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僕と彼女とその経緯②
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とはいえ頼子さんは、なんでもできるうえに綺麗で穏やかでと非の打ちどころのないお人。好意を抱いている男は他にもたくさんいた。しかし、よほど親しい友人でもない限り誰にでも分け隔てない態度はかえって踏み込みにくく、想いを寄せる男性陣はそろいもそろって攻めあぐねている状況だった。
そんな中、女神は僕に微笑んだ。転換点は、入社以来の大失敗で一人落ち込んでいる現場を彼女に目撃されたこと。
恋に落ちたときもこのときも、そして今でも、頼子さんにはダメなところばかり見られてしまう。でも、このときはまだ男としての見栄がかなり残っていたので、とても恥ずかしかった。
そういう心情を頼子さんも察していたのだろう。初めは気づかない素振りで立ち去ろうとしてくれたみたいだ。けれど、その前に僕と目が合ってしまったのがまた間が悪かった。
彼女は瞬時に方針を切り替えて「大丈夫?」と優しく労わってくれた。僕は「あ、はい」とつい返事をしたけれど、実際のところ全く大丈夫ではなかった。
頼子さんは少し困った顔で「本当に?」と首を傾げた。
「なにか吐き出したいことがあったら聞こうか?」
男としてカッコつけたいなら、「大丈夫です」と断るのが正解だろう。きっと、彼女に懸想する男たちも、ここで強がるから距離を詰めるタイミングを見失うのだ。
だけどこのときの僕は、厳しい上司にこっぴどく叱られたあとでとても弱っていた。だから、つい「本当ですか……?」なんて寄りかかってしまって、ここまで来たら、この機会を最大限に利用するしかなかった。
愚痴を聞いてもらうという名目で少々わがままを言い、飲みに連れて行ってもらった先で告白したのが一回目。たまたま退勤時間が重なり、二人で駅まで歩く最中にさらりと告げたのが二回目。
そこからはなりふりかまわず機会を捉えては何度も何度も好きだと伝えた。煩わしく思われないように時に何気なく。冗談だと流されないように時に真剣に。
好きです。付き合ってください。お試しでもいいんです。
攻めに攻めた末、頼子さんは折れた。
「そこまで言うなら……分かった、付き合おうか」
台詞からはしぶしぶという様子が伝わってきたけれど、かまいはしなかった。彼女の隣にいる権利を得られただけで有頂天になっていた。
そのツケが今、不安という形で僕の心に暗い影を落としている。頼子さんは僕のことを、少しくらい好きになってくれたのだろうか――。
デートが流れた数日後、会社の飲み会が予定されていた。僕と頼子さんの部署が合同で行うものだ。
その日の朝、僕は口を酸っぱくして「男のそばには座らないでくださいね! 特に後輩!」と念を押していた。
「そこまで心配しなくても、口説き目的で寄ってくる男性なんてそういないし、あしらいかたも分かってるよ」
頼子さんは苦笑するが、そんな言葉で僕が安心できるはずもない。交際をゴリ押しで呑ませた経緯で、実は押しに弱いという彼女の性格をたぶん僕は本人よりも分かっていた。そこに付け入るなら、歳上より歳下が有利であることも。
飲み会という時間の限られた交流の場で、いつでも話せる相手と話すような無駄を頼子さんはしない。男性に迫られても上手くかわせると自分では思っている彼女を僕はそばで守ることができない。だから、こうして本人に注意するほかない。
けれどいざ飲み会が始まってみれば、お話したいですと後輩にきらきらした目でお願いされて、頼子さんはころっと受け入れてしまっていた。
そういう優しさも好きではあるのだけれど、できれば僕以外にはあまり見せないでほしい。
ちらちらと頻繁に彼女の様子をうかがっていると、「そんなに気になる?」と隣に座っていた女性の先輩がからかい口調で聞いてきた。
「大丈夫だと思うよ。彼氏がいるんだから、ちゃんと拒否するところは拒否するでしょ。お酒だってこういう場ではいつもセーブしてるし」
どうして交際のことを知っているんだ? と疑問に思い、目の前の女性がしばしば頼子さんとランチをともにしている人物だと思い出した。
そこから少し遅れて「セーブ?」と首を傾げる。
「長谷部くんはあんまりお酒飲まないの? まだ一杯目みたいだけど」
「あ、はい。飲むのは嫌いじゃないんですが、あんまり強くないらしくて」
「そうなんだ。じゃあ頼子に付き合うの大変じゃない? 酒豪だから」
「え? いや、えっと……」
困惑する僕の様子に先輩がにやりといたずらっぽい笑みを浮かべる。
「大丈夫? 無理やり付き合わされてない?」
軽い口調の心配は半分冗談だ。分かっているけれど、僕はぎこちない笑顔で「だ、大丈夫です」と答えることしかできなかった。
頼子さんが酒豪だなんて、初耳だ。
一緒にいるとき、彼女はいつも僕と同じくらいしか飲まない。初めて飲みにいった際に「お酒はあんまり飲まないんですか?」と訊ねたら、「うん、まあ。付き合いで飲む程度かな」と言っていた。そのあと交際をはじめてからも、僕との食事で飲むアルコールはごく少量だった。
嘘をつかれていた?
