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6.回生一歩
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それでも何日か旭はまだ考えていたようで時々、上の空でぼんやりとして蒼葉にも気付かないことが何度かあった。一年近くの間仕事をしないでいて、自分から求めたのではなく他人にセッティングされた復職は旭にとって本意でないことは蒼葉にも理解できる。少なくとも旭自身の決めたタイミングではない。しかし、先のことを一旦全て放棄した旭にはいいきっかけでもある。旭の想定していた先を捻じ曲げたのは蒼葉だが、蒼葉にできることは少なく、外野から与えられたチャンスに旭がどう決断するのか見ているしかできないのは歯がゆい。
青葉は自分にできることをしなければならず、スマートフォンで専門学校や大学を検索して先のことを考えていた。柔道整復師、と旭に提示されたひとつの資格を調べて資格取得のための学校を探す。いまは冬に差し掛かろうとしている十月でほとんどの学校は十一月には願書を締め切ってしまう。当然ながら、いきなり今まで所属していた学部と全く違う方向へ進路を変えようとしているのだから蒼葉に準備はない。どう考えても今期の入学に間に合うと思えるはずもなく、蒼葉は頭を抱える。いつでも始められるものではない分、半期あるいは一年期が伸びると蒼葉は自然と気持ちが焦ってしまう。
「あー……」
手にしたスマートフォンを放り出して枕に頭を突っ込んだ蒼葉が零した声と、デスクの前に座って椅子の背もたれにぐったりした旭の出した声が同じタイミングで重なった。どちらもどこか行き詰っていて、決め手に欠けた時に出る声だ。
「どーしたの、旭」
「ぼくが呻いていることの原因なんてひとつしかないよ。蒼葉はどうしたの」
互いに顔を向けて聞き合ってから、別のことをしていたのに同じタイミングで溜息をつくのかと蒼葉はおかしくなって笑った。
「いまさ、もう十月じゃん。ガッコ、いまからじゃ春の入学間に合わねえなと思って。ほとんど十一月中だもん、願書とか面接とか試験とか。いくらなんでも準備できねえ」
ひとしきり笑ってから蒼葉は溜息交じりに行き詰まりの訳を話した。隠しても仕方ない事実だ。
「そんなに急がなくてもいいよ。学校に入り直すなら、もっと慎重になってもいいくらいだよ。蒼葉はもうどの学校に行きたいとか見当はついているの?」
「学校の良し悪しまでは判断つかないけど、柔道整復師かなって思ってる。旭。あんたが言ったのって、たぶん合ってる」
結局、旭の助言通りに進路を決めたことが多少悔しくて蒼葉は枕に顔を埋めてくぐもった声で返事した。それでも目的のないサラリーマンになるよりはまだましな選択だと蒼葉は思う。
「じゃあさ、一度どういう仕事なのか体験してみてもいいんじゃない? ほかの仕事だとなかなかそういう機会はないけれど、接骨院って病院よりも敷居が低くていいんだ。ストレッチもちゃんと受けてみてもいいと思うよ」
憂鬱そうな溜息をついていた旭が、蒼葉のこととなると一変して穏やかで嬉しそうな声に変わる。旭の優先順位はいつだって蒼葉が上で、自分自身のことよりも当然のように蒼葉を大事にしてリスクの計算もなにもない。盲目的なのは最初からだが、そのことに安心する日が来るとは思っていなかった。
「それ、社会見学的な感じ? いいかも」
ごろりとベッドの上で寝返りを打って顔を上げると蒼葉はくすりと笑った。
「旭はさ、なんで呻くの。まだ仕事したくない?」
笑ったまま、蒼葉は軽い口調で旭に訊いた。自分で原因は他にないといっているのだから、蒼葉が訊く言葉も単純だ。
「したくないっていうのはいまはちょっと違うかな。ただ、踏ん切りがつかないだけだよ」
「ふーん。旭、非常勤って週にどんだけ行くの。何時間くらい働くの」
「週に三日。月曜、水曜、金曜。九時から五時だけど、終わりの時間は絶対にずれるだろうなあ。外来の診察だけとはいえ時間通りになんてならないよ。それに五時っていっても診療時間だから、ほかにもやることはあるし」
「……しんどい?」
提示されている条件を淡々と答える旭に蒼葉はふと口を挟んだ。まだ社会に出て働いたことのない蒼葉には過労や激務の意味合いが日数や時間では図り切れない。
「そんなことないよ。まだ、全然しんどいうちに入らない。常勤するならそれが週に五日だし、当直だって入るからまだちゃんと……少しずつ慣らして戻していこうっていう初手だよ。ひとりで働き口を探すよりも、ずっと待遇だっていい。だから、ぼくが迷う理由なんてないんだけど……でも、決心がつかない」
