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◇
視界の先に広がっている空は、一面の黄昏色だ。太陽は、熟れた柿みたいに真っ赤になって、ビルの陰に身をひそめつつあった。
家を出てから、由佳はずっと走っていた。草履の鼻緒が、足の指の間に食い込んで痛い。和人と待ち合わせをした時間まであと十分。こんな大事な日にまで、要領が悪い自分を恨めしく由佳は思う。
やがて、待ち合わせをした神社の鳥居が見えてくる。
住宅街の一角に木々に困れた静謐とした場所があって、そこに神社があるのだ。赤くて目立つ鳥居は、待ち合わせ場所としてよく使われる場所だった。
鳥居の真下に和人がいた。シンブルな縦じまのデザインの浴衣を着ている。
「ごめん、待たせちゃった?」と由佳が声を掛けると、「いや、そんなに待っていないよ。俺は時間を守らないと落ち着かない主義だから、ちょっと早くきすぎただけ。むしろごめん」と和人は頭を下げる。逆に気を使わせてしまったかもしれない。
「へえ」
和人が視線を上から下まで動かして、由佳の体を舐めまわすように見た。
「馬子にも衣裳?」
「失礼だよ」
この日由佳が着てきたのは、紺色に、花火の柄があしらわれた浴衣だ。帯は、地味に見える浴衣の色と対比になって引き立てるように、鮮やかな赤を選んだ。
せっかく頑張って着付けしてきたのにひどい、と由佳は少しすねる。まあ、遅れたのはそのせいでもあるんだけど、なんて彼女が思っていると……。
「あはは、冗談だよ。似合っているじゃん、浴衣」なんて言ってくる。
「そうかな?」
「うん。……あれ? もしかして髪切った?」
「え、あっ、うん。毛先をちょっとそろえただけだけどね」
「だよねー。なんか違う気がしたんだよ」
こういう、ちょっとした変化に気付いてちゃんと褒めてくれるところが、なんというかズルいなって由佳は思う。この気付きが自分にだけ向けられていたらなって、そう考えてしまう。
熱を帯び始めた顔を隠すように由佳がうつむくと、タイミングを見透かしたように乾いた音が鳴った。花火大会の始まりを告げる、狼煙だ。
「あ、早くしないと花火始まってしまう。行こうぜ、由佳」
「うん」
音につられて彼の顔が逸れたのを安堵する間もなく、今度はがしっと手を握られた。
動揺している由佳に構うことなく、和人が彼女の手を引いて走り出す。私の心臓は、今日一日もつだろうか、とこっそり思う。
花火が炸裂する音。続いて鳴った、あられが散らばるような音。花火の音に合わせて、辺りが明るくなったり暗くなったりしていた。
花火の会場になっている河川敷は、普段閑散としている場所だとは思えないほど人が多い。ひしめき合う人の隙間をぬうようにして、二人で夜店を回った。
「由佳は何食べたい?」
「そうだなあ。綿あめとか?」
「はは、なんか子どもみたい」
「うるさいなあ。じゃあ、なんだったらいいのさ」
「お好み焼きとか?」
「私って、お好み焼きのイメージなの?」
「いや、ごめんごめん。でもさ、お腹空かない? 焼きそば買って食べようか?」
和人が指差した先にあったのは、焼きそばを売る屋台だ。思いの外並んでいる人が少なくて、早めに買えそうだった。
「いいね、焼きそばにしよっか」
「おう。俺がおごってあげるよ」
「いいの? ありがとう」
男の子らしい側面を、今日はいくつも見付けられるなあ、と由佳は思う。
ところが、並ぼうとした矢先にカップルと思しき男女二組に割り込まれて、思っていた以上に並ぶ時間が長くなった。
それでも無事買えて、河川敷の少し坂になっている草地のところに二人並んで腰を下ろした。浴衣が汚れるから、と言って、和人が下にハンカチを敷いてくれる。
「ありがとう」
こんな対応をされたのなんて初めてで、自分が女の子なのだと、由佳は急に意識させられてしまう。どんな対応をしたらいいのかわからなくて、「ありがとう」と言うしかできなかった。ちょっと子どもっぽいところがあるかもしれないけれど、和人はやっぱり優しいのだ。
綺麗だねーなんて言いながら、二人で焼きそばを食べた。
ソースの味が濃すぎて、そんなに美味しくないのかもしれないけれど、こうして二人で並んで食べると、各段に美味しく感じるのだから不思議だ、と由佳は思う。
フィーナレが近いのだろうか。花火が上がる感覚が短くなってきた気がする。大音響を上げて、次々と打ちあがる花火を並んで見上げていた。
紺碧の空に、色とりどりの花が次々と咲いた。
大音響に紛れて、
好きだよ。
と由佳は呟いてみる。
眩い光に照らされて、和人の顔が闇夜に浮かんだり消えたりしている。
「うん、なんか言った?」
「ううん。なんでもない」
今はまだ、聞こえないような小声でしか告白する勇気がないけれど、もっと自分に自信が持てる日がきたら、必ず言うからね、と由佳は思う。それまで、待っていてね。
それまで頑張るんだよ、私。
和人が話しかけてきたのは、花火のプログラムが全部終わり、会場中の人たちが帰路につき始めたときだった。
「ごめん。まだ時間あるかな? ちょっとだけ、二人で話したいことがあるんだけど」
人波から少し外れ、誰の目も届かないような場所で急にそう言われた。
