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[61]誘拐事件の真相
しおりを挟む勝負は瞬きする間に決着がついた。黒い霧がひゅっと吹いたかと思うと、ジークとグレイは、床に沈んでいた。次の瞬間にはもう、ビクターは私の目の前にいた。慎重に、口に詰められたシーツをとってくれる。
「大丈夫か?怪我はないか?痛いところは?」
両頬が温もりに包まれる。お面の顔が何度も上下し、注意深く私を観察するのを見た。彼の手つきが、声音が優しくて、胸がいっぱいで、言葉が出ない。それでも彼に応えたくて、何度も、何度も、頷いた。
「………すまん、遅れた」
きつく抱きしめられる。熱い体温に包まれ、また涙が込み上げてきた。彼の匂いだと思った。それは、記憶の中にあるのよりずっと甘美で。
───ビクターが戻った。
胸にぽっかりと開いていた穴が、嘘のように消えた。まるで、最初から無かったみたいに。止まっていた時が動き出す音がした。
「ああ、ビクター……!ビクター……!」
言いたいことはたくさんあるし、質問も怒涛のように溢れてくる。様々な感情が吹き出して、収集がつかない。それでもとにかく、ビクターの胸にすがりついた。彼がどこにもいかないように、ぎゅっと服を掴む。
ビクターがいなくても平気だと自分に言い聞かせて、これまでなんとか頑張ってきた。だけどそんな強がりは彼を前にして簡単に崩壊してしまった。彼がいなければ駄目なんだと、嫌というほど思い知らされた。次にこの男が消えれば、私はいよいよ生きていけない。
「強く握り過ぎだ。冷たくなってる」
手に感覚がない。力を入れすぎて、血が通ってないのだ。ビクターは自身の服を掴む私の手を緩めさせようと、手を重ねてくる。
「嫌っ、離さないわ!離したら、貴方はまたどこかへ行ってしまう。行かせない!死んでも離さないから!」
「フィオリア、大丈夫だ」
「信用できないのよ!貴方は簡単に嘘をつくから。私は簡単に騙されるから。もうどこにも行かないで。ここにいて。お願い。お願い、お願い………」
彼が息を呑む気配が伝わり、やがて、ビクターが言った。
「───どこにも行かない。どこかへ消えろとお前が俺に命令するまで、側を離れない。約束する」
それは甘い響きを持った、ひどく魅力的な約束だった。後先考えず、飛びついてしまうほどに。
「じゃあ一生私の側にいることになるわよ。消えろなんて、そんな命令、私がするわけないもの。たとえこの命が尽きても、魂だけになっても、生まれ変わっても、貴方を離してあげないから」
「めちゃくちゃ束縛するじゃん」
ビクターが笑った。彼の笑い声は、どんなに著名な音楽家が奏でる音楽よりも耳に心地よい。
「もう約束したから。撤回はできないんだから」
「わかった」
約束は、この場限りの口先だけのものかもしれない。かもしれないじゃなくて、たぶん、確実に、そう。だとしても、私は彼の甘い約束に縋らずにはいられなかった。明日以降、また彼が消えて、これまでと比べ物にならないくらい辛い日々が待っているとしても。
お面の下、彼の頬に指を這わせる。感触を、確かめる。香りを、音を、すべてを記憶に刻みつける。一瞬たりともこの時を逃せない。
ビクターが私の頬と髪を撫でた。彼が触れるところが熱を持ち、ぼうっとしてしまう。私の髪を一束すくい上げ、「ヤバイな」と熱っぽいため息を一つ落とす。
「───お前をこんなふうにしたやつは殺したいほど憎いが………正直、そそられる」
その言葉で、いまの自分の格好を思い出した。髪はぼさぼさだし、ドレスもしわくちゃ。それに、破かれたドレスの胸元は大きく開いている。慌てて胸元に手をやり、隠した。
「残念」
おどけたように言って、ビクターが自身のローブを脱いで私を包み込んでくれた。こんなときにふざけるなんて不謹慎だと思うけれど、彼らしくて、それすらも嬉しかった。
「───それから、俺の名前はヴィだって言ったろ」
「ええ、そうだったわね、ヴィ」
"ビクター"と、"ヴィ"。いま初めて、彼らが一つの存在として重なった。
「そこのお前、起きろ」
"ヴィ"が足蹴にしたのは、グレイだ。呻きながら顔を上げたグレイは、向こうの壁で呻いているジークの安否を素早く確認した。隙あらば駆けつけようとする姿勢は、さすがは主に忠誠を誓った騎士だと言えた。
「時期王でらせられるジーク様にこの仕打ち。お前は当然、打首だ。ここは王城、逃げ場はないぞ。さぁ、観念しろ」
そう言って、グレイが不敵に笑う。
『観念しろ』なんて、勝機もないのによく言えたものだと呆れてしまう。
さっきヴィが放った風と、黒い霧の威力を見ていなかったの? それとも頭を打って、その衝撃でヴィの恐ろしさを忘れてしまった?
