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本編 〝弘〟視点
12/21 好転反応
しおりを挟むわたしと晋矢さんの間に、触れるだけの穏やかな口づけと、抱きしめられる以上の触れ合いがないまま、一月が過ぎた。
秋が深まり、空が高くなっていく。
青さを増していく空を見ると、幸せな気持ちになる。
理由なんて一つしかない、晋矢さんがいてくれるから。
秋はアンニュイな季節だ、なんていう人もいるけれど、わたしは違うと思う。
実りの秋、運動の秋、芸術の秋、なんでもない言葉が〝秋〟にくっつくと、やけに活動的になるから。
わたしは一年の中で秋が一番好きだ。
朝晩の冷え込みで体調を崩すことがあるので、注意する必要はあるけれど、スーパーなどで季節の野菜が安くなっていくのを見ると、平和を実感してしまう。
春は風が強すぎて、黄砂と花粉の影響で体調が悪い。
夏は湿度が高いだけで過ごしにくいと感じて、体を動かしにくいと思うと、気持ちが落ち込む。
冬は日照時間が少ないからなのか、曇っていると憂鬱なままで終わってしまう。
秋晴れのからりとした空気が心地よい。
青空もだけれど、夕暮れの赤く染まった空を見るたびに、今の幸せを思う。
全て、晋矢さんがわたしにくれたものだ。
自分でも信じられないような仕事のミスが減って、上司に何かあったのかと声をかけられた。
いつまで側にいてくれるか分からない晋矢さんに迷惑をかけたくないので、秋なのでご飯が美味しいです、と答えたら嘘ではないと判断されつつも、呆れられた気がする。
急性アル中事件の後で、出来損ないだと踏まえた上で採用してもらい、働いている今の会社は、能力者未満者の支援団体がバックについていると聞いた。
能力を扱いきれずに苦しみ、社会に溶け込めない人々を支援しているので、定期的に報告書を能力者管理の団体に提出している。
上司の声かけがそれの一環だとしても、晋矢さんをわたしの問題に巻き込みたくない。
望んだ仕事ではないけれど、問題があった時に相談窓口に駆け込みやすいので、とても助かっている。
何よりも、不安定な時期でも、見守ってもらえる。
彼と一緒に過ごしていた時には、相談できなかったけれど、わたしが高校生の彼を巻き込んだのがいけなかったのだ。
彼と一緒にいるときは、ずっと幸せなんだ、と自分に言い聞かせていた。
彼がわたしを救ってくれるはずだ、と。
間違っていた。
わたしが彼を追い詰めてしまった。
傷つけてしまった。
詫びをして済む問題なのか分からないけれど、いつか彼に……いいや、憲司くんに、謝りたいと思う。
わたしのような男に、君の時間を使わせてしまって、本当にすまなかった、と。
もちろん二度と会いたくないと言われたら、諦めるつもりだ。
謝ればなんでも許してもらえると思うほど若くない。
二人で一緒に泥沼に沈んでいくような閉塞感に、どうして気づかなかったのだろう。
目の前に晴天が広がっているのを知りながら、ゆっくり沈んでいくことが普通だと思っていた。
「弘さん」
「こんばんは、晋矢さん」
金曜日の夜、晋矢さんがアパートに泊まりに来る。
時々は、わたしが泊まりにも行く。
始めて一緒に過ごした三日目の買い物で、わたしの家での寝泊まり用にと寝袋を買おうとする晋矢さんを止めたのは、わたしにとっては良い思い出だ。
家の中なのに寝袋?と。
若いのにわたしよりもしっかりしていて、完璧に見える晋矢さんの、意外な一面を見た気がした。
晋矢さんはわたしの部屋に私物を残さないように、と気を使ってくれているけれど。
わたしから言い出して、布団を一組増やした。
……未だに、一度も使われていないけれど。
なぜか、いつもわたしを抱き込んで、狭っ苦しい体勢で眠りたがる晋矢さんに、いつか聞かないといけない。
おじさんの加齢臭、気になりませんか?と。
自分の頭が脂臭い気がして、シャンプーを男性加齢臭対策のものに変えたし、頭皮洗浄用とかいうブラシも使うようにした。
仕事に行く前に熱めのお湯を浴びて、皮脂由来の匂いを洗い流す習慣をつけた。
これで、対策が十分だという自信はない。
芳香剤や香水や洗剤の匂いが強いと、それだけで頭痛がするから、匂いを消す方向にしか動けないのが辛い。
「今日の夕食は、秋刀魚の塩焼きをメインにして、ひじきの煮付けと厚揚げのそぼろあんかけにしようと思います」
「とても美味しそうです」
優しい晋矢さんは、食費を払いますと言ってくれるけれど、年上で社会人の矜持として、それだけは断固として断っている。
そもそも、そんなに高い食材を使っているわけでもない。
若い晋矢さんがたくさん食べてくれるので、月に一万円少々食費が増えたくらいだ。
常にウインナーやハム、調理済みチルド食材のストックが必要なくなったので、突発的に憲司くんが来ていた頃よりも安く済んでいる。
食べずに期限が近づいたそれらを、苦労して消費する必要もなくなった。
わたしの自己流料理を、美味しいと食べてくれる晋矢さんを見られるのに、月に一万円なら安すぎる。
わたし自身の食事は量も品数も少なくて良いけれど、若くて格闘技を習っている晋矢さんには栄養が必要だ。
