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3話
しおりを挟む自分の部屋に戻ったフィーナは、怒涛の展開に置き去りにされていた自分の感情を、一人になってようやく吐き出すことができた。
「アレクセイのバカ! 信じられない! 運命の人はわたくしだって言ってたのに……あんなに愛してるって言ってくれたのに……っ!」
フィーナもアレクセイを愛していた。心から愛していたからこそ、裏切りが悲しくて悔しくて、胸が張り裂けそうなほどつらい。
これまでの日々は夢だったのだろうか。それとも先ほどのアレクセイこそが夢かもしれない。そう思い込みたいくらいだったが、どちらも紛れもない現実だと自分が一番はっきりわかっている。
多くの転生、憑依ものヒロインのように、アレクセイが小説の中の人物であると割り切ってしまえば良かった。そうしたらきっと、彼を愛することもなく、彼の愛を信じることもなく、裏切られてもこんなに傷つくことはなかっただろう。
ボロボロと涙がこぼれていく。フィーナに対して罪悪感も何もなく「離婚してくれ」と言ったアレクセイを思い出すと、ひく、と喉が引き攣れた。
――そのとき、控えめなノックの音が響く。
ディートリヒが政務を終えたらしい。これから皇帝に会うのだからと、侍女が身なりを整えてくれる。だが、泣き腫らした目だけはどうすることもできなかった。
アレクセイと結婚してからは、フィーナは時折ディートリヒとティータイムを共にすることがあった。
交わされる会話はいつも、アレクセイはちゃんとフィーナを大事にしているか、皇宮での暮らしに不便はないかなど、当たり障りのない内容だ。皇后がいない分、皇太子妃となったフィーナを気遣ってくれているのだろうと思っていた。
場所はいつもガラスの屋内庭園だ。皇族にのみ立ち入ることを許されたその場所を、ディートリヒは特別気に入っているようだった。
皇帝の侍従に案内され中に入ると、既にディートリヒが待ち構えていた。政務を終えた彼はラフな姿でゆったりとイスに腰掛けている。
ディートリヒはフィーナを見ると立ち上がり、彼女のためにイスを引いた。ディートリヒは皇帝にもかかわらず、いつもフィーナへのエスコートを欠かさない。
「……さて、何から話したものか」
向かい側に座ったディートリヒがため息交じりに呟く。
憂い顔の彼は、つい見惚れてしまうほどに美しい。ガラスの屋内庭園は星がよく見えるように照明がしぼられている。差し込む月明かりが、ディートリヒの年齢にそぐわない美貌を幻想的に際立たせていた。
柔和な顔立ちで細身のアレクセイとは違い、ディートリヒは端正な顔つきながら、自ら戦場に立つほどの勇猛さがある。
30代後半だがとても若々しい。艶やかな黒髪と、はちみつを溶かし込んだような金色の瞳が特徴的な、色気が服を着て歩いているような魔性の男だ。
皇帝としての手腕も優れ、浮気に関連することでなければ穏やかな気性であり、貴族よりも国民に寄り添う政治を行い帝国民からも非常に愛されている。
後妻を望む声も多かったが、ディートリヒがこれまで皇妃はおろか新たに皇后を迎えることはなかった。
「まずは愚息の過ちを謝罪したい。本当に申し訳なかった」
「そ、そんな……! 頭をお上げくださいっ、決して陛下がお謝りになることではございません!」
慌てるフィーナに促され顔を上げたディートリヒは、彼女を見て悲痛そうに目を細めた。
「だが、泣いたのだろう?」
ディートリヒの腕がおもむろに伸ばされ、フィーナの目尻を撫でていく。なるべく化粧で隠したつもりでも、彼の目は誤魔化せなかったようだ。
「……アレクセイは、平民の娘との愛を選んだ。皇族の籍を外れ、平民として暮らすそうだ」
「…………そう、ですか」
