海賊に拾われた山の娘

深陽

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十 途切れた音

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――ビオは石斧づくりの達人ですか?


 ユエの声で脳内へ再生された台詞に、ヴィオルリツィーオは奥歯を噛みしめながらも、にやりとしてしまう表情筋を抑えきれなかった。
 そうしてにやけながらも、振りきった石斧は細木にぶつかり、コーン、と音が立つ。そして同時に、石斧の柄を握るヴィオルリツィーオの両手にビィンと強い衝撃も伝わってくる。


「痛ってぇ」


 森の中へ、自分の側へ、誰もいないからすぐ口に出す。これがもし、ユエが側へ居たのなら、ヴィオルリツィーオは胸中でのみ痛いと呟き、黙ったまま石斧を振るい続けていることだろう。

 木こり仕事なんて生まれて初めてやったけれど、存外に大変な仕事である。
 森へやってきたヴィオルリツィーオは、まずは自分の太腿と同じくらいの太さの木を選んで、石斧を振るっていた。だがしかし、石斧を何度振るっても、その太木はちっとも切り倒されてくれないのだ。よって、仕方なく諦めた彼は自分の二の腕よりもずっと細い、それこそ前腕の太さ程度しかない細木にターゲットを切り替えたのだ。

 それなのに、十回、二十回と石斧を叩きつけても細木はびくともしない。この木の堅さたるや……。今、ようやく親指の爪ほどの溝が刻まれた程度。切り倒すにはまだまだだった。
 ヴィオルリツィーオは石斧を構え直しながら、頭を過った考えに首をふる。


――ナイフを使った方がいいんじゃないか?


 いいや、駄目だ。このナイフはいざという時の命綱だ。それこそ、今の所唯一の飲み物となるココナッツだって、ナイフが無ければ穴を開けられない。
 頑張ればこの石斧で割れるかもしれないが、こんな大振りなもので叩き割ったら、ココナッツジュースは零れてしまうに違いない。
 ヴィオルリツィーオは過った考えを捨てて、石斧を振るった。





※ ※ ※





 どさりと石斧を放るようにして手放したヴィオルリツィーオは、自身の膝へ両手をあてた。軽く前かがみになった中腰で、ぜぇはぁと荒い呼吸を繰り返す。

 暑い。シャツの前をはだけて、少しでも服の中へ篭った熱気を外へ逃がそうと試みた。

 木を切るための動作としては、水平に構えた斧を振りかぶって背中側へ引いてから、全力で前方へ振り抜き細木にぶつけるだけだ。たったそれだけの動作だというのに、何十回いや百何回も繰り返していると、こうも息があがるものらしい。
 初めて体感する木こり仕事の過酷さに、ヴィオルリツィーオの額からは汗が噴き出し、こめかみや頬を流れ、顎から滴るほどだった。


――まずいな。


 こんなに汗をかくつもりはなかったのに。ヴィオルリツィーオは若干の焦りを滲ませる。
 汗は体内の水だ。これが外へ排出されているということは、じきに、喉が乾きはじめるだろう。今のところ、飲み物はあのココナッツだけ。しかし一人ならいざしらず、二人分の飲み物としては……もって二、三日分だ。
 この島の周囲には良い海流が多いのかもしれないが、そう毎日毎日ココナッツが流れ着く訳もない。


「……」


 ヴィオルリツィーオは額の汗を拭ってから、細木を見遣った。親指の爪ひとつ分の頃と比べれば、随分と切り口は深くなっている。しかしまだ、細木の幹の半分にも達していない。
 膝についていた手を持ちあげて、両手のひらを見下ろしてみる。手のひらは度重なる強い衝撃や摩擦に赤くなっていて、指を曲げてみると、握り込む力も普段より若干弱くなっている。
 ヴィオルリツィーオは舌打ちをした。それなりに鍛えていたつもりだが、どうやら自分に甘かったらしい。細木の一本も余裕で切り倒せないとは情けない。


 彼は足元の道標に視線を移すと、数秒悩んだ後、歩き出した。
 上半身は疲労困憊だが、脚はまだまだ元気だ。今は森を奥まで探索して、食べ物や飲み物を探そう。ある程度行って戻ってくる頃には、握力も回復しているだろうから、また木こり仕事を再開すればいい。

