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1巻
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なんだかんだ言いながらも、ノアさんに振り回されるアダムも楽しそうで、僕はくすくすと笑っていた。
そしてアダムから、友人関係などを詳しく書いてある日記を受け取る。
「念のために持ってきただけだから、読まなくてもいいぜ? アデルが、うまく俺になりきれるかはわからねぇし、記憶喪失ってことにするのが一番楽だと思うけど……」
「っ、ありがとう! この日記があれば、僕も安心だよっ!」
アダムはなんて気が利く人なのだと、僕は感動した。
早速、日記の内容を頭に叩き込もうとしたけど、カンナが待ったをかける。
僕からそっと日記を奪い取ったカンナは、仏のような顔をしていた。
「アデル坊ちゃま、悪いことは言いません。記憶喪失ということにしておきましょう」
「私もカンナさんの意見に賛成です!」
ノアさんも挙手し、信頼を置くカンナに助言された僕は、『記憶喪失になったアダム・グランデ』として生きていくと決まった。
帝国行きを決意したアダムが必要ないだろ、と日記を破棄しようとしたけれど、僕は大切な日記を譲り受けることにした。
アダムの生きた証だ。
僕が日記をぎゅっと抱きしめていると、アダムに優しく頭を撫でられる。
僕と同じ青い瞳は、慈愛に満ちていた。
「それじゃあ、俺たちは行くぜ。……そろそろ追っ手が来る頃だからな?」
「ええっ!? お、追っ手!?」
「ああ、いつものことだ」
アダムはなんでもないように笑っているけど、僕は内心驚いていた。
(もしかすると、アダムは毎日監視されるような生活を強いられていたのかも……)
ひっそりと隠れて暮らしてきた僕とは違い、てっきりアダムは輝かしい人生を歩んできたとばかり思っていた。
でも、アダムからしてみれば、常日頃から息が詰まるようなプレッシャーを感じていたのかもしれない。
双子の優秀な方として選ばれたのだから、アデルの分まで頑張らないと……なんて考えて、自らを追い込んでいた可能性もある。
(精神的重圧から解放されて、今度はアダムがのびのびと過ごしてほしい――)
そう強く願う僕は、自身の長い髪を手に取った。
「じゃあ、急がないと! カンナ、髪を切って!」
ふたりの門出を祝うために、僕ができる唯一のこと。
それは、僕の髪を餞別として渡すことだ。
きっといい値段で買い取ってもらえるはず。
「悪いな、アデル。俺の髪が中途半端に短いせいで……」
アダムは申し訳なさそうに眉を下げた。僕がアダムになりきるために、肩甲骨あたりまで髪を切ると思っているのだろう。
そんなアダムに微笑み返した僕は、カンナにハサミを渡した。
「お願い」と目配せすると、僕の意図を読み取ったのか、グレーの瞳が見開かれた。
「っ……ア、アデル、坊ちゃま……。よろしいのですか?」
「うん。バッサリいっちゃって!」
深呼吸をしたカンナは、神妙な面持ちだ。
長年、僕の髪を手入れしてくれていたのだから、僕より寂しい気持ちになったのかもしれない。
「「――……えっ!?」」
アダムとノアさん、ふたりの驚愕した声が響く。
その声を無視したカンナは、肩口まで切った僕の髪を紐でまとめ、宝物のように丁重に木箱に仕舞った。
大切に伸ばしていた髪だったけれど、今はさっぱりとした気分だ。
そして木箱を受け取った僕は、それをそのまま呆然と突っ立っているアダムに渡した。
「僕にはこんなことしかできないけど……。ノアさんと幸せになってね、アダム」
何度も帝国を訪れたことのあるアダムは、高位貴族にもツテがあるそうだ。
ノアさんのご家族にもすでに挨拶済みで、就職先も決まっている。
僕が心配しなくても、しっかり者のアダムなら、きっとどこへ行っても立派にやっていけるだろう。
でも、貴族から平民になり、これから苦労することもあると思う。
その時は、迷うことなく僕の髪を使ってほしい。
僕がにっこりと笑えば、アダムは震える手で箱を受け取った。
「つっ…………アデルッ、ありがとなっ!!」
感極まったように告げたアダムの青い瞳からは、とめどなく涙が流れている。
説明しなくても、使い方は伝わったみたいだ。
深々と頭を下げるノアさんも、なかなか泣きやまず、ふたりに喜んでもらえて嬉しかった僕も、もらい泣きしてしまった。
そして最後は笑顔で別れの抱擁を交わし、ふたりは隣国に旅立った――
その後、僕たちは急ぎグランデ侯爵家の者たちを迎える準備を始めた。
カンナはアダムの残した服の裾直しをしてくれ、僕は化粧の練習をする。
ノアさんが用意してくれていた化粧品で顔を小麦色に塗りたくった。
普段から化粧をしたことがない僕が肌荒れを描くのは難しく、代わりにそばかすを描いてみた。
「……ア、アダムに失礼な気がする……」
「っ、ああ、なんてことっ! アデル坊ちゃまの透明感のある真っ白なお肌が、台なしに……っ! 私の雪の妖精がぁぁーーっ!!」
鏡に映る僕は、滅多なことでは泣かないカンナが涙ぐんでしまうくらい、ブサイクな顔になっていた……
第二章 庭より先は、未知の世界
涙ぐむカンナをなぐさめ、入れ替わりの準備をこなしていく。
その時、家に近づく荒々しい蹄の音が響いた。
先程まで騒がしかった場に、緊張が走る。
ふたりを見送ってから一時間も経たないうちに、グランデ侯爵家の私兵が訪れたのだ。
田舎町には似合わない青い騎士服は、グランデ侯爵家を象徴する色。
立派な体躯の若い男性たちの圧に、僕は緊張からごくりと唾を吞み込んだ。
「っ、アダム様っ!! ご無事でっ!!」
僕が名乗らずとも、騎士たちは勝手に僕をアダムだと思い込んだようだ。
正直なところ、髪を短くしすぎたから、アダムだと信じてもらえるか不安だった。
でも、説明する手間が省けて助かった。
安堵した僕は、にこっと微笑んだ。
「あ、はいっ! 僕、どうやら、記憶をなくしてしまったみたいで……。ご迷惑をおかけしました」
「「「…………」」」
目をかっぴらいて固まる騎士たちは、アダムが記憶喪失になったと知り、驚きすぎて声も出ないようだった。
でも、安心してほしい。
僕はアダムと同じ教育を受けているから、一から教えてもらう必要はない。
