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Amitié amourouse 恋は薔薇のしらべ
11 ホウクス
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「そんな……こと──」
「あなたは嗅覚を失っています」
「ッ──!」
陽色は青ざめてソファーから立ち上がった。くるりと踵を返すと、脱兎のごとくドアへ向かった。
「待ってください!」
アルノーの声が追いかけてきたけれど、陽色は振り返らず一目散に前庭へ走り出した。
「陽色さんっ」
ミツバチの羽音が、陽色が起こす風に吹かれて飛び過ぎる。踏みつけたミントから弾ける香りは清々しくて、自分になんて不釣り合いなんだろう、と陽色は思う。
豊かな森の香りを含んだ空気に、日射しは穏やかに降りそそぎ、草花は思い思いに背を伸ばし、生きる喜びを謳歌している。
こうして逃げるように去らなければならない今になって、陽色は初めて気がついた。最初にこの場所に立った時から、自分がどんなにか、この景色に焦がれていたかを。
そしてこの楽園のような場所でなら、失った嗅覚を取り戻せるんじゃないかと、心のどこかで期待したことを。
とてつもなく惨めだった。心臓が悲鳴のような鼓動を刻み、脚が痛んだ。
このまま、街まで走って戻ろう。自分にふさわしい場所へ帰ろう。逃げよう、世界でただ一人、自分の秘密を知ってしまった男から。
いいや、違う。
焼けつく胸の痛みについに足を止め、荒い息をつきながら、陽色はもう一歩も動けなかった。
……たった一人、知ってくれた男から、だ。
ホテルに預けておいた荷物を受けとり、心と同じように重たい足を引きずって、陽色はバス停へと向かった。日本へ帰る飛行機のチケットは、明日の最終便をなんとか予約することができた。
バス停まで向かう道すがら、民家の花壇に咲き誇るビロードのような赤バラを目にして、陽色は思わずきつく目を閉じて顔を逸らした。
陽色の世界から、バラの香りが……バラの香りだけが失われて、すでに三年が経とうとしていた。
パフューマーとして、たとえそれがわずか一種類の花の香りだったとしても、匂いが嗅ぎ分けられないということは致命的だった。
誰にも打ち明けられず、数々の病院を渡り歩いたけれど、身体的には何の異常も認められず、それゆえに治療法もなかった。焦れば焦るほど、他の匂いまでも失われてしまうのではないかという恐怖が募った。
眠ることすらできない日々を過ごした果てに、おそらく精神的なものが原因だろうと結論され、心療内科の受診を勧められたのが二年前。それきり病院へは通っていない。
陽色は会社を辞め、調香も止め、姉の言うところの、ただ飯喰らいになってしまったのだ。
バラの香りが失われた理由は、医者に指摘されるまでもなく、精神的なものだと陽色にはわかっていた。ただそれと認めたくなかっただけだ。
三年前、セイジ社内で行われた企画コンペ。
バラを基調とした新しい香水の開発に、どのパフューマーもそれぞれの調香の腕を振るって参加していた。
陽色の──恋人も。
恋人、だったのだろうか? 一瞬でも。
彼はずっと友人としてつきあってきた同僚だった。一緒に各地のバラ園を訪ねて旅行した時も、自宅に招いて料理の腕を振るった時も、彼は恋人ではなかった。彼に寄せる好意は、同じパフューマーとしての尊敬に近かったと陽色は思う。
だが、三年前のあの夜……たった一度だけ、酔いに流されるようにして身体を重ね合った後、彼は陽色の部屋から消えていた。香水のレシピと共に。
それでも、レシピを盗まれたのだとは思いたくなかった。信じたいという気持ちの方が強かった。コンペで勝ち抜いたその香水の名前を、彼が【H】とつけたと聞いていたから。東方陽色の頭文字である【H】
陽色は、やっぱり自分は愛されているとさえ錯覚したのだ。だが企画書でパッケージのデザイン案を見た陽色は、血の気を失うほどに動揺した。
その香水は【H】と書いて【hoax】と読ませると知って──hoaxは悪戯で人を騙すことや、悪ふざけという意味がある。
たまらず彼のマンションへ向かった。
『どういうことなの?』
震える声でそう問いかけた陽色に、彼は笑いながらこう答えた。
『そういうことだろ。冗談でもなけりゃ、誰が男と寝るかよ』
その時から……彼と過ごしてきた二人だけの時間が、友達でも恋人でもなく積み重ねた時間が、そしてその時間にふんわりとただよっていたバラの香りが……陽色の世界から失われたのだ。
