あなたの愛に囚われて

六花瑛里

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3.コンペティション

5.決戦

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 コンペ当日の朝、千景は緊張で落ち着かず、提出資料の内容を確認したり、作品のデータを確認したりと落ち着かずにうろうろとフロアの中を歩いたりしていた。

 戦闘服で着慣れない紺色のスーツを身に纏い、いつも以上にキッチリとメイクも施している。

 コンペが始まるのは14時から。会社を13時に出れば余裕でD社に着く。
 その前に、最後のミーティングが10時からある。

 「雪村、目障りだから、ミーティングルームに行って思う存分、一人でうろうろして来いー」

 どこからともなく聞こえた課長の指示に、千景はすごすごとミーティングルームへ向かった。……目障りって…。

 今日のミーティングルームはクリエイティブ部門フロアの一つ下の階にあった。
 千景はエレベーターではなく階段を使って下の階に降りた。

 課長に言われた通りに、ミーティングルームの中をうろうろと歩き回る。
 窓のない狭い部屋の中を歩き回るのに飽きて、千景は階段を上って給湯室へ向かった。コーヒーを淹れて、階段を下ってまたミーティングルームへ戻る。

 狭い部屋の中をうろうろするより、階段の上り下りが良い運動になった。

 部屋に戻って、いつもと違うパンプスを脱ぎ捨てて、椅子の上で胡坐をかいてコーヒーを飲む。
 ノートPCを開いては、自分のデザインと睨めっこしてみた。

 いつもだが、出来上がったデザイン自信を持ってプレゼン出来る。今回のも気に入っているし、採用されると思っている。
 これを選ばなかったら…担当者の目が悪いと疑うしかない。

 千景はコンペで使うプリントアウトしたプレゼン用の説明文を何度も読み返す。頭の中に入っているのだが、一字一句確かめるように読み返す。

 「早いですね」

 ドアが開く音に顔を上げれば、佐伯が部屋に入ってきた。

 「おはようございます」

 千景は軽く頭を下げた。

 「おはようございます」
 「落ち着かなくてフロアをうろうろ歩いてたら、課長にここでうろうろしろって言われてしまって……」

 千景は苦笑した。
 佐伯はプロジェクターを起動して、ノートPCと繋げている。

 「緊張してますか?」
 「はい。佐伯さんは緊張してないんですか?」
 「してますよ。勝ちたいしね」
 「獲りにいきましょう!」

 千景は拳を上げて気合を入れた。

 最後のミーティングは舞台の通し稽古のように、本番同様にプレゼンを行った。時間内に何度も繰り返して、流れを頭の中に叩きこむ。

 一回終わるたびに、どこが良くてどこが悪かったかをチーム内のメンバーで意見を出して、悪いところは具体的にどこがダメだったのかを話し合い修正するところはきちんと修正する。

 ミーティングが終わったら、チーム全員で社長室に呼ばれている。
 なんでも、社内会議の時に覗いていたらしく、コンペに興味を持たれたらしい。社内会議後に社長から資料が欲しいと部長を伝って佐伯の所に話が行ったらしく、社長用に資料を纏めるのが大変だったと佐伯がぼやいていた。

 社長から直接激励を承り、チームメンバーのテンションは今までにないくらい高くなっていた。
 千景はさらに緊張が高まり、落ち着こうにも落ち着けない。

 エレベーターを待つよりも階段でクリエイティブ部門のフロアへ下ることにした。
 佐伯も緊張しているようで、千景に付き合ってくれるとのこと。

 二人は階段の踊り場に出た。
 出て、目の前の光景を見て、千景の時間が止まった。

 そこには芹澤が居て、葉子も居た。二人は折り重なるように抱き合っていた。
 普段、滅多に誰も使わない階段。人目がない階段。人目を忍ぶように抱き合う、葉子と芹澤。
 芹澤の手が葉子の腰を抱いていて、葉子の手が芹澤の肩に触れている。
 葉子は髪をかき上げて、芹澤から離れた。人の気配に気づいたのか、視線を芹澤から外せば…そこに千景が居た。

 「千景!」

 葉子の声に芹澤が振り向いた。
 芹澤とも目が合って、千景の時が動いた。

 「あ、ごめん」

 何が、ごめん、なのだろうか?

