元オペラ歌手の転生吟遊詩人

狸田 真 (たぬきだ まこと)

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第三幕 学生期

163.帰還に必要なもの1

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 エストは、リンの寝室のベッドにルミノ君と一緒に寝転がっていた。リンの寝室は、水上の階にあり、内装はやはりリゾート風で、大きな窓が壁面と天井に付いている。大自然を眺めながら寝られる大きなベッドがあり、布団はフカフカの羽毛布団である。

 エストは、リンの宝物庫から持ち出した絵画を壁に立て掛け、魔道具のレコードで音楽を流し、食料庫に入っていたワインを開けた。

 絵画は、美人画で、足元には咲き乱れるアヤメの花、雲間から光がさし、虹の光を身に纏う虹の女神イリスが描かれている。

 音楽は軽快なリズムと陽気なハーモニーの南国の民族音楽的な曲だ。

 グラスにワインを注いで飲むと、華やかで芳醇な香りが口に広がる。

 おぉ! シャトー・マルゴーのような王道のワインだ!

 繊細で複雑な味わいは、まるで貴婦人のようである。

 ルミノ君の分も、お皿に入れてあげると、とても喜んで飲み始めた。

エスト
「いや、実に素晴らしい! リンの好きそうなワインだ! この貴婦人のようなワインは、決して、痩せっぽっちの女性じゃない、ふくよかで豊満な女性だよ! ね! ルミノ君!」

