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それからの僕は凄く調子が良くて、あれだけ嫌だったのに夏休み中に活動している間に楽しくなって気付けば撮影も一話分、無事に終わった。先輩達も褒めてくれてなんかちょっと、悪くない気分になる。
そして夏休みの出来事はもう一つ。ただ清太と一緒にいる時間が欲しいって理由で、僕も叔父さんの店でバイトさせてもらった。部活がない時間だからそんなに多くはないけど、貰ったお金で清太と出かけられたらいいな…なんて思ったりしてる。
そんな慌ただしい夏休みは一瞬で過ぎ去り、二学期が始まった。
「マジで一瞬だったな…。夏休み」
移動教室へ向かう準備をしながら、僕に向かって空が項垂れた。それを懐かしく思った僕は「そうだね」と自然に笑みが溢れた。夏休みの間も全く会わなかったわけじゃない。でも空も部活とか姉さんと出掛けたりとかで殆ど会えなかったから、何となく久しぶりな感じがする。
教科書と筆箱を抱えて教室を出る。
「でも姉さんから聞いたよ?新人戦、出られそうって」
僕の言葉に「そうなんだよ!」といつもの太陽みたいな笑顔が輝く。
「マジで頑張った!でもまだ気は抜けないけど」
にっこりという言葉は空の笑顔の為にあるんじゃないかってくらいぴったりで、僕は釣られて笑顔になる。
「じゃあ気合い入れなくちゃね」
三階から一階へと続く階段を降りている時だった。僕の言葉のあと本当に一瞬、空が階段から落ちそうになるのがわかった。その瞬間、咄嗟に僕の頭で沢山の事が駆け巡る。ほんの僅かな一瞬の間に、空が落ちたらどうしようとか、空が落ちて怪我したらあんなに楽しみにしていた試合に出られなくなるとか、ずっと笑ってて欲しいとか。そう考えていたら僕の視界には気付けば天井が広がっていて後頭部に強烈な痛みを感じた。視界もぼやけて音も濁ってる。それでも視界の端に空が見えて安心したまま意識を手放した。
気が付いた時、僕の視界には天井が広がっていた。頭には柔らかな感触。体にはふわっとした布団がかけられている。保健室かな、と思い辺りを見渡そうとして体の痛みに気付く。後頭部にまだズキズキとした痛みが残っていて、あぁやっぱり落ちたんだ…と再確認した。起き上がろうとしたけど、体も痛くてそれは叶わなかった。かろうじて動く首を少しずつ右に向けると何かがぶら下がっていた。
点滴…?
管を辿ると自分の右腕につながっていた。
あぁ、ここは病院なんだ。
視線を天井に移してゆっくりと瞬きをする。
ざわざわとするような感じがして左側を向くとベテランのような看護師さんがやってきた。僕が看護師さんの質問にいくつか答えると「大丈夫そうですね」と告げて病室を出て行った。その頃にはもう意識もはっきりとしていて、体も痛いけど少し動かせるくらいにはなっていた。
ゆっくりと体を起こして辺りを確認する。4人部屋の病室の扉側が僕のベッドのようだ。
空は大丈夫だったのだろうか…。
それに今はあれからどのくらい経っているのだろうか。外が明るいところを見るとまだそんなには経ってないのかもしれない。
すたすたと早足で廊下を歩く足音が聞こえる。そちらへ視線を向けると女の人が病室へと入ってきた。
「彼方!」
小さく、それでも驚くように僕の名前を呼んだ。
「母さん」
潤んだ瞳で僕の方へと近付いて力強く抱きしめられた。
「よかった…本当によかった…」
震えた声で言う母さん。本当に心配してくれていたんだろう。それにしても…。
「い、痛いよ」
強く抱きしめられているせいで背中が痛む。
「ごめんごめん。でも本当によかった、彼方が無事で」
離れた母さんは涙を手で拭いながら笑顔を見せた。病室の扉の向こうからもう一人の女性がひょこっと顔を出した。