 逃げ出したくても足が動かなくて、どう動かせばいいのか忘れたのかもしれない。
 足だけじゃなくて、呼吸の仕方も忘れたのか、上手く息が吸えない。
 身体中の血液が逆流しているか、それともどす黒い何かが自分の身体の中を這っているのか、もう何も分からなくなっていた。

 ただ、芹澤の手が伸びてきたのが見えた。スローモーションのようにゆっくりと千景に向かって伸びてくる。それが凄く怖くて足が震えた。

 「雪村さん、」

 芹澤の手が千景に触れる前に、佐伯に腕を引かれ階段の踊り場から廊下へと走り出す。

 「千景っ!」

 誰かが自分を呼ぶ。

 エレベーターに向かえば、そこには誰も居ないのに、ちょうどエレベーターの扉が閉まろうとしていた。
 そのまま閉まる扉を擦り抜けて、千景と佐伯はエレベーターに乗った。扉が閉まり、佐伯が下の階のボタンを叩けば、すぐにエレベーターは降りていく。

 エレベーターに乗る時に追ってくる芹澤が見えた。……なんで私を追うの?

 「思わず、雪村さんを引っ張ってエレベーターに乗ってしまいました」

 佐伯は肩で息をしながら苦笑した。

 ……佐伯さんの声が凄く遠い。

 「雪村さん?」

 佐伯が何か喋っているが、千景の耳には届いていない。
 何度も何度も、二人が抱き合う光景が浮き上がる。息が上手く吸えない。

 完結したはずの恋なのに、納得したはずなのに……どうして今もなお、こんなにも胸を締め付けるのだろうか。

 「雪村さんっ!」

 両肩を掴まれて大きく一回揺さぶられた。
 虚ろだった千景の視線が、佐伯を捉える。

 「さ、えき…さん?」
 「しっかりして下さい!これから何があるのか分かってますか!」

 目の前で佐伯が大きな声で千景に怒鳴った。……これから…何がある?

 「コンペ……」
 「そうです。大事なコンペがあります」

 満足いく出来のデザインを思い出して、千景は漸く息を吸えた気がした。

 「里香を呼びます。メイクを里香に直してもらいましょう」

 そう言って、佐伯はスマホとハンカチを取り出した。ハンカチは千景に渡す。千景はハンカチを受け取ったはいいが、どうしたらいいのか分からずにいた。

 「里香?悪いけど、今から言うものを持って、指定する場所まで来てくれないか」

 佐伯はハンカチを持ったまま動かない千景に気づき、千景からハンカチを取って千景の顔に押し付けた。慌ててハンカチを押さえた。ハンカチが濡れて滲む。
 漸く、自分が泣いていることに気づき、ハンカチを貸してくれた理由が分かった。

 閉じかけのエレベーターに滑り込むように乗ったのは、あの恋活パーティー以来。
 あの日の夜、芹澤さんと甘いだけの夜を過ごした。

 肌を重ねた日と、階段での光景が交互に浮かんできて、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。

 「ああ、そう。出来れば、上手く誤魔化して来てほしい。特に、秘書の牧村さんには気づかれるな。誰にも気づかれずに雪村さんの荷物を持って……あ、プレゼンの資料を忘れるなよ。あと、雪村さんにメイクを直してほしい」
 「ふっ……っく…」
 「え?雪村さんの声が聞こえる?一緒にいるからね。とにかく、事情は会って話すから、なるべく早く頼む」

 電話を終えて、佐伯はスマホを内ポケットに仕舞った。スマホのバイブレーションの音が聞こえるが、佐伯は着信相手を確認してそのまま内ポケットに入れた。
 千景の涙が止まることなく流れ落ちる。
 佐伯は嘆息した。

