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第一幕〈馴れ初め〉
その眸に映るもの 3
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カウチに腰を降ろしたクラウドのまえに、リクはあらためて白い封書を差し出した。
それをクラウドが無言で受け取り、彼の斜向かいの席にレスタが腰を落ち着けたところで、ふたりに一礼を残してリクはその場を去ろうとした。
「あーいい、そこに居ろ」
「…へ? あ、はい…」
めずらしい、というよりは初めて向けられた指示に、リクはうっかり驚いた顔を隠すのも忘れて、あるじの言葉に従った。
これまでにもレスタが同席しているとき、リクがこうして書簡を届けたことはある。けれど、そのいずれのときもクラウドは退出を命じていた。
ほかの用件の場合も同様で、この客人が訪れているときは周りにひとを置きたがらなかった、はずなのに、今日はいったいどんな気まぐれだろう。
クラウドの斜向かいに座るレスタは、彼が手紙を読み終えるのを静かに待っている。
そしてその服装はというと、いつもと同じ黒が基調の普段着だったが、確かに男物のそれだった。
「…何で今日はふつうに男もの着てんだ?」
書面から視線をあげるなり、クラウドはレスタを見て問うた。
「べつに。特に意味はない」
「じゃあ女装の趣味でもあんのか」
リクの、えっ、このひと女の子じゃないんですか? という驚きの表情を目の端に留めながら、レスタはにやりと笑ってみせた。
「趣味というよりは仕事に近いな」
「……仕事?」
「そ。まぁ化けてられるのもせいぜいあと一年てとこだろうけどな」
「………」
それはつまり、この姿こそが本来のレスタである、ということだ。
驚きもなく落胆もしないクラウドの不明瞭な反応に、レスタもまた心の裡を読み取らせない曖昧な笑みで頬杖をついた。
「…、あの…」
落ちた沈黙はごくわずかだ。
それでも状況の呑み込めないリクには居心地の悪い数秒だったようで、この饒舌な沈黙に水を差すひと声を絞り出した。かなりこわごわと。
「お、俺もう…」
出ていってもいいですか、と続けるはずの言葉は半端に途切れた。クラウドが藪から棒の唐突さで席を立ち、正面の低いテーブルを踏みつけて向こう側へと乗り越えたからだ。
驚いたリクが次の声をあげる間もなく、クラウドは向かいの椅子に腰掛けていたレスタの襟元をぐいと掴んだ。突然の挙動に反応しきれなかったのはレスタも同じで、その眸の暗緑を揺らして大きく目を瞠っていた。
「…っ」
それは充分な暴挙だったし、乱暴だとも言えたが、暴力のたぐいの狼藉とはまた違った。
「…ちょ、え、……クラウドさま…」
わけも分からず慌てふためくリクの目のまえで、クラウドはレスタの衣服を勝手に脱がしに掛かっている。
上衣の釦を外し、内衣の胸許をはだけさせようとしたところで、ようやく我に返ったらしいレスタの両手がクラウドの手首を掴んで止めた。
「いきなり何だ!」
「身体検査」
「すんな! 馬鹿か!!」
「野郎なんだからべつにかまわねえだろうが」
「はなっからそういう問題じゃねえよ!」
一方は余裕だが、一方は必死だ。それはそのまま身体的な力の差で、だからといってクラウドがレスタに対して常に優位だったかというと、まるで当てはまらないから不思議だった。
細い指で爪まで立てて、猫の子のようにクラウドの腕を引き剥がそうしているレスタは、こうして見てみるとその身体つきはやっぱり男で、今さらこんな腹いせを敢行するまでもない。
分かっていたことなのにいまだに妙にすっきりしない。
「レスタ」
「何だよ! ていうか放せ!」
思えばこんなレスタを見るのは初めてだ。いつもはもっと余裕綽々で、打てば響くような機知に富み、ようするに可愛げの欠片もないのが普段のレスタだったと思う。
クラウドはそんなレスタを気に入って、傍に置きたがっていたはずだ。
「なんでいつもは女の格好してんだ? 黒服が多いってことは辻占か何かか?」
