松書房、ハイセンス大衆雑誌編集者、林檎君の備忘録。

中谷 獏天

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第32章 先生と物語と僕。

先生の最後。

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『あれ、どうした事だろうか』
「どうかされましたか、教授」

『ペンを探している間に、何を書こうか忘れてしまってね。いやはや、年には、勝てないらしい』
「教授、前も言ってらっしゃいましたが、今までが常人離れしてらしたんです。そろそろお体を労って下さい」

 そう、物忘れが有った事すら忘れ。
 私は、また、同じ事を言ってしまっていた。

 どうやら、私の終わりが来たらしい。



『八重子君、私の病は何だろうか』

『未知の病です』

『だが、君は知っているだろう』

『はい』
『では教えてくれんか、世の為に、今から解明されて問題無いかどうか』

『はい』
『いや、そもそも解明出来るのだろうかね』

『果てを、解剖出来たなら、ですが全てでは有りません。全てを捧げても、無残な姿をどんなに晒そうとも、全て明らかになるのは遥か先です』
『なら私は先駆者になれるのだな』

『いえ、既に記録自体は存在していますが、詳細はまだ纏まってはいません』
『だが役に立てるのだね』

『そうすれば、そうなるかと』
『なら、死体だろうと何だろうと、私は全てを晒そう』

『良いのですか、本当の苦しみが、長い苦しみが待っているのですよ』

『私は他人を暴く事で、他者からの対価を前借りし、国に差し出した者。いつか暴かれる日が、いつか対価を支払う時が来るだろう、そう思っていたのだよ』
『ですが先生は』

『自らに何か起こったなら、自らを捧げる、そう誓いこの道へと来たのだよ。私はね、そうして罪悪感なるモノを抑えて来た、やっと償えるのだと寧ろ安堵しているんだよ』
『先生』

『最悪は、そこまで悲惨なのだね』

『自害は勿論、他害も、有り得てしまいます』
『名は有るんだろうか』

『前頭側頭型認知症、物忘れの症状は、寧ろ少ない方です』
『そうか、私のままか』

『アナタのままでありながら、アナタでは無くなります』
『あぁ、私に相応しい、良い死に様になるだろう』

 どんなにみっともなくとも、死に意味は有る。
 野生ならば死を苗床とし、様々な命が広がる。

 だが、都会に生きる者は、果たしてどうだろうか。

 その死に意味を存在させるか。
 その死を無意味とするかは、生きる者次第。

 だからこそ、次を育てねばならぬのだよ。
 だからこそ、命とは繋げるべきモノ、なのだよ。



《八重子》
『お兄様、この際です、ハッキリさせましょう』
「八重子さん、何もこんな」

『私は嫁ぐべき方に嫁ぎます、お兄様も、どうかその様に生きて下さい』
「八重子さん」

『真方も、どう生きるべきか、死を見据え生きなさい。少なくとも、私はそうしています、良いですね』

「何も、こんな」
『皆さんにも覚悟して頂きたいんです、人はいつ死ぬかを選べない、死に様も選べない。だからこそ、清く正しく美しく生きる、後代でどんな泥が塗られ様とも汚れない生き方。難しい事ですが、成さねばならない、子々孫々の為に』