「彼方、無事でよかった」
「姉さんも来てくれてたんだ」
心配そうに眉を下げた姐さんが母さんの隣に並ぶ。
「あんたが病院に運ばれたって大慌てだったんだから」
困ったような、安心したような顔で僕の手を握る。
「ごめん。でもありがとう」
僕が笑うと二人は安心したみたいに笑った。
「お父さんにはさっき連絡したからもうすぐ来ると思う」
「わざわざいいのに…」
「バカ言わないの。丸一日も寝ててお父さんだってもの凄く心配してたんだから」
母さんが僕の肩を軽く叩く。
「そんなに経ってたの…?ごめん、心配かけて」
僕の言葉に首を横に振った母さんは「それより」と言葉を続けた。
「何があって階段から落ちたの?」
そう聞かれて僕は言葉に詰まる。
「あ!ねぇ、お母さん。そういえばさっきナースステーションに来てって言われてたんだった」
姉さんが少しだけわざとらしく母さんに言った。「そうなの?」と言いながら病室を出ていく。その後姿を見送った姉さんが「ありがとう…」とひとこと頭を下げた。
「空のこと、庇ってくれたんでしょ?」
驚いて黙る僕に姉さんは言葉を続ける。
「空から聞いたの。色々…。本当にありがとう」
姉さんに頭を下げられるのなんていつぶりだろう。なんかくすぐったくて僕は小さく首を横に振った。
「体が勝手に動いちゃっただけなんだ」
頭を上げた姉さんは不思議そうに僕を見つめた。
「空にはサッカー頑張って欲しいし。試合、出られなくなったら悲しむかなって、それだけ」
「それだけって…」
困ったような、呆れたような、それでも嬉しそうな顔をしてそう呟いた。もう一度、「本当にありがとう」と頭を下げた時、父さんを連れた母さんが病室に入ってきた。心配そうな顔の父さんに「大丈夫」と声をかけると、少しだけ安心したみたいだった。
それから30分ほど話し込んで三人は「また明日来るね」と帰っていった。
一人になると途端に寂しくなる。…何か虚しい感じがするのは何故なんだろう。
静かな病室に聞こえてくる一つの足音。少し早足のその音は僕の病室の前で止まって、その持ち主が慌てたように病室を覗いた。
眉を下げたその人物は僕の顔を見て一瞬、目を見開き安心したように微笑んで近付いてくる。
「よかった…」
一言そう呟いて僕の手を握った。僕はされるがままで、ただその吸い込まれそうな漆黒の瞳を見つめる。
「本当によかった…。彼方に何かあったら俺…」
僕を見ていたその瞳を伏せて、ゆっくりと僕の手を握るその手を自分の額に寄せた。何も言えずにいる僕を不思議に思ったのかゆっくりと顔を上げて、「彼方…?」と僕の名前を呼んだ。
「まだ痛むか…?」
その言葉に僕は何も返さずただじっと綺麗な瞳を見つめる。
「彼方…?」
微笑んでいたのが段々と眉が下がっていき眉間に皺が寄る。不安そうな顔で僕の名前を再び呼んだ。
「ごめんなさい…」
僕が謝るとさらに眉をひそめてただじっと僕を見つめる。
「あの、僕のお友達…ですか?」
僕の言葉に目を見開いて「…は?」と本当に漏れたように発した。僕の手を掴んでいた手が力無く離れて僕の肩を強く掴んだ。
「何、言ってるんだ…?」
「本当にごめんなさい!僕、本当にあなたのことわからなくて…」
僕がそっと視線を逸らすと肩を優しく揺さぶって僕の顔を覗き込んだ。
「なに…言ってるんだ…?」
振り絞ったみたいに言葉を出す。悲しそうな苦しそうな表情をして、今にも泣き出しそうにその瞳は潤んでいる。
僕は耐えられなくて俯く。そんな僕を覗き込んで、また怪訝な顔をした。
「ふふ…」
ちらりと横目で見たその顔は僕が今まで見たこともない、驚くような不安そうな、悲しむような顔をしていた。
「あはは!」
「何、笑ってるんだ…?」