 そう決断した彼は、石斧も置いて、森の奥へ進む。ユエが並べた木の枝を道標にしながらずんずん歩いて、歩いて、川や湖が無いかどうか、森の中に目を凝らす。

 進めば進むほど、森の中は緑が濃くなってゆく。やがて、ユエが作った道標の末端にまで辿り着く。ここから先は、ヴィオルリツィーオが道標の木の枝を置きながら歩かねば、森の中で自分の位置を見失う。彼は緊張と冒険心を胸に、手頃な枯れ木を拾い集めた。


 歩いては枝を置き、歩いては枝を置く。時折立ち止まっては耳を澄ませて、小川のせせらぎや、魚の跳ねる音がないか、鳥類の水浴びの音がないかを確かめる。
 森は随分、奥へ奥へと広がっているようだった。歩けど歩けど、森の出口らしき場所には辿り着かない。ますます緑は濃くなり、木の枝葉により陰が増す。まだ太陽は空へあるはずなのに、その光もなかなか届きにくいのか、少々薄暗く感じてきた。
 ヴィオルリツィーオは立ち止まり、辺りを見回した。自生している植物の種類が、変わったように思う。森の浅い区域では見かけなかった木や草が増えた。


「戻るか……?」


 自分では、ウルシとやらの危険植物は見分けがつかない。ユエがいないとこの先の安全性が確保できない。
 手元に包帯も薬もない今危険を犯せば、この先の活動にどれほど影響するか。それが分からないほどヴィオルリツィーオは馬鹿ではなかった。

 しかし彼は、諦め難そうに森の奥へと視線を遣って、目を閉じた。耳に神経を集中させてみると、微かに聞こえるのだ。あれは水音。川か何かが流れる音がする。もしかすると飲み水が確保できる所まで来ているかもしれないのだ。
 疼く探求心と冒険心。しかし理性がそれを押し止めて、ヴィオルリツィーオの足を森の入口方向へと向け直した。


「ま、あの木も切り倒してねぇしな」


 戻る理由を自分に言い聞かせて、引き返す足を一歩踏み出そうとした時だった。

 彼の耳へ、せせらぎ以外の物音が届く。ガッサガッサと落ち葉や枝を踏む音だ。それはヴィオルリツィーオが今向かおうとした、森の入口方角から、こちらへ近付いてくる。小動物などではない、それなりに大きな動物の足音だ。こちらへどんどん近付いている。


 ヴィオルリツィーオの頭には、過去の経験記憶が甦っていた。
 昔、無人島だと思って船で乗りつけた孤島に原住民族が住んでいたのだ。しかも彼らは狡猾で、昼の間は身を潜め、夜になって、襲いかかってきた。後から発覚したことだが、その原住民族は自分の村に住まう人以外の生き物は全て食う思想の種族。つまりは食人も、平気で行う民族だったのだ。
 あの時の肝を冷やした感覚が、ヴィオルリツィーオの背中を這い上がった。しかし、怖気に負けて立ち竦む訳にはいかない。ヴィオルリツィーオは拳を握り締めると自分の右頬を殴りつけた。
 手加減無しの一発は随分痛かったけれど、彼の足を動かすには十分だった。


 周囲を見回したヴィオルリツィーオは、一際大きな木の陰に移動すると身を屈め、潜んだ。森を疾走する足音は、こちらへどんどん近付いている。じき、その姿が見えてくるはずだ。
 ヴィオルリツィーオは腰のナイフの柄へ手を掛けて、息を潜めた。

 じっと潜んでいると、更に足音は近付いてきた。音のリズムからして、四足歩行の動物ではないように思える。しかし……人間かどうかは、正直まだよく分からない。
 こちらへ近付いてくる生き物は、時々足を止めているらしい。たまに、進行の足音が止む。


――怪我でもしているのか……?


