法華の短編集〜婚約破棄〜

法華

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「落書き」と馬鹿にされたのは、国の行く末を決める地図でした

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 煌びやかなシャンデリアが眩い王宮の大広間で、セレスティナ・クレイヴァーン伯爵令嬢は、まるで存在しないかのように息を潜めていた。人々の楽しげな喧騒も、優雅な楽団の調べも、今の彼女には遠い世界の出来事のようにしか感じられない。

「セレスティナ、こんな隅に隠れていないで、少しは社交を楽しんだらどうだ」

 投げつけられた声は、婚約者であるエリアス・フォン・バルツァー公爵子息のものだった。しかし、彼の隣にはセレスティナの従妹であるイザベラが甘えるように寄り添い、その腕に自身の手を絡ませている。その光景が、この夜会のすべてを物語っていた。

「エリアス様……」

 か細い声で応じるセレスティナに、エリアスは苛立ちを隠しもせず言い放った。

「お前のような、書斎に引きこもって地図ばかり描いている陰気な女は、我がバルツァー公爵家にふさわしくない」

 その言葉は、静かだがホールの一部に確かに響き渡り、好奇の視線がセレスティナに突き刺さる。エリアスは追い打ちをかけるように続けた。

「私の隣に立つべきは、ドロシーのような華やかで気の利く女性だ。そうだろ?」

「ええ、エリアス様」とドロシーが勝ち誇ったように微笑む。そして、セレスティナが抱えていた革の筒に目を留めた。

「まあ、セレスティナ。またそんな物をお持ちになって。まさか、エリアス様への贈り物ではありませんでしょうね?」

 それは、セレスティナがエリアスのために夜を徹して描いた、彼の領地の精密な地図だった。治水や街道整備の助けになれば、という一心で持ってきたものだ。ドロシーは有無を言わさずその地図をひったくると、わざとらしく広げてみせた。

「まあ、なんて子供の落書きのようなもの。こんな線引きに夢中になって…これでは、軍人であられるエリアス様のお役には立てませんわね」

 くすくす、と周囲から嘲笑が漏れる。セレスティナが独自に考案した、地形の起伏を正確に示すための細かな等高線や記号が、彼らの目にはただの無意味な線の集まりにしか見えないのだ。
 次の瞬間、ドロシーは「あら、ごめんなさい」とわざとらしく声を上げ、手に持っていたワイングラスを傾けた。赤い液体が、セレスティナの心血を注いだ純白の羊皮紙に、醜い染みとなって広がっていく。

「ああ……」

 声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まった。
 エリアスは汚された地図をゴミでも見るかのように一瞥すると、決定的な言葉を冷酷に告げた。

「セレスティナ・クレイヴァーン。本日この時をもって、貴様との婚約を破棄する。家の恥になる前に、もう二度と私の前に姿を現すな」

 絶望に染まるセレスティナの視線の先で、彼女の父であるクレイヴァーン伯爵が、公爵子息の機嫌を損ねまいと青ざめた顔で頭を下げている。誰一人、彼女を庇う者はいない。自分のすべてを、自分の愛した世界を、根こそぎ否定された無力感が、セレスティナの心を凍てつかせていった。

 ◇

 あの日から、セレスティナの世界は色を失った。父からは「公爵家のご機嫌を損ねた出来損ない」と罵られ、屋敷の書斎に引きこもる日々。だが、もうペンを握る気力も湧かなかった。

 そんなある日、彼女は逃げるように王都の古書店街へと足を運んだ。革とインクの匂いが満ちるその一角に、古地図や測量の専門書を扱う小さな店を見つける。吸い寄せられるように中へ入ると、壁一面に並べられた地図の数々に、忘れかけていた胸の高鳴りを覚えた。
 夢中で見ていると、不意に背後から穏やかな声がかかった。

「これは珍しい。クレイヴァーン伯爵領の古い測量図ですね。しかし、この等高線の描き方は見たことがない…。非常に合理的で、驚くほど正確だ」

 振り返ると、学者風の落ち着いた雰囲気を持つ青年が、セレスティナが手にしていた地図の断片を覗き込んでいた。婚約破棄の夜に汚されなかった、別の研究用の地図だった。

「失礼ですが、これはあなたが?」
「……はい」
「素晴らしい! あなたは天才だ!」

 青年――リアムと名乗った彼は、純粋な喜びと興奮に満ちた目でセレスティナを見つめた。

「この地図は単なる絵ではない。地形、水源、道の勾配…これらはすべて、領地の開発や物流、そして有事の際の防衛計画に欠かせない、金では買えない『情報』です。この価値を理解できない者がいるとすれば、それはその者が絶望的に愚かだというだけのこと」

 初めてだった。自分の愛する世界を、これほどまでに熱く肯定されたのは。見下され、嘲笑されることしかなかった彼女の才能を、この人は「至宝だ」と言ってくれた。セレスティナの乾ききった心に、温かい雫が落ちたように、涙が静かに頬を伝った。

 その頃、王都には不穏な噂が流れ始めていた。エリアスが功績を立てようと躍起になっている隣国アークライト王国との国境紛争が、泥沼化しているという。原因は、国が正式に採用している地図の不正確さにあり、エリアスの部隊は何度も奇襲を受け、補給路を断たれるなど、惨憺たる状況らしい。
 リアムの言葉が、エリアスの失態が、セレスティナの頭の中で結びつく。

(私の力は、無価値なんかじゃない…!)

