
その魂が、未だ燃えている。
屈しもせず消えもせず、器の奥底で微かに息づいている。
「……お前か、志朗。困った弟だな。お前の存在のせいで、うまく力が引き出せなかったら……計画が潰れてしまうよ」
言いながらも、燈雅の口元に微かな笑みが浮かぶ。
懐かしむようでいて、どこか冷ややかな、憐憫に似た微笑。
だが、情には流されない。
もはやこの身は個としての自我ではなく、千年前の妄執が生んだ器そのものである。
神を呼び寄せる壇であり、千年の継承を成就させる執行者であり、一つの意志の集積体だった。
「千年を越えて、ようやくここまで辿り着いた。これ以上の遅延も、逸脱も許されない。……そう訴える、鬼のような当主がいるんでな。オレは従うしかないんだよ」
呟きは誰に向けられるでもなく、空へと零れた。
声には確かな決意があった。愛と血とを錯綜させながら、幾千の魂が家を繋ぎ、崩し、そしてまた再生させてきたもの。だが――。
「ふふ。もしオレが情で止まるようなことがあったら、志朗のせいにするからな。……お前に邪魔される前に、仏田家を終わらせるため、世界を終わらせよう」
それが燈雅という男が選び取った、最後の意志だった。
ふと、襖の向こうから声が掛かる。
「当主様、燈雅様。失礼致します。犬伏です。お話がございます」
住職・犬伏頼道の声。穏やかでありながら、凛とした響きを携えた声。
この家に残っている光――のようでいて、この家を終わらせる一手を、知らず知らず作ってしまった恩人。彼自身知らないだけで、この世界で一番の災厄――。
優しくも残酷な彼を出迎えるべく、燈雅は立ち上がり、優しい笑顔を作る。
儀式の火は、既に灯っていた。
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