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暗雲

第32話 王の責務

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 互いの体液によって濡れたソファの上で、旭陽が半分眠りの世界に沈みかけている。

 何度も触れるだけの口付けを繰り返せば、その度に閉じかけの瞼が持ち上がって頬や項を撫でられた。
 穏やかな空気に浸っていると、俺も少しずつ微睡みに近付いていく。

「旭陽」
「……んん……」

 なんだ、と薄い唇が声を伴わずに動きだけで囁く。
 かなり眠そうだが、まだ応えてくれる気はあるらしい。

 今なら、何でも尋ねられる気がした。
 答えが返ってこようが返ってこまいが、どちらでも良い。
 微睡みのなかの夢だと言い訳してしまえば、何だって訊いて良いんじゃないか。

「旭陽…………」
「……あきら……?」

 名前を繰り返すばかりの俺を疑問に感じたのか、とろんとした瞳がこちらに動いた。
 ゆっくりと瞬く黄金には、嫌悪も警戒もなく不思議そうな色だけが宿っていた。
 淡い熱が、瞳の奥で揺蕩っている。

「……いや」

 やっぱ、いいか。
 俺はこの男のことがずっと好きで、何があっても手放さないって決めてる。
 旭陽が何を思っていようと、俺の気持ちも決定も覆ることはないんだから。

「呼んだだけ」

 囁いて口付けを落とせば、旭陽が小さく喉を鳴らして瞼を下ろした。
 俺も体温の高い体に腕を回し、黒髪に顔を埋めて目を閉じる。




 ――夢を、見た。
 一糸纏わぬ褐色の体に、ぼやけた人影のような闇が無数に集っている。
 射干玉の髪が、逞しい四肢が、腰が、人の手を形どった闇に掴まれている。
 何かが滴る音がした。
 くたりとしな垂れた体が、成されるがままに揺れている。
 赤い液体が流れてくる。鉄錆の臭いが、鼻を突いた。




「――――ッ……!!」
 がばりと勢い良く跳ね起きる。

「あ?」
 手を突いている場所が微かに揺れて、聞き慣れた声音の疑問符が耳を打つ。

「……っ、……さ、ひ?」
 声が掠れる。
 殆ど音になっていない呼びかけに、整った相貌が至近距離で傾いた。

「ンだよ、晃」
 情事の跡を色濃く残した体を惜しげもなく晒して、旭陽が俺を不思議そうに見ている。

 その体にも表情にも、俺が知らない影は何も見えない。
 平然としている旭陽に触れているのは、男に覆い被さった状態で眠っていた俺だけだった。


 夢だ。
 夢だった。
 何の意味もない、不愉快なだけの悪夢。

「……はあ」

 自覚するなり、緊張していた全身から力が抜ける。
 ずるずると頭が下がって、体が前のめりになっていく。
 旭陽の腹に額がぶつかった。 

「ッア、っ!」

 途端に男の声が高くなって、反射的に顔が跳ね上がる。
 かっと頬を染めた旭陽が、何とも言えない表情で眉間に力を込めた。

「……腹に触んな」

 大きな手が、庇うように自分の腹部を覆う。

「ご、ごめん」

 反射的に謝罪が口を突いた。思わず腹部に乗った褐色の手を見つめてしまう。
 散々腹の中と外から、旭陽の弱いところを押し潰してはいたけど。今は何も入ってないのに、触られただけで感じたんだろうか……

 凝視し続けていると、視線が鬱陶しくなったらしい旭陽が腹に乗っていない手で俺の目元を塞いできた。

 視界が真っ暗になる。
 さっきまで見ていた夢が甦りそうになった時、呆れた声が闇を切り裂いた。

「何時まで見てんだ。後処理はしねえつもりか?」

「あ、あ? ぅ、ん、いや。ごめん、気持ち悪いよな」
 普段通りの声が、気味の悪い後味を拭い去っていった。

 ソファもお互いの体も行為の跡をそのまま纏っていることを思い出して、今度は俺の意志で謝った。
 旭陽の手が退き、さっさとしろと視線で告げてくる。

 長引かせれば機嫌が悪くなるとは理解していたが、俺の目を塞いでいた手が握っているものがあったことに気付いて意識を引かれた。

「何だ? それ」

 白い紙を指差す。
 褐色の指がひらりと揺れて、俺の前で紙をちらつかせてきた。

「何って、さっきアイツが置いてっただろ。新しい書類だとか言ってさぁ」

 まだ少し眠そうな男が、ひらひらと白を揺らす。
 受け取って紙を見れば、魚の不審死報告があったブレ村の調査結果だった。
 あ、破いてしまわないうちに床に落としたアレか……