フィーナにはなんとなくわかっていた。アレクセイが苦渋の決断の末にオリヴィアとの未来を選択することを。小説で読んだ情熱的なアレクセイならば、そうすると思ったのだ。
いっそ笑ってしまいそうになる。もうアレクセイの中には、フィーナなど欠片も存在していないかのようだ。原作の強制力なのかそうでないのかはもうどうだってよかった。確かな事実は、アレクセイがフィーナを裏切ってオリヴィアを選んだことだけ。
(ああ、でも……やっぱり、つらいな)
そう思ったときにはもう、涙が目の端から流れていった。たくさん泣いたはずなのに、まだ涙は枯れていなかったようだ。
フィーナと同じだけ、アレクセイも愛してくれていると信じていた。その気持ちは、フィーナが自覚しているよりも大きかったらしい。
フィーナの涙を見てディートリヒが立ち上がる。テーブルを回りフィーナの傍らにくると、その足元に跪いた。ディートリヒは、ポケットから取り出したハンカチでフィーナの涙をそっと拭う。
「皇帝が膝をつくなんてやめてください」と言うべきだ。けれどその優しさに対して、フィーナは嗚咽を堪え唇を噛み締めることしかできなかった。
「先ほども言ったが、余の……私の皇后になってくれないだろうか?」
「……陛下」
息子の過ちを、皇帝であるディートリヒがそのようなかたちで償う必要はない。そうフィーナは言いたかった。
しかしそれよりも先にディートリヒが口を開く。
「そなたの父との約束でも、愚息の罪の償いでもなく、……私がそなたを愛しているのだと言ったら、受け入れてくれるだろうか?」
「……え? 愛、して……? わたくしを?」
「そうだ。そなたを愛している」
いきなりの発言に冗談かと思ったが、ディートリヒがそのようなくだらない冗談を言う男ではないとフィーナも知っていた。
今もフィーナを見つめるディートリヒのまなざしは真剣そのものだ。フィーナからの答えを待つ姿は、少し緊張しているようにも窺える。
「いつ、からですか?」
「いつからだろうか。私にもわからないが、気づいたらいつもそなたを目で追い、そなたのことばかり考えていた。死ぬまでこの想いは秘めているつもりだったのだが……アレクセイがそなたを手放した今なら、もう遠慮する必要はないだろう?」
ディートリヒはフィーナの赤い髪を一房すくい、ちゅ、と口づける。
頬を赤くしたフィーナは、思わずディートリヒから逃れるように顔を逸らした。
「そなたがいつも、アレクセイのためを思って何事にも一生懸命に頑張っていたのは見ていたよ。厳しいレッスンにも耐え、どんなにつらいことがあっても凛として佇み微笑む姿は印象的だった。この夕焼けのような髪も、湖のように澄んだ青い瞳も、すぐに赤らむ白い肌も、そなたは全てが美しい」
「……陛下」
「私の心を奪って、離してくれないのだ」
あまりに情熱的な告白に、フィーナは涙も引っ込んでただただ赤面した。
「少し……時間をください」
「ああ、いつまでも待とう」
すぐに断られなかったことにホッとしたのか、ディートリヒの頬が緩む。
フィーナは今まで、皇帝として、もしくは夫の父としての姿しか見てこなかったため、ディートリヒのそのような表情は初めて目にした。
ドキドキと胸がうるさいくらいに高鳴っている。
(おかしいわ。さっきまであんなに悲しい気持ちだったのに、わたくしったらどうしちゃったのかしら)
「近いうちに一度実家に帰るといい。コルン公爵も心配しているだろう。私のほうからも謝罪の手紙を送っておいたが、今頃私兵を率いて皇宮に突撃する準備でもしていそうだ。皇太子宮にある君の物は、皇宮に移しておいてもいいだろうか?」
「え? ……は、い。お願いします」
ディートリヒはもう、フィーナが皇后になり皇宮で暮らす未来を思い描いているようだ。
思わず了承してしまったフィーナに、ディートリヒは笑みを深めた。
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