 善行を尽くしたとて、死に場所も死に様も選べない。
 けれど、もし選べるのなら。

 そう選ぶ対価は一体何か。

《八重子さん》
『聡志さん、驚かせてしまいましたか』

《いえいえ、行きましょうか》
『はい』

《偽物の情愛を、何故選ぶのですか、彼なら本物の深い情愛を無限に与えるでしょう》
『私には、もう十分に、頂きましたから』

 今まで、ありがとうお兄様。
 まるで私を子供の様に世話をして下さり、妻の様に心配し、恋人の様に想って下さった。

 他の者が一生掛けても得られないかも知れないモノを、私は得た。

 十分です。
 私は常に幸せでした。




「先生、どうして」
《ごめんなさい林檎さん、父は、どうしても知られたく無かったんです。書く邪魔をされては困るからと、私も、知ったのは数ヶ月前なんです》

「僕」
《父は、コレで遺せるモノが有る、更に増えるのだからと。私や、子供や、孫の為になる。コレは世の為、人の為にと》

 大戸川先生は倒れられ、意識が戻らないまま。
 そのまま、亡くなられました。

 不治の病、癌でした。

 検体として大学で解剖が行われました、全身に転移しており、骨まで。
 黒い病巣は、骨までも蝕んでおりました。

 先生は痛みを、薬と原稿で、誤魔化してらっしゃいました。

『あの人、書いてる横に食べ物を置くと、食べれるんです。少し原稿を盗み見て、同じモノを出すと、最後まで食べる事が出来ていたんです』

「本当に、すみ」
『私こそ、ごめんなさい、アナタが悩み悲しむ事は分かっていたの。でもあの人を選んだ、恩を仇で返す様な事をして、本当にごめんなさい』

 この先も、何か言葉を続けては、謝り合う事が容易に想像出来ました。
 ですから、僕はただ返事をするしか有りませんでした。

「いえ」

『あの人は、幸せだったと、思うんです』
「はい」

『ありがとう、林檎さん』

 大好きな先生が死んでしまいました。

 確かに年の順で言うなら、当然の事です。
 医科学は未だに未発達、不治の病が有る事も知っています。

 なのに、何故、どうして不条理と感じてしまうんでしょうか。

 いずれ死は誰にでも訪れるもの、寧ろ苦痛から解放されたのですから、死は悪い面だけでは無かった。
 そう分かってはいるんです。

 ですが何故、どうして、こんなにも早いと感じてしまうのでしょうか。

 知っているのに。
 分かっているのに。



《僕は、惜しい人を亡くした、そう思われたいと思った時期が有ったんだ》

「神宮寺さん、何故過去の事なんですか」

《惜しまれるのは、大概は若い死、疎まれる最後では無かった。その程度の事、そう知ったからだよ》

「疎まれる最後」
《どんなに清廉潔白でも、どんなに気の良い者でも、時には老いと共に呆ける》

 小さな思い違いから始まり、妄想、妄言となり。
 いつしか自我を無くし、それから亡くなる者も居る。

「はい、先日も事件が、はい」
《何故、他人が面倒を見る事を国が推奨しているのか、だ》

 それは身内では無いからこそ、苦痛は軽減され。
 そして対価が支払われる事で、一線を引く。

 そうして互いの身の安全を確保し、世話が出来るからこそ。

「はい」

《昔は、長屋住まいが当たり前、味噌の貸し借りだ子守りだが当たり前だった頃。こうした問題は、あまり無かった、何故だと思う》

「近代では、科学が発達し、その影響や」
《誰かが手を汚していたからだよ、そうやって支え合い、守り合った》

「誰かが」

《今は家族同士が離れている、そうして暗黙の了解は薄れ、受け皿が無くなった》
「そして、国が受け皿となった」

《親子ですら時に合わなくなる事も有る、それは血が繋がっているからこそ、余計に合わなくなる事も有って当たり前》

「はい」
《そして、死んだからこそ、惜しい人を亡くしたと言われる。なら、死なないでくれ、そう言われる生き方の方が、選ぶのはずっと簡単だろう》

「死に様も、死に場所も選べない」

《もし選べるとするなら、君は何処で、どうやって死にたい》
「好きな本を読み終わり、感想に浸りながら、眠る様に死にたいです」

《そうした事だけは、本当に迷いが無いね》
「死ぬ時期を選べても、きっと、同じだと思います。残された者は、どうしたって悩む筈なんですから」

《そうだね、どう死のうとも、誰もが納得する事は珍しい》

「はい」
《君の悩む時間は、病を知っていた場合よりも確実に、少ない筈。大戸川先生は読書家でもあるのだし、きっと君にはあまり引き摺られず、取材だ何だとして欲しかったのだと思うよ》

「でも、そんなの」
《そうだね、言わない大戸川先生が悪かった、文句集や何かを出版してやろう》

「良いですね、次は僕が携えて会いに行けば良いんですし」
《きっと、細君とて文句は有る筈、吐き出させて残してしまおう》

「はい」



 大戸川の馬鹿野郎。
 松書房は、夫の追悼集を出して下さった。

『ありがとう、林檎さん』
《本当に、ふふふ、知らないお父様がいっぱいで。本当にありがとう、林檎さん》
「いえ、草案は神宮寺さんなんです、そんなに文句が有るなら纏めて出してしまえって」

《まぁ、流石は若い先生》
『そうね、ふふふ』

「あの、この様な題名で、本当に宜しかったんですか」

『世の中には、本当に大戸川を嫌いな方も居るでしょう。そうした方にも、実はあの人がどんな人だったか、少しは知って貰えるかも知れませんしね』

「ですけど」
『私も、1度は思った事なんです。何故、こんなに早く亡くなるなんて、何て大馬鹿野郎なのって』

 でも、本当に嬉しそうに書き上げたんです。

 まるで病気なんか無いみたいに。
 ニコニコと嬉しそうに、書き終えた、出来たって。

 それから私が読み終えるまで、少し休むと言って。
 私の肩で、あの人はすうすうと寝息を立てて。

 本当に、今まで1番、満足した顔をしてたんですよ。
 本当に、痛みが消えたみたいな顔をして。

「ありがとうございました、僕の分まで、悩んで悲しんで下さって」

『ふふふ、だってまだまだお世話になるんですから、この位はね、安いものですよ』
「はい、本当に、これからも宜しくお願い致します」

 私達家族は、本当に運が良い。

 こうして作家だけで無く、家族も丁寧に扱って下さる会社、担当さんに巡り会えた。
 夫の死を、もう大戸川の書くものが出ない事を、本当に悲しんでくれた愛読者が。

 夫の担当さんであり、理解者で、本当に良かった。
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