「くく…。ごめん。記憶失くしたフリしようとしたんだけど…やっぱりダメだ…」
どんな反応をしてくれるのか気になってつい、出来心が働いてしまった。悪いとは思っていたけど抑えられなかった。でも、こんな顔をさせてしまうならしなければよかったかもしれないけど。
「お前なぁ…」
呆れたような、怒ったようなそんな顔をしている。
「本当にごめん。…怒った?」
僕の問いかけには答えず優しく抱きしめられた。
「どうしようかと思った」
「え?」
「本当に俺のことわかんなかったら…」
抱きしめられる力がきつくなる。
「い、痛いよ…」
打ったであろう背中が抱きしめられて痛む。「ごめん」と慌てて離れる清太の顔は凄く辛そうにしていた。そんな顔させてしまったのは僕のせいだ。凄く最低なことをした。
「本当にごめん…」
僕は清太の右手を両手でぎゅっと握った。僕の言葉にふるふると首を横に振った。
「いいんだ。彼方が無事だっただけで」
眉を下げたまま笑う清太。そんな清太に申し訳ないと思いながらもどうしても聞きたくなってしまった。
「ねぇ清太…?」
僕が呼びかけると不思議そうな眼差しで僕を見た。
「僕が、本当に清太のこと忘れちゃってたらどうする…?」
僕のその問いに清太は悲しそうに目を伏せた。
「僕が清太のことわからなくて、僕たちが、その…コイビト‥だってことも忘れちゃってたら…?」
僕は他の人たちに聞こえないように、清太にだけ聞こえるくらいの声でそう問いかければ、伏せた瞳を上げて僕の目をしっかりと見た。
「また、好きになってもらえるように頑張るよ」
その言葉と共に優しい笑顔をくれた。
「…もし、好きになってもらえなくても、隣に居られるならそれでいい」
寂しそうに笑う清太の手をさらに強く握った。
視界が滲んでいく。
なんでこんなこと聞いちゃったんだろう。僕はそんな顔させたかったわけじゃない。
僕は首を大きく横に振った。
「僕、絶対忘れたりしない。他の誰を忘れたって、清太の事だけは絶対忘れたりしない!」
涙が溢れないように堪えて、清太の瞳を見つめた。清太は目を見開いて、僕の手を握り返してくれた。
「清太のこと、忘れたくない。大好きだから」
僕の言葉に何も言わないまま清太は僕の手をきつく握った。
「ごめんね。変なことしちゃって、清太を傷つけた…。本当にごめんなさい」
堪えていた涙が俯くと同時に一気に溢れ出した。ぽたぽたと落ちる雫は白い布団にシミを作る。そんな僕の頭に優しく手を乗せて、ぽんぽんといつものように撫でてくれた。
「気にするな。俺は大丈夫だから」
その言葉に、行動にまた涙が溢れ出る。涙が止まらない。
「大丈夫か?」
僕の涙を遮るみたいな声が聞こえた。涙で濡れた顔を上げると、空が驚いたように立っていた。
「わ!どした?清太になんかされたか?」
交互に僕たちを見て凄く驚いている。
「違う、違う!安心しただけ」
「そっか…」
そう呟くと空は清太に目配せするみたいな視線を投げた。それを受け取ったみたいに清太が僕の手を離す。
「じゃあ、また明日来るから。ちゃんと休めよ」
ぽんぽんと最後にまた頭を優しく撫でて病室を出て行った。「ありがとう」と言うと小さく手を振ってくれた。
その背中を見送って空が勢いよく頭を下げた。
「ごめん!俺を庇ったせいでこんなことになって…」
「空!気にしないでよ!気付いたら体が勝手に動いてただけなんだから…」
僕は両手をブンブンと振って気にしないでとアピールする。顔を上げた空は本当に申し訳なさそうに僕を見た。
「あのとき庇ってくれなかったら、俺、もう試合には出られなかった。本当にごめん」
もう一度空は深く頭を下げる。
「空」
僕が呼びかけると今にも泣きそうな顔で頭を上げた。空のそんな顔、初めて見た。いつも笑顔で快晴みたいな空が、雨が降る前の曇り空みたいに。