マナーも叩き込まれているため、完璧だ。
ただ、剣術と乗馬はできないけれど、代わりに刺繍と家庭菜園については詳しいつもりだ。
「迎えに来てくださり、助かりました。ありがとうございます!」
「「「…………」」」
みんなを安心させるべく、僕は笑顔を絶やさない。
普段は寝巻きで過ごすことが多いけれど、今日はアダムと交換した豪華な服を着ている。
カンナに裾直しもしてもらったため、僕にぴったり似合っているはずだ。
素肌が見えないように革手袋もしているし、剣ダコがないことがバレる心配もない。
顔も小麦色に塗っているし、化粧でそばかすも描いてみた。
やれることはやったのだ。
自信を持てと、僕は自身を鼓舞する。
「あのー? 迎えに来てくださり、ありがとうございます!」
「「「「…………」」」」
でも、残念ながら誰も言葉を発しなかった。
僕の心が折れる前に詳しい事情を説明するため、カンナが一歩前に出る。
「数日前、村の商人が盗賊に襲われているところを、こちらのお方に助けていただきました。私は、荷が盗まれるところをただ見ていることしかできず……。ですが、彼は二十人ほどの賊に囲まれても怯むことなく、賊を追い返したのです! それはそれは勇敢なお姿でした……」
……僕の育ての親は、女優だったのだろうか。
まるでその場で見ていたかのように語ったカンナが、もっともらしい嘘をついた。
「しかし、運悪く頭部を打ったことで、記憶を失ってしまわれたようなのです」
「なるほど、そうでしたか……。あなたがアダム様を助けてくださったのですね?」
「はい。彼は、私の命の恩人でもありますから。何も覚えていらっしゃらないようでしたので、身の回りのお世話をさせていただきました」
若い騎士たちはカンナの話を特に疑いもせず、信じたらしい。
「困った時はお互い様です」と、カンナが謝礼を辞退したからだろう。
「ではアダム様、参りましょう」
「…………は、はいっ」
騎士に名を呼ばれ、僕は慌てて返事をする。
でも、カンナとのお別れが寂しくて、僕の足はなかなか動いてはくれなかった。
するとカンナは、僕を安心させるような穏やかな微笑みを浮かべた。
「貴方様と過ごした日々は、私のかけがえのない宝物です。もし、人生をやり直すことになっても、私はまた、貴方様とお逢いしたいです」
「っ、…………ぅぅっ」
双子の『処理された方』の世話を頼まれたのに、愚痴ひとつこぼすことなく、たっぷりと愛情を注いでくれたカンナの言葉に僕は胸を打たれた。
我慢しきれずに泣き出してしまった僕を、カンナが優しく包み込む。
「「「――……ッ!?」」」
騎士たちがざわついている気配がしたけれど、僕はカンナの言葉を正しく理解し、最後に子供の頃のようにぎゅうっと抱きついた。
もし、カンナがアダムの乳母だったなら、こんな田舎でひっそりと暮らす必要なんてなかった。
グランデ侯爵夫人に信頼され、使用人の頂点に君臨し、華やかな生活を送れていたはずだ。
それでもカンナは今の人生に満足しており、来世でもアダムではなく、僕を選ぶと話してくれた。
胸がじんと熱くなる。
「お体にお気をつけてお過ごしくださいませ。――……お元気で」
別れの言葉に、涙が止まらない。
本当ならカンナにも、『アダムの命の恩人』として王都に同行してほしい。
僕がお願いすれば、きっとカンナもダンさんも付いてきてくれるだろう。
でも、カンナに長旅をする体力はなく、ダンさんは家庭がある。
わがままは言えなかった。
「っ、カンナもね。……カンナと出逢えた奇跡に、感謝します。お世話になりましたっ!」
最後に、僕は深々と頭を下げた。
「「「…………」」」
別れの挨拶を終えて振り返ると、騎士たちが同じような顔で固まっていた。
泣きながら笑い合う僕たちは、彼らの目にはおかしな光景に映っていたのだろう。
でも、お世話になった人にきちんと挨拶もしないでお別れをするなんてできなかった。
「それでは、行きましょうか」
「「「…………ハッ!」」」
ようやく意識を取り戻した彼らに誘導され、僕は小さな家を出た。
空は、僕の旅立ちを祝うかのような晴天だ。
緑の匂いがする新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込み、気合いを入れた僕はアダムとしての新しい人生の第一歩を踏み出した――
◇ ◇ ◇
グランデ侯爵家の立派な馬車を前にし、僕の緊張はピークに達していた。
間近で馬を見たのは初めてだったし、ましてや馬車に乗ったことはない。
それに、庭より先は未知の世界だった。
「アダム様、大丈夫ですか……?」
僕が恐る恐る足を踏み出すと、短い赤毛の若い騎士が手を差し出してくれた。
おそらく、僕をエスコートしようとしてくれているのだろう。
顔は強面だけれど、なんて紳士な人なのだと、僕は感動していた。
その間に、「お、おいッ! いくら記憶喪失だとしても、やめておけよ!」「あとで半殺しにされるぞ!?」「ジュード! 頼むから早まるなっ!」という戦々恐々とした声が背後から聞こえてきたけれど、一体どういう意味なんだろうか。
不思議に思いながらも、親切な騎士の手を迷わず取った僕は、にっこりと微笑んだ。
「ありがとうっ」
「――――…………ッ!?」
お礼を言っただけだが、若者は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっている。
そして繋がれた手は、小刻みに震えていた。
まるで、僕が彼の手を取るとは思っていなかったような反応だった。
「どうしよう……僕、何かやらかしたのかな?」
動揺を隠しきれない僕は、そわそわしたまま席に座る。
でも、もし偽物だとバレているなら、今頃大騒ぎになっているはずだ。
「も、もしくは、すでにバレていて、牢屋に連れていかれるパターン、だったり……?」
最悪の状況を想定してぶるりと震えた。
その間に、その場で固まったまま銅像のように動かなくなっていた騎士が、急に馬車に乗り込んできた。
「アダム様、ご一緒してもよろしいですか?」
「あ、はいっ。どうぞ」
断る理由もなかったので、僕は咄嗟に了承した。
(フレンドリーなアダムなら、きっと兵士たちとも親しくしているはずだよねっ!)
