娼館で死んだΩですが、竜帝の溺愛皇妃やってます

めがねあざらし

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22、宰相の机上

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空はまだ、夕刻には遠い。
けれど、心の中には確かに“何かの終わり”と“始まり”が、揺れていた。

(……このまま、待っているだけで……何が変わるんだろう)

静かな部屋の中、薬草の香りだけがゆるやかに漂っている。
けれど、それが逆に、身体にまとわりついて離れなかった。
エリオットは、そっと寝具を押しのけた。
汗ばんだ手が、布に少し絡む。
それでも——

「……立たなきゃ」

ベッドの端に手をついて、身体を起こす。
たったそれだけで、息を飲む。視界が一瞬、霞む。

(大丈夫だ。僕は……生きている)

それだけを確かめるように、足を床に下ろす。
冷たい。けれど、心地よかった。
感覚が戻ってくる。自分の足で地に立つという感覚が——

「……っ」

一歩、立ち上がった瞬間、膝がわずかに震えた。
まだ体力は完全ではない──でも、倒れない。
自分で支えている。たとえ、今はぎりぎりでも。

(守られるだけに意味はない。それは分かっている……だからこそ)

目を閉じて、ひとつ息を吐く。
その瞬間、部屋の扉が控えめにノックされた。

「……エリオット様?」

リディアの声だ。
けれど、エリオットはまだ答えない。
答えを返す前に、自分の中の何かを確かめるように——もう一度、足に力を入れた。

「……入ってもいいよ」

声はかすれていたが、強さを帯びていた。
リディアが入ってきて、一瞬息を呑む。

「……立って……! いけません、まだお身体は……!」
「わかってる。でも、座っているだけでは……“何も見えない”」

エリオットは微笑んだ。
その表情には、迷いはなかった。

「……だから少しだけでいい。歩かせて。僕の目で、確かめたいんだ。……何が起きようとしてるのか。オルディス家の時と同じだよ。自分で、どうにかしないとね」

リディアは言葉に詰まり、やがてゆっくりと頷いた。

「……では、せめて支えさせてください」
「うん、ありがとう。視察の失敗を挽回していこうか」



玉座の間から少し離れた北東棟、政務殿の奥。
その一室に、帝国の実務を一手に預かる宰相、ゼスト・オルドの執務室がある。
エリオットは、リディアの助けを借りながら、その重い扉の前に立っていた。
体調は万全ではない。だが、それでも自ら足を運んできた。

(先ぶれは出した……聞かなきゃいけない。今、僕がどんな渦中にいるのか。この人は、恐らく正しくそれを読んでいる一人)

扉をノックすると、奥からすぐに返事があった。

「どうぞ」

重厚な木の扉が開かれた。室内は淡い光に包まれ、書棚と書類に囲まれた空間だった。
その中央、長い机の奥に、ゼスト・オルドがいた。
銀の髪に、鋭利な視線。面差しはやはりシグルドに似ている。
そして相変わらず、微動だにせず、整然と座っている。

「皇妃殿下……このようなご訪問、光栄です」
「突然に申し訳ありません。お時間を取っていただき感謝しています」

エリオットが椅子に腰を下ろすと、ゼストは手を止め、静かに指を組んだ。

「……陛下のご出立中、殿下がこうしてご自分で“動く”とは。さすがですね」
「怖いと思って止まっていたら何も見えないと思ったんです」

その言葉に、ゼストがわずかに目を細める。

「……なるほど。恐れを抱ける方は、強い」

エリオットはまっすぐ宰相を見た。

「僕は知りたいんです。先日の襲撃、そして“ノルド・グレイ”という男……それらが、どんな意味を持つのか」

ゼストは一度、視線を逸らし、窓の方を見た。
やがて、再び机上に目を戻し、静かに言葉を紡ぐ。

「その名に、どこまで覚えがありますか」
「アルヴィオンでは全く知らなかった名です。……でも、彼が僕に何か特別な執着を抱いていることは……わかります」

巻き戻しの話をしても万人が頷けるようなものでもない。
なので、エリオットは嘘はつかずとも“今”だけを伝えることを選んだ。
ゼストは頷き、机の隅から一枚の報告書を取り出す。

「この男、ノルド・グレイ。帝国の戸籍には登録がありません。だが、裏の流通、情報網、そして一部の貴族家との資金のやり取りにおいて、その名は頻繁に現れます」
「……彼は、守旧派の一部と繋がっているのですか?」
「繋がっている、というより、“利用されている”……いや、お互いに“利用しあっている”可能性の方が高い。彼はどこにも属さない。つまり、誰の命令も受けず、誰かの味方になるわけでもない」
「ならば、彼が僕を助けたのは……彼自身の意思、ということですか」
「それが、最も自然な解釈でしょう。この男が殿下に何を望んでいるのかまでは、私にはわかりかねますが」

エリオットは黙ってうつむいた。

「……彼の行動が、政治とは無関係だったとしても。それは守旧派にとっては格好の情報なはずです。それが利用されてしまうのではないかと……」
「ええ。その通りです。彼の存在そのものが“情報”であり、“影響力”になります。敵にとっても、我々にとっても」
「クラウス侯爵や守旧派が動いているのも、関係している……ということですね?」

ゼストは静かに目を細めた。

「直接の関与は不明。ただ、彼らは殿下の存在を“排除すべき異物”と見ているのは確かです。そして、ノルドの動きを見て、乗じようとする勢力もあるでしょう」
「つまり……彼は、敵でも味方でもなくて。ただ、その“存在”が、脅威になり得る」

ゼストは頷いた。

「お察しの通りです。そして、殿下が注視すべきは、“その関係性”がどう利用されているか、です」

「利害が一致したところのみ、お互いを使っているというのならば……彼らは一枚岩ではない。敵が一枚岩でないのは、救いかもしれません。でも……それは同時に、どこから刃が飛んでくるかわからないということです、か……」
「鋭い。そして、実際その通りです」

エリオットは、ゆっくりと椅子から立ち上がる。

「教えてくださって、ありがとうございました」
「……ご忠告を一つ」

ゼストは立ち上がったエリオットを見つめながら、柔らかく言った。

「私のような人間を、信じてはいけませんよ、皇妃殿下」
「……信じてはいません。でも、敬意はあります」

その言葉に、ゼストは珍しく目を見開いた。
やがて、初めて見せるような、微かな笑みを浮かべた。

「……それは、恐ろしいほどに賢明なお答えですね」

背を向け、執務室を出る。
背後で扉が閉まる音が、妙に静かだった。
エリオットは、歩きながら思う。

(少し、見えてきた。……この国の中で、僕がどう立っていくのか)

歩幅はまだ大きくない。けれど、確かに進んでいた。



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