 もしも手負いの野生動物ならば、狩って食料にするのも良いかもしれない。ヴィオルリツィーオはいっそう強く、ナイフの柄を握りしめた。
 ガッサガッサという足音がより近付いてくる。姿勢を低くし、木の陰へ潜む。呼吸さえも抑え気味にして様子を窺っていると、薄暗い森の中をその生き物は走ってやってきた。


「っ」


 その姿が視界に飛び込んできた瞬間、ヴィオルリツィーオはずるりと足を滑らせるかと思った。
 ユエだ。


――何をしているんだ、浜で待っていろと言ったのに。


 緊張から解放されたヴィオルリツィーオはほっと胸を撫で下ろしながら、ナイフの柄から手を放した。そうして立ち上がる。どうやらユエはこちらにはまだ気付いていないようで、道標の木の枝を追い、その末端まで駆けて、「あっ」と短く声をあげた。
 きっと道標が途切れたので、行く宛てがなくなったのだろう。立ち止まり、左右を見回し、狼狽えたように足踏みしている。

 そんな彼女の様子に異変を感じたヴィオルリツィーオは、大きな木の陰から姿を現わしながら、眉を顰めた。
 一人になることを嫌う様子を見せるユエだが、我儘や勝手をするような奴ではない。そんな彼女が、ここまで一人でやってきた。それも、走って、やってきたのだ。息のあがり方からして、森の入口から……いやもしかすると、浜の焚火の側からここまでずっと走ってきたのかもしれない。走らざるを得ない理由が出来たから、そうしたのかもしれない。


 ならば、その理由とは何だ?
 もしや、何かに、誰かに、襲われた……?
 危険から、逃げてきたのか……⁉


 ヴィオルリツィーオは木の陰を離れ、ユエの元へと飛び出した。彼がガサリと立てた音で、ユエは弾かれたようにこちらを向く。視線がぶつかる。ヴィオルリツィーオの姿を認めたユエの目が大きく見開かれた。


「ビオ……っ!」


 ヴィオルリツィーオは一瞬、足を止めてしまいそうになった。その原因は、ユエの声音と、表情だ。
 彼女のそれらを、なんと言い表せばいいのか。

 ヴィオルリツィーオは、まるで自分が彼女にとっての拠り所になったような心地になった。探し求めていた秘宝になったような心地にもなった。生き別れた兄弟のような心地にもなった。迷い子の母にでもなったような心地にもさせられた。
 ユエが、自分を見て、それまでの不安から解放され、どっと安堵を湧きあがらせたような声に、顔に、見えたから。


「どうしたんだ」


 止まってしまいそうだった足を前へ動かして、ヴィオルリツィーオはユエの元へ近付いた。逆に、ユエは道標の側から彼に向かって、転がるように駆けてきた。


「ビオっ」
「な、なんだ、どうした」


 まだ二日間ほどしか共に居ない仲だが、ユエが不用意に触れてくるような奴ではないと、ヴィオルリツィーオは知っている。しかし彼女は体当たりの如く彼の腕の中へ飛び込んでくると、胸元に縋りついた。

 昨日の晩などは、ヴィオルリツィーオが濡れた服をほとんど脱いでしまったら、恥ずかしそうに視線を外していたというのに。木こり仕事で暑くなって以降シャツの前は、はだけたままだ。それでも構わず、否、そんな事に構っている場合ではないと言わんばかりに、身体の前でひらついているシャツを、ユエは左右の手ではっしと掴んだ。縋るような視線が間近から、ヴィオルリツィーオの瞳へと送られてくる。

 あまりの剣幕に面食らっていたヴィオルリツィーオだが、ぱっと下を向いたユエが咳き込みはじめると我に還った。おそらく、走りすぎて喉を酷使したせいだろう。空咳が連続している。


「大丈夫だ。息が落ち着いてから話せばいい」


 支えるように肩へ手を添えて、ヴィオルリツィーオは森の入口方向へ顔を向けた。森の中を蠢く怪しい影もない。何かがユエを追い立てていたならば、もうとっくに追い付いていていいはずだ。お世辞にも、走ってくるユエの足は速いものではなかった。

 もしも原住民族や、肉食動物に追われていたならばもうとっくに食いつかれているはずだ。
 こうして二人で集まっているのだ。標的とされているのならば、既に攻撃を仕掛けられているはずだ。

