ねえ、センセ。―粘着系年下男子の憂鬱

ゴトウユカコ

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哀しいほどの空回りの先_8

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「……昨日、間中さん来てたでしょ。なんもしてこなかった? あの人」

 そう苦笑しながら成瀬くんが私の手を引いて花壇の端にいったん座らせた。

「そんなことする人じゃないから……」

「あっそ。どうせオレはそんなことするけどね」

 拗ねた顔で成瀬くんがそっぽを向いた。

「そんなつもりで言ったわけじゃなくて。だってつきあってきた時間が違うし」

「わかってる」

 困った顔をした私の肩を抱き寄せ、それから成瀬くんは大きく息を吸い込んで、夜空を仰ぎ見ながら吐いた。

「まず、オレの今の状況のことだけど、自宅謹慎という処分になってる。でも、それはオレが望んだ形だよ」

「どういうこと?」

「自由に動ける時間がほしかった。週末だけじゃ足らなくてさ。いろいろと、橘のことを追い込む準備をするには」

「追い込む……。何をしてるの? 直己も米川さんも知ってる、それってなに?」

「橘の被害者に会ってたんだ。生徒や先生とか、保護者もいたけど」

「被害、ってまさか。前に言ってた終わらせる、って……」

「うん。これどう考えても性犯罪だろ。犯罪であれば立件できるはずだ。当時の証拠はほとんど残ってるかなんてわからなかったけど」

「ちょっと待って。だってそういうことって、被害を受けた人たちが簡単には言いたくないこと……」

「だね。だから時間かかった。被害者の把握は、先生のネットワークをもってる間中さんにお願いして、橘の過去の転勤歴とその在籍校での不登校や中退の生徒を調べた」

 橘先生が自分の過去を洗っているということを言っていたのはまさにこのことだろう。

「それから1人1人接触した。連絡先が分かったのは直接電話したし、わかんないのも当然いたから、それはその当時の友人や先輩後輩とかに当たって連絡をとった。もちろんわからないままの生徒……といっても皆ほとんど大学生や就職した大人だけど、いた。
 事情を話して分かってくれた人の中には、会ってくれる人もいた。気が変わって会えなくなったり、深夜、急に会ってもいいとか、話してもいいとか言われたり……。やっぱり、ことが事だけにほとんどは忙しいとか思い出したくないとかで拒まれたよ。それでも橘が何をしたか、メールで教えてくれた人もいたし、当時のやりとりを保管してる人も……証言してくれる人はゼロじゃない。それから……現在進行形で被害に合ってる子も」

「今? 私、以外にも?」

「橘は、相手の弱みを的確に掴むんだよ。それで教師だからという理由で親身になった振りしながら、相手の自尊心をくすぐる。相手が橘にとって特別だっていう刷り込みを重ねていって、橘しか、自分を分かってくれる人はいない。そう思わせる。
 それが恋になることもあっただろうし、自分の一番の理解者として尊敬することもあっただろうし、橘に対する印象は人それぞれだけれど、でもそれがある時から変わってしまう。錯覚させられた上での合意、という場合もあれば、それこそ無理に、という場合もある。相手の出方に合わせてうまいこと橘は立ち回りながら、自分の最低な欲望を遂げてる」

 あの文化祭の準備の影で、橘先生が言い寄っていた女子生徒を思い出す。

「うちの高校にも……」

「うん、オレが知る限り、2人。誰か聞きたい?」

 石で頭を殴られたようなショックだった。
 今、私と同じような目に現在進行系で遭ってる生徒がいる。

 性犯罪が明るみに出ないのは、その行為自体が恥ずかしいことだという意識、その行為をされた自分の方が悪かったのだという歪な罪の意識、そしてそのことを明るみにした時に簡単に予想できる世間の悪意やバイアスのかかった視線や関心による精神的な苦痛や負担。
 誰にも冒されるはずのない人権を踏みにじられていてもなお、声をあげられない。
 誰もが跳ね除ける戦いを、その勇気をもてるわけではない。
 体の痛みも心の痛みもこれ以上ないくらい受けているのに、その上でさらに、心無い人たちの言葉が、インターネットや世論の空気の中にあふれる。