 あの階段でのワンシーンと千景の状態から予想はつく。予想はつくし、同情もする。
 だから、佐伯はあの場から千景を連れ出した。

 これから勝負をしに向かうというのに、と佐伯の中で苛立ちが募る。

 エレベーターが1階に着き、千景の手を引いてエレベーターを降りた。佐伯は正面の出入り口ではなく裏口へ向かった。裏口の方には営業車が置いてある。

 佐伯は鳴りやんだスマホを内ポケットから取り出して、このコンペのもう一人の営業担当に電話する。

 「すまないが、雪村さんと昼を食べてから直接D社へ向かう。出発予定時間に他のメンバーを連れてきてくれ」

 もう一人の営業担当は佐伯の後輩。佐伯は手短に用件のみ伝えて、了解の返事をもらうとすぐに電話を切った。

 またすぐに電話が鳴った。胸ポケットにあるスマホではなく、スーツの左側のポケットに入っているスマホが震えている。こっちに入っているのはプライベート用のスマホだ。
 左手でポケットを探って、スマホを取り出してディスプレイに表示された名前を確認して、またポケットに戻す。

 相手は葉子で、今から運転中になるので電話には出られない。放っとけば、留守電に切り替わるし、話の内容は予想出来た。

 素早く車に乗り込み、車を発進させる。
 会社を出れば、あとはもう何も起こらないだろう。そう思いながら、佐伯はハンドルを操作する。
 ルームミラーで後方にチラリと芹澤の姿が映ったが、気にせず裏門から会社を出た。



 佐伯は運転しながら千景を見た。

 彼女は使えるのか?と考えた。混乱した状態でコンペに参加出来るのか?最悪、彼女を外して代役を立てるか?
 今から代役を用意するのは難しい。相手の心証を得るには原稿を読むだけではダメだ。

 無意識にハンドルを握る手に力が入る。

 よりによって今日、目撃しなくてもいいじゃないか。
 コンペ以降ならば、目撃するのは明日でも良かった。

 良い案が思いつかず、佐伯は目的地として選んだ場所へ車を走らせた。




 目的地に着いて、佐伯は車を止めて降りた。助手席側に回ってドアを開ける。

 「雪村さん、降りてください。少し早いですが、お昼にしましょう」

 佐伯に言われたままに千景は車を降りた。そのまま誘導されてお店に入る。
 店内はまだ誰も客がおらず静かだった。

 「知り合いの店です」

 店の奥へと歩く佐伯の後に続く。

 「落ち着きました?午後からが本番です。その前に腹ごしらえしましょう」
 「いえ、私は……。お腹が空いてないので…」
 「食べないとダメですよ。ちゃんと食べれば力が出る。今のあなたのままではコンペで負けます」

 佐伯に言われて、千景はこのお店で一番のお勧めだというランチを頼んだ。
 頼んだ後、千景は席を立って化粧室に入った。




 洗面台の鏡に映る酷い顔の自分。涙でメイクが落ち、泣いたせいで目が赤く腫れて、顔色も悪い。
 ぐちゃぐちゃの顔を見て、改めて酷いなと自嘲して笑った。。

 あの時、佐伯が隣に居てくれて本当に良かった、と思った。彼に腕を引かれなかったら、竦んだ足であの場から動くことも出来なかった。

 目に焼き付いたあの光景が何度も何度も蘇る。

   「千景、私…芹澤社長と付き合うことにしたの」
   「悪いな。俺の本命は葉子なんだ」

 「いやっ!」

 嘲笑うように聞きたくない言葉が聞こえる。実際、何も言われてないのに、千景の心は悪い方へと考えてしまう。……葉子は、そんな子じゃないっ!

 否定しても、いづれはそんな事を二人に言われるのではないかと思うと怖くて堪らない。
 千景の心から流れ出たドロッとした黒い感情が涙となって溢れる。呼吸が上手く出来ない。


  「これから何があるのか分かってますか!」

 エレベーターでの佐伯の叱責が一筋の光のような気がした。

 千景は洗面台に手をかけ、目を閉じた。

 払っても払っても、あの階段での光景が頭から離れない。

 そうだ、午後からコンペがある。自分達の作ったデザインを自信を持ってプレゼンしないといけない。
 真っ白になった頭の中に、何度も読み込んで頭の中に叩き込んだ活字が浮き上がってくる。

 完全に忘れたわけじゃない。何度も何度も繰り返し読んで覚えた。デザインも、チームのメンバーで何度も何度も意見を出し合って作り直して、堂々と出せる素敵な作品になった。 

 ここで、私が足を引っ張るのはダメだ。
 積み重ねてきた私の信頼。小さくても一つでも転がれば…全てが崩れ落ちる。それだけは、絶対にダメだ!
 今まで築き上げたモノを自分の手で壊すの?
 勝ち取ってきたモノまで全部なくしたいの?