 それもないのだから、自分達の周囲に害を及ぼす存在はいないのだろう。それでも一応、ヴィオルリツィーオは警戒の態勢を解かず、森の入口方向やその逆へと視線を巡らせていた。


 そんな彼の腕の中で、ケンケンと咳込み、その合間に忙しない呼吸を繰り返すユエを一瞬見下ろして、ヴィオルリツィーオは己の欲が頭を擡げそうになるのを微かに感じて、眉と口をひん曲げた。
 言い訳としては、女の荒い呼吸なんぞベッドの中でしか、聞いた試しがない、というものだが、漂着した島で、何かに怯えるように走ってきた少女の息があがっていて、たまたま自分の腕の中へ彼女がいて、たまたまその呼気がはだけた胸や腹にかかっているからと言って、条件反射のように欲情するのは、自分でもどうかと思う。


――今日はもう済ませたばっかりなんだが……。


 あれだろうか。生命の危機に瀕すると、男は子孫を残すためにソッチが活性化するだとかなんだとかの……。
 ヴィオルリツィーオは自分を正当化する思考をええいくそと散らすと、周囲の警戒に努めるのだった。





※ ※ ※





「ごめ、なさい」


 もう一歩呼吸は落ち着いていなかったが、咳の方は落ち着いてきたらしい。ユエは途切れながらにも、謝罪を口にした。
 同時に、彼女はしっかりとヴィオルリツィーオのシャツを握り締めていたと気が付いたのだろう。狼狽えたようにぎこちなく、両手を開いてシャツを解放した。


「構わん。それより、どうしたんだ? 一体なにがあった?」


 ユエの慌てようは只事ではなかった。あんなにも一心不乱に駆けてきて……浜で何かあったとしか思えない。異常事態があったに違いない。
 心配そうに顔を覗き込まれたユエは、「あの……」と言い淀んだ。
 その様子にヴィオルリツィーオは内心首を捻る。なにを躊躇う必要があるのだろうか。あったことをただ素直に話せばいいだけだというのに。


「あの……」
「何があった? 言え」


 言葉だけは高圧的に、だが口調にそれは感じられない。ヴィオルリツィーオに促されてユエはようやく、説明の口を開いたのだが……。


「木を切る音が止んだので……、ビオに何かあったのかと……思ってしまいました……」
「は?」
「ごっ、ごめんなさい……!」
「いや。怒っちゃいねぇよ」


 怒ってはいない。ただ、ユエの言わんとすることが理解出来なかったのだ。
 確かにヴィオルリツィーオは一旦木こり作業を中断した。そうして森の探索作業へ移っていたのだ。それは事実だが、何故それでユエがここまで走ってきたのか……。彼は実際にも首を斜めに傾げてみせた。

 そんなヴィオルリツィーオの仕草に、ユエは「んん」と喉の奥で唸ったものの、事情を説明しなければと気持ちを奮い立たせたらしい。


「浜に居ても、ビオが木を切る音は聞こえていたんです。音が聞こえている間は、ビオはいるから大丈夫と思っていました。でもその音が途切れて……最初のうちは休憩をしているんだと思いました。けれど、その後もずっと木を切る音は聞こえてこなくて……。もしかしたら毒蛇に噛まれて苦しんでいるのかもしれないし、野生獣に襲われたのかもしれないし、森の奥に住んでいるかもしれない住民の人に襲われたのかもしれないと思ったら……居ても立ってもいられなくなって、それで……言いつけを破りました。ごめんなさい」
「お前……」


 ヴィオルリツィーオは二の句が告げなかった。
 ユエの事情説明は解り易くて、彼女が何を思い、行動したのかがよく解った。けれど。否、だからこそ、ヴィオルリツィーオは言葉を失ったのだ。


――俺を、心配して……?


 お世辞にも、速くない足であんなに懸命に駆けてきたのは、ヴィオルリツィーオの身を案じるあまりに……だと?


