世界を渡った彼と私

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異変

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時計を見上げたまま次の一歩が出ない。


帰る時間が、いつもより少し早い。


その事に気づいた瞬間、雷に打たれたようにその場に立ち尽くした。心臓がだんだんと早鐘を打ち、胸が張り詰めていくのを感じる。ぐらりと視界が傾くような感覚にテーブルに手をついて体を支えた。呼吸を止めていた事に気づいて深く息を吸う。


たまたま、かもしれない。
今日だけ、魔法陣が少し早く現れたのかも。


自分に言い聞かせるように心の中でつぶやいた。もしも、の可能性を考えたくなくて、頭が勝手に思考し始めようとするのを必死に止める。

時計から視線を引き剥がして、さっきまでレオンがいた場所を見た。そこにはいつも通りの床が広がっているだけで、レオンの存在を示すものなんて一つもない。無意識に耳元に手をやった。ひんやりとした石の感覚に少しだけ心が落ち着く。

早くレオンに会いたい。会って、レオンの存在を確かめて安心したかった。

どこかで冷静な自分が囁く声には気づかないふりをして、いつも通り過ごそうとするけど何をしても手に付かない。まだ寝るにはずっと早い時間だけど、早く明日が来るようにベッドに潜り込んだ。

小さい頃、部屋の隅の暗闇が怖かった。毛布をかぶって必死に寝ようとしても、そこに何かがいる気がして意識はずっとそこに向けられていた。あの時、背中をじわじわと覆うような恐怖を感じていたけど、それと同じ感覚がした。

横になっても寝付けなくて、うとうととするたびにはっと目が覚める。その都度時計を確認してまた少しまどろんで、結局明け方にようやく少しだけ眠れた。




起きてからも体が重くてベッドの中でぼうっとする。サイドデスクで充電コードに繋いでいたスマホを取って、今日のスケジュールを確認した。1限から講義が入ってるからあと1時間で出ないと。5限で提出するレポートはお昼が終わったらPCルームで印刷しておこう。あとは石鹸が少なかった気がするから帰りにドラッグストアに寄って、ああ、でも借りてた本を返却しなきゃ。バイト先に少し顔を出したあと、久しぶりにどこかで食べて帰ろうかな。
無理やり予定を入れてなるべく余計なことは考えないようにした。






椅子に座ってレオンをじっと待つ。時間が進むのが遅い。同じ場所で同じようにレオンを待ってるのに、昨日とは全く違う気持ちだった。

不安に押しつぶされそうになった時、いつもの時間に現れたレオンの姿を見て泣きそうになる。


「ーーレオン!」


テーブルを回り込んでレオンに飛び付くように抱きつく。危なげなく受け止めてくれたレオンを見上げると、真剣な表情をしていた。その顔を見て、レオンも気付いているんだとわかった。


「レオン、昨日時間が・・・。」

「ああ、私も気付いた。」

「どうして、急に?」

「わからない。」


レオンは私の肩に手を置くと、優しくさすってくれる。そこで初めて自分の体が細かく震えている事に気付いた。レオンが私を落ち着かせるように口を開く。


「・・・もう少しで、あの魔法陣の理を解析できそうなんだ。だから、たとえ今後どうなろうと、諦めずに私を待っていて欲しい。必ずここへ来る方法を見つけるから。」


決意が宿った瞳を見て、グッと奥歯を噛んで涙を堪えた。


「りりなを一人にはしないよ。」

「っうん。」


レオンの胸に額を強く押し付けた。
レオンがそう言ってくれるなら、何があろうといつまででも待てると思った。

その後は昨日観た映画の話とか、たわいもない会話をして過ごした。魔法陣のことはあえて何も聞かなかった。レオンがこれ以上の事を説明しないと言う事は、私が聞いてもどうしようもないんだろう。お互いいつも通り振る舞ってたけど、どこかぎこちなさを感じる。