「…………」
それに、王都までは長旅になる。
その間に話し相手になってもらえたら嬉しいし、両親の話も聞けるかもしれない。
少し緊張するけれど、ワクワクが勝った。
でも、若い騎士はなんとも言えない顔で黙り込み、どうしてか馬車を降りていった。
「…………え? 一緒に乗るんじゃなかったの?」
一体、何がしたかったのだろうか。
窓の外を見れば、何やら騎士たちが集まって話し込んでいる。
みんなが時折、僕を見ているのは、気のせいじゃないと思う。
僕がにこっと笑顔を返せば、騎士たちの動きが完全に止まった。
「やっぱり僕じゃ、アダムにはなれないんだ……」
僕はたまらず弱音を吐いて、ガックリと肩を落とした。
だってアダムはきらきらとした無邪気な笑顔が眩しくて、間近で見ていた僕もつられて笑顔になってしまうような、そんな魅力を持つ人なんだ。
(双子なのに、どうしてこんなに違うのだろう)
無力感に襲われる僕は、そっとカーテンを閉めた。
それから、一月かけて王都へ向かった。
宿屋に泊まったり、野宿をしたりと、初めての経験ばかりだった。
カンナたちがいない日々は寂しかったけれど、代わりに陽気な騎士と仲良くなれた。
「アダム様、体調はいかがです?」
馬車の旅にも慣れてきた頃。
優しく声をかけてくれたのは、馬車に乗る時にエスコートしてくれた騎士――ジュードだ。
貫禄があるし、てっきり三十代だと思っていたのだけど、まだ二十歳になったばかりの新米兵士。
僕とあまり歳が変わらなかったことが判明してからは、急速に距離が縮まったと思う。
「僕は大丈夫だよ。ありがとうっ」
「……我慢せずに、どんな些細なことでも言ってくださいね?」
ジュードの優しさに胸を打たれる。
僕は長時間馬車に揺られたことがなく、初日から乗り物酔いに苦しんだ。
他の騎士から冷たく扱われているわけではないけれど、距離を置かれていることはなんとなく感じ取っていた。
だから、体調が悪いとなかなか言えなかったけど、そんな僕に真っ先に気付いてくれ、たびたび声をかけてくれたのがジュードだった。
「ジュードも馬車酔いしたら教えてね! 今度は僕が介抱するから」
「…………そのような機会はないかと思いますが、もしもの時はよろしくお願いいたします」
うんっ、と元気に返事をした僕を、ジュードは観察するようにじっと眺めた。
黙っていると、もしかして怒っているのかと思ってしまうくらいに厳つい顔立ちだけれど、すごくフレンドリーな人で、僕の専属侍従のように何かと世話を焼いてくれている。
面倒見のいいお兄さんみたいな存在だ。
(できれば、僕の友人第一号になってほしいな)
ジュードは困っている人を放っておけない、誠実な人だと、僕の直感が告げていた。
アダムになったらやってみたかったことを、今叶えたい。
「ねぇ、ジュード。お願いがあるんだけど……」
「なんなりと」
召使いのような言い回しに苦笑いを浮かべた僕は、真顔のジュードをまっすぐに見つめた。
「ぼ、僕の、お友達になってくれる……?」
「――……っ!?」
緋色の瞳が見開かれ、これでもかと凝視されてしまう。
もじもじする僕をぼんやりと眺めていたジュードは、ハッとしたかと思えば、自分の頬を殴るという奇行に走った。
「イテェ……」
「っ、ジュード!? だ、大丈夫っ!? ど、どどどうして自分を殴っちゃったの……!?」
慌てふためく僕をよそに、ジュードは照れくさそうに赤毛を掻いた。
「――……ったく、何をトチ狂ったことを言ってるんだかっ」
砕けた口調になったジュードは、ノーダメージだったようだ。
ジュードは羨ましいくらいに背が高いし、がっしりとした体付きも魅力的だ。
僕が憧憬の眼差しで見つめれば、ジュードはさりげなく視線を外し、すぐに頬を赤く染める。
「ふふっ、照れ屋なところも可愛らしいんだよね」
「っ…………いや本当、誰だよっ!?」
僕がいつまでもくすくすと笑っていたからか、ジュードが真っ赤な顔のまま叫んだ。
他の騎士たちとは親しくなれる気配すらないけれど、ジュードがいてくれるだけで僕は気分が晴れやかになった。
「…………友達になろーつって、なるものじゃないと思うっすけど。まあ、今のアダム様となら、友人になりたいっす」
「っ、え……っ!!」
「あと、俺の昔からの親友がいるんで、できればソイツとも仲良くしてほしいっす」
友人になってくれるだけでも喜ばしいのに、ジュードの友人も紹介してくれるなんて! 僕は嬉しさのあまり頬を緩めた。
「っ、うんっ! ジュードのお友達とは、僕も仲良くなりたいっ!」
「…………その言葉、忘れないでくださいよ?」
不敵な笑みを浮かべたジュードが、さっと席を立ち上がる。
グランデ侯爵邸に到着したのだ。
ジュードの言葉が気になるものの、僕は緊張で胸が張り裂けそうになっていた。
アダムとしてだけれど、いよいよ両親と再会する時が来た。
先に降りたジュードの手を取り、ゆっくりと馬車から降りる。
田舎町の家とは比べ物にならないくらいの豪邸を前にし、僕はめまいがしていた。
「アダム様がお戻りになられたわ!」
「……今日からまた忙しくなるわね?」
「シーッ! クビにされるわよ!?」
アダムを見た若いメイドたちはひたすら頭を下げており、一切目を合わせようとはしない。
逆に騎士や男性使用人たちは、監視するかのようにアダムから目を逸らさなかった。
