あとから正ヒロインが現れるタイプのヒーローが夫だけど、今は私を溺愛してるから本当に心変わりするわけがない。

柴田

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5話

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 それからというもの、政務の合間を縫ってはディートリヒからデートに誘われ、逢瀬を重ねていった。

「そなたが私とのデートを受け入れてくれて、本当に嬉しいよ」

 初めてデートをした日、ディートリヒははにかむように笑って、フィーナの手の甲にキスをした。

 今までどうやって気持ちを抑えつけていたのだろうかと疑問に思うほど、ディートリヒの愛は情熱的だ。口を開けば口説いてくるディートリヒに、フィーナは毎度赤面させられる。
 ディートリヒは、デートには毎回必ず花束と小さな贈りものを欠かさなかった。

 変装をして街の祭に行ったり、景色が美しいと評判の湖でボート遊びをしたりした。ディートリヒと過ごす時間は楽しくて、夢中で、家の前で別れるのがいつも寂しく感じてしまう。
 ディートリヒの与えてくれる愛はフィーナを優しく包み込んで、ゆっくりゆっくりと彼女の心に入り込んでいったのだ。


 今夜はディートリヒに誘われて、とある伯爵家が主催する仮面舞踏会に参加することになっていた。皇帝と元皇太子妃という二人が会える場所は限られており、仮面舞踏会はうってつけだったのだ。

『ささやかな賭けをしよう。会場で先に相手に気がついたほうが一つお願いを聞いてもらえる、というのはどうだろうか』

 そう提案したのはディートリヒだった。
 面白そうだと乗ることにしたフィーナは、仮面で目元を隠すのはもちろんのこと、ドレスもいつもとは趣味の違うデザインのものを選んだ。夕焼け色の髪は帝国ではありふれているため、あえて変える必要はない。

 余裕を滲ませるフィーナには、先にディートリヒを見つける自信があった。フィーナとは異なり、ディートリヒは服や髪の色を変えたくらいでは正体を誤魔化せない。あの体格の良さや背の高さは隠せないからだ。
 ディートリヒにどのようなお願いをしようか、と早くも考えを巡らせているうちに、会場である伯爵家に到着したようだった。

 フィーナはわくわくした気持ちで馬車を降りる。
 実は仮面舞踏会というものに参加するのも初めてのことだった。いつもの舞踏会とはどう違うのだろうか。

 入り口で招待状を確認されてからホールの中に足を踏み入れる。眼前に広がるきらびやかな光景に、フィーナは思わず感嘆の声を上げた。

 当たり前なことだが、参加者全員が趣向を凝らした仮面を身につけている姿は圧巻の一言だ。フィーナが普段参加する舞踏会よりもややアダルトな空気感が漂っており、少しだけ緊張する。
 思い思いにダンスに興じる男女はやたらと密着しているように感じ、初心でもないのにフィーナは見ているだけで恥ずかしい気持ちになった。

 格式ばった宮廷舞踏会とは違って、男性陣はラフなスーツを身にまとい、女性たちは露出の多いドレスを着ている人が多い。
 かくいうフィーナも、今夜は仮面舞踏会に合わせシックなドレスを選んだ。背中の開いた黒いドレスは、身体に沿う細身のデザインだ。シンプルに見えるけれど、照明が当たるとキラキラと輝いて美しい。
 夕焼け色の髪を結い上げ黒い仮面をつけたその姿は、まさに妖艶な美女だった。

 フィーナが入場すると、男性陣の視線が突き刺さる。まさか淑女の鑑と呼ばれるコルン公爵令嬢がこのような恰好で仮面舞踏会などに来ているとは、誰も思うまい。

「麗しのレディ、どうか僕と踊ってくださいませんか?」

 にこやかに手を差し出してきた男は、明らかにディートリヒではなかった。さらりと断りながら周囲を見回そうとしたが、すぐに別の男に声をかけられる。
 見える範囲にはディートリヒらしき姿はなく、もしかしたらまだ会場に到着していないのかもしれない。