 いいやちょっと待て。と彼は、脳内に言い聞かせた。そんな上手い話があるものか。
 ユエは一人になるのをひどく嫌っていたはずだ。その事が全く無関係とは思えないぞ。


「一人が嫌で、ここまで来たんじゃないんだな?」


 あえて、念を押すみたいにしてヴィオルリツィーオはユエの気持ちを問うた。
 本当に、ヴィオルリツィーオに対する心配だけでああも駆けてきたんだな、と尋ねれば、ユエはまた「んん」と喉の奥で唸って、ハの字眉を作った。しかしやがて観念したのだろう。


「……それも、無かった訳ではありません」


――ほらな。


 認めた。
 やっぱり俺の心配をする奴など居ないのだ。
 ヴィオルリツィーオは舌打ちをしたい気分一色に染まりながら、少し俯きがちになったユエのつむじを見下ろした。
 一瞬喜んでしまったせいで、その視線は冷ややかな苛立ちをも孕んでいる。


「……一人はこわいです……。でも、ビオが木を切ってくれて。わたしが雨除けを編んで。その役割分担は、少しでも早く、雨天対策をして雨の度にウロへ避難しなくても良くするためです。分担して効率的に作業を進めなければいけない事は解っていました。だから、木を切る音が聞こえなくなっても、雨除けを編みました。その材料の葉が尽きたのもあって、森へ来ました。ごめんなさい」


 しゅんと俯くユエに対して、ヴィオルリツィーオは何と言うべきなのか、とても迷った。

 心配をしてくれた事に礼を言うべきか。
 浜に居ろと言いつけたことを破ったのだから、叱るべきか。
 葉が尽き、材料集めへ自主的にやってきたことを褒めるべきか。

 どれを選ぶべきか決めあぐねた末に、ヴィオルリツィーオはもう一つ問うた。


「なんで、走ってきた?」


 資材集めならばこれまで何度も行ってきた。走る必要もないはずだ。なのにユエは一心不乱に森の奥まで駆けてきた。そんなに走る必要は、どこにあった?


「ビオが切ろうとした木や、側に石斧を見つけました。それが投げ出されていて、でもビオの姿は見当たらなくて。ビオに何かあったらどうしよう、と……怖くなったんです」
「自分一人では、助からないと思うからか?」


 冷ややかな苛立ちはヴィオルリツィーオの口を、いつも以上に悪く仕立て上げた。
 なんて意地の悪い質問をしているのだろうと、ヴィオルリツィーオは我ながら思う。しかしそんな質問に、彼女は睨み返すこともなく、顔をあげて、真っ直ぐに見つめ返してきた。
 ふるふると、ユエの首が振られる。


「ビオには、村があります。帰る場所があります。そこに今、帰れていないのはわたしのせいです。あなたを、帰るべきところへ届けるのがわたしの役目です」
「お前だって、故郷はあるだろう」


 言った直後に、ヴィオルリツィーオは己の失念に気が付いた。そうだった。彼女は人買いに売られて、ここへ来たと言っていたはず。
 咄嗟に訂正しようと口を開きかけたヴィオルリツィーオよりも早く、ユエの表情が一瞬、泣きそうに揺らいだ。しかし彼女はほんのりと瞳を潤ませただけで、涙は零さなかった。


「わたしにはありません。だけどビオにはきちんとあります。だからあなたを無事に帰すまで、わたしの命はあなたの為に使います」


 ヴィオルリツィーオはすっかり動揺しきっていた。

 不用意な発言をしてしまった後悔。ユエを泣かせかけた焦り。彼女が気丈にも涙ひとつ零さなかった驚き。帰る場所があると断言された事への疑い。己が生命までをも自分の帰還へ懸けられた重圧。それらすべてでヴィオルリツィーオはユエに圧倒され、唸りひとつも生み出せず、彼女の黒い瞳を見返していた。

 しばし見つめ合っていた二人だが、やがて、ユエが静かに瞬いた。
 潤んでいた瞳は一度の瞬きでその水気を、どこかへ引っ込めてしまったらしい。そうして、元へ戻したユエは彼に尋ねた。