あまり好意的ではない視線が全身に突き刺さり、息が詰まりそうになる。
ここは本当にグランデ侯爵邸なのかと、確認したくなるくらい異様な雰囲気だった。
「……アダムが逃げ出したくなる気持ちが、今なら痛いくらいにわかるや」
アダムが身分を捨ててまでノアさんと隣国の帝国行きを決めたのは、政略結婚だけが原因ではないのだろう。
多くの人の目に晒されて、心拍数がどんどん上がっていくのを感じる。
今にも倒れそうになりつつ当主のもとへ案内され、執務室で待ち構えていた金髪の男性を前にし、僕は息を呑んだ。
「アダムッ!! お前の結婚式まで半年を切っているというのに、今更逃げ出すなど許されると思っているのか!?」
「っ」
ドンッと大きな音が鳴り、僕は震え上がる。
グランデ侯爵が思い切り机を殴った衝撃で、机の上の書類が床に散らばった。
記憶にはないけれど、十七年ぶりに会った父親に急に怒鳴られた僕は、恐怖で身動きがとれなくなった。
侯爵家当主――ダリル・グランデは、僕の想像より遥かに厳つい顔立ちだった。
さっぱりと短い金色の髪を後ろに撫で付け、眼光は獲物を狙う鷹のように鋭い。
アダムはこのダリルに殴られてよく天に召されなかったな、と思うほど腕も丸太のように太かった。
髪色以外、僕と似ているところは一切ない。
でも、僕は父様だと一目でわかった。
ただ、父様は僕をアダムだと信じて疑っていなかったけれど――
「お前の愚かな行いで、我が一族を路頭に迷わせるつもりか!? なんとか言ってみろっ!!」
「っ!」
威厳のある大男が怒号を放ち、僕の鼓膜が破けそうになる。
ダリルに殴られたら、受け身も取れない僕はひとたまりもないだろう。
即死だ。
サーッと血の気が引き、勢いよく頭を下げていた。
「っ、申し訳ありませんっ! と、父様っ!」
半年以内に式を挙げる予定だったなんて、知らなかったんです! と、心の中で付け加えて、半泣きで謝罪する。
「…………とう……さ、ま……?」
父様が戸惑ったように呟き、執務室は水を打ったように静まり返る。
ひたすら靴のつま先を見つめる僕は、恐怖で顔を上げられなかった。
「お話し中、申し訳ありません。アダム様について、俺から説明させてください」
僕の体は勝手にガタガタと震え続け、見かねたジュードが僕と再会した経緯を説明しはじめる。
助け舟を出してくれたのだろう。
ジュードは紛れもない、僕の親友だ。
彼に何かあった時は必ず駆けつけようと心に誓った。
そして僕が記憶喪失だと話すと、父様の眉間の皺が深くなった。
「ハッ。記憶喪失だと? そんな都合のいい話があってたまるかっ」
「っ……で、でも、本当に何も覚えていなくて――」
「どうせヴィンセントと結婚するのが嫌で嘘をついているだけだろう。くだらん」
これ以上は時間の無駄だと、父様が一刀両断する。
僕の気持ちを一切聞かず、取り付く島もなかった。
「ヴィンセントの何が気に食わないのかが、私にはさっぱりわからん」
ヴィンセント、ヴィンセント、と褒め続けるお父様は、アダムではなく、まるでヴィンセントの父親のように見えた。
アダムがヴィンセントを嫌いになった理由のひとつは父親のせいではないかと思うほど、ベタ褒めである。
「どこを探しても、ヴィンセント以上の相手はいないぞ!?」
「……は、はぃ……」
そんなことを言われても、ヴィンセント・ロックハートと会ったこともなければ、話したこともないんだ。
でも、何も言い返すことができない僕は、ただひたすら父親の説教を聞き続けるしかなかった。
「アダムは謹慎処分だ。結婚式まで、部屋で大人しくしていろ」
「…………はい」
僕が大人しく返事をすると、お父様はまだ何か言いたそうにしていたものの、扉に視線を向けた。
さっさと出ていけということだろう。
床に散らばった書類を拾い集めた僕は、そっと机に置いてから退出した。
そしてアダムから、友人関係などを詳しく書いてある日記を受け取る。
「念のために持ってきただけだから、読まなくてもいいぜ? アデルが、うまく俺になりきれるかはわからねぇし、記憶喪失ってことにするのが一番楽だと思うけど……」
「っ、ありがとう! この日記があれば、僕も安心だよっ!」
アダムはなんて気が利く人なのだと、僕は感動した。
早速、日記の内容を頭に叩き込もうとしたけど、カンナが待ったをかける。
僕からそっと日記を奪い取ったカンナは、仏のような顔をしていた。
「アデル坊ちゃま、悪いことは言いません。記憶喪失ということにしておきましょう」
「私もカンナさんの意見に賛成です!」
ノアさんも挙手し、信頼を置くカンナに助言された僕は、『記憶喪失になったアダム・グランデ』として生きていくと決まった。
帝国行きを決意したアダムが必要ないだろ、と日記を破棄しようとしたけれど、僕は大切な日記を譲り受けることにした。
アダムの生きた証だ。
僕が日記をぎゅっと抱きしめていると、アダムに優しく頭を撫でられる。
僕と同じ青い瞳は、慈愛に満ちていた。
「それじゃあ、俺たちは行くぜ。……そろそろ追っ手が来る頃だからな?」
「ええっ!? お、追っ手!?」
「ああ、いつものことだ」
アダムはなんでもないように笑っているけど、僕は内心驚いていた。
(もしかすると、アダムは毎日監視されるような生活を強いられていたのかも……)
