あをによし ~年下宰相様は日本画家の地味系女子にご執心です~

柚木音哉

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5.どれを使うか迷います。

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 翌日、いつもより早くに目覚めた美月は、急いで口を濯ぎ、いつものように男物の服に着替え、髪を梳かしつけて長い髪を一つに結い上げ、簡単に身支度を整えると、昨日届いた荷物と自分のトートバッグを漁り始めた。
「……っくはぁーっ」
 その顔は緩み切っていて、嬉しくてしょうがないようだ。にまにましながら昨日届いたばかりの紙を出し、材質を確かめる。ザラザラした面と少しツルツルした面がある。やはり、美月が知っている水彩紙の洋紙の一つに似ている。もう一枚、筒状に巻かれた状態の紙があるが、こちらはかなり丈夫そうな紙だ。しかも、紙の感触が先ほどのものよりも、より和紙に似ている。

 ベッドの脇に置いてある水差しからコップに水を入れて持って来て、トートバッグに入っていた顔彩を取り出し、水で溶いて二枚の紙にそれぞれ垂らしてみると、片方は綺麗に色が沈むことも無く発色している。もう一方は、落とした傍からじわりと滲んでいく。恐らく滲みどめがされていない状態の紙だが、紙の目は細かくて綺麗だ。滲みどめをすれば、こちらは和紙の代わりに使えそうだ。

 カタン、と窓の外から微かな音がして、美月は紙に目を落としていた視線を上げた。

「……、……」

 ぼそぼそと途切れ途切れに聞こえる声は、恐らくレオンハルトの声だ。
 紙を一旦置き、窓から声がした方を覗いてみると、やはり声の主はレオンハルトだった。
「……今日も朝早いのね」
 絵を描き始めて暫く経つが、彼はいつも朝は陽が昇る前から王宮へと出仕していく。そして、帰宅してから彼の執務室で彼は更に何らかの仕事をしながら、美月はデッサンをしながら、ぽつりぽつりと会話をするようにはなった。しかし、彼は普段あまり表情が無く、あまり感情を表に出さない。良く言えば冷静、悪く言えば何を考えているのか分からない人……と、言うのが美月の彼に対しての印象である。
(初めて会った時は可愛いく笑ってくれたのになぁ……)
 朝日が昇り始めたばかりで、庭木の隙間に覗く光が眩しくて、目を細めながら窓を開け、外へ身を乗り出す。朝の冷たい空気が頰を撫でるが、それもどこか心地良い。
「行ってらっしゃい!」
 馬車へと乗り込もうとするレオンハルトと目が合って、思わずそう声をかけると、レオンハルトは驚いた表情で美月を見て、少し固まった。

(あれ? 私、何かおかしなことしたかしら?)
 暫くして「ああ」と、美月のいる三階の窓までは聞こえなかったが、短く彼がそう口を動かし、軽く手を上げた。そのまま馬車に乗り込んでしまったレオンハルトの表情は、もう見えない。
 しかし、馬車に乗り込む前の一瞬、彼の口の端が僅かに上がっているように見えた。
(……笑った?)

 朝からレオンハルトを見るのは初めてだ。
 普段はもう少し遅い時間に起きるから、彼を見送ることは無い。
 彼はフロックコートのような長めの上着をかっちりと着込んでいた。元々綺麗な人だから、朝陽にきらきらと映えるさらさらの金の髪と姿勢の良い立ち姿も相まって、すごく絵になる光景だった。
(朝から目の保養になったわ……)
 肌寒くなって来た美月は、彼が乗る馬車が門の外へと出て行くのを見送ると、窓を閉めて室内に戻り、再びにまにまとしながら画材の実験を始めたのだった。














「……ですから、このデータの算出方法をここに具体的に示して下さい。そうしたら、僕も許可を出せます」


「恐ろしく機嫌がいいな……宰相補佐官殿?」

 レオンハルトに書類を渡された男が扉を出て行くのと入れ違いで、そう言って彼の執務室にノックもせずに入って来た男の声に、再び別の書類に目を通していたレオンハルトが顔を上げる。山積みにされた紙の束越しに、黒髪に濃紺の軍服とマントを着込んだ男が、入口に立ってこちらを見ているのが見えた。