いわゆる黒装束にも当然いろいろある。高位者に仕える者たちにとっては実際に仕事着のようなものだし、手の込んだ絹糸の刺繍が施されたものや、さまざまな柄の織り込まれた生地なら忌み的な含みはない。
だからレスタの服装も、見ためだけなら質のよい後者のそれだし、実際に仕事持ちかどうかはともかく、たとえば外見を活かす役者やそれに近い生業だというなら、とりあえず納得もできる気はした。もちろんそれを信じるかどうかはべつとして。
「………」
いまはもう押さえつけるためだけの腕で、クラウドは椅子の囲いの中にレスタを閉じ込めている。
一方テーブル脇で立ち尽くしたリクはあるじの横暴(いつものことだ)を諫めるべきか判じかね、そしてクラウドの腕に閉じ込められたレスタはといえば、抵抗するのに疲れたのか何なのか、椅子の背に全身を預けて大きく深く息を吐いた。
『なんでそんなことが知りたいんだ』
「…あ?」
ふいに向けられた言葉は北の異国語だった。容姿に反して、レスタがカレリアの言語を使うのはめずらしい。
予期していなかった分、咄嗟に聞き取れなかったクラウドは訝しげに眉を寄せた。
「なんつった?」
「いや。…黒系が多いのは単にほかの色で女物を着る気にならなかっただけだ。あとは連れがいつも白系の服だから、それの反対色で合わせてた」
「つれ…?」
「そう。隣の国の守護領主に仕えてる部族がな、白い部族衣装で固めてる。そいつらとよく連んでる」
この場合の隣の国というのはヴァンレイクで、守護領主というのは市井でいうところの辺境伯爵のことだ。
「…あ、俺それ知ってます。ノエル辺境伯のところのバルトっていう少数部族ですよね」
リクが言葉を割り込ませてきたので、動けないレスタは視線だけでそちらを向いた。
「よく知ってるな。やっぱりあの白は目立つか」
ふつうに応えつつ、手はクラウドの腕をぺしぺし叩いて離れるように訴えている。
左手でかれの胸ぐらを押さえ、右手で椅子の背もたれを掴んだクラウドは、前傾の姿勢でレスタに覆い被さったままだ。太い手首はレスタに引っ掻かれたせいで、いくつか薄い蚓腫れが浮いている。
クラウドはほんの少しだけその左腕から力を抜いた。
それでもまだ、レスタがこの拘束から逃げ出すには儘ならない力だった。
「おい、そろそろ退け」
「あ…、そうですよクラウドさま、レスタさん苦しそうじゃないですか」
今度は慌てることなくリクもレスタに味方した。実際に引き剥がす手助けまでは出来ないが、同い年のあるじの狼藉を諫める言葉に躊躇いはない。
「…男なんだけどコイツ」
クラウドは揶揄を籠めて家臣を見やった。するとにわかに顔を赤くしたリクは、しどろもどろに弁解をはじめた。
いやあのそうかもですけどクラウドさま力強いしレスタさん華奢だしかっかっかわいそうっていうかいやあのそうじゃなくて怪我させちゃったらあれだし。
「はは…」
まるきり女の子の心配をしているようなリクの言い分に、クラウドは上滑りな笑い声を洩らした。
実際につい先刻までリクは疑ってもいなかったようだ。黙っている姿を眺める分にはレスタは確かに女にしか見えない。というより誰の目にもごくごく上等な麗人の域だとクラウドも思う。
喉奥で低い笑いを洩らしながら、それでも少しも面白くないクラウドは無言でレスタを見下ろした。
上から閉じ込めるように身を屈めたままだから、互いの視線はごく近い。
この眸を覗き込むのはこれが初めてだ。そう思いながら。
腕が触れている胸は薄く平らかで、ふいに今朝の夢が意識を過ぎる。
こちらへ引き寄せるでもなく、もっと低く身体を被せるように近づけて、クラウドは目のまえの白い首すじに唇を落とした。
歯を立てて、噛みついた。
殴ってもたかが知れていたので、仕方なく急所を蹴りあげてレスタは逃げた。
慌てふためくリクの声と屈み込んだクラウドの姿をそこに残し、さっさと御用邸をあとにしたレスタは関所の橋を目指して大通りを歩いていく。
その歩みが、前方から近づいてきた騎乗の男を見てふと止まった。
男はまだ若く、レスタの黒衣とは対照的な白装束を身にまとっていた。
「レスタ」
「ん」
高い場所から差し出された腕に捕まると、逞しい体躯はレスタを造作なく馬上へと引きあげた。そのまま男のまえに横向きで乗せられて、鞍の手前を跨ぐ格好でレスタは正面に座り直した。