ひっそりと隠れて暮らしてきた僕とは違い、てっきりアダムは輝かしい人生を歩んできたとばかり思っていた。
でも、アダムからしてみれば、常日頃から息が詰まるようなプレッシャーを感じていたのかもしれない。
双子の優秀な方として選ばれたのだから、アデルの分まで頑張らないと……なんて考えて、自らを追い込んでいた可能性もある。
(精神的重圧から解放されて、今度はアダムがのびのびと過ごしてほしい――)
そう強く願う僕は、自身の長い髪を手に取った。
「じゃあ、急がないと! カンナ、髪を切って!」
ふたりの門出を祝うために、僕ができる唯一のこと。
それは、僕の髪を餞別として渡すことだ。
きっといい値段で買い取ってもらえるはず。
「悪いな、アデル。俺の髪が中途半端に短いせいで……」
アダムは申し訳なさそうに眉を下げた。僕がアダムになりきるために、肩甲骨あたりまで髪を切ると思っているのだろう。
そんなアダムに微笑み返した僕は、カンナにハサミを渡した。
「お願い」と目配せすると、僕の意図を読み取ったのか、グレーの瞳が見開かれた。
「っ……ア、アデル、坊ちゃま……。よろしいのですか?」
「うん。バッサリいっちゃって!」
深呼吸をしたカンナは、神妙な面持ちだ。
長年、僕の髪を手入れしてくれていたのだから、僕より寂しい気持ちになったのかもしれない。
「「――……えっ!?」」
アダムとノアさん、ふたりの驚愕した声が響く。
その声を無視したカンナは、肩口まで切った僕の髪を紐でまとめ、宝物のように丁重に木箱に仕舞った。
大切に伸ばしていた髪だったけれど、今はさっぱりとした気分だ。
そして木箱を受け取った僕は、それをそのまま呆然と突っ立っているアダムに渡した。
「僕にはこんなことしかできないけど……。ノアさんと幸せになってね、アダム」
何度も帝国を訪れたことのあるアダムは、高位貴族にもツテがあるそうだ。
ノアさんのご家族にもすでに挨拶済みで、就職先も決まっている。
僕が心配しなくても、しっかり者のアダムなら、きっとどこへ行っても立派にやっていけるだろう。
でも、貴族から平民になり、これから苦労することもあると思う。
その時は、迷うことなく僕の髪を使ってほしい。
僕がにっこりと笑えば、アダムは震える手で箱を受け取った。
「つっ…………アデルッ、ありがとなっ!!」
感極まったように告げたアダムの青い瞳からは、とめどなく涙が流れている。
説明しなくても、使い方は伝わったみたいだ。
深々と頭を下げるノアさんも、なかなか泣きやまず、ふたりに喜んでもらえて嬉しかった僕も、もらい泣きしてしまった。
そして最後は笑顔で別れの抱擁を交わし、ふたりは隣国に旅立った――
その後、僕たちは急ぎグランデ侯爵家の者たちを迎える準備を始めた。
カンナはアダムの残した服の裾直しをしてくれ、僕は化粧の練習をする。
ノアさんが用意してくれていた化粧品で顔を小麦色に塗りたくった。
普段から化粧をしたことがない僕が肌荒れを描くのは難しく、代わりにそばかすを描いてみた。
「……ア、アダムに失礼な気がする……」
「っ、ああ、なんてことっ! アデル坊ちゃまの透明感のある真っ白なお肌が、台なしに……っ! 私の雪の妖精がぁぁーーっ!!」
鏡に映る僕は、滅多なことでは泣かないカンナが涙ぐんでしまうくらい、ブサイクな顔になっていた……
第二章 庭より先は、未知の世界
涙ぐむカンナをなぐさめ、入れ替わりの準備をこなしていく。
その時、家に近づく荒々しい蹄の音が響いた。
先程まで騒がしかった場に、緊張が走る。
ふたりを見送ってから一時間も経たないうちに、グランデ侯爵家の私兵が訪れたのだ。
田舎町には似合わない青い騎士服は、グランデ侯爵家を象徴する色。
立派な体躯の若い男性たちの圧に、僕は緊張からごくりと唾を吞み込んだ。
「っ、アダム様っ!! ご無事でっ!!」
僕が名乗らずとも、騎士たちは勝手に僕をアダムだと思い込んだようだ。
正直なところ、髪を短くしすぎたから、アダムだと信じてもらえるか不安だった。
でも、説明する手間が省けて助かった。
安堵した僕は、にこっと微笑んだ。
「あ、はいっ! 僕、どうやら、記憶をなくしてしまったみたいで……。ご迷惑をおかけしました」
「「「…………」」」
目をかっぴらいて固まる騎士たちは、アダムが記憶喪失になったと知り、驚きすぎて声も出ないようだった。
でも、安心してほしい。
僕はアダムと同じ教育を受けているから、一から教えてもらう必要はない。
マナーも叩き込まれているため、完璧だ。
ただ、剣術と乗馬はできないけれど、代わりに刺繍と家庭菜園については詳しいつもりだ。
「迎えに来てくださり、助かりました。ありがとうございます!」
「「「…………」」」
みんなを安心させるべく、僕は笑顔を絶やさない。
普段は寝巻きで過ごすことが多いけれど、今日はアダムと交換した豪華な服を着ている。
カンナに裾直しもしてもらったため、僕にぴったり似合っているはずだ。
素肌が見えないように革手袋もしているし、剣ダコがないことがバレる心配もない。
顔も小麦色に塗っているし、化粧でそばかすも描いてみた。
やれることはやったのだ。
自信を持てと、僕は自身を鼓舞する。
「あのー? 迎えに来てくださり、ありがとうございます!」
「「「「…………」」」」
でも、残念ながら誰も言葉を発しなかった。