「申し訳ないって思うなら、僕を全国大会に連れてってくれない?」
僕の申し出に空は「え?」と不思議そうに目を開いた。
「僕のおかげで試合出られるんだし、絶対、全国行って」
僕の言葉に空の表情が段々明るくなる。僕の意図を汲み取ってくれたようで、いつもみたいな大きな笑顔を見せて「ああ」と明るく言った。
「絶対、全国行く!任せろ!」
それから面会時間の終わりが来て空は「また来るからな」と帰って行った。
空が怪我してなくて本当によかった…。あの笑顔が消えなくて本当に…。体のいたるところがズキズキと痛むけど、空が悲しむよりは全然いい。
静かになった病室で再び布団に包まった。
入院は検査を含めて1週間。友達や先輩達が代わる代わる来てくれて意外と寂しさは感じなかった。冴島さんが大袈裟に泣きながら来てくれたのを、ちょっと笑ってしまったのは申し訳なかったけど。
家族と清太は毎日来てくれた。『忙しいんだから来なくていいよ』と断ったのに、清太はバイトの時間をずらしてまで来てくれた。それが本当に嬉しくて幸せだった。
退院してからも清太は大袈裟なくらい世話を焼いてくれた。登下校の時はもちろん休み時間まで一緒にいてくれて助かったけど、体ももう治ってきていたし本当に申し訳なかった。なんというか…凄く過保護だ。
空はより一層、部活に力が入ったみたいで自主練もトレーニングも増やしたみたいだった。本当に全国行って欲しいな。
それから一か月。僕の体はもう痛むところもなくて、検査でも問題ないと言われた。部活のみんなからは凄く心配されたけど、ようやく本格的に部活を再開することができたことが本当に嬉しい。
そして夏休みの出来事はもう一つ。ただ清太と一緒にいる時間が欲しいって理由で、僕も叔父さんの店でバイトさせてもらった。部活がない時間だからそんなに多くはないけど、貰ったお金で清太と出かけられたらいいな…なんて思ったりしてる。
そんな慌ただしい夏休みは一瞬で過ぎ去り、二学期が始まった。
「マジで一瞬だったな…。夏休み」
移動教室へ向かう準備をしながら、僕に向かって空が項垂れた。それを懐かしく思った僕は「そうだね」と自然に笑みが溢れた。夏休みの間も全く会わなかったわけじゃない。でも空も部活とか姉さんと出掛けたりとかで殆ど会えなかったから、何となく久しぶりな感じがする。
教科書と筆箱を抱えて教室を出る。
「でも姉さんから聞いたよ?新人戦、出られそうって」
僕の言葉に「そうなんだよ!」といつもの太陽みたいな笑顔が輝く。
「マジで頑張った!でもまだ気は抜けないけど」
にっこりという言葉は空の笑顔の為にあるんじゃないかってくらいぴったりで、僕は釣られて笑顔になる。
「じゃあ気合い入れなくちゃね」
三階から一階へと続く階段を降りている時だった。僕の言葉のあと本当に一瞬、空が階段から落ちそうになるのがわかった。その瞬間、咄嗟に僕の頭で沢山の事が駆け巡る。ほんの僅かな一瞬の間に、空が落ちたらどうしようとか、空が落ちて怪我したらあんなに楽しみにしていた試合に出られなくなるとか、ずっと笑ってて欲しいとか。そう考えていたら僕の視界には気付けば天井が広がっていて後頭部に強烈な痛みを感じた。視界もぼやけて音も濁ってる。それでも視界の端に空が見えて安心したまま意識を手放した。
気が付いた時、僕の視界には天井が広がっていた。頭には柔らかな感触。体にはふわっとした布団がかけられている。保健室かな、と思い辺りを見渡そうとして体の痛みに気付く。後頭部にまだズキズキとした痛みが残っていて、あぁやっぱり落ちたんだ…と再確認した。起き上がろうとしたけど、体も痛くてそれは叶わなかった。かろうじて動く首を少しずつ右に向けると何かがぶら下がっていた。
点滴…?