旭は困り顔で苦笑してから蒼葉がうつ伏せになっているベッドまで来て隣に寝転がった。突っ伏したまま顔だけを旭に向けている蒼葉の横で、旭は天井を見たまま呟いた。
「踏ん切りがつかないだけだよ。どうしたらいいのかなんてわかってるし、返事の期限だってある。期限が来ればどれだけ迷ってたって出す答えは一緒なんだから、蒼葉は心配しなくても大丈夫。先のことを考えていなかった分、なにをするにもきっとぼくは躊躇ってしまうだけ。でもそれをぼくは悪いことだとは思ってない」
最後の言葉を言った旭は蒼葉の方を向いて穏やかに笑っていて、普段と変わらなかった。
「俺さ、旭のこと好きにならない方がよかった?」
旭の言葉と苦笑を見ると蒼葉は強引に捻じ曲げた旭の計画に気持ちがざわつく。例え歪であっても真っ直ぐな好意を向けられていたから、傾いた。躰が先に順応したとはいえ、気持ちがついていくかは別問題だと蒼葉は考えている。だからこそ、最良だと思った方へと捻じ曲げた。だが、旭の想定していない先に旭が戸惑い続けるのなら、蒼葉は気弱になってしまう。
「どうして。ぼくは蒼葉がぼくを好きになってくれて、とても嬉しいし幸せだよ。ぼくが迷ってしまうのは……確かにいまはぼくの想像を超えたところだからだけど、それもきっと慣れていくと思う。一番いつまで経っても慣れないのは、蒼葉がぼくを好きって言ってくれていることじゃないのかな」
ふふ、と笑う旭に片耳を撫でられて蒼葉は枕に顔を埋めた。
「……馬鹿じゃん……」
「いつだって蒼葉のことを好きになり続けているよ。だからそんなこと言わないで」
「も、いい。お前のこと気にした俺が悪かった」
一年近く旭と一緒にいるが、旭は少しも蒼葉に飽きる気配はない。それどころかのめり込むばかりだ。旭は最初から蒼葉を好きだと繰り返しているが、時間を経るごとに蒼葉はその言葉に耐性がなくなっていくのを感じる。
「蒼葉といるぼくを、ぼくは好きだよ。……前よりも、人間らしくなった気がする。記憶の中の蒼葉じゃなくて、現実の蒼葉がいるから……迷っても躊躇っても間違っても、いい。その度にちゃんと仕切り直すだけだから。そういうことをぼくに教えてくれたのは蒼葉だよ」
「心配して損した」
枕に顔を埋めたままくぐもった声で蒼葉が悪態をつくと、旭が笑って頭を撫でてきた。
「嫌だよ。損したなんて言わないでよ。蒼葉がいるとぼくはちゃんとしていられるんだから」
「大人なんだからひとりでもちゃんとしろよ」
ただの擽ったい睦言に照れただけだった。
青葉がぶっきらぼうに枕に突っ伏したまま旭を避けようとして上げた腕が鈍い音を立ててぶつかった。肘に鈍い痛みが残った。けれど、問題はそれではなく──。
「いったいなあ! 確かにぼくは蒼葉に大人げなく甘えてるけどさあ」
珍しく旭が声を大きくした。肘に当たった感覚は硬く、運悪く旭のどこかを強打した。慌てて蒼葉は顔を上げる。そんなつもりはなかった。
「悪い、旭。殴ろうとしたんじゃなくて……」
「うん。知ってる。びっくりさせてごめんね。痛かったから声大きくなっただけだよ。でも、蒼葉が顔上げてくれたからいいよ」
「それもだけど、ごめん。突き放すようなこと言った」
青葉がばつの悪い顔を俯けると、肘が当たったであろう顎のあたりを撫でて眉を寄せていた旭は表情を緩めた。
「蒼葉。そんなこと気にしてるの? ぶつかったのは痛かったけど、蒼葉の照れ隠しくらいぼくはわかるよ。本気で突き放していたら、ぼくなんて大人げないからとっくに蒼葉に見放されているのに」
「──俺、あんたと一緒にいると時々、ぐちゃぐちゃになる。勝手に変なこと言って、勝手に拗ねて……そういう奴うざいって思ってたのに、俺がそうなってて嫌だ」
俯いたまま蒼葉はもやもやした気持ちを吐き出した。旭が蒼葉の照れ隠しを見抜いていても、蒼葉は旭を突き放す気などない。ただ、一緒にいる時間が長くなるほど自分が嫌だと思っているうざったい女に似ていくようで自己嫌悪する。
「俺の知らない旭がいるのなんて当然で、そういうの見ると新鮮だから声大きくなったりすんの面白いなと思うのに、勝手に拗れて拗ねてる」
「うん。いいよ。ぼくは嫌じゃない。蒼葉の気持ちがぐちゃぐちゃになるんだったら、教えてよ。全部、ぼくにぶつけてよ。どうしたらいいとかそういうのじゃなくて、ひとりで拗ねないで。……貯め込んでしまって、爆発する方がよくない……」