メインの他に副菜を二つ用意することにした。
それ以上の品数は、時間とわたしの手際の問題で増やしづらい。
「手伝わせてください」
そう口にした晋矢さんが、シンクで手を洗っている間に、鍋や食材を取り出す。
まるで、新婚夫婦が二人で食事を用意しているような、胸の奥がくすぐったくなるような、言葉にしづらい気持ちになるのは、いつものことだ。
憲司くんを傷つけたように、晋矢さんを追い込んではいけない。
分かっているのに、気持ちが止められない。
晋矢さんなら、わたしを助けてくれるかもしれない。
違う。
誰かに助けてもらおうなんて、おこがましい。
自分を救えるのは自分だけだ、自分の敵はいつでも自分だ。
これは、誰の言葉だったかな。
そう思いながら、油抜きする厚揚げを冷蔵庫から取り出した。
夕食を終えた後は、食休みを挟んでからお風呂に入る。
もちろん、別々にだ。
わたしがシャンプーなどを他人に使われたくないと思っている、と考えているらしい晋矢さんは、トラベルサイズのお風呂セットをいつも持ってきてくれる。
自分のものと他人のものを、しっかりと区別したいのは本当なので、何も言えない。
三、四十路加齢臭対策シャンプーとボディソープで構わなければ、使ってもらって良いのだけれど。
加齢臭を気にしていると知られるのが、情けないし恥ずかしいので言えていない。
いいや、お風呂場に置いてある時点で、見られているかもしれない。
週末を一緒に過ごしていても毎週ではないし、晋矢さんとの間に常に会話があるわけでもない。
それでも、室内の雰囲気は穏やかで、かといって、倦怠期の夫婦のように、晋矢さんを空気のような存在と感じているわけでもない。
近くにいてくれることを意識すると、なぜか心臓が激しく動き出してしまうので、晋矢さんのことを考えないようにしている。
お風呂を出て、交代で晋矢さんが入ってから。
食後に二人で食器を片付けているので、することがなくなった。
賑やかしにテレビでもかけようかな、と思って立ち上がり。
そして。
ふわり、と晋矢さんの香りを感じた。
脱いでハンガーにかけてある薄手のジャケットから、晋矢さんの香りがする。
虫が炎に吸い寄せられるように。
ふらふらと近寄り。
ジャケットを手に取った。
深く深く、胸いっぱいに香りを吸い込むと、くらくらする酩酊感を覚える。
心地よい。
なんて良い匂いだろう。
始めて一緒に過ごした時以来、晋矢さんは寝る時以外はわたしに触れないようにしてくれている。
寝る時だけ抱き締められて、そっと、触れるだけの口づけをする。
わたしのパーソナルスペースを大事にしてくれている。
自分が野良猫になったような気がするけれど、晋矢さんの優しさが胸に染み入る。
あゝ、もっと嗅ぎたい。
晋矢さんの香りを。
夢中になって、ジャケットを抱きしめて深く呼吸をする。
なぜか、どこかが疼く。
何も考えられなくなっていく。
気持ちいい。
好きだ。
もっと欲しい。
「弘さん?」
「っっ!!」
まずい、と冷や汗が全身に噴き出した。
自覚のないまま、どれだけの時間、晋矢さんのジャケットを抱きしめていたのか。
だって気持ち悪いだろう。
お風呂に入っている隙に、若者のジャケットをクンクン嗅いで、興奮する三十過ぎ男性。
わたしだったら、そんな不審者には近づきたくない。
晋矢さんの方を向けなくて、でも、ジャケットを何もなかったように戻すこともできなくて、どうしようと焦る。
「弘さん」
背後から、いつもと同じ穏やかな声が降り注ぐ。
お風呂上がりで、いつもよりも暖かい腕が腹部へ回されたことで、みぞおちあたりで交差された腕の力強さを感じてしまう。
逃げないといけないのに、逃げられない。
どうして、抱きしめてくれるのか?
こんな気持ちの悪いわたしを。
「し、晋矢さん」
「はい」
「ごめんなさい」
するりと口から出たのは謝罪の言葉だった。
でも、ひどい。
申し訳ありませんとか、他に言いようがあるだろう!と言いながら思ってしまう。
子供かよ、と。
「弘さん、なぜ謝るんですか?」
「なぜ、って、気持ち悪いじゃないですか、おじさんがかっこいい若者の服の匂い嗅いでうっとりするとか気持ち悪いでしょう!!」
晋矢さんに見捨てられたくない。
こんなに心穏やかに過ごせた日々なんて、これまでには一度もなくて。
わたしの人生から晋矢さんがいなくなったら、また前みたいに、焦って慌てて、周囲に迷惑ばかりかける自分に戻ってしまう気がして。
腹の奥がずしりと重くなる。
胃の中に石を詰め込まれたように重くなって、心臓がズキズキと締め付けられるように痛い。
怖い。
晋矢さんがいなくなったら、どうしよう。
見捨てられたら、どうしよう。
「いいえ、気持ち悪くありません。
弘さんは、俺を格好良いって思ってるんですか?」
「……っっ、っ」
ひく、ひく、と震える喉を手のひらで押さえて、なんとかしゃくりあげそうなのを耐えた。
声が出せなくて、頷くことしかできなかった。
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