なんだろう、と思いながら、「うん」と由佳は頷いた。
視界の先に広がっている空は、一面の黄昏色だ。太陽は、熟れた柿みたいに真っ赤になって、ビルの陰に身をひそめつつあった。
家を出てから、由佳はずっと走っていた。草履の鼻緒が、足の指の間に食い込んで痛い。和人と待ち合わせをした時間まであと十分。こんな大事な日にまで、要領が悪い自分を恨めしく由佳は思う。
やがて、待ち合わせをした神社の鳥居が見えてくる。
住宅街の一角に木々に困れた静謐とした場所があって、そこに神社があるのだ。赤くて目立つ鳥居は、待ち合わせ場所としてよく使われる場所だった。
鳥居の真下に和人がいた。シンブルな縦じまのデザインの浴衣を着ている。
「ごめん、待たせちゃった?」と由佳が声を掛けると、「いや、そんなに待っていないよ。俺は時間を守らないと落ち着かない主義だから、ちょっと早くきすぎただけ。むしろごめん」と和人は頭を下げる。逆に気を使わせてしまったかもしれない。
「へえ」
和人が視線を上から下まで動かして、由佳の体を舐めまわすように見た。
「馬子にも衣裳?」
「失礼だよ」
この日由佳が着てきたのは、紺色に、花火の柄があしらわれた浴衣だ。帯は、地味に見える浴衣の色と対比になって引き立てるように、鮮やかな赤を選んだ。
せっかく頑張って着付けしてきたのにひどい、と由佳は少しすねる。まあ、遅れたのはそのせいでもあるんだけど、なんて彼女が思っていると……。
「あはは、冗談だよ。似合っているじゃん、浴衣」なんて言ってくる。
「そうかな?」
「うん。……あれ? もしかして髪切った?」
「え、あっ、うん。毛先をちょっとそろえただけだけどね」
「だよねー。なんか違う気がしたんだよ」
こういう、ちょっとした変化に気付いてちゃんと褒めてくれるところが、なんというかズルいなって由佳は思う。この気付きが自分にだけ向けられていたらなって、そう考えてしまう。
熱を帯び始めた顔を隠すように由佳がうつむくと、タイミングを見透かしたように乾いた音が鳴った。花火大会の始まりを告げる、狼煙だ。
「あ、早くしないと花火始まってしまう。行こうぜ、由佳」
「うん」
音につられて彼の顔が逸れたのを安堵する間もなく、今度はがしっと手を握られた。
動揺している由佳に構うことなく、和人が彼女の手を引いて走り出す。私の心臓は、今日一日もつだろうか、とこっそり思う。
花火が炸裂する音。続いて鳴った、あられが散らばるような音。花火の音に合わせて、辺りが明るくなったり暗くなったりしていた。
花火の会場になっている河川敷は、普段閑散としている場所だとは思えないほど人が多い。ひしめき合う人の隙間をぬうようにして、二人で夜店を回った。
「由佳は何食べたい?」
「そうだなあ。綿あめとか?」
「はは、なんか子どもみたい」
「うるさいなあ。じゃあ、なんだったらいいのさ」
「お好み焼きとか?」
「私って、お好み焼きのイメージなの?」
「いや、ごめんごめん。でもさ、お腹空かない? 焼きそば買って食べようか?」
和人が指差した先にあったのは、焼きそばを売る屋台だ。思いの外並んでいる人が少なくて、早めに買えそうだった。
「いいね、焼きそばにしよっか」
「おう。俺がおごってあげるよ」
「いいの? ありがとう」
男の子らしい側面を、今日はいくつも見付けられるなあ、と由佳は思う。
ところが、並ぼうとした矢先にカップルと思しき男女二組に割り込まれて、思っていた以上に並ぶ時間が長くなった。
それでも無事買えて、河川敷の少し坂になっている草地のところに二人並んで腰を下ろした。浴衣が汚れるから、と言って、和人が下にハンカチを敷いてくれる。
「ありがとう」
こんな対応をされたのなんて初めてで、自分が女の子なのだと、由佳は急に意識させられてしまう。どんな対応をしたらいいのかわからなくて、「ありがとう」と言うしかできなかった。ちょっと子どもっぽいところがあるかもしれないけれど、和人はやっぱり優しいのだ。
綺麗だねーなんて言いながら、二人で焼きそばを食べた。
ソースの味が濃すぎて、そんなに美味しくないのかもしれないけれど、こうして二人で並んで食べると、各段に美味しく感じるのだから不思議だ、と由佳は思う。
フィーナレが近いのだろうか。花火が上がる感覚が短くなってきた気がする。大音響を上げて、次々と打ちあがる花火を並んで見上げていた。
紺碧の空に、色とりどりの花が次々と咲いた。
大音響に紛れて、
好きだよ。
と由佳は呟いてみる。
眩い光に照らされて、和人の顔が闇夜に浮かんだり消えたりしている。
「うん、なんか言った?」
「ううん。なんでもない」
今はまだ、聞こえないような小声でしか告白する勇気がないけれど、もっと自分に自信が持てる日がきたら、必ず言うからね、と由佳は思う。それまで、待っていてね。
それまで頑張るんだよ、私。
和人が話しかけてきたのは、花火のプログラムが全部終わり、会場中の人たちが帰路につき始めたときだった。
「ごめん。まだ時間あるかな? ちょっとだけ、二人で話したいことがあるんだけど」
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