 ルミノ君も頷いて同意する。

バルド
「エスト! 何処だ!?」

 部屋の外から大きな声でバルドが呼ぶ声がするので、エストも答える。

エスト
「ここ! ここ!」

 バルドが駆け込んでくる。

バルド
「ここにいたのか!」

エスト
「うん! 今、ワインを開けたところ!」

 エストの姿は見えないが、酔っ払ってご機嫌なルミノ君を見れば、エストがどんな状態なのかは、バルドには何となく想像がついた。

エスト
「凄いんだよ! 俺が飲んでも、飲んでも、ワインは減らないんだ! でも、ルミノ君が飲むと減っちゃうんだけどね。」

バルド
「そうか...」

エスト
「ところで、俺の体はどうだった? 元気になりそう?」

バルド
「あぁ、体は今のところ大丈夫だ。 だが、精神と肉体が長時間分離していると死ぬらしい。すぐに、肉体に戻れ!」

エスト
「た、大変だ! 分かった!」

 しばらく、無言の時間が流れる。

エスト
「...でも、どうやって? こっちで眠れば、あっちで眼が覚めるかな? でも、肉体がないから、眠くないんだよな。」

バルド
「今、アイリスところに来ているんだが、アイリスが言うには、この封印の間より、肉体のある世界の方が素敵な場所だと思えば、戻れるらしい。」

エスト
「アイリスのところにいるの!? わぁ、それは会いたいなぁ~。」

バルド
「アイリスの家も中々面白い作りだった。」

エスト
「それは、戻るのが楽しみだな。」

バルド
「だったら、早く戻れ。」

エスト
「うん。」

 また、少し無言の時間が流れる。

エスト
「...戻れない。」

バルド
「何故だ!?」

エスト
「頭では帰らないとって、思ってるんだけど...帰ろうと思うと、嫌な事を思い出しちゃって...ルドも見たでしょ? 教室の...俺の悪口が書いてあった。」

バルド
「消してくればいいのか?」

エスト
「文字が書いてある事が問題なんじゃなくて、俺を嫌っている人がいるって事が問題なんだよ。」

バルド
「じゃあ、そいつを消してくればいいんだろ?」

エスト
「駄目だよ! それにどうせ、誰がやったか分からないでしょ?」

バルド
「学校の奴らを全員消せばいい。」

エスト
「絶対に駄目! そんな事になったら、悲しくて、永久に戻れなくなる!」

バルド
「では、どうすればいいんだ!?」

エスト
「あっちに戻ったら、楽しい事が待っていれば、戻れるんじゃない?」

バルド
「例えば?」

エスト
「一日中ベッドでゴロゴロして、美味しい物を食べて、音楽とか芸術をして遊ぶとか...」

バルド
「では、しばらく、学校は休んでそうしろ。」

エスト
「うん。」

バルド
「......。」

エスト
「.......。」

バルド
「何故、戻らない?」

エスト
「考えてみたら、今がその状態だなぁ~と思って。」

 バルドは、部屋を見渡して溜め息をついた。

バルド
「片付けるぞ。」

 バルドがワイン瓶を持ち上げると、リンがやってきた。

リン
「説得出来たか? って、ちょ!」

 ベッドには横たわるルミノ君とぐちゃぐちゃになった羽毛布団、壁際には宝物庫から持ち出された絵画、オーディオルームから持ち出された魔道具のレコード、そして、封の空いた高級ワイン。

 お気に入りのプライベート空間を荒らされて、リンは怒った。

リン
「おい、お前ら! ふざけるな!」

 怒ってはいるが、さほど怖くはなく、呆れたような口調だ。

 リンはバルドからワイン瓶をもぎ取る。

リン
「空っぽじゃないか!?」

バルド
「俺は飲んでない。」

エスト
「お、俺は飲んだけど、俺が飲んでも減らないんだよ!」

リン
「飲み干したのはルミノ君だって言いたいのか? でも、ボトルを開けたのはエストだろ? 60万イェ二相当のワインだぞ!」

エスト
「どうりで美味しい訳だ!」

リン
「お前なぁ~!」

エスト
「ごめん、ごめん! 弁償するから! でも、ほら、あっちの世界だと、体が子供で、俺はずっと禁酒してただろ? 見つけたら、どうしても飲みたくなっちゃってさ! せっかくだから、もうちょっとだけ...」

リン
「駄目に決まってるだろ! あっちに帰らないといけないのに、こっちで楽しんでどうする!?」

エスト
「だ、だよね? じゃあ、レコードを聴き終わったら片付けるね。」

リン
「今すぐに片付けろ!」

 ルミノ君は外に帰ってもらい、エストがレコードと絵画を片付けている間にリンは水と風の魔法で布団を洗って日当たりの良い場所に布団を干した。

 そして、片付けが終わると、水中のガラス張りの部屋に移動し、3人でソファーに腰を下ろした。

リン
「それで、こっちが楽しいから、あっちに戻れなくなっていると、そういう事なんだな?」

エスト
「うん。 だって、ここって天国みたい居心地がいいだろ? ルドもリンも、それで住み着いた訳だし。」

バルド
「まぁな。」

リン
「だが、エストは戻らないと死ぬんだぞ!?」

エスト
「頭では分かってるんだよ? 帰らないといけないって... でも、心は思った通りにはならないんだ。」

 肉体のある世界に戻れば、焦茶の自分を嫌うイタズラ書きの犯人や、歌を怖がるクラスメイトとの問題が待っている。

 ジーンシャンの次期領主としての責任も重圧だ。誰よりも勉強して強くならなければならないのに、武術の授業も怖いし、バトルの試験も怖くて、良い成績が取れるとは到底思えない。悪い点数を取ったときに、領の皆は何て思うだろう?

 それで、自分の代わりに優秀なレオナルドが領主になってくれるならいいのだが、馬鹿で役立たずで嫌われ者のままの自分が領主としてジーンシャンを治めなくてはいけないとしたら、領民の暮らしはどうなるんだろうか?

 ダンスの授業では、自分だけではなく、ペアを組んでくれたカレン王女まで悪口を言われてしまうかもしれない。

 一番気になるのは、神殿の暗殺未遂事件のように、殺したいほど自分を嫌っているという人間が、他にもいるのではないかという事だ。

 ヤンやタイラのように、自分の事を好きで、一緒にいてくれる人もいる。でも、もしかしたら、そんな皆も、表面的に仲良くしているだけで、ディーデリックのように本心では、自分を嫌っているのかもしれない。

 自分なんか、いない方が皆が幸せなのでは?

 どうしても、そんな事を考えてしまうのだ。
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