ヴィの前ではグレイが遥かに小物に見えて、むしろ可哀想になってくる。
「今回の計画の全容と、目的を言え」
ヴィが、低く厳しい声で命令する。
「誰が────アレクセイがフィオリア嬢を誘拐する計画を立てていることは知っていた。というか、誘拐するよう仕向けたのはこの私だ」
グレイが目を見開く。何で、と自身の口を押さえる。
「ほう、それで?」
「だっ、ぐ、ジーク様がアレクセイに王位継承権争いに勝つためには、ディンバードの後ろ盾が必要だった。しかし、ディンバード公爵は協力してくれない。であれば、フィオリア嬢とジーク様を結婚させようと考えた。公爵も、ジーク様が娘の夫となれば、喜んで後ろ盾となるだろう。
しかし、娘の方はキッド・エンデと恋仲。今更ジーク様と恋仲にさせるのは難しい。そこで、キッド・エンデと婚約する前にジーク様と結婚させようと考えた。教会によれば、結婚とはすなわち肉体の結合。肉体関係さえ結ばせてしまえば既成事実が出来上がる。たとえフィオリア嬢が嫌がったとしても、彼女はジーク様に嫁がざるを得なくなる」
グレイは憎々しげな表情のまま、話し続ける。意思に反して無理やり喋らされている、そんなふう。──ヴィが"魔法"で操っているんだわ。
「──まず、外堀から埋めていくことにした。噂を流した。フィオリア嬢はジーク様を愛しているから、アレクセイを捨てた。その後、実際にジーク様と結婚したとなれば、筋書きに説得力が出る」
信じられない気持ちで、グレイの話を聞いた。彼らはずっと前から、ディンバードを絡めとる策を、水面下で着々と進めてきたのだ。
「一方で、我々中立派は王家派に成り代わり、アレクセイを支持するふりをしながら、その力を確実に削いでいった」
──なるほど、だからわざわざ派閥替えをしたのね。一番近くから、アレクを邪魔するために。
「──肝心のフィオリア嬢の身柄の確保には、アレクセイを利用することにした。『彼女を救ってあげよう』そう言って、フィオリア嬢を誘拐するよう、彼を唆した。アレクセイには誘拐犯として、"悪役"になってもらう。そして、我らは彼女を救い出すヒーローに」
「最低ね」
アレクもある意味、被害者というわけね。だからといって、実際に行動に移したのはアレクだし、決して許す気にはなれないけれど。
「──フィオリア嬢を王城の一室へと誘拐するところまでは見守る。それからアレクセイが彼女に手を出す前に、ジーク様が助けに入る。ジーク様とフィオリア嬢、愛する二人は困難を乗り越え、より盛り上がる。その勢いで体を重ねても何も不自然じゃない。ああ、なんと素晴らしい恋物語!舞台の演題にだってなりそうだ」
グレイは恍惚の表情に興奮を乗せ、鼻息を荒くしていた。しかし、一瞬の後には、その夢が潰えようとしていると気づいたのか、再び憎々しげな表情へと変わる。
「わかった。もういい」
「は───? う、」
ヴィはグレイの額を打ち、再び気絶させた。
「すごい執念だわ……だけど、」
「ああ、お粗末な計画だな。こいつらが何をしたって、フィオリアが大人しく従うわけがないのに」
「ええ。彼らの思い通りにさせるくらいなら、二度と私を利用できないよう、死んで消えてやるわ」
「どのみち俺がいる限り、やつらの計画は絶対に成功しないし、お前の命が脅かされることもない」
と、呻き声がして、見れば、ジークが起き上がろうとしている。ジークは反対側の壁へと吹き飛ばされていた。彼を見て、ヴィが舌打ちする。
再びヴィの周りに黒い霧が吹き出す。止める間もなく、霧はジークへと襲いかかった。思わず目を背ける。
「…………痛いな」
しかし、ジークは無事だった。何事もなかったかのように、そこに立っている。ヴィからも困惑が伝わってきた。
ジークが腕を掲げる。その瞬間、ジークの身体から炎が上がった。──ああ、そんなっ!
「やりすぎよ、ヴィ!死んでしまうわ!」
「…………俺は何もしていない」
「でも───」
どういうわけか、吹き上がる炎はジークを燃やしていない。
「その女は俺のものだ」
ジークの声と共に、飛んできた炎が私達に襲いかかった。
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