 しっかりしろっ!雪村千景!!

 何度も自分に言い聞かせる。佐伯に「負ける」と言われた時、鈍器で殴られたように痛かった。たまに彼の言葉は千景の胸を抉るように痛みを伴う時があるが、さっきのあれは千景に対する叱咤だ。

 目をゆっくり開けて、千景は鏡に映る自分を見た。

 「あんたが足を引っ張るの?あんたが全てを台無しにするの?全力で挑まないでどうすんのよ!」

 必死で鏡の中の自分に縋った。

 忘れるのが無理なら、無理やり忘れなくていい。ただ、今だけ心の奥底に沈めておけばいい。深くふかく沈めればいい。
 沈んでいく想い。深い底へと落ちて、もう浮かんでこないようにと祈った。

 「あんたが今やらなきゃいけないことは何?」

 そう、私のやらなきゃいけないことは―――。

 千景は大きく息を吐いた。

 「よしっ!」

 千景は気合を入れ直して化粧室を出た。




 「あ、千景先輩のランチ、来てますよー」
 「里香ちゃん?」

 里香が千景に向かって大きく手を振っている。
 佐伯は千景の顔色が少し戻ったのを見て、黙ってランチを食べている。

 「里香ちゃん、どうしたの?」
 「先輩とランチして、先輩のメイクをしに来ました」

 あ…、と千景は思った。そういえば、メイクが剥げていた。

 「でも、会社を抜け出して大丈夫?」
 「課長に、午後休の許可をもらったので問題ないです」
 「まずは、食べながら目を冷やしましょう。お店の人にお願いして氷を頂きました。どうぞ」
 「ありがとう」

 目の腫れのことを何も聞かずに、里香は氷が入った袋をタオルで巻いたものを千景に渡した。
 それを受け取って、目を冷やしながら箸を握った。

 何を頼んだのか分からなかったが、千景の席にローストビーフ丼が置いてあった。

 「ここのローストビーフ丼は美味しいんですよ。私も、先輩と同じものにしちゃいました」

 里香は千景の隣の席に座って嬉しそうに笑う。

 コンペで落ちた時もだけど、里香の明るい振る舞いに助けてもらっていた。
 励ましてくれるし、徹夜の時は気遣ってくれるし、常に慕ってくれる。
 見た目と話し方で、他の女の子から誤解を受けやすいが、大して気にしていないように見える。

 「美味しい!」
 「ですよね!」

 一口食べれば、美味しくて思わず声が出た。
 食欲が出ないと思っていたが、美味しくて箸が進む。

 千景は、全部完食した。
 ボリュームがあったが、余裕で完食出来た。
 お腹が満腹になり、単純だけど心が満たされた。

 食って、大事なんだと思った。
 どんな時でも、しっかり食べれば活力になる。

 食後に頼んだ紅茶を飲んで、至福で息を吐いた。
 隣に座る里香は、ごそごそと自分のバッグの中を探ってはテーブルの上に色々並べた。

 「さぁ、メイクの時間ですよー」

 里香はニヤリと、不穏な笑みを浮かべた。
 

 「千景先輩、この方が自信に満ちているように見えますよ」
 「「おお!」」

 里香のメイクが終わって目を開けて手鏡で確認すると、さっきの酷い顔が蘇っていて千景と佐伯は思わず感嘆の声を上げた。
 朝のと全然違う人になっていた。……自分でやったメイクより、こっちの方がナチュラルだけどキリっとしている。

