悪魔が私を食べない理由

井名可乃子

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人ならざる瞳

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その人があらわれると、私の両足はするりと床に降りた。

「もう少し準備を、と思っていたんだけど。起きちゃった?」

レイの声色は私に接するときと同じく穏やかだったが、部屋の空気は突然がらりと変わってしまった。

「うるさい」
「ははっ、ノア君は辛辣だな」

扉の奥から顔をだしたと思ったその人は、目を離した一瞬の隙に私とレイのあいだに割って入った。髪で隠れて顔はよく見えないけれど、間近に迫ったまなざしには軽蔑が満ちていた。

「これのせい?」
「ほらほら、レディを恐がらせない」

淡泊な物言いにも臆さないレイは、冗談まじりで会話を続ける。

「彼女は、僕の特別だよ」
「関係ない」
「でもノア君、興味はあるんだ。わざわざ見にきたりして」

ノア。そう呼ばれる彼は靴底を強く鳴らしながら前進し、私の手首を容赦ない力で持った。いきなりのことで声もでなかった。

「こんなもの、いらない」
「ちょっと、もう少し丁重に頼むよ」
「どうせ耐えられない」

顔色ひとつ変えない彼は、私の存在を否定するかのように力を強めた。捻りあげられていくたびに体が沸騰するように熱くなるのは痛みの限界を超えたのか、それとも彼の正体がまた人ならざる者であるのか。

「私……痛みは罰になりません」

熱に浮かされて余計なことを口走ったせいで、さらに乱暴するかと思い身構えた。けれど予想をはずして拘束はただ解かれ、私はその場に尻餅をついたのだった。

「正式なお披露目は、夕食の予定だったんだけど。どうかな、びっくりした?」
「これ」
「イリナだよ。ちゃんと名前で呼んでね」

光の入る余地すらない漆黒の瞳がじっと私を見おろす。私たちを繋ぐものはなくなったのに、まるで吸い込まれていきそうな恐怖に後ずさるのが精一杯だった。吸う息がうわづり、空気の逃げ場がない。

「いつ連れてきた?」
「今さっき。イリナ、彼はノア君だよ」

その呼びかけが私を正気に戻した。手首を庇いながら立ちあがり、背後にいるレイよりずっと後ろに下がる。誰が敵とか味方ではなくて、ノアという得体のしれない人物から離れるべきという動物の本能だった。

「よく、なついてる」
「まさか疑ってるの? 僕、初めてノア君に親近感を持ったよ」
「……レイ、私」
「そうだね。できるなら、言葉にしてみてほしいな」

振り返って顔を見ることもなく、レイは私の不安を理解しているようだった。二人は会話をやめ、ノアがその場から動く気配はない。

「また余計なことを言っちゃって……恥ずかしい」
「そっか」
「あと、恐い。あれ」

ひりついた緊張を投げ飛ばすみたいな、レイの笑いが広間に響く。

「イリナ、最高」
「え、あっ、いや、何て呼んだらいいのか」
「向こうだって、イリナを物扱いしたんだ。おあいこだよ。でも次からは、ノア君って呼んであげてね」

ゆるみ始めた空気の中でも、ノアに対しては警戒を怠らなかった。距離を取っても肌で感じる圧が彼の視線を忘れさせない。残酷なほどに印象深い瞳も。

「もういい」
「ありがとう、ノア君。あの方に贈るサプライズに箔がついたよ」



扉が閉まると、深く吐いた息に強ばりが溶けていった。よたよたと力なく歩いて、目についた椅子へ腰をかける。とてつもない緊張に、脳の一部がパンクしたようにぼーっとしていた。本体と魂が離れた場所にあるという事実は自由な手足を見れば一目瞭然だが、本物でないとおかしい疲労がそこかしこに垂れさがっている。

「相手をさせて、疲れたね」

温かな手が頭に触れた。

「レイのお友達?」
「うーん、友達とはちょっと違うかな。似た境遇ではあるけど」
「そう、ですか」

何でも教えてくれると言ったレイに、聞きたいことは山積みだった。死に損なった魂は、地獄でこれからどうなるのか。レイやノアの他にも、人や人ならざる者がいるのか。さっきの会話に出てきたあの方へのサプライズとは、どういう意味だったのか。途方もない数の疑問を処理するには、まずこの眠気をどうにかするしかないけど、重いまぶたに抵抗する方法なんて知らずに生きてきてしまった。

「イリナ、そこのカウチで横になる?」

くたりと首をかしげ、再度よたよたと歩き始める私を見守るレイに、一つだけ尋ねることにした。

「もし、私が今、眠ってしまったら」

支離滅裂になる頭を叩き起こしながら、どうにかまどろみを長引かせる。

「次は、いつ、レイに会えますか?」

きっと真正面から答えるつもりだった彼の、戸惑うようなまばたきを見逃さなかった。かつて私を見舞った人も皆同じ顔をして「またね」と去り、ちゃんとお別れできないのが悔しかった。何度の朝を迎えても、不透明な約束が果たされることはなかったから。私は知っていることのほうが少ないらしい。

「またね」
「そっか。じゃあ、さようなら」

会えて光栄だったと言ってくれたときから、ずっと別れのタイミングをうかがっていた。

「たくさん、悲しい思いをしてきたんだね」

返事をする余力はなく、私は意識を手放していた。


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