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03 口吸い
しおりを挟むがさがさに乾いて、皮がむけて、ひび割れている唇が、おれの口に触れた。
かさぶたが当たって、ちくりと痛む。
ぺろりと舐められて、慌てて開いたままだった目を閉じた。
ふ、ふ、と触れるだけの唇。
「子をもうける時は本性でむつみあう必要があるが、今は仮の姿でよかろう」
かさついた声。
おれよりも小さな体。
近づかれると鼻の穴しか見えなくなる巨体が、どうやって人の姿をとっているのか。
その疑問を口にする余裕は、すぐになくなった。
「我の本性では、其方の口は吸えぬからの」
触れるだけだった口付けが、ちゅ、と音を立てるようになり、常に触れ続けるようになるまで、時は必要なかった。
文字通り口を吸われている。
触れて、かすめて、時折は優しく癒すように、なでるように。
おれの両ほほに添えられている指先はしわだらけで割れて、皮膚がむけて、爪も剥がれているようなのに、痛みを感じていないのか。
口と口で言葉もなく、ただ繋がりあう。
静かに、けれど確かに。
寝床でまどろんでいる時のように、ひどく穏やかな気持ちになった。
ちゅ、と微かな音だけが、聞こえる。
苦しみと悲しみが癒やされる。
覚えていないのに、おれは苦しくて悲しかったのか。
「良いか、其方はこの時より我の唯一無二である、他の者に情を向けるでないぞ」
どうやら、ペルディディ・コル・メウムは、かなり独占欲が強いらしい。
あれ、いいや、違うな。
独占欲じゃない。
唐突に思い出した。
頭の中に記憶を叩き込まれた、というのが正しいのか。
〝龍は本能的に番を専有しようとする〟
……りゅう?
龍!?
龍の番って……つまり、人で言うところの伴侶のことか?
驚いた。
どうしておれはペルディディ・コル・メウムが龍だということすら、気がつかなかったのか。
ぼろぼろでも美しい姿をずっと見ていた、一目で龍だと気が付いたはずなのに。
いくらなんでも忘れすぎだ。
どうして、思い出せないんだ。
返事として小さく頷く。
口付けを受けているのに、声を出して良いのか分からなくて。
「楽しみにしておるが良い、我の傷が癒えたら、其方の望みを叶えてやろう」
ぼろぼろの顔で、ペルディディ・コル・メウムは無邪気に笑った。
初めて見た笑顔は、正面から見られないほど尊く見えた。
儚くて力強い、相反する美しさだ。
その姿は不確かで、子供とも老人とも見えるのに。
おれは何も知らないのに、龍が尊い存在だと知っている。
この御方に近づいて良いのかと不安になる。
ぼろぼろの龍。
傷だらけで歪んでいるのに。
「慈しんでやろう、おいで」
おれの目の前にいるのが、傷だらけの死にかけている存在だと理解しているのに、逆らえない。
美しくて醜い、おれの龍。
おれだけの龍。
触れるだけの口付けで疲れてしまったのか、次に気がついたら寝床に横になっていた。
ペルディディ・コル・メウムはいない。
体を起こして、ようやく持ち上げられるようになった腕を、指先から肩口まで調べる。
時々、忘れているのに引っかかりを覚える。
ここに傷跡があったはず。
折れた骨が、皮膚の外に出てしまった跡がない。
何度も折られて、骨が歪んでいたはずなのに。
記憶にないのに思い出す。
なぜ傷を負ったのか思い出せないのに、傷があったことだけを。
気持ち悪いなと思いながら、両腕の検分を終える。
そして理解した。
記憶にない過去のおれの腕は、傷だらけだったようだ。
今、目の前にある腕はつるんとしている。
もちろん体毛はあるし、筋肉も関節も男だけれど、傷は一つもない。
問題は、自分の腕がどう見ても戦う男の腕には見えないことだ。
ひょろっとした、筋肉の少ない腕。
それなのに傷だらけ?
過去の自分が何者だったのか。
分からなくて怖い。
「起きたか」
「あ、おはよう」
「ふむ、馴染んだな」
会話をするようになって気がついたけれど、ペルディディ・コル・メウムには明らかな欠点がある。
圧倒的に説明が足りない。
勝手に理解して、進めようとする。
今のところ、それでお互いに被害が出ていないので、指摘したことはないけれど。
口数が少ないと言うより、言葉が足りない……のか?
「なにが馴染んだって?」
「番となり、お互いの痛みと傷を埋めあっているのだ」
すとん、と柔らかな寝床に降り立った姿は、いつのまにか人の形になっていた。
「……ぁ」
声にならなかった。
白と灰色の混ざっていた髪は、いつのまにか濃い灰色になっていた。
ぼさぼさで長さの不揃いな髪は、まだぱさついているけれど、龍の姿の時のひげのように、風もないのにふわふわとなびいている。
濁った瞳からは、曇りが少し消えたようだ。
それでもまだ、元の瞳の色は見えない。
ぼろぼろだった肌は血色を濃くして、皮膚を失い肉の見えていた箇所が減っている。
それでも、まだ、年齢も性別もわからない。
「数千の年月を経ても治らなんだのに、番を得たことで痛みは失せた、全て其方のおかげだな」
ゆったりとした笑みと泰然とした様子が、本心から喜んでいることを教えてくれた。
その言葉から、老人なのかな、と思った。
「やっぱり痛かったのか、早く聞けばよかったな」
「其方が責を負うことではない」
「それでも、ずっと痛そうだなと思ってた」
姿を見るたびに、どうして全身が打ち砕かれたようにぼろぼろなのか、と思っていた。
おれが眠たかったことと、痛がる様子がなかったから、聞けなかっただけで。
「さすがに折れた尾ばかりは、痛くてのぅ」
「……そうなんだ」
低空を飛ぶ時に、ずるずると引きずっていた長い尾は、人の姿では生えていなくて、どうなっているのか分からない。
痛みがあったのか、と思うと胸がちくりと痛んだ。
それなら、おれがここに落ちた時に、すぐに番とかいうものにすれば良かったのに、と思ったことを見抜かれたようだ。
初めて見た時から、惹かれていた。
きっと、断らなかった。
「四肢を失い、胴体に穴が空いた其方を、どうして番にできよう。
我は心穏やかになった其方から、求められたかったのだ」
その言葉に、血の気が下がった。
くらくらする感覚の中で、幸せだと思っていた気持ちが凍りつくようだった。
おれは呑気に、ずっと眠って起きてと過ごしていたけれど、ペルディディ・コル・メウムは違ったのだ。
優しくしてくれたのは、期待していたからなのか。
「其方を掌中之珠にと望んでも、我ができることは少ない。
現世では、死に損ないであるからの」
「おれがペルディディ・コル・メウムの傷を癒せるなら、もっとはや」
「いいや」
言葉を遮られる。
濁った瞳に見つめられた。
おれの口元へ伸ばしてきた指先は、まだ痛々しくひびわれていた。
「常世を出られぬ深き傷を我が魂に与えたのは、嘘をついた番である。
表向きだけ番になることを望みし悲しき者により、我が魂は引き裂かれた」
よく分からない。
番というのは伴侶ではないのか。
「一方的な想いを募らせても傷つけるだけ、我が其方を望むように、其方にも我を望んで欲しい。
そのために待つ日々であれば、甘露でしかあるまいて」
「ペルディディ・コル・メウム」
「……其方の口を吸うて良いだろうか」
濁った瞳がゆっくりと細められて、口元が笑みになる。
小さな体躯が、おれの上に覆い被さった。
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