 彼女は顔を上げた。その瞳には、もう絶望の色はなかった。

「リアム様。もし、この力が誰かの役に立つというのなら…私は、描きましょう。私自身の道を切り開くために」

 リアムは満足そうに頷くと、一つの依頼を口にした。

「では、我が祖国の…アークライト王国の、誰も測量したことのない国境の山脈の地図を描いてはいただけませんか。もちろん、最高の環境と報酬はお約束します」

 アークライト王国。その単語に少なからず動揺しながらも、セレスティナは、力強く頷いた。自分を捨てた男が苦戦する、その紛争の鍵を自分が握る。これほど痛快な復讐があるだろうか。いや、これは復讐ではない。自己の尊厳を取り戻すための戦いなのだ。

 ◇

 セレスティナの人生は劇的に変わった。リアムが手配した人里離れた山荘には、最新の測量器具と膨大な資料が揃えられていた。彼女は護衛兼助手となった者たちと共に、時には男装して険しい山々を歩き、自らの足と目で地形を測り、記録していった。書斎に閉じこもっていた令嬢は、日に焼け、たくましくなっていく自分に驚いていた。

 彼女が描き上げた地図は、アークライト王国の王都に届けられるや、軍事戦略家たちを驚愕させた。誰も知らなかった獣道、伏兵に最適な谷、敵の死角となる尾根。まるで神の視点から描かれたかのようなその地図は、すぐに「アークライトの目」と名付けられ、戦況を完全に覆した。

 一方、エリアスは敗北を重ね、焦りを募らせていた。彼はすべての責任を不正確な地図になすりつけ、クレイヴァーン伯爵家に圧力をかけた。

「セレスティナが持っていた地図をすべて提出させろ! あれがあれば、こんなことには…!」

 しかし、セレスティナが全てを持ち出した後の書斎には、何の価値もないものしか残されていなかった。

 やがて、戦況はアークライト王国の圧倒的優位のまま、和平交渉の席が設けられることになった。

 ◇

 厳粛な雰囲気の和平交渉の広間。自国の主張する国境線の正当性を、エリアスが空々しくまくし立てている。その時、アークライト王国側から一枚の巨大な地図が広げられた。

 そのあまりの精密さと正確さに、エリアス側の誰もが息をのむ。そして、図面の隅に記された製作者のサインを見て、エリアスは凍りついた。そこには、見慣れた、しかし今は見たこともないほど力強い筆跡で『セレスティナ・クレイヴァーン』と記されていたのだ。

「そ、そんな…馬鹿な……」

 呆然とするエリアスの前に、今まで学者として控えめに座っていたリアムが静かに立ち上がった。その身にまとった衣服は、いつの間にかアークライト王国の第四王子であることを示す、壮麗な礼装に変わっていた。

「バルツァー公爵子息。あなたが『子供の落書き』と嘲笑い、ワインをぶちまけて汚した才能こそが、我が国を勝利に導いたのです」

 リアムはセレスティナの手を取り、自らの隣に立たせた。

「彼女こそ、我が国の勝利の女神。そして、私が生涯をかけて守り、敬うべき人だ。あなたが捨てたのは、ただの婚約者ではない。大陸の覇権さえ左右する至宝そのものだったのですよ」

 エリアスは顔面蒼白のまま、その場で崩れ落ちた。軍事機密に等しい価値を持つ人間の才能を見抜けず、侮辱し、敵国に追いやった大愚。その罪はあまりにも重かった。

 エリアスはすべての地位を剥奪され、北の僻地へ事実上の永久追放となった。彼に媚びへつらっていたドロシーは、後ろ盾を失い、誰からも相手にされず社交界から姿を消した。クレイヴァーン伯爵も、娘の価値を見誤った不明を国王から厳しく問われ、爵位を返上し隠居を余儀なくされた。自らの愚かさが招いた、完璧な自業自得だった。

 数年後、セレスティナはアークライト王国に新設された王立測量局の初代局長として、その類まれな才能を国の発展のために振るっていた。彼女が描く地図は、新たな街を作り、安全な交易路を開き、多くの人々の生活を豊かにした。
 緑豊かな王宮のテラスで、セレスティナは夫となったリアムと共に、新しい都市の設計図を広げていた。

「君が描く線は、いつも僕たちの未来を明るく照らしてくれるね」

 リアムの優しい言葉に、セレスティナは晴れやかに微笑んだ。

「いいえ、リアム。これは、私たちが『共に』描く未来の地図よ」

 かつて、狭い書斎で自分の世界に閉じこもっていた令嬢は、もういない。彼女は自らの足で大地を踏みしめ、自らの手で未来への道を切り開き、愛する人と共に果てしなく広がる世界を、今まさに歩み始めていた。


(了)
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