ふと沈黙が訪れた時、ぴくりとレオンが反応する。レオンは魔法陣が現れる前兆を感じ取れるから、もう直ぐ現れるんだと思った。

レオンが壁の時計に目を向けたのでつられるように視線を上げれば、時刻は20:30を指していた。

・・・昨日より早くなっている。


「・・・レオン。」


きっと私は不安な顔をしていたんだろう。レオンは安心させるように微笑んで手を握ってくれた。


「大丈夫、りりな。私を信じて。」


口を開くと泣いてしまいそうで、無言で頷いた。







3日が過ぎ、レオンの滞在時間は1時間を切った。
急速に早まる時間に焦りだけが募る。
レオンからはあれから魔法陣の話は出ていない。

日々、一人でレオンを待ち続ける時間が嫌だった。余計なことばかり考えてしまう。
レオンがもし来なくなったら。考えないようにしていた事が現実に起き始めている事実に、心臓がじわじわと恐怖に覆われて行くような気がした。
私にも何かできたらいいのに。自分の無力さを実感する。


「レオン、私に何かできることはある?」


たまらずレオンに聞くと、レオンは少し迷うそぶりを見せたあと、私の髪を一掬い手に取った。


「では、少しだけりりなの髪が欲しい。」

「髪を?」

「ここへ再び来るため、髪を媒体にして道を付ける。何があってもりりなの元へ届くように。」

「わかった、少し待ってて。」


ハサミ探してきて一束手に取り10センチほどを躊躇いなく切り落とした。紙に包んでレオンに渡すと、髪を切らせた事を謝るレオンに気にしないでと首を振る。胸下まで伸ばしていたけど、こだわりがあったわけじゃない。


「このくらいで足りる?」

「十分だよ。ありがとう。」

「これがあれば、レオンは私を見つけ出せるの?」

「必ず。」


力強く言うレオンに、思わず堪えていた気持ちが溢れてくる。


「レオン。わたし、怖い。」


レオンを疑うわけではないけど、どうなるかわからない未来が怖くてたまらなかった。
レオンは静かに近づくと私の頬を包み込んだ。温かい。この温もりを失いたくなくて、レオンの手の上に手を置いた。レオンの額がこつんと私のおでこに当たる。


「大丈夫だよ。私は一度結んだ約束は違えない。前に話しただろう?この出会いには意味があると。だから、信じて欲しい。絶対に、何があってもここへ戻ってくるよ。」


言葉の一つ一つから私を思いやる気持ちが伝わってくる。レオンの澄んだ瞳には一点の迷いも曇りもなかった。


「うん。レオンを信じてる。信じて、ずっと待ってる。」 


私の返事に優しく微笑んだレオンはそれに、と続ける。


「私にはもうりりながいない人生なんて考えられない。」

「ふふ、私も。」


笑いながらだったけど、お互い心の底からの言葉だということは痛いほど伝わっていた。



レオンが帰る直前、もう一度抱きしめられた。いつもの抱擁よりもずっと強い力で、私も力いっぱい抱きしめ返す。
この温かさを、愛しさを一つたりとも忘れたくなかった。
レオンへの想いで胸が苦しくなった時、耳元で小さく「すまない。」と囁かれた気がした。

それは何に対して?

聞きたかったけど、返事が怖くて言葉にすることはできなかった。






失うのが怖いから、大事なものはもう作りたくないと思った。
でも、一度レオンと過ごした幸せを知ったら、今更手放すことなんてできるわけなかった。
あまりにも毎日が幸せすぎて、この幸せがずっと続くんじゃないかと錯覚してしまった。
無理やり目を逸らしていたけど、ほんとはずっとわかっていた。この世界には、どんなに祈ってもどうにもならない事があることを理解していたはずなのに。

 






今日は朝から雲一つない晴天が広がっていた。夜になっても風は穏やかで、細く光る三日月が東の空に浮かんでいる。


長針が19時を指し、ゆっくりと過ぎて行く。
秒針の音だけが部屋に響いていた。魔法陣が浮かぶはずの床を見つめ、身動きもせずじっと椅子に座り続ける。1時間、2時間と時間だけが過ぎて行って、これ以上時計を見たくなくてテーブルに腕を組んで顔を伏せた。耐えるように握り込んだ手のひらに爪が刺さって血が滲む。

窓の向こうにはいつもの夜景が広がり、空には僅かな星が瞬いている。三日月は天高く昇っていた。遠くからクラクションの音が聞こえる。



その日、レオンが現れることはなかった。


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