松書房、ハイセンス大衆雑誌編集者、林檎君の備忘録。

中谷 獏天

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第1章 松書房、月刊怪奇実話の林檎君。

2 名家の酷い男と、虐げられていた妻。

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 酷い扱いを散々にしてしまった後、噂は全て嘘だ、と。
 祖父が既に調査をしていた筈が、使いの者に新参者が混ざっており。

『お祖父様』
《分かっている、耄碌したと言いたいんだろう。だが、お前もお前だ、ワシに任せ自ら調査せんとは。まだ、早過ぎたか》

『いえ、コチラでも確認をすべきでした』
《全くだな》

『ですが、コレは』

 完全に、偽の証拠を掴まされていた。

《ワシら一族を舐めての事だろう、仕方無い、お前の両親が傾けたも同然だ、仕方無い》

 俺の両親は不仲なだけでなく、任されていた経営までも疎かにし。
 一族から追い出され、今は生死不明。

『すみません』
《当主たるもの無闇に、軽々しく謝るな》

『はい』

《それで、どうするつもりだ》

『妻には、謝ろうと思います』

《好きにしろ》
『はい』

 そうして俺は家に帰り、調査書に添えられた写真を見せる事に。
 未だ俺は、彼女を信じられなかった。

「この服は妹の物。昔から、この様な服は妹しか着られませんし、その指のホクロが何よりの証拠かと」

『すまない』
「何について謝ってらっしゃるんでしょうか」

『君を、疑った事を』
「後は」



 奥様は物静かで大人しそうな外見とは裏腹に、胆力と気の強い方でらっしゃいました。
 静かに込められた怒りは、お医者様に来て頂いた時より、静かに燃えてらっしゃり。

《あの、お坊ちゃまは本当は心の優しい方で》
「いきなり妻に茶をぶっ掛けるのが優しいなら、私は天女、いえ御仏そのものかと。後は、もう御座いませんか」

 またしても、坊ちゃまは気圧され。

『いや、下がってくれて構わない』
《坊ちゃま》
「では、失礼致します」

《坊ちゃま》

『どう、すれば良いんだろうか』

《それはもう、誠心誠意、謝って頂くしか》
『当主たるもの、無闇矢鱈に軽々しく謝っては、威厳を損なう』

《ですが、まぁ、謝った程度でお許しになりそうにも思えませんが。ぁあ、そうですよそうです、先ずはお買い物にでも行かれてはどうでしょう?》

『買い物』
《はい、旦那様にお見せ出来る服も、服を買いに行く服も無い。ですから、お部屋からお出にならないのかも知れませんよ》

『だが』
《着物は仕立てて有りますから、先ずはそれを着てお出掛けし、何か見繕って差し上げたらどうでしょう?》



 上手く行くとは、思っていなかったんだが。

『今日は、買い物にでも』
「何故、でしょうか」

『着る物も少ないだろう、先ずは揃えさせて欲しい』

「償い、でしょうか」

『どう思ってくれても構わない。着付けが無理なら』
「自分で着れますが、何故、今更。外に不満は漏らしませんし、私には特に何も欲しい物は御座いません」

『いい加減、出掛ける様も他所に見せなければ醜聞に関わる』

「分かりました」

 明らかに、仕方無く付き合う素振り。
 だが、着物が良く似合う。

『化けるものだな』
「お高いお着物と化粧のお陰です、なんせ元が素っ気ないモノですから」

『なら、相応の振る舞いもしてくれ』
「はい」

 下品な愛想は振り撒かないが、他所の目が有れば愛想は良い。
 貞淑で控え目、それがまた、妖艶な仕草となった。



《あら、お姉様》

「ツバキ、良く分かりましたね、私だと」
《勿論、世に2人だけの姉妹ですもの》

 この質素過ぎる顔が、化ける。
 知っていたわ、見合い写真を、と化粧された姉を見た事が有るのだもの。

「失礼致しました、妹のツバキです」
《まぁ、こんなに素敵な方が旦那様だなんて思わず、失礼しました、妹のツバキですわ》

『あぁ』

 お噂では鬼の様な形相でらっしゃる、とか、恐ろしい方だとお伺いしていたのだけれど。
 やっぱり、牽制の為に流された噂、だったのね。

《お買い物でらっしゃるの?お姉様、外商さんをお呼びしたら良いのに》
「そうね」
『俺の買い物に付き合わせていたんだ、自慢したくなってしまってね』

《分かりますわ、こうなると、男性なら大概は姉を選びますもの》
「そうとは限らないじゃない、私の婚約者だった方を虜にしたのは、アナタよね」

《もう、誤解ですわお姉様、好みの問題でらっしゃるだけ。自分の手には負えない、とお姉様を泣く泣く手放されただけですわ》
『すまないが、知り合いを見掛けたので』
「今度はウチにいらして、饗させるわね」