「……これはこれは、王太子殿下。このような所に、多忙な中わざわざご足労頂けるとは。どのようなご用件でしょうか?」
 書きかけの書類とペンを置き、立ち上がって仰々しく礼をとる男に、王太子は微かに眉を上げた。
「お前は、相変わらず皮肉たっぷりだな。いいだろ……たまには。幼馴染なんだから」
「……幼馴染……ただの腐れ縁でしょう?」
「ま。そうとも言うか。……それよりも、興味深い噂を聞いたから、わざわざ見に来てやったんだ。いつもなら仏頂面で部下に淡々と説教をするのがお前だろう? どうしたんだ?」
「? 何のことです?」
「おいおい……お前が最近恐ろしく機嫌がいいって部下達から聞いたから、わざわざ見に来てやったんだぞ。俺は」
 王太子は揶揄うようにニヤニヤとしながら、レオンハルトを見る。
「……僕が?」
「自覚が無いのか? いやに人当たりが良くなったって聞いたぞ。女でも出来たのか?」

「……は?」
 レオンハルトは目の前の王太子に息を呑んだ。咄嗟に反応出来なかったのは、美月のことがちらりと頭を過ったからだ。
(何故、彼女のことが思い浮かぶのだろう?)
「お? その顔は図星か! お前に女が出来るなんてすげーな。鉄面皮のお前に、ついに春が来たのか?」
「……そんなんじゃ、ありません」
「お前もさ、ぼちぼち適齢期だろ? 親父さんの後継いで、補佐官にまで実力で登り詰めて来た天才。地位も名誉もあんだから女なんか選り取り見取りだろ?」
「僕は、めんどくさい女は嫌いです」

「……へー。じゃあ、お前の惚れた女はめんどくさくない女なんだな」

 王太子――アルフレッドの言葉に、レオンハルトが僅かに目を見開く。
(めんどくさく無い……確かに、彼女は僕を特別扱いしたりしない)

 この所、年頃になりつつあるレオンハルトの元へは、毎日のように縁談が持ち上がっている。貴族の御令嬢のお誘いも増えているが、その殆んどが、名門であるルーデンボルグの名に釣られてやって来る地位と名誉、資産目当てであることは言うまでもない。おまけにレオンハルト自身の容姿も悪く無いとくれば、女達が放っておく訳もない。まだ若く、経験も少ないであろうハイスペックな公爵様を、青田買いとばかりに色恋でどうにかしようと粉をかけて来る女達の視線や振舞いには、実のところ既にうんざりしていた。

 それなのに、言われてみれば、あの邸に呼んだ日から、美月とはほぼ毎日邸の執務室で共に過ごしている。二人共に何か話をするのも稀で、ただ二人同じ空間で過ごしているだけのことだが、彼女はいつも自分に媚びを売るようなことも無い。純粋に絵を楽しそうに描いている。それ以外では食事をたまに共にすることがあるくらいだ。
 面倒ごとなど、当然無い。
 自分は、それを毎日の日課としていただけ、だったはずだ。
「……惚れた女?」
「は? 面倒ごとは大嫌いなお前が、その女のことは、めんどくさいなんて思わないんだろ? 惚れてるじゃないか……」

「……出会ったばかりですが?」
「何言ってんだ? 出会った時期なんてもんは関係無いだろ……一目惚れでもしたのか?」
 惚れた女。一目惚れ。
 ――ぐるぐると、レオンハルトの頭に今朝出仕の時に、自分を笑顔で見送ってくれた美月の顔がちらつき、その上にアルフレッドの言葉が渦巻く。
「おい? レオン?」
 アルフレッドの言葉に、自分の心の奥が騒めく。名前を与えられた瞬間に、覚えも無くそこにあったその感情の存在に気づいてしまった。
「――なんでもありません。アル、そろそろ執務に戻りたいのですが」
「お? おう。大丈夫か?」
「……ええ。お陰様で有意義な意見を聞くことが出来ましたし、殿下もお仕事がまだまだ沢山お有りでしょう? そろそろお戻りになられては?」
 皮肉交じりに言われて王太子でありながら、宰相補佐官の執務室を追い出されたアルフレッドは、自分よりも五つ程年下のレオンハルトの様子を思い出しながら、頭を掻いた。

「……レオンもまだ青いな」

 だが、堅物鉄面皮の氷の次期宰相候補。女嫌いのレオンハルトを落とした女……と言うのは興味深い。今まで女の噂がなかったレオンハルトが、初めて好きになる女とは、一体どのような女なのだろう?

「その女が見てみたいなぁ……今度、あいつの邸にでも押しかけるか……いや、待てよ?」

 ニヤリと笑った王太子が、その後起こす波乱を、この時誰も知ることはなかった。


 
 
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