「あなたは嗅覚を失っています」
「ッ──!」
陽色は青ざめてソファーから立ち上がった。くるりと踵を返すと、脱兎のごとくドアへ向かった。
「待ってください!」
アルノーの声が追いかけてきたけれど、陽色は振り返らず一目散に前庭へ走り出した。
「陽色さんっ」
ミツバチの羽音が、陽色が起こす風に吹かれて飛び過ぎる。踏みつけたミントから弾ける香りは清々しくて、自分になんて不釣り合いなんだろう、と陽色は思う。
豊かな森の香りを含んだ空気に、日射しは穏やかに降りそそぎ、草花は思い思いに背を伸ばし、生きる喜びを謳歌している。
こうして逃げるように去らなければならない今になって、陽色は初めて気がついた。最初にこの場所に立った時から、自分がどんなにか、この景色に焦がれていたかを。
そしてこの楽園のような場所でなら、失った嗅覚を取り戻せるんじゃないかと、心のどこかで期待したことを。
とてつもなく惨めだった。心臓が悲鳴のような鼓動を刻み、脚が痛んだ。
このまま、街まで走って戻ろう。自分にふさわしい場所へ帰ろう。逃げよう、世界でただ一人、自分の秘密を知ってしまった男から。
いいや、違う。
焼けつく胸の痛みについに足を止め、荒い息をつきながら、陽色はもう一歩も動けなかった。
……たった一人、知ってくれた男から、だ。
ホテルに預けておいた荷物を受けとり、心と同じように重たい足を引きずって、陽色はバス停へと向かった。日本へ帰る飛行機のチケットは、明日の最終便をなんとか予約することができた。
バス停まで向かう道すがら、民家の花壇に咲き誇るビロードのような赤バラを目にして、陽色は思わずきつく目を閉じて顔を逸らした。
陽色の世界から、バラの香りが……バラの香りだけが失われて、すでに三年が経とうとしていた。
パフューマーとして、たとえそれがわずか一種類の花の香りだったとしても、匂いが嗅ぎ分けられないということは致命的だった。
誰にも打ち明けられず、数々の病院を渡り歩いたけれど、身体的には何の異常も認められず、それゆえに治療法もなかった。焦れば焦るほど、他の匂いまでも失われてしまうのではないかという恐怖が募った。
眠ることすらできない日々を過ごした果てに、おそらく精神的なものが原因だろうと結論され、心療内科の受診を勧められたのが二年前。それきり病院へは通っていない。
陽色は会社を辞め、調香も止め、姉の言うところの、ただ飯喰らいになってしまったのだ。
バラの香りが失われた理由は、医者に指摘されるまでもなく、精神的なものだと陽色にはわかっていた。ただそれと認めたくなかっただけだ。
三年前、セイジ社内で行われた企画コンペ。
バラを基調とした新しい香水の開発に、どのパフューマーもそれぞれの調香の腕を振るって参加していた。
陽色の──恋人も。
恋人、だったのだろうか? 一瞬でも。
彼はずっと友人としてつきあってきた同僚だった。一緒に各地のバラ園を訪ねて旅行した時も、自宅に招いて料理の腕を振るった時も、彼は恋人ではなかった。彼に寄せる好意は、同じパフューマーとしての尊敬に近かったと陽色は思う。
だが、三年前のあの夜……たった一度だけ、酔いに流されるようにして身体を重ね合った後、彼は陽色の部屋から消えていた。香水のレシピと共に。
それでも、レシピを盗まれたのだとは思いたくなかった。信じたいという気持ちの方が強かった。コンペで勝ち抜いたその香水の名前を、彼が【H】とつけたと聞いていたから。東方陽色の頭文字である【H】
陽色は、やっぱり自分は愛されているとさえ錯覚したのだ。だが企画書でパッケージのデザイン案を見た陽色は、血の気を失うほどに動揺した。
その香水は【H】と書いて【hoax】と読ませると知って──hoaxは悪戯で人を騙すことや、悪ふざけという意味がある。
たまらず彼のマンションへ向かった。
『どういうことなの?』
震える声でそう問いかけた陽色に、彼は笑いながらこう答えた。
『そういうことだろ。冗談でもなけりゃ、誰が男と寝るかよ』
その時から……彼と過ごしてきた二人だけの時間が、友達でも恋人でもなく積み重ねた時間が、そしてその時間にふんわりとただよっていたバラの香りが……陽色の世界から失われたのだ。
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本当にありがたく思います。
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