77 / 99
現代の伝説4
しおりを挟む
山を降りた集落の小さな茶屋で地元の案内人に紹介されて老女と対面したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
茶屋の奥にある畳敷きの座敷で、真夏は湯飲みを両手で包みながら老女の前に座っていた。
皺だらけの手で急須を持ち上げながら、老女は穏やかに言った。
「鬼はおったよ。今もおらんとは言い切れん」
その言葉に真夏は息をのんだ。民話や伝説のような感じではなかった。まるで本当に、昨日までそこにいたかのように語る声色だった。
「鬼、いたんですか?」
「いたとも。この山には昔からよう出たんじゃ。悪さをする鬼ばかりやない。人の世に関わりすぎて、姿を見せんようになった鬼もおったそうな」
老女の語り口は静かで、語るというより記憶をなぞるかのようだった。真夏は心のどこかがざわつくのを感じながら、夢の中のことをぽつりぽつりと話し始めた。
山に立ち込める霧、湿った落ち葉の感触、そして――笛の音。霧の中に佇む男の姿。銀の髪に赤い瞳。名前はまだ思い出せないのに、その姿だけははっきりと覚えている。
真夏が口を閉じると、老女はしばらく黙って湯飲みに目を落としていた。だが、やがてふっと目を細めて静かに頷いた。
「おるんじゃよ、その話し。昔からな、銀の髪に、赤い目をした鬼が笛を吹いておったという話しがずっとこの辺りに伝わっとる」
真夏の背中に、ぞわりと冷たいものが走った。心臓が、つかまれたように跳ねる。
「……本当に?」
「ほんまかよ。わしが子供の頃にも年寄りが言うとった。霧の深い夜に山に入ると、どこからともなく笛の音が聞こえてくる。それは鬼の笛でな、姿を見た者は皆、口を揃えて言うんじゃ。銀の髪、赤い目、静かに笛を吹く美しい鬼だったと」
頭の中で、夢の中の彼の姿が鮮やかに蘇る。木々の間に見えた横顔。唇にあてた笛。目を伏せたまま、音だけで心を撫でてくるようなあの旋律。
(同じだ。……夢の中の彼と、老女が語る鬼は同じだ)
まるで夢が現実を追いかけていたのか。あるいは現実の記憶が夢の形を取って現れたのか、わからない。けれど、あの人はただの夢ではない。確かな”過去”の存在なのだと真夏は直感した。
「その鬼は、今もいるんでしょうか?」
真夏が尋ねると、老女は少しだけ視線を上に向けた。遠く、記憶の彼方をみるような目だった。
「さあなあ。もう、随分昔の話しだからな。けどな、人の記憶に残っとるうちは、どこかにおるのかもしれん」
老女の言葉に、真夏は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
――記憶。
そうだ。自分はまだ全てを思い出していない。彼の名前も、自分がその”鬼”とどんなふうに出会い、何を交わしたのかも。でも、確かに今も夢を通して繋がっている。そして彼は言った。「全てを思い出したら会おう」と。
(過去に、あの人と本当に出会っていたのなら、俺は……)
真夏は膝の上に置いた手をぎゅっと握った。夢に揺さぶられるだけじゃない。自分の足で歩いて、探さなければならない。記憶の続きを。約束のその先を。
茶屋の座敷に午後の光が差し込んでいた。湯飲みの中で、お茶の水面が静かに揺れている。老女はもう何も言わず、ただ黙って真夏の決意を見守っているようだった。
茶屋の奥にある畳敷きの座敷で、真夏は湯飲みを両手で包みながら老女の前に座っていた。
皺だらけの手で急須を持ち上げながら、老女は穏やかに言った。
「鬼はおったよ。今もおらんとは言い切れん」
その言葉に真夏は息をのんだ。民話や伝説のような感じではなかった。まるで本当に、昨日までそこにいたかのように語る声色だった。
「鬼、いたんですか?」
「いたとも。この山には昔からよう出たんじゃ。悪さをする鬼ばかりやない。人の世に関わりすぎて、姿を見せんようになった鬼もおったそうな」
老女の語り口は静かで、語るというより記憶をなぞるかのようだった。真夏は心のどこかがざわつくのを感じながら、夢の中のことをぽつりぽつりと話し始めた。
山に立ち込める霧、湿った落ち葉の感触、そして――笛の音。霧の中に佇む男の姿。銀の髪に赤い瞳。名前はまだ思い出せないのに、その姿だけははっきりと覚えている。
真夏が口を閉じると、老女はしばらく黙って湯飲みに目を落としていた。だが、やがてふっと目を細めて静かに頷いた。
「おるんじゃよ、その話し。昔からな、銀の髪に、赤い目をした鬼が笛を吹いておったという話しがずっとこの辺りに伝わっとる」
真夏の背中に、ぞわりと冷たいものが走った。心臓が、つかまれたように跳ねる。
「……本当に?」
「ほんまかよ。わしが子供の頃にも年寄りが言うとった。霧の深い夜に山に入ると、どこからともなく笛の音が聞こえてくる。それは鬼の笛でな、姿を見た者は皆、口を揃えて言うんじゃ。銀の髪、赤い目、静かに笛を吹く美しい鬼だったと」
頭の中で、夢の中の彼の姿が鮮やかに蘇る。木々の間に見えた横顔。唇にあてた笛。目を伏せたまま、音だけで心を撫でてくるようなあの旋律。
(同じだ。……夢の中の彼と、老女が語る鬼は同じだ)
まるで夢が現実を追いかけていたのか。あるいは現実の記憶が夢の形を取って現れたのか、わからない。けれど、あの人はただの夢ではない。確かな”過去”の存在なのだと真夏は直感した。
「その鬼は、今もいるんでしょうか?」
真夏が尋ねると、老女は少しだけ視線を上に向けた。遠く、記憶の彼方をみるような目だった。
「さあなあ。もう、随分昔の話しだからな。けどな、人の記憶に残っとるうちは、どこかにおるのかもしれん」
