実験しない断章

辿町うたげ

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あれから四年経ったいまも除染は進んでおりません

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 春の嵐が吹きつけている。雨戸ががたがた鳴るほどの強い風がとぎれとぎれに地上を煽っている。このごろの天気は不安定だ。それが春になるということなのだろう。こんな日は家で本でも読むのにかぎる、とスマホ越しに胡桃に言いわけをすると、いますぐに出てこいと言われたので、しかたなくコートを羽織って胡桃の家へいく。
 薄い雲が日差しをさえぎり、みょうな寒さに拍車をかけている。そういえば昨日は全国的に雪が降ったんだった。三月なのにそういうこともあるのだろうか。しかし一年前のいまごろの天気なんて覚えているものじゃないので、統計的な判断はできそうもなかった。なにかこの季節に自分の身に重大なできごとが起これば話はべつだろうけど。
 胡桃の家は、歩いて十分ほどの場所にある。ひゆりの家が古屋なのに対し、胡桃はでかいマンションだった。反対のほうが分相応だろうと思うが、世のなかとは往々にしてそういうものだ。とはいえ、でかいマンションがよい家なのかどうかはわからないし、古屋が悪い家なのかどうかもわからない。けれど、ひゆりの家はひゆりの家でひゆりの家って感じがするし、胡桃の家も胡桃の家で胡桃の家って感じがするので、けっして悪いわけではないと思う。
 胡桃のマンションについた。オートロックに(住人全員が知っている)秘密の数字を打ち込んでガラスの扉を開ける。やはりこのシチュエーションは何度やってもSFっぽいなと思うけど、セキュリティとしてはまったく高くない。各々の家の扉もこういうパスワード式ならもっとSFっぽいんだけど、やっぱりコストに合わないよなあ。そもそも電気がなければ扉が開けられないって、そんなディストピアありなのか?
 エレベーターに乗って四階まで行き、胡桃の家のインターフォンを鳴らす。いつものように、入ってー、という声が聞こえたので、ずかずかとあがり込むと、リビングのソファに寝転びながらテレビを観ている胡桃がいた。
「めずらしいね。いつもなら本を読んでるのに」
「まさに小説的なニュースがやってるから」
 胡桃が指し示しているのは、原発事故のニュースだった。
「ふうん」と僕は返事をし、胡桃の足をお尻で引っ込ませながらソファに坐った。「で、今日はなんの用?」
「演劇の脚本の二稿ができたから、読んでもらおうと思って」
 胡桃は寝転んだまま、自分の身体に敷いていたらしい原稿を僕に渡した。生暖かい紙の束は、なんだか生き物みたいで気持ち悪い。内容は人間のことが書いてあるはずなのに、書きつけてあるものが生物的だと気持ち悪いのはどうしてだろう。
 そうして原稿を渡されたまま、手書きから起こしたんだ、とかぼうっと思考していると胡桃が「教室をめちゃくちゃにしてやりたいって思ったことはない?」と唐突に言った。
「なに?」
「一文目」
 しばらく意味が飲み込めなかったが、原稿に目を落とすと一文目に、「教室をめちゃくちゃにしてやりたいって思ったことはない?」と書いてあった。僕はそのまま読み進めた。

 春の嵐はずいぶん静かになったらしい。四階の部屋でもこれだけ風の音が聞こえないならば、きっと外は穏やかだろう。
「どう」と胡桃は訊く。
「うん」と僕は答えた。「いいよ。とっても。前よりずっといい」
「それじゃあ前はよくなかったって?」
「前もよかったよ。けれど、前のは内向的すぎた。ふたりの世界しかなかったよ」
「嘘。二稿はもっとふたりの世界を深めようとしたのよ」
「それが結果的に外へと視野が広がったんじゃないか。つまり、ふたりしかいないということを意識するということは、他者がいるってことを意識するということだからね」
「ふうん、そうなの」
 胡桃の素っ気ない返事は照れ隠しだろう。
「いいよ。これでいこう。これに僕が手を入れたらいいんだよね」
「おねがいするね」
 ソファの上は、物語と、僕と、胡桃しかない穏やかな宇宙だった。僕が物語を語れば、なにか劇的なことが頭のなかで起きる。胡桃が口を開いてもそうだ。けれど、どちらも黙って、お互いの体温を感じ合うだけならば、なにも起こらず、世界は僕たちになにも干渉してこないような気がした。
「そんなの気のせいさ」
 そう言うと、胡桃は不思議そうな顔をしてから、「そうね」と言った。
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