それってどうして?
理由は簡単に予想がついた。
僕が頼りないからか、信頼できないからか。
どちらにしろ気を許してもらえていないのは薄々感じていた。
二人で会ってはくれても、態度はいつまでも恋人以前のままだった。常にクールで大人でブレなくて、顔を合わせても甘い空気にはならない。
お酒は人を無防備にする。何事にも抜かりのない頼子さんのことだ、本当に心を許せる相手の前以外では警戒するようにしているのだろう。
その考えは理解できる。理解できるけれど――彼女の安心できる人間の中に自分が含まれていないことがはっきりして、僕はとても悲しくなった。自分は彼氏という名前がついただけの、その他大勢のうちの一人なのだ。
「長谷部くん? おーい、気持ち悪くなったー?」
「……いえ、平気です」
「そ? 気分が悪くなったらすぐ言ってね?」
「はい。……ちなみに、頼子さんが好きなお酒の銘柄とか、ご存知じゃないですか?」
「ん?」
急な質問に先輩は瞳を瞬かせた。その目をじっと見つめ返す。
多分、僕は知りたかったのだ。僕の知らない頼子さんのことを、なにか一つでも。
「えーと、たしか……」
記憶を探って先輩の視線が宙空をさまよう。そうして少しの間のあと告げられた名前に、僕は……頬をひきつらせた。
そんな中、女神は僕に微笑んだ。転換点は、入社以来の大失敗で一人落ち込んでいる現場を彼女に目撃されたこと。
恋に落ちたときもこのときも、そして今でも、頼子さんにはダメなところばかり見られてしまう。でも、このときはまだ男としての見栄がかなり残っていたので、とても恥ずかしかった。
そういう心情を頼子さんも察していたのだろう。初めは気づかない素振りで立ち去ろうとしてくれたみたいだ。けれど、その前に僕と目が合ってしまったのがまた間が悪かった。
彼女は瞬時に方針を切り替えて「大丈夫?」と優しく労わってくれた。僕は「あ、はい」とつい返事をしたけれど、実際のところ全く大丈夫ではなかった。
頼子さんは少し困った顔で「本当に?」と首を傾げた。
「なにか吐き出したいことがあったら聞こうか?」
男としてカッコつけたいなら、「大丈夫です」と断るのが正解だろう。きっと、彼女に懸想する男たちも、ここで強がるから距離を詰めるタイミングを見失うのだ。
だけどこのときの僕は、厳しい上司にこっぴどく叱られたあとでとても弱っていた。だから、つい「本当ですか……?」なんて寄りかかってしまって、ここまで来たら、この機会を最大限に利用するしかなかった。
愚痴を聞いてもらうという名目で少々わがままを言い、飲みに連れて行ってもらった先で告白したのが一回目。たまたま退勤時間が重なり、二人で駅まで歩く最中にさらりと告げたのが二回目。
そこからはなりふりかまわず機会を捉えては何度も何度も好きだと伝えた。煩わしく思われないように時に何気なく。冗談だと流されないように時に真剣に。
好きです。付き合ってください。お試しでもいいんです。
攻めに攻めた末、頼子さんは折れた。
「そこまで言うなら……分かった、付き合おうか」
台詞からはしぶしぶという様子が伝わってきたけれど、かまいはしなかった。彼女の隣にいる権利を得られただけで有頂天になっていた。
そのツケが今、不安という形で僕の心に暗い影を落としている。頼子さんは僕のことを、少しくらい好きになってくれたのだろうか――。
デートが流れた数日後、会社の飲み会が予定されていた。僕と頼子さんの部署が合同で行うものだ。
その日の朝、僕は口を酸っぱくして「男のそばには座らないでくださいね! 特に後輩!」と念を押していた。