 「里香ちゃん、ありがとう。凄く助かったよ」
 「千景先輩の為なら、私、頑張ります!」

 とても心強い後輩。でも、来月末で退職してしまうのは凄く残念でならない。

 「里香ちゃんが来月で退職しちゃったら、寂しくなるね」

 何気なく言った一言に、里香は千景の手を取った。

 「千景先輩!私が必要ですか?」
 「そんなの、必要に決まってるじゃない」
 「里香、ちょっと待って」
 「私が居なくなったら本当に寂しいんですか?」
 「里香ちゃんが居なくなるのは凄く寂しいよ」
 「里香、落ち着けよ」

 すくっと、里香が立ち上がる。

 「千景先輩、私……課長に退職を取り止めれるか聞いてみます。千景先輩が私を必要としてくれてるなら……私、会社を辞めません!」
 「里香!」

 拳を握って宣言する里香を佐伯は慌てて止めに入った。そして、何故か千景を睨む。

 「雪村さん、不用意に余計なことを言わないでくれ」
 「え?」
 「千景先輩に怒鳴らないでっ」

 何やら千景を間にして、おかし気な方向に話が進んでいく。
 佐伯は頭を抱えて座り直した。

 「里香の優先順位は、雪村さんが絡むと誰よりも雪村さんが1番になるんだ」
 「はい?」
 「当り前でしょう。千景先輩が一番大事だもん」

 里香は千景の腕に自分の腕を絡ませた。

 「千景先輩が男だったら、絶対に恋人になるのに……千景先輩の股間に何も無いから佐伯さんと付き合うことにしたんです」

 サラッと凄い単語をぶっこんだ里香に千景は驚いて何も言えなくなった。

 「だから、結婚と同時に退職させようと……それを、あなたが余計なことを言うから」

 佐伯は千景を見据えた。
 何度も見たことがある佐伯の冷ややかな眼つきと態度。……これは、もしかして……。


 里香ちゃんが私に嫉妬していたのではなくて、佐伯さんが私に嫉妬していたってこと!?


 二人のやり取りを思い出して、千景は考えを改めた。
 同性の後輩に慕ってもらうのは悪い気はしない。里香は純粋に千景を敬っているだけに思えた。


 異性から嫉妬されるのはどうかと思うが、股間に付いてなくて良かった。……女に生まれて良かったー。

 「千景先輩、私、明日にでも課長に相談してみますね」
 「その前に、僕と相談してくれ」
 「和義さんは、反対するから相談にならないもん」

 つん、とそっぽを向く里香に佐伯は困った顔をした。

 二人の関係は仲が良い。里香が佐伯を想うより、佐伯の方が里香を大切に想っているように見える。
 葉子から奪ったという噂から、里香の方が佐伯を強く想っているんだと思っていた。

 「あの、こんなことを聞くのもどうかと思うんですが、佐伯さんは葉子と付き合っていたんですよね?」
 「僕と葉子は親戚同士で昔からよく知っているし仲も良い。葉子の就職先が同じ会社と分かって、会えば世間話をするし、小さいころから知っているから、僕と葉子を取り巻く雰囲気も、知らない人から見れば付き合っているように見えたんだろうね」
 「私、葉子先輩は嫌い」

 またもや里香がサラッとぶち込んできた。

 「里香が嫌いなのは、雪村さんと同期で仲が良いからだろう」

 佐伯が苦笑する。

 「彼女が入社した時は、美人が入社したって会社中の男どもが騒いでいて、色々と迷惑してて困っていたから、付き合っているっていう噂を流して僕が風除けになったんだ。まぁ、それも……」

 佐伯は里香を見た。千景もそれにつられて里香を見る。

 「里香と出会うまでの話だけどね。里香には悪い噂の的になってしまって悪いと思っている」
 「別に気にしてない。葉子先輩の男を奪ったっていうのは気持ちがいいもん」
 「里香ちゃん……」

 鼻で笑う里香を千景と佐伯は苦笑した。

 千景と葉子は入社した当時、葉子は男性社員の好奇な目で見られ、一方的な好意に迷惑していた。ある時を境にピタッと止まったのだが、それが佐伯のおかげだったとは知らなかった。