「怪我はありませんか?」


 まだ狼狽の尾が引いているヴィオルリツィーオは、言葉もなく、ただ、頷いた。
 それが、ユエにとっては不審にも思えたのだろう。


「ほんとうに?」


 彼女はヴィオルリツィーオの身体のどこにも怪我がないかどうか、自らの視線で確かめながら再び尋ねた。特に心配な指や手はユエの視線が念入りにあてられる。

 ヴィオルリツィーオは落ち着かなかった。彼女の声や視線に、心配の気配が宿っているから。
 どれだけ長い航海から帰ろうと、村の皆は誰一人としてそんな言葉掛けや目を向けてくれなかった。大変だったろうと労う言葉もなかった。あったのは、「こんなにも遅くなって」とか「どれだけ待たせるんだ」とかそんなような言葉ばかり。

 それなのに、ユエは。
 会って数日しか経っていない彼女は、ヴィオルリツィーオの心配を、してくれる。


――俺は今、お前を刺したばかりなのに。


 帰る場所がないとその口で言わせたヴィオルリツィーオは、ユエの心の内側にある柔らかい部分を刺したばかりだ。
 それなのに彼女は、怒りもせず、泣きもせず。……きっと、心の内側だけで涙を流しているけれど、それを表へ見せずヴィオルリツィーオの身を案じている。


「……」


 ヴィオルリツィーオは黙ったまま、ユエの視線があたっている両手を、彼女のまえへ差し出した。
 ユエは手のひらを確かめて、彼の指先を握って手の向きを変えさせるとその甲もしっかりと無事を確かめる。


「足も、平気ですか? 蛇は気付かないうちに足元へ居ることがあります」
「噛まれてない。一匹見かけたが、そいつからはすぐ離れたんだ」


 実際に目視で無傷の確認をし、ヴィオルリツィーオが無警戒ではなく回避行動も取っていたことを知り、ユエはようやく安心したらしい。肩から力を抜くようほっと息を吐いて、改めて彼を見上げた。


「無事で、よかったです」


 ユエの目元が緩む様に、ヴィオルリツィーオは落ち着かなくなる。黒い瞳は、ここ西の国では珍しいけれど、全く見かけない訳ではない。耐性が無い訳でもないのに、ユエの瞳には見入ってしまいそうになる。
 ヴィオルリツィーオはぶんと首を振って、口を開いた。


「心配かけて、悪かった」


 自分でもおどろくくらいに、素直が勝った台詞だった。

 だけど、今は。
 ユエには、下手な意地も、見栄も、張れる心境ではない。

 そんな自分にヴィオルリツィーオ自身も驚いたのだが、それはユエも同じだったらしい。
 らしくない、とすら受け止めたのかもしれない。


「い、いえっ」


 彼女は胸の前で両手をふりふりと振る。


「わたしが勝手に心配しただけなので、そんな、その、ビオが謝ることでは」


 謝らせたことを謝るかのよう頭を下げるユエに、ヴィオルリツィーオはやはり素直だった。


「勝手でいいんだ。心配してくれ」


 村の誰も、してくれなかったその気遣い。
 心配をしてもらった経験は初めてではないけれど、何年も得る機会のなかったその心情に、ヴィオルリツィーオは飢えていた。


「……ビオ……?」


 彼の言葉に目を丸くしていたユエが、そっと、窺うように名を紡ぐ。


「どこか、痛むのですか……?」


 傷を見逃したのだろうかとユエの視線が身体を確かめ始めるから、ヴィオルリツィーオは「いいや」と否定した。
 心配はしてほしい。だが、心配をかけ続けたいわけではない。そんな矛盾した考えに我ながら呆れたヴィオルリツィーオは、シャツのボタンを留めながら自分の気持ちを宥める。

 流石に今のは、らしくなかった。


――海賊が人からの心配を欲しがるなんて、どうかしてる。


「葉、集めるぞ」
「え? ぁ、は、はい」


 先に歩き出したヴィオルリツィーオは、しばらくユエの顔を見ることができなかった。

 なにがどうして、さっきあんなに素直をさらけ出してしまったのか。原因を探ると、また狼狽がぶり返しそうで出来ない。


 ただ思うのは。
 この島を脱出して、ユエをガヴァ村へ必ず連れていかねば。
 ヴィオルリツィーオはそう、強く思ったのだ。

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