《長々とすみません、では》
『あぁ、失礼する』

 彼と結婚出来なかったのは、少し惜しい、とは思ったけれど。
 まだまだ、私は若いんだもの、もっともっと遊ばないとね。



『あんな風に、いつも言い返して』
「そう出来たら、どんなに良かったでしょうね」

 彼女の手の震えは、怒りなのか悲しみなのか。
 今ならそう思えるが、俺は怒りだろう、と。

『そうか』

「もう、帰りたいんですが」
『せめて服を買わせてくれ、君の服を』

「どうぞご勝手に」

 そして、彼女は何も選ぶ事は無かった。

『どれにも、首を振ってはくれないんだな』
「何故だか、本気でお分かりになりませんかね」

『分からないな』

「あぁ、そうですか」

 最初に、問いただす事すらしなかった。
 完全に相手に騙されていたとは言えど、話し合おうともせず。

 あんな事さえしなければ。
 あんな事さえ、言わなければ。

《坊ちゃま、如何でしたか》

『もう、無理かも知れないな』
《まだまだ、やっと夫婦として始まったばかりなのですから、そう諦めては奥様がお可哀想ですよ》

 ココで私は、僅かにでも希望を抱いてしまった。
 浅はかで、愚かな希望を。



《あらお姉様、本当に出迎えて下さるなんて嬉しいわ》
「勿論よ、夫のたっての希望ですもの」
『君は、婚約者の長谷川君かな』
「はい、長谷川と申します、義姉のアヤメさんがお世話になっているそうで」

『手間の掛らない妻で助かるよ、古臭い家だが手入れはしてある、上がっていってくれ』
「はい、ありがとうございます、お邪魔致します」
《はい姉さん、お土産》
「ありがとう、はい、お願いね」
《はい、直ぐにご用意させて頂きますね》

 奥様の妹様は確かに可愛らしい方では有りますが。
 昨今で言う、若い子、らしい振る舞いでらっしゃいまして。

《お兄様とお呼びしても良いかしら?》

『アヤメはどう思う』
「お好きに、私には無い魅力を持っていますからね、長谷川さん」

「はい、そうですね」
『なら、長谷川君はどう思う、僕を兄だと呼ばせる事について』

「姻戚では有りますが、婚家では無いですし、そう、あまり馴れ馴れしい呼び方は」
《お姉様の旦那様なのでしょう?なら私のお兄様も同然じゃなくて?欲しかったんですの、兄が》
「本当に姉で残念でしたねツバキ、私は少し手伝いに行って参りますから、ごゆっくり」

 奥様からは、少しばかりゆっくり支度をと仰られたので暫くお待ちしていたのですが。

《奥様、遅くなり》
「いえ良いの、丁度良いわ。それよりお茶菓子を分けて無いじゃない、良いのよ、好きなだけ食べて頂戴、私コレ大嫌いなのよ」

《まぁ、申し訳御座いません気が付きませんで》
「良いの、それより他のお茶菓子は有るかしら、私はソチラを貰うわ」

《はい、ただいま》

 坊ちゃまから伺っておりましたが、本当に血の繋がったご姉妹でも不仲な家が有る事に、非常に驚かされました。

「ちゃんと言った通りに買って来てくれたのね、ありがとう」
《いえいえ》

「じゃ、お願いね」
《はい》



 妻が居なくなった途端、机の下で俺の足に足を絡め始めた。

 馴れ馴れしいの度を越えて、いやらしい、穢らわしい下品な態度に言動。
 どうしてこうも差が出るモノだろうか。

《それでお姉様に強請ったら直ぐに頂けたんですの、優しいでしょうウチの姉は》
『あぁ、そうだな。長谷川君もそう思うか』

「はい、優しい方かと」
『随分と他人行儀だな、元はアヤメの婚約者だった筈だが』
《大して顔を》
「お待たせしました、私の不手際で1つ落としてしまいまして、皆さんはコチラをどうぞ」

《相変わらず失敗が多いのねお姉様は、旦那様に粗相はしてらっしゃらない?》
「幸いにも失敗しないで済んでるわ、どうぞ」
「はい、どうも」
『君はそれで良いのかい』

「はい、コレが好きなものですから」
《安いお菓子だものね、遠慮なさってるフリを未だにしてらっしゃるの?》

「婚約破棄されたこんな女を娶って大事にして頂いておりますけど、別に遠慮はしていないから大丈夫よ。そう珍しく心配してくれるだなんて、長谷川さんと上手くいっていないのかしら?」
『そうらしいね、上の空だね長谷川君』

