塩対応の婚約者を置いて旅に出たら、捨てたはずの王子がついてきた

のじか

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 セミスイートルームの中で、ルーチェはひとり考え込んでいた。スイートルームの三分の二ほどの広さのその部屋は、ひとりで過ごすには十分すぎるほどの空間だった。何しろ、持ち込んだ荷物は小さなトランクひとつだけだから、部屋は入った時とほぼ変わりない。

 ──もしこの船が行きと同じ構造をしているのなら、スイートルームは一室だけね。

 ルーチェは部屋に運ばれた夕食を摂りながら考える。

 つまりエリアスはおそらく真上の部屋にいるだろうとルーチェは考える。通常時であれば下の部屋も押さえるだろうけれど、突然のことでそこまで手が回っていないか、あるいは空き部屋だからいいかと判断されたのかもしれない。

 ルーチェは重たい足取りでバルコニーに出て、上を見上げた。だが当然のことながら見えるのはバルコニーの床の裏側だけで、誰かがいる気配はない。

 エリアスがバルコニーに出てくることを期待していたわけではない。けれどどこかで、偶然でもいいから顔を見ることができたら、と思ってはいた。

「ああ、どうしよう……」

 ぽつりと、ルーチェは呟いた。

 いっそ大声を上げてみたら、彼は気づいてくれるのだろうか。けれどそれをしたところで怪しまれるだけだろうし、廊下を通ってエリアスの部屋まで行こうにも、つまみ出されるのが関の山だった。

 自分は王子の心を惑わせて捨てた女──国に背いた悪女なのだから。

 エリアスにしてみればようやく気持ちの整理がついたところなのに、今さら何だと言われても仕方がない。

 ──パーティーや立食会のような催し物があったとして、エリアス様は参加するかしら。

 きっとしないだろうとルーチェは思う。エリアスは昔と同じ、真面目で大人しい王子様に戻っているはずだ。

 そもそも、ルーチェがこの船に戻ってきた理由は何だったかというと、彼に謝るためだった。でも、謝ったところで関係が元通りになるわけではないのはわかっている。

 ルーチェは大きく息を吐いて、部屋に戻り、クイーンサイズのベッドの真ん中に崩れ落ちた。不摂生とか、令嬢にあるまじき行為とか、そんなことを気にする必要はもうない。視線を気にする相手もいないのだし。

「エリアス様にとって、このまま私は……最悪の女でいいのよ」

 呟きながら、ルーチェは顔を覆った。

 帰りの船に乗ったことは隠しておこうと決めた。部屋から出ず、食事も運ばせて静かに過ごせばいい。服だってわずかしか持っていないし、そもそも遊ぶ気にはなれない。

 謝罪は公爵家を通して行なって、エリアスが元の姿に戻るのを、遠くからこっそり見届ければそれでいい。そして、ストーリーが始まるのを見送る。自分がエドマンズ公爵家を代表する令嬢として扱われなくなったとしても、ひっそりと家の片隅で生きていける。

 エリアスが幸せになり、ヒロインと結ばれるエンディング──エリアスルートの結婚エンド。あらためてそれを見届けてから、自分は物語から消えればいいのだ。

「本当に……私は、バカね」

 ルーチェは膝を抱えて、じっと目を閉じた。欲しいものは手に入らないと諦めて逃げて、追いかけられたら怖くなって逃げ出して、手に入れそうになるとまた怖くなってしまった。そして、今度は追いかけることしかできなくなった。

 自分で自分をどうすればいいのかわからない。

 ルーチェはゆっくりと体を起こし、トランクの中からビロード張りの小箱を取り出した。指先で恐る恐る蓋を開ければ、中にあるのは──ダイヤモンドの指輪。透明な宝石は小さく煌めき、その縁にあしらわれたブルーダイヤモンドはエリアスの瞳のようだ。

「……そういえば、これ」

 ルーチェは小さく呟いた。デザインに見覚えがあった。ゲームのスチルで見た指輪だ。つまり、エリアスがヒロインのために用意するはずだった指輪。

 途中までは、ルーチェこそがエリアスルートを辿っていたのだ。そうでなければ、こんな指輪を受け取ることなどできない。

 ルーチェはそっと指輪を指にはめてみた。指輪を贈られたことはなかったが、白銀の輪はルーチェの指にぴたりと馴染んだ。

「少しだけ……」

 そう呟いて、ルーチェはそのままバルコニーに出た。誰も見ていないところで静かに、月明かりに照らされた指輪の輝きを自分の胸にしまっておきたかったのだ。

「綺麗」

 指輪をはめた手を月に向かってかざすと、小さな虹がちかりと瞬いた。

「その指輪、よく似合うよ」

 頭上からばさり、と何かが落ちてくる音が聞こえた。

「……え?」

 思わず見上げた目線の先に、縄梯子がするすると降りてきていた。月明かりに浮かび上がったそれは、船の上層階から垂らされたものだ。

 そして、それを伝って降りてくる人影がある。

 恐怖はなかった。ルーチェにはそれが誰であるかなんて、よく分かっていた。

 それでも──それでも、やはり信じられない気持ちで、ルーチェは大きな瞳をこぼれそうなほどに見開いた。

「エリアス……様」
「こんばんは、ルーチェ」

 ルーチェは言葉を失ったままだ。何しろ、エリアスが上の階から縄梯子を使って自分の元に脱走してくるなんて、一体この世界の誰が想像するだろう?

 ──脱走したかったのかしら? そこがたまたま私の部屋だった? いいえ、エリアス様は私が下にいることを知っていた……。

 ルーチェは慌てて、左手を後ろ手に隠した。

「この船の乗務員は、皆親切だ」

 エリアスは言った。

「汗だくの女性が駆け込み乗船をしてきて、セミスイートに入った。行きのスイートルームのチケットを持っていたのに、と教えてくれたんだ。こう、サンドイッチの下に手紙が挟まっててね」

 ここで船員の乗り換えがあって、元の国に戻る人が結構な数乗っているのは認識していたが、それはかなりの数いて、エリアスが──とても目立つ、訳ありの青年がさらに訳ありな様子になったから、気を配ってくれたらしい。

「……ご贔屓にしてあげてください。……スイートルームのサービスにしては、いささか過剰すぎますが」

「でも、君が近くにいるなら、僕は向かわなくてはいけない」
「どうして……来て、くれるんですか」
「話がしたかったから」
「……怒ってないんですか?」

 船って不思議な乗り物だと、ルーチェは思う。船に乗っていると不思議と──世界に二人だけしかいないような気がして、ルーチェは素直になることができるのだ。

「怒ってはいない。絶望はしたけれど」

 エリアスの声は静かだった。

「ルーチェともう一度、話がしたかったんだ」

 ルーチェは指輪を握りしめたまま、俯いた。
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