僕の心が折れる前に詳しい事情を説明するため、カンナが一歩前に出る。
「数日前、村の商人が盗賊に襲われているところを、こちらのお方に助けていただきました。私は、荷が盗まれるところをただ見ていることしかできず……。ですが、彼は二十人ほどの賊に囲まれても怯むことなく、賊を追い返したのです! それはそれは勇敢なお姿でした……」
……僕の育ての親は、女優だったのだろうか。
まるでその場で見ていたかのように語ったカンナが、もっともらしい嘘をついた。
「しかし、運悪く頭部を打ったことで、記憶を失ってしまわれたようなのです」
「なるほど、そうでしたか……。あなたがアダム様を助けてくださったのですね?」
「はい。彼は、私の命の恩人でもありますから。何も覚えていらっしゃらないようでしたので、身の回りのお世話をさせていただきました」
若い騎士たちはカンナの話を特に疑いもせず、信じたらしい。
「困った時はお互い様です」と、カンナが謝礼を辞退したからだろう。
「ではアダム様、参りましょう」
「…………は、はいっ」
騎士に名を呼ばれ、僕は慌てて返事をする。
でも、カンナとのお別れが寂しくて、僕の足はなかなか動いてはくれなかった。
するとカンナは、僕を安心させるような穏やかな微笑みを浮かべた。
「貴方様と過ごした日々は、私のかけがえのない宝物です。もし、人生をやり直すことになっても、私はまた、貴方様とお逢いしたいです」
「っ、…………ぅぅっ」
双子の『処理された方』の世話を頼まれたのに、愚痴ひとつこぼすことなく、たっぷりと愛情を注いでくれたカンナの言葉に僕は胸を打たれた。
我慢しきれずに泣き出してしまった僕を、カンナが優しく包み込む。
「「「――……ッ!?」」」
騎士たちがざわついている気配がしたけれど、僕はカンナの言葉を正しく理解し、最後に子供の頃のようにぎゅうっと抱きついた。
もし、カンナがアダムの乳母だったなら、こんな田舎でひっそりと暮らす必要なんてなかった。
グランデ侯爵夫人に信頼され、使用人の頂点に君臨し、華やかな生活を送れていたはずだ。
それでもカンナは今の人生に満足しており、来世でもアダムではなく、僕を選ぶと話してくれた。
胸がじんと熱くなる。
「お体にお気をつけてお過ごしくださいませ。――……お元気で」
別れの言葉に、涙が止まらない。
本当ならカンナにも、『アダムの命の恩人』として王都に同行してほしい。
僕がお願いすれば、きっとカンナもダンさんも付いてきてくれるだろう。
でも、カンナに長旅をする体力はなく、ダンさんは家庭がある。
わがままは言えなかった。
「っ、カンナもね。……カンナと出逢えた奇跡に、感謝します。お世話になりましたっ!」
最後に、僕は深々と頭を下げた。
「「「…………」」」
別れの挨拶を終えて振り返ると、騎士たちが同じような顔で固まっていた。
泣きながら笑い合う僕たちは、彼らの目にはおかしな光景に映っていたのだろう。
でも、お世話になった人にきちんと挨拶もしないでお別れをするなんてできなかった。
「それでは、行きましょうか」
「「「…………ハッ!」」」
ようやく意識を取り戻した彼らに誘導され、僕は小さな家を出た。
空は、僕の旅立ちを祝うかのような晴天だ。
緑の匂いがする新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込み、気合いを入れた僕はアダムとしての新しい人生の第一歩を踏み出した――
◇ ◇ ◇
グランデ侯爵家の立派な馬車を前にし、僕の緊張はピークに達していた。
間近で馬を見たのは初めてだったし、ましてや馬車に乗ったことはない。
それに、庭より先は未知の世界だった。
「アダム様、大丈夫ですか……?」
僕が恐る恐る足を踏み出すと、短い赤毛の若い騎士が手を差し出してくれた。
おそらく、僕をエスコートしようとしてくれているのだろう。
顔は強面だけれど、なんて紳士な人なのだと、僕は感動していた。
その間に、「お、おいッ! いくら記憶喪失だとしても、やめておけよ!」「あとで半殺しにされるぞ!?」「ジュード! 頼むから早まるなっ!」という戦々恐々とした声が背後から聞こえてきたけれど、一体どういう意味なんだろうか。
不思議に思いながらも、親切な騎士の手を迷わず取った僕は、にっこりと微笑んだ。
「ありがとうっ」
「――――…………ッ!?」
お礼を言っただけだが、若者は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっている。
そして繋がれた手は、小刻みに震えていた。
まるで、僕が彼の手を取るとは思っていなかったような反応だった。
「どうしよう……僕、何かやらかしたのかな?」
動揺を隠しきれない僕は、そわそわしたまま席に座る。
でも、もし偽物だとバレているなら、今頃大騒ぎになっているはずだ。
「も、もしくは、すでにバレていて、牢屋に連れていかれるパターン、だったり……?」
最悪の状況を想定してぶるりと震えた。
その間に、その場で固まったまま銅像のように動かなくなっていた騎士が、急に馬車に乗り込んできた。
「アダム様、ご一緒してもよろしいですか?」
「あ、はいっ。どうぞ」
断る理由もなかったので、僕は咄嗟に了承した。
(フレンドリーなアダムなら、きっと兵士たちとも親しくしているはずだよねっ!)