「そこまで心配しなくても、口説き目的で寄ってくる男性なんてそういないし、あしらいかたも分かってるよ」
頼子さんは苦笑するが、そんな言葉で僕が安心できるはずもない。交際をゴリ押しで呑ませた経緯で、実は押しに弱いという彼女の性格をたぶん僕は本人よりも分かっていた。そこに付け入るなら、歳上より歳下が有利であることも。
飲み会という時間の限られた交流の場で、いつでも話せる相手と話すような無駄を頼子さんはしない。男性に迫られても上手くかわせると自分では思っている彼女を僕はそばで守ることができない。だから、こうして本人に注意するほかない。
けれどいざ飲み会が始まってみれば、お話したいですと後輩にきらきらした目でお願いされて、頼子さんはころっと受け入れてしまっていた。
そういう優しさも好きではあるのだけれど、できれば僕以外にはあまり見せないでほしい。
ちらちらと頻繁に彼女の様子をうかがっていると、「そんなに気になる?」と隣に座っていた女性の先輩がからかい口調で聞いてきた。
「大丈夫だと思うよ。彼氏がいるんだから、ちゃんと拒否するところは拒否するでしょ。お酒だってこういう場ではいつもセーブしてるし」
どうして交際のことを知っているんだ? と疑問に思い、目の前の女性がしばしば頼子さんとランチをともにしている人物だと思い出した。
そこから少し遅れて「セーブ?」と首を傾げる。
「長谷部くんはあんまりお酒飲まないの? まだ一杯目みたいだけど」
「あ、はい。飲むのは嫌いじゃないんですが、あんまり強くないらしくて」
「そうなんだ。じゃあ頼子に付き合うの大変じゃない? 酒豪だから」
「え? いや、えっと……」
困惑する僕の様子に先輩がにやりといたずらっぽい笑みを浮かべる。
「大丈夫? 無理やり付き合わされてない?」
軽い口調の心配は半分冗談だ。分かっているけれど、僕はぎこちない笑顔で「だ、大丈夫です」と答えることしかできなかった。
頼子さんが酒豪だなんて、初耳だ。
一緒にいるとき、彼女はいつも僕と同じくらいしか飲まない。初めて飲みにいった際に「お酒はあんまり飲まないんですか?」と訊ねたら、「うん、まあ。付き合いで飲む程度かな」と言っていた。そのあと交際をはじめてからも、僕との食事で飲むアルコールはごく少量だった。
嘘をつかれていた?
それってどうして?
理由は簡単に予想がついた。
僕が頼りないからか、信頼できないからか。
どちらにしろ気を許してもらえていないのは薄々感じていた。
二人で会ってはくれても、態度はいつまでも恋人以前のままだった。常にクールで大人でブレなくて、顔を合わせても甘い空気にはならない。
お酒は人を無防備にする。何事にも抜かりのない頼子さんのことだ、本当に心を許せる相手の前以外では警戒するようにしているのだろう。
その考えは理解できる。理解できるけれど――彼女の安心できる人間の中に自分が含まれていないことがはっきりして、僕はとても悲しくなった。自分は彼氏という名前がついただけの、その他大勢のうちの一人なのだ。
「長谷部くん? おーい、気持ち悪くなったー?」
「……いえ、平気です」
「そ? 気分が悪くなったらすぐ言ってね?」
「はい。……ちなみに、頼子さんが好きなお酒の銘柄とか、ご存知じゃないですか?」
「ん?」
急な質問に先輩は瞳を瞬かせた。その目をじっと見つめ返す。
多分、僕は知りたかったのだ。僕の知らない頼子さんのことを、なにか一つでも。
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