 それを受けて立つ、なんてことは、誰にもできることではない。
 大人である私でさえ想像するだけで、だったら自分が我慢すればいい、という考えに動いてしまう。

 成瀬くんや直己がいなければ、私はもっと早くに橘先生のいいようにされていたに違いない。
 それが哀しいほど、悔しいほどに、分かってしまう。

「その子たちが必要を感じてて私に望んでるなら聞く。でもそうでないならいい」

「うん。……さんきゅ」

 私が望めば、成瀬くんはその名前を教えてくれただろう。
 それが今できる彼なりの、私への誠意の表し方。
 でもそれはその子たちへの誠意を成瀬くんに裏切らせてしまうことでもあった。
 そんなこと、させられるわけがない。

「杏をそばで守りたくても、そっちのことがうまくいかなければ、杏を守りきれない。なかなかうまくいかなくて。橘を犯罪者として断罪するって言っても、それが本当にできるのかどうか。
 いや……まずは、オレが信頼できる相手なのかどうか。皆、まずはそこだった。いくら自分の好きな女が橘のターゲットになったからって説明したところで、心を開いてもらえるほど甘くはなかった。オレは橘と同じ男だから……男である自分がこんなにもどかしかったのは初めてだった。だから……手伝ってもらった」

「米川さん?」

「そう。彼女や彼女の友人たちは在校生でもあるし、顔も広いし、頭もいい。何より、自分の同級生が橘の被害に合ったことに憤ってたし、その子を守れなかったことを後悔してた」

「後悔?」

「自分たちが高校1年の時に仲の良かった女子生徒の1人が、橘の被害に合った。その子は高校を辞めて、今は他県にいる。……いまだに学校は行けていない」

 思わずうめいた。

 橘先生と向き合った時の、一様に見せた嫌悪感。
 すぐに優等生的な顔に戻っていたけれど、あの時、橘先生と米川さんたちの間には、おかしな緊張感があった。
 あまりにも、根深い。

「米川のオレに対する好意はわかってたよ。それを利用してるのも。でも彼女の力が必要だった。友人を橘のせいで失った、今、現役の高校生であり橘の授業を受けている彼女だからこそ、心を開いてもらえる相手もいる」

 成瀬くんが私の髪を優しく撫でた。

「……どうしてそれ、私じゃだめだったの……?」

「杏は、今年ようやくここで教職に就けたばかりじゃん。オレがやろうとしてることは、賭けでもあったんだ。必死だったけど、もしかしたら途中ですべて失敗するかもしれない。その時、オレだけならリカバリも効くけど、杏が関わってたと、特に橘に知られたら、あいつは有無言わさず杏をものにする。それだけは、なんとしても避けたかった。オレがしていることを何も知らなければ、杏はそれだけで守られる」

 そこまで私のために考えてくれていた。
 必死で堪えようとするのに、涙がこぼれ落ちたら、もうとめどもなく溢れた。
 成瀬くんはそれを不安だと思ったのか、慌てたように言い募った。

「ごめん。不安にさせた。キスされたのも、油断したってのはあったけど、正直それで取引として成り立つならいいって気持ちもあった。だからオレにとって、あれはキスだけどキスじゃない。取引材料の一つ、みたいな感じだった。
 ただ……米川が杏に嫌がらせをしていることを止めきれなかった。手伝ってもらってる手前、オレもあまり強く出れなくて。その結果、杏を不安にさせて、橘のところに行かせて……怖い思いを何度もさせた。キスまで許すとか、本当にすごくきつかったと思う。ごめん」