管を辿ると自分の右腕につながっていた。
あぁ、ここは病院なんだ。
視線を天井に移してゆっくりと瞬きをする。
ざわざわとするような感じがして左側を向くとベテランのような看護師さんがやってきた。僕が看護師さんの質問にいくつか答えると「大丈夫そうですね」と告げて病室を出て行った。その頃にはもう意識もはっきりとしていて、体も痛いけど少し動かせるくらいにはなっていた。
ゆっくりと体を起こして辺りを確認する。4人部屋の病室の扉側が僕のベッドのようだ。
空は大丈夫だったのだろうか…。
それに今はあれからどのくらい経っているのだろうか。外が明るいところを見るとまだそんなには経ってないのかもしれない。
すたすたと早足で廊下を歩く足音が聞こえる。そちらへ視線を向けると女の人が病室へと入ってきた。
「彼方!」
小さく、それでも驚くように僕の名前を呼んだ。
「母さん」
潤んだ瞳で僕の方へと近付いて力強く抱きしめられた。
「よかった…本当によかった…」
震えた声で言う母さん。本当に心配してくれていたんだろう。それにしても…。
「い、痛いよ」
強く抱きしめられているせいで背中が痛む。
「ごめんごめん。でも本当によかった、彼方が無事で」
離れた母さんは涙を手で拭いながら笑顔を見せた。病室の扉の向こうからもう一人の女性がひょこっと顔を出した。
「彼方、無事でよかった」
「姉さんも来てくれてたんだ」
心配そうに眉を下げた姐さんが母さんの隣に並ぶ。
「あんたが病院に運ばれたって大慌てだったんだから」
困ったような、安心したような顔で僕の手を握る。
「ごめん。でもありがとう」
僕が笑うと二人は安心したみたいに笑った。
「お父さんにはさっき連絡したからもうすぐ来ると思う」
「わざわざいいのに…」
「バカ言わないの。丸一日も寝ててお父さんだってもの凄く心配してたんだから」
母さんが僕の肩を軽く叩く。
「そんなに経ってたの…?ごめん、心配かけて」
僕の言葉に首を横に振った母さんは「それより」と言葉を続けた。
「何があって階段から落ちたの?」
そう聞かれて僕は言葉に詰まる。
「あ!ねぇ、お母さん。そういえばさっきナースステーションに来てって言われてたんだった」
姉さんが少しだけわざとらしく母さんに言った。「そうなの?」と言いながら病室を出ていく。その後姿を見送った姉さんが「ありがとう…」とひとこと頭を下げた。
「空のこと、庇ってくれたんでしょ?」
驚いて黙る僕に姉さんは言葉を続ける。
「空から聞いたの。色々…。本当にありがとう」
姉さんに頭を下げられるのなんていつぶりだろう。なんかくすぐったくて僕は小さく首を横に振った。
「体が勝手に動いちゃっただけなんだ」
頭を上げた姉さんは不思議そうに僕を見つめた。
「空にはサッカー頑張って欲しいし。試合、出られなくなったら悲しむかなって、それだけ」
「それだけって…」
困ったような、呆れたような、それでも嬉しそうな顔をしてそう呟いた。もう一度、「本当にありがとう」と頭を下げた時、父さんを連れた母さんが病室に入ってきた。心配そうな顔の父さんに「大丈夫」と声をかけると、少しだけ安心したみたいだった。
それから30分ほど話し込んで三人は「また明日来るね」と帰っていった。
一人になると途端に寂しくなる。…何か虚しい感じがするのは何故なんだろう。
静かな病室に聞こえてくる一つの足音。少し早足のその音は僕の病室の前で止まって、その持ち主が慌てたように病室を覗いた。
眉を下げたその人物は僕の顔を見て一瞬、目を見開き安心したように微笑んで近付いてくる。
「よかった…」
一言そう呟いて僕の手を握った。僕はされるがままで、ただその吸い込まれそうな漆黒の瞳を見つめる。
「本当によかった…。彼方に何かあったら俺…」
僕を見ていたその瞳を伏せて、ゆっくりと僕の手を握るその手を自分の額に寄せた。何も言えずにいる僕を不思議に思ったのかゆっくりと顔を上げて、「彼方…?」と僕の名前を呼んだ。
「まだ痛むか…?」
その言葉に僕は何も返さずただじっと綺麗な瞳を見つめる。
「彼方…?」
微笑んでいたのが段々と眉が下がっていき眉間に皺が寄る。不安そうな顔で僕の名前を再び呼んだ。
「ごめんなさい…」
僕が謝るとさらに眉をひそめてただじっと僕を見つめる。
「あの、僕のお友達…ですか?」
僕の言葉に目を見開いて「…は?」と本当に漏れたように発した。僕の手を掴んでいた手が力無く離れて僕の肩を強く掴んだ。
「何、言ってるんだ…?」
「本当にごめんなさい!僕、本当にあなたのことわからなくて…」
僕がそっと視線を逸らすと肩を優しく揺さぶって僕の顔を覗き込んだ。
「なに…言ってるんだ…?」
振り絞ったみたいに言葉を出す。悲しそうな苦しそうな表情をして、今にも泣き出しそうにその瞳は潤んでいる。
僕は耐えられなくて俯く。そんな僕を覗き込んで、また怪訝な顔をした。
「ふふ…」
ちらりと横目で見たその顔は僕が今まで見たこともない、驚くような不安そうな、悲しむような顔をしていた。
「あはは!」
「何、笑ってるんだ…?」
「くく…。ごめん。記憶失くしたフリしようとしたんだけど…やっぱりダメだ…」
どんな反応をしてくれるのか気になってつい、出来心が働いてしまった。悪いとは思っていたけど抑えられなかった。でも、こんな顔をさせてしまうならしなければよかったかもしれないけど。
「お前なぁ…」
呆れたような、怒ったようなそんな顔をしている。
「本当にごめん。…怒った?」
僕の問いかけには答えず優しく抱きしめられた。
「どうしようかと思った」
「え?」
「本当に俺のことわかんなかったら…」
抱きしめられる力がきつくなる。
「い、痛いよ…」
打ったであろう背中が抱きしめられて痛む。「ごめん」と慌てて離れる清太の顔は凄く辛そうにしていた。そんな顔させてしまったのは僕のせいだ。凄く最低なことをした。
「本当にごめん…」
僕は清太の右手を両手でぎゅっと握った。僕の言葉にふるふると首を横に振った。
「いいんだ。彼方が無事だっただけで」
眉を下げたまま笑う清太。そんな清太に申し訳ないと思いながらもどうしても聞きたくなってしまった。
「ねぇ清太…?」
僕が呼びかけると不思議そうな眼差しで僕を見た。
「僕が、本当に清太のこと忘れちゃってたらどうする…?」
僕のその問いに清太は悲しそうに目を伏せた。
「僕が清太のことわからなくて、僕たちが、その…コイビト‥だってことも忘れちゃってたら…?」
僕は他の人たちに聞こえないように、清太にだけ聞こえるくらいの声でそう問いかければ、伏せた瞳を上げて僕の目をしっかりと見た。
「また、好きになってもらえるように頑張るよ」
その言葉と共に優しい笑顔をくれた。
「…もし、好きになってもらえなくても、隣に居られるならそれでいい」
寂しそうに笑う清太の手をさらに強く握った。
視界が滲んでいく。
なんでこんなこと聞いちゃったんだろう。僕はそんな顔させたかったわけじゃない。
僕は首を大きく横に振った。
「僕、絶対忘れたりしない。他の誰を忘れたって、清太の事だけは絶対忘れたりしない!」
