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負けないで
しおりを挟む匠は七海を抱き上げたまま下ろしてくれない。
「お、おろし……」
「いい。そのままで」
地を這うような低い声に、七海は何も言えなくなってしまう。ぬかるんだ泥道をびしゃ、びしゃ、と音を鳴らしながらゆっくり道場に戻る。そばにいると肌をびりびりと刺激するような怒気に包まれており、七海の怒りはすでにしぼみかけていた。
「……あとでちゃんと綺麗にするから」
そう言って匠は七海を道場の中に連れていってくれた。ぱんぱん、と袴や上衣についた泥や砂を大きな手で払ってくれる。
「……せっかく、買ったのにな」
「そう、ですねえ……」
真新しい弓道衣は、見るも無惨な様相になってしまった。自分の門出に水をさされたような気持ちになり、七海の目にじわりと涙が浮かぶ。
「ちが、これは……悲しいんじゃなくて……私は、」
「うん。大丈夫……大丈夫だから」
また新しいのを買おうと言わない匠の優しさ。ただの弓道衣ということではなく、七海の決意も知っているからだろう。
こしこしと目をこすっていると、大きな手がそれを制した。
「七海ちゃん……これ……」
匠と七海の間に差し出されたの白いタオルだ。タオルからゆっくり視線を上げると先程ひざ掛けを貸してくれた婦人だった。
「汚れているから、ね?」
「……はい、ありがとう、ございます……」
七海は先程と同じように厚意を受け取る。すると、匠は「お願いしていいですか?」と、婦人に確認して、立ち上がる。
そして、矢を放った人物のところに詰め寄った。
集団でひとかたまりになり、ニヤニヤといやらしい笑みを隠さない。
しかし匠は怯むことなく集団に向かう。
「どういうつもりであんなことをした」
「……ちゃんと声を出さなかったし、こっちも大丈夫ですって言ってなかったからじゃないですか?」
底意地の悪い笑みを浮かべている男性の言葉に周りが「そうだね」と、同調する。しかし、蓮子だけはそこに加わわらず、じっと俯いて黙っていた。
七海は何となく考えないようにしていたが、噂の出処は蓮子なのではと思っていた。全てのタイミングが良すぎる。
恐らく、匠への恋心が原因だろうと今更気づく。けれども気づいたところで七海は何も出来ない。
結局恋を実らせるには、自分から動かなければいけないのだから。
(高校の時も誰の彼氏の横恋慕だなんだかんだあったなあ)
恋多き友人たちを傍目で見ていた七海はそんな感想を抱く。
「……なら、お前らが立ってみるか? 俺が射る。絶対に外さないから」
七海がぼんやりと様子を眺めているうちに、匠の不穏な声が響く。七海はハッと我に返り匠に近寄る。
「だーかーら、これは事故だって。ごめんねー七海ちゃーん」
匠の肩口から、男性がひょこりと顔を出して形だけの謝罪をしてくる。しかし、七海は怒りを隠さず、男性を睨みつけた。
「私は言いましたし聞きました。矢取りに入ることも、大丈夫ですという声も」
「へえ。ここは言い返すんだ。ネンショーに入ってたとか、エンコーしてたとかには何も言い返さないのに。ってことはやっぱりあれは本当だったってことだよなぁ?」
あんまりな揚げ足取りに、七海は絶句する。しかし、言い返すよりも先に、匠が七海の視界を遮った。
「……言った、言わないの論争は無意味ですから。ここはひとつ俺と勝負しましょう」
低い声に震えが加わる。匠の怒気は凄まじく、少し離れた七海ですら恐ろしいと思ってしまう。もちろん対峙していた男性も同じなのか、すり、と一歩後ずさった。
「……はあ? 勝負だあ?」
「ルールは簡単。お互い一本ずつ矢を放って、的の中心に近い方が勝ち」
それだけ。と匠は続ける。
「俺と、みなさまとの勝負です」
「あんた一人でってことか?」
「ええ。いち、に、さん、し、ご……最後は蓮子で」
匠の指定に、蓮子が肩を揺らした。何も言わずに顔を伏せて、うんともすんとも言わない。この場から存在感を消し、やり過ごそうとしているのか。そんな考えが浮かび、狡い女性だと軽蔑の念をさらに深める。
「蓮子さんが出るまでもない」
男性はバカにしたように鼻で笑う。
「そんな大きく出ちゃって大丈夫? 知ってると思うけど、俺たちはGEONの社会人弓道部だぜ?」
「ええ。定期的にここで練習しているのも知っていますし、最近になって練習時間を夜に変更したことも知っています」
そういえば最初に社会人の人も練習していると聞いた。ここのところ人が多かったのはそういうことか。と、七海は場違いな納得をする。
「……勝負ってことは、何か賭けるのか」
「ええ。俺が勝ったら七海の噂の撤回と謝罪を求める」
「匠さん!?」
今度は七海が声を荒らげる。そんなことは望んでいないと続けるが、匠は振り返らない。
それどころか、匠の視線の先に男性はいない。男性の影に隠れるようにしている蓮子に向いていた。
「そのかわり君たちが勝ったら、何でも言う事を聞こう」
「ふうん」
片方の口角だけ上げて、男性の視線が七海に向く。下品でいやらしい視線だ。ぞくりと七海の肌が粟立つ。
「まあいいや。おい、お前らなんか考えとけよ」
「ウィッス」
「はい」
男性にそう言われた他の部員が返事をする。男性と女性が半々。雰囲気からして、圧倒的な実力を感じる。
「さあて、面白くなってきたなあ」
不穏な一言を残して、全員が各々の準備のために散らばる。少し遅れて蓮子が動き出すのが見えた。それを横目で睨みつけると、七海の視線に気づいた蓮子がやっと顔を上げた。
顔色を伺うまでもない。七海はすぐにふい、と顔を逸らした。
「匠さん」
七海は準備をしようとしている匠の後を追い、声をかける。
「ごめん、勝手に決めた」
「匠さん、無茶です。私から見てもあの人たちは実力があるって分かります……あの、怪我もなかったし、わかってくれる人がいれば私は……」
構わない。と続けようとしたが、鋭い視線で遮られる。
「七海のそういうところがすごく綺麗でそのままでいて欲しいっていう反面……」
匠がまた歯を鳴らした。怒っている、怒らせている。七海は自分が何か間違ったのだろうかと閉口した。
「もっと、自分を大切にして欲しいって思う。怒っていい。こんな理不尽なことに慣れないで欲しい」
弓道衣には着替えず、ジャケットを脱ぎ捨て弽を装着した匠は、矢と弓を持って行射に向かう。
「絶対に謝罪させる。あと、俺が勝ったら……そうだな……」
匠は振り返らず、背中で語る。
「今日の夕飯は七海に作ってもらおう」
だから、応援していて。そう続いた言葉に、七海の胸がぎゅっと締め付けられる。
理不尽には慣れていたはずだ。学生の頃から見た目で判断され、『からんど』で働くようになってからも、いくつもクレームを受けた。最近では店のためにと航大の言いなりになり体を壊した。
(怒っていい、か)
前向きに。後悔はしない。そんな風な考えになってしまったのは、理不尽に晒されていたからだろうか。けれども、大切な弓道を汚されたことは七海の中で明確な怒りとなっている。
「匠さん!」
七海の叫びに、匠がゆっくり振り返る。
「これでも私、結構怒ってますよ! だから、」
負けないで! 頑張って!
七海は自分の怒りを匠に託す。彼ならきっと負けないと確信していた。
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