老女の言葉に、真夏は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
――記憶。
そうだ。自分はまだ全てを思い出していない。彼の名前も、自分がその”鬼”とどんなふうに出会い、何を交わしたのかも。でも、確かに今も夢を通して繋がっている。そして彼は言った。「全てを思い出したら会おう」と。
(過去に、あの人と本当に出会っていたのなら、俺は……)
真夏は膝の上に置いた手をぎゅっと握った。夢に揺さぶられるだけじゃない。自分の足で歩いて、探さなければならない。記憶の続きを。約束のその先を。
茶屋の座敷に午後の光が差し込んでいた。湯飲みの中で、お茶の水面が静かに揺れている。老女はもう何も言わず、ただ黙って真夏の決意を見守っているようだった。
0
あなたにおすすめの小説
夫には好きな相手がいるようです。愛されない僕は針と糸で未来を縫い直します。
伊織
BL
裕福な呉服屋の三男・桐生千尋(きりゅう ちひろ)は、行商人の家の次男・相馬誠一(そうま せいいち)と結婚した。
子どもの頃に憧れていた相手との結婚だったけれど、誠一はほとんど笑わず、冷たい態度ばかり。
ある日、千尋は誠一宛てに届いた女性からの恋文を見つけてしまう。
――自分はただ、家からの援助目当てで選ばれただけなのか?
失望と涙の中で、千尋は気づく。
「誠一に頼らず、自分の力で生きてみたい」
針と糸を手に、幼い頃から得意だった裁縫を活かして、少しずつ自分の居場所を築き始める。
やがて町の人々に必要とされ、笑顔を取り戻していく千尋。
そんな千尋を見て、誠一の心もまた揺れ始めて――。
涙から始まる、すれ違い夫婦の再生と恋の物語。
※本作は明治時代初期~中期をイメージしていますが、BL作品としての物語性を重視し、史実とは異なる設定や表現があります。
※誤字脱字などお気づきの点があるかもしれませんが、温かい目で読んでいただければ嬉しいです。
「自由に生きていい」と言われたので冒険者になりましたが、なぜか旦那様が激怒して連れ戻しに来ました。
キノア9g
BL
「君に義務は求めない」=ニート生活推奨!? ポジティブ転生者と、言葉足らずで愛が重い氷の伯爵様の、全力すれ違い新婚ラブコメディ!
あらすじ
「君に求める義務はない。屋敷で自由に過ごしていい」
貧乏男爵家の次男・ルシアン(前世は男子高校生)は、政略結婚した若き天才当主・オルドリンからそう告げられた。
冷徹で無表情な旦那様の言葉を、「俺に興味がないんだな! ラッキー、衣食住保証付きのニート生活だ!」とポジティブに解釈したルシアン。
彼はこっそり屋敷を抜け出し、偽名を使って憧れの冒険者ライフを満喫し始める。
「旦那様は俺に無関心」
そう信じて、半年間ものんきに遊び回っていたルシアンだったが、ある日クエスト中に怪我をしてしまう。
バレたら怒られるかな……とビクビクしていた彼の元に現れたのは、顔面蒼白で息を切らした旦那様で――!?
「君が怪我をしたと聞いて、気が狂いそうだった……!」
怒鳴られるかと思いきや、折れるほど強く抱きしめられて困惑。
えっ、放置してたんじゃなかったの? なんでそんなに必死なの?
実は旦那様は冷徹なのではなく、ルシアンが好きすぎて「嫌われないように」と身を引いていただけの、超・奥手な心配性スパダリだった!
「君を守れるなら、森ごと消し飛ばすが?」
「過保護すぎて冒険になりません!!」
Fランク冒険者ののんきな妻(夫)×国宝級魔法使いの激重旦那様。
すれ違っていた二人が、甘々な「週末冒険者夫婦」になるまでの、勘違いと溺愛のハッピーエンドBL。
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
僕の恋人は、超イケメン!!
刃
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
雪を溶かすように
春野ひつじ
BL
人間と獣人の争いが終わった。
和平の条件で人間の国へ人質としていった獣人国の第八王子、薫(ゆき)。そして、薫を助けた人間国の第一王子、悠(はる)。二人の距離は次第に近づいていくが、実は薫が人間国に行くことになったのには理由があった……。
溺愛・甘々です。
*物語の進み方がゆっくりです。エブリスタにも掲載しています
魔王の息子を育てることになった俺の話
お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。
「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」
現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません?
魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL
BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。
BL大賞エントリー中です。
はじまりの朝
さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。
ある出来事をきっかけに離れてしまう。
中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。
これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。
✳『番外編〜はじまりの裏側で』
『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる