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第8話:この世界が滅んでも
しおりを挟むアルベールの魔力が、悠斗の目の前でかつて見たこともないほど激しく暴走していた。城全体が悲鳴を上げるように軋み、壁に走る亀裂はまるで生き物のように蠢いていく。
窓の外では、鉛色の空がさらに不吉な色に染まり、地鳴りのような雷鳴が響き渡った。それはもはや自然の音ではなかった。魔王としての力が、この世界そのものを歪ませていた。
城の周囲の空間は、まるで熱を持ったガラスのようにゆらゆらと揺らめき、やがて目に見えるほどに歪み始める。悠斗の視界の端で、空が裂けるように不気味な光を放ち、その裂け目からは、この世界には本来存在しない、虚無のような闇が覗いていた。
大地は大きくうねり、城の土台が激しい音をたてて沈んでいく。まるで、この世界そのものが、アルベールの暴走する魔力に耐えきれずに、崩壊の淵へと引きずり込まれていくかのようだった。
アルベールは、両手で頭を抱え、獣のような唸り声を上げ続けていた。彼の銀髪は完全に漆黒に染まり、瞳は血のような赤に変色している。
その瞳の奥には、もはや悠斗が知るアルベールの理性の光はほとんど残されていなかった。そこにあるのは、破壊衝動だけ。放たれる魔力が、悠斗のいる部屋すらも容赦なく変形させていく。
床が傾き、壁が捻じれ、家具が次々と宙に浮き上がっては、形を失い砕け散った。
「ぐぅ……あああぁぁぁ……っ!」
アルベールの呻き声は、もはや人間のそれではない。魔力の奔流は容赦なく悠斗の体を叩きつけた。吹き飛ばされそうになる身体を、彼は床に手をついて必死に支える。
その視線は、決してアルベールから逸らさなかった。あの暴走の中心にあるのが、悠斗への執着――そう、彼の内に眠る狂おしいまでの想いなのだと、はっきり分かったからだ。
魔力の渦の中で、アルベールがふいに顔を上げる。その血のような瞳が、一瞬だけ、悠斗の姿を捉えた。
「悠斗……っ! 逃げろ……っ!」
苦悶に満ちた声が、かろうじて言葉として紡ぎ出される。しかし、その声はすぐに、再び獣の唸り声へと変わってしまった。
彼の体は激しく痙攣し、まるで二つの異なる存在が、彼の精神の中で激しく争っているかのように見える。
「君と一緒にいたかっただけなのに……っ! このままでは……っ、悠斗も……壊してしまう……っ!」
彼の叫びは轟音にかき消されそうになりながらも、確かに悠斗の心に届いた。アルベールの中に、まだ「傷つけたくない」という理性の欠片が残っている――だがその光は、今にも狂気に飲み込まれようとしていた。
「それでも……っ、君を離したくない……っ! 君を閉じ込めていたい……! 君の……君の隣にいられないのなら……っ、いっそ、このまま君と一緒に、この世界ごと……終わってしまいたい……っ!」
その言葉に、悠斗は全身に衝撃を受けた。それは、アルベールが心の奥底に抱えていた“君だけが欲しい”という、純粋で、しかしあまりにも歪んだ願望だった。
世界がどうなろうと構わない。ただ、悠斗さえいればいい。その狂気じみた執着が、今、魔王の力と結びつき、現実の世界をまさに破滅へと導こうとしている。
アルベールの顔は、苦しみに歪みながらも、どこか恍惚とした陶酔の色すら帯びていた。それは、悠斗を永遠に手に入れられるのなら、すべてを破壊しても構わない──極限まで歪んだ、彼の愛のかたちだった。
悠斗は、アルベールのその本質を、今、この瞬間に悟った。彼の孤独。彼の渇望。そして、悠斗だけを求めるあまりに肥大化した執着。
このままでは、アルベールは完全に理性を失い、世界は彼と共に破滅してしまう。そして、その根底には、自分がいる。
彼を「そばにいる」と約束しながら、その手を離してしまった自分の罪がある。
悠斗は、自身の無力さと、アルベールへの深い愛情の間で引き裂かれそうになった。けれど、その極限の狭間で、ある決断が脳裏を過ぎった。
(アルベールが、こんなに苦しんでる……俺のせいで、こんなことになってしまったんだ。もう、これ以上、彼を一人にはしない。壊れなら、俺も一緒に……!)
