彼岸の傾城傾国

高嗣水清太

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第一章 偽りの皇帝

第十九話*

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 禁城きんじょうの外廷で三日続いた宴の二日目。
 煌威こういは、早々に寝殿へと引き上げていた。
 宴会とは、食事をしたり酒を飲んだりして楽しむ集まり、という意味だというのが煌威こういの自論だ。皇帝に気を使う集まりではない。
 いくら煌威こういが気を使うなと言ったところで、皇帝即位の宴と銘打っている以上、自分がいつまでも居ては楽しめないだろうという配慮だった。


 禁城きんじょうは皇帝の住居ということで、煌龍帝国こうりゅうていこくの中でも殊更ことさら豪奢ごうしゃな造りをしている。翡翠と朱塗りの壁は、昼間は鮮やかに目を楽しませるが、夜となると色濃い濃霧のように視界を惑わせた。
 月夜とはいえ足元は頼りなく、各所に設置された燈籠とうろうの明かりは唯一の道標だ。
 皇帝即位の式典で用意された装飾品は冕冠べんかんを含め重く、煌威こういに寝殿への足を急がせる。

 内廷にあたる後宮は皇帝の寝殿や皇后・貴妃達の寝殿が並ぶ私的空間だが、煌威こういきさきはまだ居ない。その上、この時間帯に起きている宮女や召使い、宦官かんがんは宴に集まっているだろうと、煌威こういは音も気配も隠さず進んだ。

 禁城で暮らせる成人男性は皇帝一人と仕来りで決まっている為、禁城の北に位置する王府おうふで暮らしていた煌威こういにとって、後宮に位置する皇帝の寝殿に入るのはこれが初めてになる。
 これから自分はここで寝起きをするのかと思うと、不思議な心地がした。

 皇帝のしるしでもある、昇龍の彫刻が施された一対の柱が皇帝の居住区である寝殿の目印だ。
 煌威こういは、昇龍が両側から守るようにあつらえられた、重たく感じるその扉に手をかけた。

 ――おごそか、というのか。
 木がきしむ音すら何やら意味がありそうだと思わせる、神秘めいた雰囲気をかもし出す扉を引き、その室内に足を踏み入れる。

 歴代の皇帝が居住区にしていた寝殿だ。ぜいを尽くした造りをしているのだろうと煌威こういは予想していたが、扉を開けてみれば華美な装飾品はまったくと言っていいほどに無く、観賞用の花すら無い。あるのは木製の机に箪笥タンス、本棚、寝台と、良く言えば実用的で意外と簡素かんそな作りをしていた。
 拍子抜けしていない、わけではないが、煌威こうい個人としてはとても好ましく感じた。

 ふと机に視線をやれば、そこにあるすずり煌威こういが長年愛用している物で、皇帝付きの宮女がさっそく仕事をしてくれたらしいことを悟る。
 箪笥たんす抽斗ひきだしを開ければ、既に自分の持ち物が収まっているのだろうかと、煌威こういは少々微妙な気分になったが、皇帝という立場になったからには仕方ないことなのだろうと諦める。
 本棚に収められた、今はまだ高価な紙の代わりに竹の板で作られた書籍である竹簡ちくかんは、既に煌威こういが所有していたそれらだ。
 いつか、その中に自分のあざなが載った竹簡ちくかんも歴史書として残るのだろうかと思うと、感慨深くなると同時に暗然あんぜんとなる。

 煌威こういが皇帝即位に際して付けられた字は、どう反応すればいいのか戸惑うもので、正直あまり嬉しくないものだった。
 いや、絢琰けんえんと字を名づけられたことに不満があるわけではない。〝絢琰帝〟けんえんていという響きは悪くないし、字画に問題があるわけでもない。
 だがしかし、絢琰けんえんきらびやかで美しい宝石の意味だ。……悪気は、ないのだと思う。そもそも宝石に悪い意味はない。
 ――しかし、

「貴方には合わない」
「……っ!」

 まさに今、自分が思っていたことを言葉に表され、煌威こうい瞠目どうもくする。
 咄嗟とっさに振り返れば、すぐ背後に紅焔こうえんがいて息を呑んだ。

 ここは、皇帝の寝殿だ。皇帝以外の男は立ち入り禁止と決まっている後宮だ。いくら皇帝の従兄弟といえど、言い訳はできないんだぞと煌威こうい叱咤しったしようとしたが、無遠慮にこちらへ伸ばされる紅焔こうえんの手を見て言葉を失う。
 およそ、紅焔こうえんらしくない立ち振る舞いに唖然あぜんとしている間に、冕冠べんかんから垂れるりゅうの間から手を差し込まれ、冠を固定していたかんざしを引き抜かれた。
 何を、と煌威こういが口を開く暇もなく、まとめていた髪が肩を滑って落ちる。
 乱雑な仕草で、紅焔こうえんによって皇帝の証とも言える冕冠べんかんが投げ捨てられ、たま飾りの充耳じゅうじが硬質な音を立てた。

「こ……」

 紅焔こうえん、と名を呼ぼうとして、腕を取られる。
 寝台の上に押し倒されたのだと煌威こういが気づいたときには遅く、脚の間に足を差し込まれ身動きを封じられていた。
 少しも焦る気持ちが湧かないのは、紅焔こうえんに殺気がないことともう一つ。

 注がれる眼差しに、――ああ、あの眼だ。と、思ったからだ。甘い、蜂蜜色の双眸そうぼう
 何度か見た、普段は実直と言っていい真面目一辺倒男の紅焔こうえんが、唯一隠さず煌威こういに見せる、意思の光だ。
 それは、崇高すうこうなものではなく俗物的ぞくぶつてきで、欲が垣間見えるものだったが、煌威こういも人のことが言えた義理ではないので、黙って見上げる。 

絢琰帝けんえんてい……」

 紅焔こうえん煌威こういの視線を受け止めながら、熱に浮かされたような顔で字を呼んだ。

「貴方に、宝石は似合わない」
「……知ってる。では、わたしに似合うのはどんな名だと思う?」
「貴方にこそ、黄帝こうていが相応しい。黄龍のこうだ」
「それは……」


 龍は、皇帝の象徴だ。しかも黄龍と言えば、あの赤龍だったと言われる焔帝えんていと同じ位の龍のことを指す。さらに黄色は、昔から皇帝のみがまとうことを許される色だと言われていた。
 煌威こういは、それはいくらなんでも買いかぶり過ぎだと、紅焔こうえんたしなめようとして、その真剣な眼に閉口する。

 ――なんとなく。紅焔こうえんが自分に求めているものを察して、唇を引き結んだ。
 まだ皇帝に即位して日が浅い煌威こういには、当たり前のように自分を頂点として仰ぎ、そう在ることを望む紅焔こうえんを見るのは酷く辛かった。

 黙る煌威こういをどう思ったのか。
 紅焔こうえんは寝台に広がる煌威こういの髪を一筋取ると、そのまま自分の唇に押し当てた。
 髪に口付ける、その意味はなんだったかと煌威こういが思案しているうちに、近づいてくる紅焔こうえんの顔が間近に迫る。
 煌威こういが咄嗟にきつく瞳を閉じれば、閉じたまぶたの上にも唇が落とされた。
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