 成瀬くんが頭を下げた。
 思わず頭を振った。

「でももう全部、終わるから。もう、杏は橘に怯える必要なくなる」

「どういうこと?」

 嗚咽を堪えながら聞き返した。

「集めた証言、警察とマスコミに渡した」

「そんな、でもそれは、被害を受けた子たちにとっては……」

「もちろん、了解を得られた人のだけだよ。何をされたか話をしてはくれても、それを証拠として扱われるのは抵抗がある。というより、明るみに引きずり出されることへの、そしてその後どうなるかわからないことへの不安から、警察に届け出るのを拒否されたのも多い。でも……、今、現在進行形で被害に合ってる子の証言も提出できたから、後は警察の操作が具体的に入ると思う」

「でも橘先生の父親である人の力でもみ消されちゃうんじゃ?」

「だからそうされないように、マスコミにも同時に話をつけた。教育長にもみ消されてきた黒い息子の淫行教師ぶりなんて、飛びつきそうなネタじゃん」

「でも、それさえも差し押さえられるから橘先生はやりたい放題やってきたんでしょう?」

「紙媒体だけならその可能性はあったよ。だから慎重に動いたし、何より、このことに激しく怒りを覚えてくれたジャーナリストもいたから、そういう人が1人でもいれば、SNSかネットニュースかでネットワークにのせられれば、必ず突破口はある。そう言われたし、そう信じて動くしか、オレにはできなかった。だって、杏がこれ以上、橘にどうにかされるとか、ほんとオレには……許せなかった。もし今回、ここまでこぎつけられなければ、たぶん、オレ橘のこと殺してた」

 激しい言葉に思わず息を飲んだ。

「今でも、あいつが杏にキスしたとか、想像するだけでハラワタ煮えくり返る」

 成瀬くんが拳を握った。
 それが震えている。

「ま、あの男のために犯罪者になんのは割に合わないし、そうはならなくて済みそうだけど」

 ふいににこっと成瀬くんが無邪気に笑みを浮かべた。
 ホッとして、つられたように笑みを浮かべた瞬間。

「でも、オレ何度も言ったよね。橘と2人きりにならないでって」

「え、あ……」

「杏はそれを破った。そのことは許してないけどね」

「だってそれは」

 一気にしどろもどろになった私の体を引き寄せて、成瀬くんがふいに私の耳に舌を這わせた。
 思わず変な声が出そうになって慌てて口を塞ぐ。

「いろいろ積もる話もあるけど、……ねえ杏。オレそろそろ限界」

「限界、って」

 不穏な言葉に座っていた花壇の端へとじりじり後ずさる。
 でも成瀬くんは膝をついて私の方に身を乗り出した。

「橘に触られたとこの、消毒と」

 成瀬くんが上のワイシャツの襟を軽く開けて緩ませた。
 そして涙で濡れたほおに唇を何度も寄せて舌先でなめとった。

「こんなに泣いた、おしおき、かな」

「おしおき、って。私がされる方なの、おかしい」

「どの口が言うの」

 それまで真面目な話をしていたのに、急にスイッチが切り替わった成瀬くんについていけなくて、私は慌てて立ち上がろうとしてその腕に閉じ込められる。

「逃さない。今日はさ……オレがどんだけやきもきしたか、ちゃんとその体でわかってもらわないとね。ようやく、何もかも終わるんだから」

「ちょ、待って。話は、話は終わってない。それにここ外だし、」

「うん、終わってないけどね。でも、週末もお預け食らったし。その間に、あいつにキス許すし」

「それは仕方なくで」

「仕方なく、ね」

 成瀬くんの手がすばやく私の手首を片手でまとめあげて、強引に正面玄関脇の壁に固定した。

「やっぱり杏にはおしおき決定。仕方なく、で諦められたら、オレ立つ瀬ないし」

 意地悪に笑いながら、成瀬くんが私のブラウスのボタンを外して、さらに背中のブラのホックを外した。

「や、ここ外!」

 悲鳴をあげた私に構わず成瀬くんが壁に私を押し付ける。

「うん、外だね。でもだめだよ、逃げようとしても。今日はどんなに泣いても許してあげないから」

 心臓を甘く縛りつけたささやきは、ほとんど命令だった。
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