「今日はどうだった?」
レスタを懐に落ち着かせたところで、手綱を持ち直した男が訊いてくる。
黒髪黒眼に、白い部族衣装。袖や裾にあしらわれた茨の刺繍は頭目格を意味するらしく、男がレスタの傍らに立つときはこの茨もそこに寄り添っているのが常だ。
ノエル辺境伯が抱える少数部族、バルトの長を父に持つ男は、名をシドという。
レスタはゆるやかに歩き出した馬の背に揺られながら、低く言葉を返した。
「ああ、やっぱり都とこっちで何か探ってるのは間違いないな。役人絡みか徒党絡みか…、どのみち三国が接する国境の守護領だ、相場は不正取引か密輸ってところだろ」
潜めた声を肩越しに向ける。座っていても仰ぐ目線なのはシドが平均的な大人より背が高いからだ。一見ひょろりとしているが、体格はいい。
「じゃあ、あの派手な放蕩三昧もそのための隠れ蓑ってことか」
「さあ、それはどうだろうな。都での素行も評判は大差ないらしいし、わざわざ総領自ら調査に動くってのも妙な話だ。ヤツの中じゃどっちが隠れ蓑やら」
背後の肩に頭をのせて、レスタは声を潜めて笑う。
手綱を持つシドはわずかに後ろへと上体を退いた。懐に凭れてきた身体に馬上の重心を合わせながら、レスタが凭れかかるのにちょうどいい具合になるように。
「…てことは、隠れ蓑を口実に体よく田舎に引っ込んで、これ幸いとやりたい放題…」
レスタの言わんとするところを続けたシドは、しかしそこで言葉を切った。
ふいに見下ろした視線の先。金髪が揺れるレスタの白い首すじに、目を引く赤い痕がある。
何だこれ、と悠長に考えるより早く、シドはその正体に気づいて思考ごと息まで止まりそうになった。
「?」
背後の奇妙な緊張を感じ取ったのか、レスタがひらりと後ろを見やる。
「どうした?」
どうした、じゃない。それはこちらの科白だ。
赤い噛み痕はレスタの首すじに色を刻んで、ありありと誰かの存在を主張していた。
シドは意識に浮かんだ男の風評を片っ端から反芻した。
あの放蕩貴族の辺境での素行を実際に調べたのはシドだ。
――あの腐れ淫蕩道楽野郎。
シドは必死の理性でこの激昂を抑え込むしかなかった。
それをクラウドが無言で受け取り、彼の斜向かいの席にレスタが腰を落ち着けたところで、ふたりに一礼を残してリクはその場を去ろうとした。
「あーいい、そこに居ろ」
「…へ? あ、はい…」
めずらしい、というよりは初めて向けられた指示に、リクはうっかり驚いた顔を隠すのも忘れて、あるじの言葉に従った。
これまでにもレスタが同席しているとき、リクがこうして書簡を届けたことはある。けれど、そのいずれのときもクラウドは退出を命じていた。
ほかの用件の場合も同様で、この客人が訪れているときは周りにひとを置きたがらなかった、はずなのに、今日はいったいどんな気まぐれだろう。
クラウドの斜向かいに座るレスタは、彼が手紙を読み終えるのを静かに待っている。
そしてその服装はというと、いつもと同じ黒が基調の普段着だったが、確かに男物のそれだった。
「…何で今日はふつうに男もの着てんだ?」
書面から視線をあげるなり、クラウドはレスタを見て問うた。
「べつに。特に意味はない」
「じゃあ女装の趣味でもあんのか」
リクの、えっ、このひと女の子じゃないんですか? という驚きの表情を目の端に留めながら、レスタはにやりと笑ってみせた。
「趣味というよりは仕事に近いな」
「……仕事?」
「そ。まぁ化けてられるのもせいぜいあと一年てとこだろうけどな」
「………」
それはつまり、この姿こそが本来のレスタである、ということだ。
驚きもなく落胆もしないクラウドの不明瞭な反応に、レスタもまた心の裡を読み取らせない曖昧な笑みで頬杖をついた。
「…、あの…」
落ちた沈黙はごくわずかだ。
それでも状況の呑み込めないリクには居心地の悪い数秒だったようで、この饒舌な沈黙に水を差すひと声を絞り出した。かなりこわごわと。
「お、俺もう…」
出ていってもいいですか、と続けるはずの言葉は半端に途切れた。クラウドが藪から棒の唐突さで席を立ち、正面の低いテーブルを踏みつけて向こう側へと乗り越えたからだ。