「俺と一夜を共にするのはどうだろうか?」
「えっと……」

 仮面舞踏会は男女のあれそれが若干明け透けであるとは耳にしたことがあるが、まさかそんなに直接的な誘い文句を言われるとは予想だにせず、フィーナは面食らう。

(大変だわ。早いところ陛下を見つけないと……)

 そんなふうに考えて視線を泳がせていると、不意に背後から腰に手を回され引き寄せられた。とん、と硬いものに背中がぶつかり、フィーナはおそるおそる振り向く。

「すまないが彼女は先約があるんだ。私と熱い一夜を過ごす、というね」
「こ、皇帝へ――……!」

 そう叫びかけたのはフィーナではない。フィーナに気安く声をかけていた男だ。
 フィーナの腰を抱いたまま、ディートリヒは男の唇に人差し指をあてがった。

「シー。それを口に出してはいけないよ。今夜は仮面舞踏会なのだから」

 男は頬をポッと赤く染めて、唇を引き結びながら大きく頷いた。同性でさえもたらしこむディートリヒは「楽しい夜を」と残し、フィーナを人気のない場所まで誘導していく。

「賭けに勝ったのは私だったね、フィーナ」
「陛下!」
「おっと。今日はディーって呼んでくれないか」
「す、すみません……ディー様」

 仮面の奥で嬉しそうに目を細めたディートリヒは、あの男が一瞬で正体を見破ったのも納得の恰好をしていた。
 艶やかな黒髪は普段と違い無造作に下ろされているものの、フィーナが予想したとおりちょっとやそっと変装したくらいではディートリヒのオーラは消えない。仮面があるぶん余計色気が増しただけのただのディートリヒに、フィーナは先に見つけられなかったことを悔しく思った。

「どうしてわたくしだとすぐにおわかりになったんですか?」

 ホールに入ってまだほとんど時間は経っていない。周囲にディートリヒらしき人物もいなかったような気がするのに、いつの間に彼は見破ったというのだろうか。

 疑問に思うフィーナのうなじを、ディートリヒの指が不意につついた。ツン、ツン、と二カ所。

「そなたのうなじには二つ並んだほくろがあるんだ。髪を上げているからわかりやすかったよ」
「ほ、ほくろですか……!?」

 そんなところにほくろがあるだなんてフィーナ自身でも知らなかったし、ディートリヒがそのような些細な特徴を覚えていることにも驚いた。ディートリヒにつつかれたうなじがじんわりと熱をもつ。

 うなじを手で押さえ赤い顔でうつむくフィーナはいじらしく、ディートリヒは抱き締めてしまいたくなった。

「いつもと雰囲気の違うドレスも素敵だね。とても似合っている。こんなに綺麗な背中をしていただなんて、初めて知ったな」

 できることなら、それを知るのは自分だけでよかった。会場中の男がフィーナの肌を目にすることになるなんて、嫉妬せずにはいられない。

 フィーナの心を手に入れたいディートリヒには、彼女へ捧げる言葉に一切の遠慮も加減も必要なかった。あまりにもストレートに褒められて、フィーナはもうディートリヒの目が見られない。

 フィーナの気持ちが明らかに揺らめいているのを見て、ディートリヒは胸にわき上がる衝動を押さえ込むのに必死だった。
 今はまだ、ゆっくりゆっくりとフィーナの心に自分という存在を染み込ませている段階だ。焦ってはいけない。急いてはいけない。
 そうわかっているのに、これまで手の届かない場所にいたフィーナがすぐそばにいて、そしてアレクセイという隔たりもなくなったおかげで、ディートリヒは蓋をしていた己の気持ちが溢れ出してしまいそうなのを感じ取っていた。