「…………」
それに、王都までは長旅になる。
その間に話し相手になってもらえたら嬉しいし、両親の話も聞けるかもしれない。
少し緊張するけれど、ワクワクが勝った。
でも、若い騎士はなんとも言えない顔で黙り込み、どうしてか馬車を降りていった。
「…………え? 一緒に乗るんじゃなかったの?」
一体、何がしたかったのだろうか。
窓の外を見れば、何やら騎士たちが集まって話し込んでいる。
みんなが時折、僕を見ているのは、気のせいじゃないと思う。
僕がにこっと笑顔を返せば、騎士たちの動きが完全に止まった。
「やっぱり僕じゃ、アダムにはなれないんだ……」
僕はたまらず弱音を吐いて、ガックリと肩を落とした。
だってアダムはきらきらとした無邪気な笑顔が眩しくて、間近で見ていた僕もつられて笑顔になってしまうような、そんな魅力を持つ人なんだ。
(双子なのに、どうしてこんなに違うのだろう)
無力感に襲われる僕は、そっとカーテンを閉めた。
それから、一月かけて王都へ向かった。
宿屋に泊まったり、野宿をしたりと、初めての経験ばかりだった。
カンナたちがいない日々は寂しかったけれど、代わりに陽気な騎士と仲良くなれた。
「アダム様、体調はいかがです?」
馬車の旅にも慣れてきた頃。
優しく声をかけてくれたのは、馬車に乗る時にエスコートしてくれた騎士――ジュードだ。
貫禄があるし、てっきり三十代だと思っていたのだけど、まだ二十歳になったばかりの新米兵士。
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「僕は大丈夫だよ。ありがとうっ」
「……我慢せずに、どんな些細なことでも言ってくださいね?」
ジュードの優しさに胸を打たれる。
僕は長時間馬車に揺られたことがなく、初日から乗り物酔いに苦しんだ。
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だから、体調が悪いとなかなか言えなかったけど、そんな僕に真っ先に気付いてくれ、たびたび声をかけてくれたのがジュードだった。
「ジュードも馬車酔いしたら教えてね! 今度は僕が介抱するから」
「…………そのような機会はないかと思いますが、もしもの時はよろしくお願いいたします」
うんっ、と元気に返事をした僕を、ジュードは観察するようにじっと眺めた。
黙っていると、もしかして怒っているのかと思ってしまうくらいに厳つい顔立ちだけれど、すごくフレンドリーな人で、僕の専属侍従のように何かと世話を焼いてくれている。
面倒見のいいお兄さんみたいな存在だ。
(できれば、僕の友人第一号になってほしいな)
ジュードは困っている人を放っておけない、誠実な人だと、僕の直感が告げていた。
アダムになったらやってみたかったことを、今叶えたい。
「ねぇ、ジュード。お願いがあるんだけど……」
「なんなりと」
召使いのような言い回しに苦笑いを浮かべた僕は、真顔のジュードをまっすぐに見つめた。
「ぼ、僕の、お友達になってくれる……?」
「――……っ!?」
緋色の瞳が見開かれ、これでもかと凝視されてしまう。
もじもじする僕をぼんやりと眺めていたジュードは、ハッとしたかと思えば、自分の頬を殴るという奇行に走った。
「イテェ……」
「っ、ジュード!? だ、大丈夫っ!? ど、どどどうして自分を殴っちゃったの……!?」
慌てふためく僕をよそに、ジュードは照れくさそうに赤毛を掻いた。
「――……ったく、何をトチ狂ったことを言ってるんだかっ」
砕けた口調になったジュードは、ノーダメージだったようだ。
ジュードは羨ましいくらいに背が高いし、がっしりとした体付きも魅力的だ。
僕が憧憬の眼差しで見つめれば、ジュードはさりげなく視線を外し、すぐに頬を赤く染める。
「ふふっ、照れ屋なところも可愛らしいんだよね」
「っ…………いや本当、誰だよっ!?」
僕がいつまでもくすくすと笑っていたからか、ジュードが真っ赤な顔のまま叫んだ。
他の騎士たちとは親しくなれる気配すらないけれど、ジュードがいてくれるだけで僕は気分が晴れやかになった。
「…………友達になろーつって、なるものじゃないと思うっすけど。まあ、今のアダム様となら、友人になりたいっす」
「っ、え……っ!!」
「あと、俺の昔からの親友がいるんで、できればソイツとも仲良くしてほしいっす」
友人になってくれるだけでも喜ばしいのに、ジュードの友人も紹介してくれるなんて! 僕は嬉しさのあまり頬を緩めた。
「っ、うんっ! ジュードのお友達とは、僕も仲良くなりたいっ!」
「…………その言葉、忘れないでくださいよ?」
不敵な笑みを浮かべたジュードが、さっと席を立ち上がる。