驚いたリクが次の声をあげる間もなく、クラウドは向かいの椅子に腰掛けていたレスタの襟元をぐいと掴んだ。突然の挙動に反応しきれなかったのはレスタも同じで、その眸の暗緑を揺らして大きく目を瞠っていた。
「…っ」
それは充分な暴挙だったし、乱暴だとも言えたが、暴力のたぐいの狼藉とはまた違った。
「…ちょ、え、……クラウドさま…」
わけも分からず慌てふためくリクの目のまえで、クラウドはレスタの衣服を勝手に脱がしに掛かっている。
上衣の釦を外し、内衣の胸許をはだけさせようとしたところで、ようやく我に返ったらしいレスタの両手がクラウドの手首を掴んで止めた。
「いきなり何だ!」
「身体検査」
「すんな! 馬鹿か!!」
「野郎なんだからべつにかまわねえだろうが」
「はなっからそういう問題じゃねえよ!」
一方は余裕だが、一方は必死だ。それはそのまま身体的な力の差で、だからといってクラウドがレスタに対して常に優位だったかというと、まるで当てはまらないから不思議だった。
細い指で爪まで立てて、猫の子のようにクラウドの腕を引き剥がそうしているレスタは、こうして見てみるとその身体つきはやっぱり男で、今さらこんな腹いせを敢行するまでもない。
分かっていたことなのにいまだに妙にすっきりしない。
「レスタ」
「何だよ! ていうか放せ!」
思えばこんなレスタを見るのは初めてだ。いつもはもっと余裕綽々で、打てば響くような機知に富み、ようするに可愛げの欠片もないのが普段のレスタだったと思う。
クラウドはそんなレスタを気に入って、傍に置きたがっていたはずだ。
「なんでいつもは女の格好してんだ? 黒服が多いってことは辻占か何かか?」
いわゆる黒装束にも当然いろいろある。高位者に仕える者たちにとっては実際に仕事着のようなものだし、手の込んだ絹糸の刺繍が施されたものや、さまざまな柄の織り込まれた生地なら忌み的な含みはない。
だからレスタの服装も、見ためだけなら質のよい後者のそれだし、実際に仕事持ちかどうかはともかく、たとえば外見を活かす役者やそれに近い生業だというなら、とりあえず納得もできる気はした。もちろんそれを信じるかどうかはべつとして。
「………」
いまはもう押さえつけるためだけの腕で、クラウドは椅子の囲いの中にレスタを閉じ込めている。
一方テーブル脇で立ち尽くしたリクはあるじの横暴(いつものことだ)を諫めるべきか判じかね、そしてクラウドの腕に閉じ込められたレスタはといえば、抵抗するのに疲れたのか何なのか、椅子の背に全身を預けて大きく深く息を吐いた。
『なんでそんなことが知りたいんだ』
「…あ?」
ふいに向けられた言葉は北の異国語だった。容姿に反して、レスタがカレリアの言語を使うのはめずらしい。
予期していなかった分、咄嗟に聞き取れなかったクラウドは訝しげに眉を寄せた。
「なんつった?」
「いや。…黒系が多いのは単にほかの色で女物を着る気にならなかっただけだ。あとは連れがいつも白系の服だから、それの反対色で合わせてた」
「つれ…?」
「そう。隣の国の守護領主に仕えてる部族がな、白い部族衣装で固めてる。そいつらとよく連んでる」
この場合の隣の国というのはヴァンレイクで、守護領主というのは市井でいうところの辺境伯爵のことだ。
「…あ、俺それ知ってます。ノエル辺境伯のところのバルトっていう少数部族ですよね」
リクが言葉を割り込ませてきたので、動けないレスタは視線だけでそちらを向いた。
「よく知ってるな。やっぱりあの白は目立つか」
ふつうに応えつつ、手はクラウドの腕をぺしぺし叩いて離れるように訴えている。
左手でかれの胸ぐらを押さえ、右手で椅子の背もたれを掴んだクラウドは、前傾の姿勢でレスタに覆い被さったままだ。太い手首はレスタに引っ掻かれたせいで、いくつか薄い蚓腫れが浮いている。
クラウドはほんの少しだけその左腕から力を抜いた。
それでもまだ、レスタがこの拘束から逃げ出すには儘ならない力だった。
「おい、そろそろ退け」
「あ…、そうですよクラウドさま、レスタさん苦しそうじゃないですか」