 「あれ?付き合っていなかったのなら、葉子はどうして佐伯さんに『捨てられた』って言ったんだろう」
 「あいつ、そんなこと言ったの?そんな嘘、絶対に言わないのに」

 何か腑に落ちない点が出てきて、千景は首を捻った。


 付き合っていないなら、わざわざそんなことを私に言わなくてもいいはず。


 「千景先輩、そろそろD社に向かわないと…」

 里香が時計を見て、千景に声を掛けた。


 そうだ。勝負の時間だ。


 千景は気を引き締めて立ち上がった。




 営業車に乗り込むと、佐伯はどこかに電話をしていた。
 営業車の後部座席に里香も乗り込む。

 「あ、そうだ。千景先輩、スマホ落としましたよね?」
 「え?あっ!」

 スーツのポケットに入れていたスマホが無い。

 「本当は届けたかったんですが…葉子先輩の手に渡ってしまいました」
 「……そうなの」

 今一番会いたくないが、スマホを預かっているなら明日にでも会わないといけない。
 千景は気が重くて嘆息した。

 「すみません」
 「里香ちゃんが謝ることじゃないよ。落とした私が悪いんだから」

 「お待たせしました。出発しましょう」

 運転席のドアが開き佐伯が乗って、車は動き出した。




 車内で千景は資料を読み込んでいた。

 「顔色が戻ったようで良かったです」
 「里香ちゃんのメイクのおかげです」

 千景と佐伯は、お互い顔を見ずに話す。

 「今回は、色々とご迷惑をお掛けしました」
 「謝罪も感謝も、コンペが終わってからにしてください」

 佐伯の淡々とした口調は嫉妬からきている。そう思うと、千景は笑えてきた。



 佐伯はD社の正門前に止めてある黒塗りの高級車を確認した。

 何も言わずにD社の正門をくぐり、来客者用の駐車場に車を止める。隣にある車が自分の会社の営業車だと確認して、正門の方を見た。

 動きはない。

 もう一人の営業担当へ電話して、D社に到着した旨を伝える。

 「さぁ、降りましょう。里香は、エントランスで待っていて」
 「はーい」

 里香から受け取った自分の荷物を持って、千景は車から降りて入り口の玄関に向かう。
 目の端に芹澤のような姿が映ったが、千景は気に留めず中に入った。

 受付の前にメンバーが待っていた。

 受付を済まし、コンペが行われる部屋へと案内される。
 そこには既に、奥山達が居て準備を始めていた。
 奥山が千景に気づいて、駆け寄ってきた。……イケメンの皮を被ったタヌキめ。

 「佐伯さん、今日はよろしくお願いします」
 「奥山さん、正々堂々とよろしくお願いします」

 営業の爽やかな笑顔の応酬に、千景が驚いてのけぞった。奥山のは見たことがあるが、佐伯の笑顔はほとんど見たことがない。たぶん、最後に見たのはコンペの話が出た時かもしれない。

 「あまり姑息な手は使わない方がいいですよ」
 「何のことですか?」

 さらりとすっ呆ける奥山。二人の間で飛び散る火花が怖い。千景は二人から離れた。

 緊張で手が震える。
 千景は息を吐いた。
 誰かの前で発表するのは昔から苦手だった。人前に出るのが怖い。上手く喋れる自信もない。

 千景は冷たくなった指先を何度も擦った。
 それでも、立ち向かわなければならない。


 ジャガイモジャガイモジャガイモ。ここにいるのは、ジャガイモとニンジンとタマネギ。今夜はごはんはカレーライス。ここにある食材を使ってカレーを作って食べる。


 千景はいつも通りに呪文を唱えた。不思議と落ち着ける、彼女だけの魔法の言葉。
 この呪文を唱えた後は、家に帰ってカレーを作る。


 ジャガイモジャガイモジャガイモ。ここにいるのは、ジャガイモとニンジンとタマネギ。今夜はごはんはカレーライス。ここにある食材を使ってカレーを作って食べる。


 「今夜はカレーライスですか。面白いですね。僕は何の食材ですか?」

 声に出ていたらしく、佐伯に真顔で突っ込まれた。
 笑わずに真顔で対応してくるところが憎らしい。
 魔法の呪文を佐伯に聞かれてしまい、ジト目で彼を見た。

 会議室にぞろぞろとスーツを着たD社の社員が入ってきた。

 「さぁ、始まりますよ」

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