 フィーナに触れたい欲が募る。浅ましい欲を押し殺しながら、ディートリヒはフィーナの髪をほどいた。

「……あ、髪が」
「あんまりにも美しいから、ほかの誰にも見せないでほしい」

 ふわりと広がった髪が背中を覆い隠す。いたずらっぽく笑うディートリヒのわがままを、フィーナは恥ずかしそうに頷いて受け入れたのだった。

「さて。先にそなたを見つけたのは私だけれど……どんなお願いを聞いてもらおうかな?」
「――あんっ!」
「…………」
「…………」

 不意に割り込んだなまめかしい声に、二人は顔を見合わせた。

 フィーナとディートリヒはホール内でも人気のない端のほうにいるのだが、近くの柱の影に隠れた男女が、何やら艶めいたやり取りをしているらしい。仮面舞踏会ではたまにあることだ。
 フィーナは気まずさについ咳払いをして早口でまくしたてた。

「あ、あ、あの、……あとで! あとでお願いを聞きますからっ」
「……どんなお願いが、いいだろうね」

 今すぐこの場を離れようというフィーナのわかりやすい誘導を無視して、ディートリヒは妖しげに微笑んで彼女の顔の横に手をつく。
 いつの間にやら壁に追い込まれており、覆い被さるようなかたちで腕の中に囲われている状況にフィーナは目を白黒させた。

 柱の影からは尚もいかがわしい声が聞こえてきており、二人の間にも変な空気が流れだす。
 変な空気を作り出しているのはほかでもないディートリヒであるが、この状況でそんなに色っぽく「どんなお願いがいいだろう」と言われると、誤解してしまいそうになる。――もしかしたらそういったお願いをされるのかもしれない、という不安のような期待のような感情に、フィーナは胸をドキドキと高鳴らせていた。

「フィーナ」
「は、はい……」

 甘い声音で名前を呼ばれ、おなかの奥底がじわりと疼く。長らく忘れていたその身体の反応に、フィーナは思わず声が震えてしまった。

(自分が今どんな表情をしているかわかっているのかな、この子は。……私を誘っているのかと、勘違いしそうになる)

「…………キス、してくれるかい? ここに」

 言葉を絞り出すような間を置いて、ディートリヒは自分の頬をトントンと指した。

「ほ、ほっぺにですか?」
「だめかい?」
「い、いえ……! そんなことはないです!」

 もっと過激な要求をされると思っていたのに、あまりにも可愛らしいお願いにフィーナは拍子抜けしてしまった。
 慌てるフィーナにディートリヒはクスクス笑いながら、背を屈めて頬を差し出す。

(がっかりした……なんて言えないわ。まだ陛下の気持ちを受け入れてもいないくせに、わたくしったら、つい、つい……はしたない想像を……)

 ぶんぶんと首を横に振り〝はしたない想像〟とやらを振り払ったフィーナは、意を決してディートリヒの頬に口づける。ちゅっ、と軽い音を立てて離れると、ディートリヒはとろけそうな笑顔を浮かべていた。

「嬉しいな。そなたからキスをしてもらえるだなんて夢のようだ」
「…………!」

 そんなふうに喜んでもらえるなら、何度だってしてあげたくなる。
 フィーナはそう考えてしまった自分の胸にそっと手を当て、ディートリヒの想いに応えるべきときがきたことを悟った。もうとっくに陥落してしまっていることは自分でも薄々気づいている。あとは勇気を出して、言葉にするだけだ。

「フィーナ、せっかく舞踏会にきたのだから踊ろうか」
「はい! 喜んで」

 ディートリヒに差し出された手を取って、人々に混じって踊る。
 初めてのディートリヒとのダンスはとても楽しい。そしてほかの男女を真似て密着してみると、ドキドキして身体が熱くなった。

 心なしかディートリヒの手もいつもより体温が高く感じられたけれど、見上げた彼はいつもどおりに穏やかに笑っている。
 意識しているのは自分だけかもしれない、とフィーナが隠れるようにディートリヒの胸元に頭を寄せると、涼やかな表情とは反対に激しい胸の鼓動が聞こえてきた。

 ディートリヒに身を寄せれば寄せるほど早くなる胸の音を聞きながら、フィーナは密かに微笑むのだった。

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