 頭からすっかり抜け落ちていたことを反省しながら、書面に目を通していく。
 読み進めるにつれて、眉が寄っていくのを自覚した。

「…………スライムの異常繁殖?」
「らしいぜ」

 俺が呟いた言葉に、何やら面白がっている声が返された。
 肩に逞しい腕が回され、俺より大きな体が軽く凭れてくる。

「っ、旭陽……ッ」

 密着したことで、褐色の肌に散った多数の歯型やキスマークがはっきりと見えるようになった。
 熱がぶり返しそうで、思わず声が裏返る。

 気紛れな男は、今は俺の様子に興味がないようだ。
 さっきまで自分も読んでいた紙にばかり視線を向けている。

「面白え効果があるヤツも居そうだよなァ。少し取ってこさせりゃイイんじゃねえの」

 何やら随分と楽しそうだ。
 こいつが面白がっている時は、大抵碌なことがないんだよな。

 分かってはいるが、あまりにも近い端正な顔立ちについ見惚れてしまう。
 横顔をぼんやりと見つめていると、旭陽が何かおかしなことを言った。

「取ってこさせる……?」

 意味が分からなくて繰り返すと、黄金がこちらへ向いた。

「ぜんぶ始末させずに、一部は持って来させりゃ面白えんじゃねえかってこと。
 色々遊べそうじゃねえか」

 薄い唇が弧に歪み、くつりと笑い声を漏らした。
 始末…………始末!?

「スライムも魔族だぞ!?」
「そうだな。どうした?」

 思わず旭陽の肩を掴んでいた。
 俺が噛んだ跡が疼くのか、目の前の顔が僅かに眉を跳ねさせる。でもさっきほどではなかったらしく、平然とした表情は揺るがない。

 いや、どうしたって。魔王は魔族を統べる王なんだが!?

 この世界では、元の世界でモンスターと呼ばれるものも全て『魔族』だ。
 知性の高い低いはあっても、完全に理性のないモンスターなんてものは居ない。魔族は全て魔王に従う。
 つまり、スライムであろうが俺の民というわけだ。

 こちらのスライムは、地球のRPGのように定住地を持たず森や平原など様々な地域に生息する。
 税金なんてものも払っていない。
 その変わりに、町のスライムならばゴミを分解して清潔度を保つ役割を果たしている。
 森のスライムだと、草を吸収して体内で調合し、スライムにしか作れない薬を精製して森の至る場所に吐き出している。

 それぞれが魔王国の住民としての役割を持っている。
 無性で幾らでも増えてしまえるからと厄介者扱いされていたスライムたちに、ずっと昔の魔王が与えた、彼らだけの仕事だ。
 れっきとした国民を、何故王である俺が『処理』させなきゃいけないんだ!

「『魔力を食料とする新種スライムの異常繁殖によって、周辺地域の環境が崩れている』んだろ?」
 報告書を裏から軽く叩いて、旭陽が肩を竦めた。

「そうだけど、それは」

「まさか、可哀想だから全員保護するなんざ言わねえよなァ」

 すぅ、と黄金が鋭く細まった。

 近頃も見なかったわけではない。
 けれどここまではっきりと濃く滲んでいるのは、あっち・・・の世界以来だ。

 旭陽の唇に、嗜虐の笑みが乗る。

「王のめいを破った連中に、情けをかけてやるつもりか?」

 王の、命。
 スライムが勝手に一定数以上増えることは、代々の魔王が定めてきた禁令の一つだ。
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