義姉の身代わりだった私

雨雲レーダー

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知らない感情

 控えの間を後にしてから、エレナは一言も発さなかった。ヴィクトルの隣を歩きながら、ただ前だけを見ていた。

 背後では、両親の慌ただしい足音と、取り繕うような言い訳の声が遠ざかっていく。

「無理をしていないか」

 歩みを緩めることなく、ヴィクトルがぽつりと声を落とした。

「していません」

 その声は穏やかだったが、揺るがぬ意志が宿っていた。もう誰の言葉にも動じない、そんな強さがにじんでいた。

 廊下を曲がった先に、夕陽が差し込むテラスの扉があった。ヴィクトルが一瞬、視線で問いかけると、エレナは頷きそっと扉を押し開けた。

 石造りのテラスに出ると、暖かな風が頬を撫でていく。

「家族が君を認めなかったなら、それは認めない方が間違っている。君の誇りは、誰かに決められるものじゃない」

 エレナは答えなかった。ただ、手すりの上に置いた両手をきゅっと握りしめる。

「……あの人たちは、私を家族だと思ってはいません。何かあった時に都合よく使える道具。それだけです」

 ようやく漏れた言葉に、ヴィクトルは小さく目を伏せた。

「気づいていながら、なぜ今まで何も言わなかった?」

「言ったところで、何かが変わるわけではないからです。それに……たぶん、どこかで期待していたんです。いつか家族が、私を見てくれる日が来るって。何も言わなければ、壊れずに済むと思ってました。でも、結局、変わらなかった」

 それは、自嘲にも似た声だった。けれど、悲しげな色はなかった。

「けれど、もう違います」

 エレナはゆっくりと振り返る。その瞳は夕陽を受けて、赤く淡く輝いていた。

「私は、自分で選びたい。誰の代わりでもなく、誰かの影でもなく。自分の足で、歩いていたいんです」

 その様子に、ヴィクトルの表情がやわらいだ。

「そのためなら、俺は喜んで背中を押そう。王族としてではなく……一人の人間としても」

「……それは、恐れ多い言葉です」

 エレナは小さく頭を下げる。それでも、口元にはわずかな微笑が浮かんでいた。

 その静かな笑みに、ヴィクトルもまた、声を立てずに笑った。

 風が吹いて、赤薔薇がわずかに揺れる。

 ヴィクトルはゆっくりと一歩踏み出し、エレナとの距離を縮めた。けれど、手は伸ばさない。ただ揺るぎのない声音だけが、彼女の心を打つ。

「……君は、もっとわがままになってもいい」

 エレナは驚いたように顔を上げた。

「君がそれを選ばないのは知ってる。だけど、誰かに守ってほしいと思うことも、助けを求めることも、何も悪いことじゃない」

「……でも、それを望んでも叶わなかったら……」

「そのときは、俺が叶える」

 不意に、胸の奥が痛むような、でも温かいような感覚に包まれた。

 エレナは視線を逸らして、小さく息を吐く。

「殿下に言われると、余計に信じたくなってしまいますね。……殿下はずるいです」

 ヴィクトルは、ようやくその手を伸ばし、エレナの頬にそっと触れた。

「それなら、ずっとずるい男でいよう」

 ほんの一瞬、互いの視線が重なった。

 けれど、言葉も触れ合いも、それ以上は何もなかった。

「……少し歩きませんか?」

 エレナが先に踵を返すと、ヴィクトルは静かにその後ろ姿を見つめ、そして歩き出す。

 風が、ゆっくりと薔薇の香りをさらっていく。
 その静けさの中で、エレナは自分の胸の奥に、かすかに芽吹いた今まで知ることのなかった感情に気づいていた。
 それが何か、まだ言葉にはできない。けれど確かに、今の自分は、もうあの家にいた頃の代役ではない。
 隣に立つ人がくれたこの静かな時間は、きっとその始まりなのだと、そう思えた。

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