涙が溢れないように堪えて、清太の瞳を見つめた。清太は目を見開いて、僕の手を握り返してくれた。
「清太のこと、忘れたくない。大好きだから」
僕の言葉に何も言わないまま清太は僕の手をきつく握った。
「ごめんね。変なことしちゃって、清太を傷つけた…。本当にごめんなさい」
堪えていた涙が俯くと同時に一気に溢れ出した。ぽたぽたと落ちる雫は白い布団にシミを作る。そんな僕の頭に優しく手を乗せて、ぽんぽんといつものように撫でてくれた。
「気にするな。俺は大丈夫だから」
その言葉に、行動にまた涙が溢れ出る。涙が止まらない。
「大丈夫か?」
僕の涙を遮るみたいな声が聞こえた。涙で濡れた顔を上げると、空が驚いたように立っていた。
「わ!どした?清太になんかされたか?」
交互に僕たちを見て凄く驚いている。
「違う、違う!安心しただけ」
「そっか…」
そう呟くと空は清太に目配せするみたいな視線を投げた。それを受け取ったみたいに清太が僕の手を離す。
「じゃあ、また明日来るから。ちゃんと休めよ」
ぽんぽんと最後にまた頭を優しく撫でて病室を出て行った。「ありがとう」と言うと小さく手を振ってくれた。
その背中を見送って空が勢いよく頭を下げた。
「ごめん!俺を庇ったせいでこんなことになって…」
「空!気にしないでよ!気付いたら体が勝手に動いてただけなんだから…」
僕は両手をブンブンと振って気にしないでとアピールする。顔を上げた空は本当に申し訳なさそうに僕を見た。
「あのとき庇ってくれなかったら、俺、もう試合には出られなかった。本当にごめん」
もう一度空は深く頭を下げる。
「空」
僕が呼びかけると今にも泣きそうな顔で頭を上げた。空のそんな顔、初めて見た。いつも笑顔で快晴みたいな空が、雨が降る前の曇り空みたいに。
「申し訳ないって思うなら、僕を全国大会に連れてってくれない?」
僕の申し出に空は「え?」と不思議そうに目を開いた。
「僕のおかげで試合出られるんだし、絶対、全国行って」
僕の言葉に空の表情が段々明るくなる。僕の意図を汲み取ってくれたようで、いつもみたいな大きな笑顔を見せて「ああ」と明るく言った。
「絶対、全国行く!任せろ!」
それから面会時間の終わりが来て空は「また来るからな」と帰って行った。
空が怪我してなくて本当によかった…。あの笑顔が消えなくて本当に…。体のいたるところがズキズキと痛むけど、空が悲しむよりは全然いい。
静かになった病室で再び布団に包まった。
入院は検査を含めて1週間。友達や先輩達が代わる代わる来てくれて意外と寂しさは感じなかった。冴島さんが大袈裟に泣きながら来てくれたのを、ちょっと笑ってしまったのは申し訳なかったけど。
家族と清太は毎日来てくれた。『忙しいんだから来なくていいよ』と断ったのに、清太はバイトの時間をずらしてまで来てくれた。それが本当に嬉しくて幸せだった。
退院してからも清太は大袈裟なくらい世話を焼いてくれた。登下校の時はもちろん休み時間まで一緒にいてくれて助かったけど、体ももう治ってきていたし本当に申し訳なかった。なんというか…凄く過保護だ。
空はより一層、部活に力が入ったみたいで自主練もトレーニングも増やしたみたいだった。本当に全国行って欲しいな。
それから一か月。僕の体はもう痛むところもなくて、検査でも問題ないと言われた。部活のみんなからは凄く心配されたけど、ようやく本格的に部活を再開することができたことが本当に嬉しい。
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