悠斗は、荒れ狂う魔力の奔流の中を、決死の覚悟で踏み出した。強烈な圧力が悠斗の体にのしかかり、皮膚が切り裂かれるような痛みが走る。
それでも、悠斗は諦めなかった。震える足で、一歩、また一歩と、アルベールへと近づいていく。
「アルベール……っ!」
悠斗は、全身の力を振り絞り、アルベールの元へと辿り着いた。そして、狂気に苛まれる彼の体を、強く抱きしめる。
アルベールの体からは猛烈な魔力が噴き出し、悠斗の肌を焼いた。それでも、腕を緩めることはしなかった。
狂気に染まった彼の顔を自分の肩に引き寄せ、かつての面影を残す髪を――今は漆黒に染まっているが――そっと撫でた。
「俺のせいで、こんなことになってごめん……っ! でも、もう絶対一人にはしないから……っ!」
悠斗の声は、魔力の轟音にかき消されそうになったが、それでもアルベールの耳に届くように、必死に叫んだ。
アルベールの体が、悠斗の腕の中で、微かに震える。
「アルベールが壊れるなら、俺も一緒に壊れる……っ! ずっと一緒だよ……っ!」
その言葉が、アルベールの狂気に染まりかけた意識の深淵に、ひと筋の光となって差し込む。放たれていた魔力が、ほんのわずかにだが、確かに弱まった。
悠斗は、その瞬間に全てを決意した。
彼は、転移前に神から“もしも”の時のためにと預かっていた、あのアイテムに意識を集中した。それは、魔王を封じるためだけに用意された禁断の結晶――小さく、ひとつまみの光のように見えるそれが、彼の手の中で静かに脈打っている。
本来、この結晶は使用者が巻き込まれることはない。だが悠斗は、自らも閉じ込められるよう結晶を“共鳴”させ、例外となる道を選ぼうとしていた。
抱きしめたままの腕の中、悠斗はそっと手を滑らせ、アルベールの懐に結晶を忍ばせた。指先が結晶に触れた瞬間、かすかな光が、ふたりの体温のあいだで脈打つ。
「助けてあげられなくて、ごめん……っ。でも、もう苦しませないから。……一緒に、封印されてくれる?」
それはまるで、命を賭したプロポーズのようだった。世界を救うという大義より、たったひとりの存在を選び取る――その選択に、彼のすべてが込められていた。
それは、ふたりだけの、誰にも割って入れない愛の檻。そして同時に、悠斗が辿り着いた成長の果てでもあった。彼は知っていた。救うという行為が、同時にアルベールを世界から切り離すという、取り返しのつかない選択であることを。
だが、それでも構わなかった。彼が救いたかったのは、誰かにとっての魔王ではなく、自分にとってのアルベールだったのだから。
悠斗の声が、そして結晶の光がアルベールに届いた瞬間、部屋全体が、まばゆい閃光に包まれた。暴走していたアルベールの魔力が、まるで激流が堰き止められたかのように、急速に静まっていく。
黒く荒れ狂っていたオーラは、徐々にその輪郭を失い、アルベールの瞳も、赤から、かつての澄んだ深い青へと戻っていった。
その顔から、苦悶の色が消える。穏やかで、どこか諦めに似た表情――ふとした安らぎの中に、取り返しのつかないものを、ひとり静かに抱きしめるような顔だった。
城全体を揺るがしていた激しい振動が、ぴたりと止まる。崩れかけていた壁も、歪んでいた空間も、そのすべてが凪いでいく。まるで時間そのものが止まったかのように、世界が息をひそめていた。
だが、その静寂は、ふたりにとって新たな“隔絶”の始まりだった。
やがて光が収束すると、彼らは、見慣れた城の一室にいた。けれど、窓の外に広がる景色は、もはや知っているものではなかった。
そこには星も、月も、雲さえもなかった。ただ、音も色もない深い「闇」だけが、無限に広がっていた。
世界との接点は、完全に閉ざされていた。
アルベールの暴走は鎮まった。だがその代償として、アルベールの城ごと、空間の狭間に封印されたのだ。誰も入れず、誰も出られない、“ふたりだけの閉ざされた箱庭”。
世界の終焉は防がれた──けれどそれは、ふたりがこの世界から切り離されたという、静かな代償でもあった。
悠斗の腕の中で、アルベールがゆっくりと目を開いた。その瞳は、もう赤くない。彼は悠斗を見つめ、静かに、そしてどこか満たされたように微笑んだ。
「……悠斗」
その声は、かつて悠斗が愛した、優しく穏やかなアルベールの声そのものだった。もう世界を壊すほどの狂気も、抑えきれない苦痛も、すでにそこにはなかった。
あるのはただ、悠斗への深い愛情と、救いに満ちた安堵だけ。
悠斗は、アルベールの頬にそっと手を当てる。もう苦しまなくていい――その事実に、胸の奥がじんわりと熱くなる。涙が零れ、頬を伝った。
いくつかの夜が過ぎ、城の中は次第に穏やかさを取り戻していた。けれど、窓の外には相変わらず光がない。星ひとつ見えない虚無の空が、変わらず広がっている。
最上階のバルコニーに、ふたりは並んで立っていた。悠斗の知る世界は、もうこの先には存在しない。だが、そこに絶望はなかった。
「ねぇ、アルベール。俺たち……これから、どうなると思う?」
悠斗は隣に立つアルベールへと問いかけた。彼の声には、僅かな不安と、それ以上に、この状況を受け入れた平穏が含まれていた。
アルベールは、そっと悠斗の手を取り、その指を自分の指に絡めた。その手のひらは温かく、まるで寒さを溶かすように、優しく悠斗を包み込んでくる。
「君がいてくれるなら、ずっとこのままでいい。私はもう、君以外、何もいらない」
その言葉は静かで、けれど絶対的だった。アルベールの瞳は、悠斗だけを映し、その奥にある執着は、まるで永遠のように深く静かだった。
世界を犠牲にしても、彼を手に入れた。その願いは、今ようやく、形を変えて叶えられた。
悠斗は、そんなアルベールの言葉に、ふっと微笑む。窓の外は、光のない空虚な世界。けれど、しっかりと絡み合った指先の感触だけが、ふたりがここに“在る”という確かさを教えていた。
世界から切り離された、ただふたりだけの永遠――それは、かつて悠斗が願った救いとは異なるものだった。けれど確かに、これは彼が選び取った「幸福」のかたちだった。
美しく、そして歪んだふたりだけの箱庭で――彼らは、終わらない時を生きていく。
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