今度は慌てることなくリクもレスタに味方した。実際に引き剥がす手助けまでは出来ないが、同い年のあるじの狼藉を諫める言葉に躊躇いはない。
「…男なんだけどコイツ」
クラウドは揶揄を籠めて家臣を見やった。するとにわかに顔を赤くしたリクは、しどろもどろに弁解をはじめた。
いやあのそうかもですけどクラウドさま力強いしレスタさん華奢だしかっかっかわいそうっていうかいやあのそうじゃなくて怪我させちゃったらあれだし。
「はは…」
まるきり女の子の心配をしているようなリクの言い分に、クラウドは上滑りな笑い声を洩らした。
実際につい先刻までリクは疑ってもいなかったようだ。黙っている姿を眺める分にはレスタは確かに女にしか見えない。というより誰の目にもごくごく上等な麗人の域だとクラウドも思う。
喉奥で低い笑いを洩らしながら、それでも少しも面白くないクラウドは無言でレスタを見下ろした。
上から閉じ込めるように身を屈めたままだから、互いの視線はごく近い。
この眸を覗き込むのはこれが初めてだ。そう思いながら。
腕が触れている胸は薄く平らかで、ふいに今朝の夢が意識を過ぎる。
こちらへ引き寄せるでもなく、もっと低く身体を被せるように近づけて、クラウドは目のまえの白い首すじに唇を落とした。
歯を立てて、噛みついた。
殴ってもたかが知れていたので、仕方なく急所を蹴りあげてレスタは逃げた。
慌てふためくリクの声と屈み込んだクラウドの姿をそこに残し、さっさと御用邸をあとにしたレスタは関所の橋を目指して大通りを歩いていく。
その歩みが、前方から近づいてきた騎乗の男を見てふと止まった。
男はまだ若く、レスタの黒衣とは対照的な白装束を身にまとっていた。
「レスタ」
「ん」
高い場所から差し出された腕に捕まると、逞しい体躯はレスタを造作なく馬上へと引きあげた。そのまま男のまえに横向きで乗せられて、鞍の手前を跨ぐ格好でレスタは正面に座り直した。
「今日はどうだった?」
レスタを懐に落ち着かせたところで、手綱を持ち直した男が訊いてくる。
黒髪黒眼に、白い部族衣装。袖や裾にあしらわれた茨の刺繍は頭目格を意味するらしく、男がレスタの傍らに立つときはこの茨もそこに寄り添っているのが常だ。
ノエル辺境伯が抱える少数部族、バルトの長を父に持つ男は、名をシドという。
レスタはゆるやかに歩き出した馬の背に揺られながら、低く言葉を返した。
「ああ、やっぱり都とこっちで何か探ってるのは間違いないな。役人絡みか徒党絡みか…、どのみち三国が接する国境の守護領だ、相場は不正取引か密輸ってところだろ」
潜めた声を肩越しに向ける。座っていても仰ぐ目線なのはシドが平均的な大人より背が高いからだ。一見ひょろりとしているが、体格はいい。
「じゃあ、あの派手な放蕩三昧もそのための隠れ蓑ってことか」
「さあ、それはどうだろうな。都での素行も評判は大差ないらしいし、わざわざ総領自ら調査に動くってのも妙な話だ。ヤツの中じゃどっちが隠れ蓑やら」
背後の肩に頭をのせて、レスタは声を潜めて笑う。
手綱を持つシドはわずかに後ろへと上体を退いた。懐に凭れてきた身体に馬上の重心を合わせながら、レスタが凭れかかるのにちょうどいい具合になるように。
「…てことは、隠れ蓑を口実に体よく田舎に引っ込んで、これ幸いとやりたい放題…」
レスタの言わんとするところを続けたシドは、しかしそこで言葉を切った。
ふいに見下ろした視線の先。金髪が揺れるレスタの白い首すじに、目を引く赤い痕がある。
何だこれ、と悠長に考えるより早く、シドはその正体に気づいて思考ごと息まで止まりそうになった。
「?」
背後の奇妙な緊張を感じ取ったのか、レスタがひらりと後ろを見やる。
「どうした?」
どうした、じゃない。それはこちらの科白だ。
赤い噛み痕はレスタの首すじに色を刻んで、ありありと誰かの存在を主張していた。
シドは意識に浮かんだ男の風評を片っ端から反芻した。
あの放蕩貴族の辺境での素行を実際に調べたのはシドだ。
――あの腐れ淫蕩道楽野郎。
シドは必死の理性でこの激昂を抑え込むしかなかった。
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