「あ、いえ、その菓子が懐かしいなと」
「あぁ、コレね、この菓子を買いに行かせている間に」
《それよりお姉様、そのお着物はどうなさったの?凄く高そうだわ》
『もっと強請ってくれても良いんだが、値段よりも良さを大切にするらしい』

《いやだわもう、嫌味を言われているわよお姉様、見る目が無いって。その着物、私の方が似合うわよね?》

「それは、どちらにも」
《あぁそう、人様のモノになった途端に惜しくなるだなんて、どうしましょうお兄様》
『その馴れ馴れしい態度は外ではしない方が良い、恥をかいてしまうのは君と家。大変だね長谷川君、お転婆過ぎる婚約者を持つのは』

「い、いえ」
《ふふふ、怒られちゃったわお姉様、もしかして私の悪口でも仰ったの?》
「いえ、アナタの事は何も話してはいないわ。それよりお茶のお代わりは如何長谷川さん、相当に喉が渇いてらっしゃるみたいね」

「すみません、緊張してしまいまして」
《しかも美味しいお茶ですものね、お姉様、淹れて下さる?》
「だそうだからお願いね」
《はい》

 様子見をと思い家に招き入れたが、反吐が出るなこの女は。

「あ、そう言えば言伝を預かっていたんですの、すみません旦那様」

 そう言って妻が渡して来たのは、仕事の用件では無かった。

 【もし追い出したいのなら、分かったとだけ仰ってこの紙を私に返して下さい。】

『分かった』
「遅くなって申し訳、あら顔色が悪いわ」

《あ、はい、すみません。どうやら昨晩の食事に中ったのか、どうにも具合が良く無くて》
「まぁまぁ、ごめんなさいツバキ、長谷川さん、風邪かも知れないし今日はもうお帰りになって頂けるかしら」

「あ、はい、お邪魔しました」
《ふっ、お気を付けて、見送りは結構よ姉さん、またね》
『俺が送る、寝かせてやっておいてくれ』

 機転が利く。
 祖父が選んだ相手を、どうして俺は疑ってしまったのか。

「長居致しました、お邪魔しました黒木さん」
《本当はお家をもっと見回りたかったのだけれど、また来ますわね、では》
『あぁ』

 ココですんなりと帰る女では無かった。

《あ、忘れ物をしちゃったわ長谷川さん、先に行ってらして》
「あぁ」

『何を忘れたか』
《姉に飽きたらいつでもお声掛けして下さい、虜にしてみせますわ》

『他には無いか』
《ええ、では。ごめんなさい勘違いだったわ長谷川さん》

 人様のモノが良く見える女が、本当に居るとはな。

『はぁ、助かった』

「いえ、私は大した事はしておりません。余ったお菓子は持って帰ってらして、今日はもう帰って大丈夫よ」
『あぁ、茶菓子を楽しんでくれ』
《どうも、ありがとうございます、では》

「あ、ウキウキして帰ってらしたらダメよ」
《勿論ですよ、ふふふ、では失礼致します》

『すまない、助かった』
「いえ、ではお湯を頂いて部屋に戻りますので」

『もう暫く、ココに居てくれないか』

「何故でしょう」
『君は俺の妻だ』

「本当に、居るだけ、で宜しいんでしょうか」

『話し合いたい』
「何を、ですかしら」

『すまなかった、先ずはコレを君に』
「あ、はい、直ぐに書きますわね」

『そんなに、君はまだ婚約者の事を』
「いえ元は親に決められた結婚ですし、他所見する様な者は勿論、妹に靡くような者は要りません」

『待ってくれ』
「何ですか」

『やり直させてくれ、その為に離縁状を渡しただけだ』

「何故、やり直したいのでしょうか」

『このまま離縁すれば、あの家に戻る事に』
「それがお望みでは?」

『違う、やり直させて欲しいんだ』

「私の不手際だと仰れば宜しいだけでは、低能共と同じ様に全て私に押し付け、離縁なされば宜しいのではありませんか」

 茶を掛けた事、話し合わなかった事を言われているのだろう。

『本当に、すまなかった』

「そんなに信用なりませんか、何人も咥え込んだとされる妻は」
『いや、そうじゃないんだ』

「なら、何故、でしょうか」
『君は俺の妻だ、やり直させてくれ、最初から』

「解りました、では先ず玄関からで」

 コレで上手く行くと、何処かで甘い夢を見ていた。
 俺は彼女に何も与えられていないと言うのに。
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