グランデ侯爵邸に到着したのだ。
ジュードの言葉が気になるものの、僕は緊張で胸が張り裂けそうになっていた。
アダムとしてだけれど、いよいよ両親と再会する時が来た。
先に降りたジュードの手を取り、ゆっくりと馬車から降りる。
田舎町の家とは比べ物にならないくらいの豪邸を前にし、僕はめまいがしていた。
「アダム様がお戻りになられたわ!」
「……今日からまた忙しくなるわね?」
「シーッ! クビにされるわよ!?」
アダムを見た若いメイドたちはひたすら頭を下げており、一切目を合わせようとはしない。
逆に騎士や男性使用人たちは、監視するかのようにアダムから目を逸らさなかった。
あまり好意的ではない視線が全身に突き刺さり、息が詰まりそうになる。
ここは本当にグランデ侯爵邸なのかと、確認したくなるくらい異様な雰囲気だった。
「……アダムが逃げ出したくなる気持ちが、今なら痛いくらいにわかるや」
アダムが身分を捨ててまでノアさんと隣国の帝国行きを決めたのは、政略結婚だけが原因ではないのだろう。
多くの人の目に晒されて、心拍数がどんどん上がっていくのを感じる。
今にも倒れそうになりつつ当主のもとへ案内され、執務室で待ち構えていた金髪の男性を前にし、僕は息を呑んだ。
「アダムッ!! お前の結婚式まで半年を切っているというのに、今更逃げ出すなど許されると思っているのか!?」
「っ」
ドンッと大きな音が鳴り、僕は震え上がる。
グランデ侯爵が思い切り机を殴った衝撃で、机の上の書類が床に散らばった。
記憶にはないけれど、十七年ぶりに会った父親に急に怒鳴られた僕は、恐怖で身動きがとれなくなった。
侯爵家当主――ダリル・グランデは、僕の想像より遥かに厳つい顔立ちだった。
さっぱりと短い金色の髪を後ろに撫で付け、眼光は獲物を狙う鷹のように鋭い。
アダムはこのダリルに殴られてよく天に召されなかったな、と思うほど腕も丸太のように太かった。
髪色以外、僕と似ているところは一切ない。
でも、僕は父様だと一目でわかった。
ただ、父様は僕をアダムだと信じて疑っていなかったけれど――
「お前の愚かな行いで、我が一族を路頭に迷わせるつもりか!? なんとか言ってみろっ!!」
「っ!」
威厳のある大男が怒号を放ち、僕の鼓膜が破けそうになる。
ダリルに殴られたら、受け身も取れない僕はひとたまりもないだろう。
即死だ。
サーッと血の気が引き、勢いよく頭を下げていた。
「っ、申し訳ありませんっ! と、父様っ!」
半年以内に式を挙げる予定だったなんて、知らなかったんです! と、心の中で付け加えて、半泣きで謝罪する。
「…………とう……さ、ま……?」
父様が戸惑ったように呟き、執務室は水を打ったように静まり返る。
ひたすら靴のつま先を見つめる僕は、恐怖で顔を上げられなかった。
「お話し中、申し訳ありません。アダム様について、俺から説明させてください」
僕の体は勝手にガタガタと震え続け、見かねたジュードが僕と再会した経緯を説明しはじめる。
助け舟を出してくれたのだろう。
ジュードは紛れもない、僕の親友だ。
彼に何かあった時は必ず駆けつけようと心に誓った。
そして僕が記憶喪失だと話すと、父様の眉間の皺が深くなった。
「ハッ。記憶喪失だと? そんな都合のいい話があってたまるかっ」
「っ……で、でも、本当に何も覚えていなくて――」
「どうせヴィンセントと結婚するのが嫌で嘘をついているだけだろう。くだらん」
これ以上は時間の無駄だと、父様が一刀両断する。
僕の気持ちを一切聞かず、取り付く島もなかった。
「ヴィンセントの何が気に食わないのかが、私にはさっぱりわからん」
ヴィンセント、ヴィンセント、と褒め続けるお父様は、アダムではなく、まるでヴィンセントの父親のように見えた。
アダムがヴィンセントを嫌いになった理由のひとつは父親のせいではないかと思うほど、ベタ褒めである。
「どこを探しても、ヴィンセント以上の相手はいないぞ!?」
「……は、はぃ……」
そんなことを言われても、ヴィンセント・ロックハートと会ったこともなければ、話したこともないんだ。
でも、何も言い返すことができない僕は、ただひたすら父親の説教を聞き続けるしかなかった。
「アダムは謹慎処分だ。結婚式まで、部屋で大人しくしていろ」
「…………はい」
僕が大人しく返事をすると、お父様はまだ何か言いたそうにしていたものの、扉に視線を向けた。
さっさと出ていけということだろう。
床に散らばった書類を拾い集めた僕は、そっと机に置いてから退出した。
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