旭の言葉は自分のことも含んでいるのかと蒼葉は俯けていた顔を上げた。視線の先で旭は穏やかなまま眉を下げている。ひとりで抱え込んで、全部終わりにしようとして旭は蒼葉を監禁して暴行した。旭はそのことをなかったことにしない。いくら蒼葉が横に置こうとしても、絶対的な前提のように事実はいつもある。
自戒なのかもしれない、と蒼葉はふと思った。
「あのさあ……旭、あんたのこと一日、好きにさせてくんない?」
唐突に蒼葉が言うと旭は驚いたようで目を丸くした。
「いいよ。でも今更? 好きにさせてってどういうこと?」
「そのまんま。なんも考えないで、俺の好きにされてて。そしたら、たぶん俺がもやもやしてんのすっきりすると思う」
「……蒼葉はさ、本当は主導権を握ってる方が似合うんだよ。男らしいんだ。でもいまは自由度が少なくなってて、ぼくを優先させようとするからストレスになるんじゃないのかな」
今度は蒼葉が驚いた。現状にストレスなどないと蒼葉は思っていた。
しかし、主導権というのであれば金銭面での庇護下であること、それに伴う選択肢、セックス、生活の中で蒼葉が手にしている主導権は少ない。主導権が少ないということはゲームでいえば手持ちが少ないことと一緒で、指す手も限定的になって勝ち筋が減る。負けず嫌いの蒼葉には確かにストレスといえなくもない。
「一部なら、旭の言う通りかも。でも、あんたを優先させるからストレスなのは違う。そこは俺がしたくてしてる縛りだから、旭が気にするのは違う。旭のいう男らしさがセックスの主導権なら、たぶん関係ない。だから、大人しく俺の好きにされてろよ、旭」
ゆっくり考えて蒼葉は返事した。雑に全てをストレスで括らない。自分のことと旭に対する感情を切り分けて、どこに原因があるのかを明確にすると結局、蒼葉自身に行きつく。
「うん。いいよ、蒼葉」
頑固だと言いたげに旭は笑って返事した。
「もうさあ、今日はなんも考えないでサボろ。だらけてたまには不健康だっていいじゃん。だから、ワルイコトしよ」
「蒼葉の悪いことってどんなこと?」
「んー……まあ、手始めに昼間からビールかな。あ。冷蔵庫にないな。どっか行こうか、旭」
まずは簡単で手軽な怠惰を提案すると、旭は楽しそうに「うん」と言った。
普段は旭が外に出たがらない分、外で食事することも少ない。蒼葉は旭とほとんどの時間一緒にいるが、いわゆるデートらしい外出は片手でも余ってしまう。それらしいことを望んだわけではないが、家に閉じこもってばかりだと気分転換にもならない。結果、それが外に出ることだった。
青葉は自分にできることをしなければならず、スマートフォンで専門学校や大学を検索して先のことを考えていた。柔道整復師、と旭に提示されたひとつの資格を調べて資格取得のための学校を探す。いまは冬に差し掛かろうとしている十月でほとんどの学校は十一月には願書を締め切ってしまう。当然ながら、いきなり今まで所属していた学部と全く違う方向へ進路を変えようとしているのだから蒼葉に準備はない。どう考えても今期の入学に間に合うと思えるはずもなく、蒼葉は頭を抱える。いつでも始められるものではない分、半期あるいは一年期が伸びると蒼葉は自然と気持ちが焦ってしまう。
「あー……」
手にしたスマートフォンを放り出して枕に頭を突っ込んだ蒼葉が零した声と、デスクの前に座って椅子の背もたれにぐったりした旭の出した声が同じタイミングで重なった。どちらもどこか行き詰っていて、決め手に欠けた時に出る声だ。
「どーしたの、旭」
「ぼくが呻いていることの原因なんてひとつしかないよ。蒼葉はどうしたの」
互いに顔を向けて聞き合ってから、別のことをしていたのに同じタイミングで溜息をつくのかと蒼葉はおかしくなって笑った。
「いまさ、もう十月じゃん。ガッコ、いまからじゃ春の入学間に合わねえなと思って。ほとんど十一月中だもん、願書とか面接とか試験とか。いくらなんでも準備できねえ」
ひとしきり笑ってから蒼葉は溜息交じりに行き詰まりの訳を話した。隠しても仕方ない事実だ。
「そんなに急がなくてもいいよ。学校に入り直すなら、もっと慎重になってもいいくらいだよ。蒼葉はもうどの学校に行きたいとか見当はついているの?」
「学校の良し悪しまでは判断つかないけど、柔道整復師かなって思ってる。旭。あんたが言ったのって、たぶん合ってる」
結局、旭の助言通りに進路を決めたことが多少悔しくて蒼葉は枕に顔を埋めてくぐもった声で返事した。それでも目的のないサラリーマンになるよりはまだましな選択だと蒼葉は思う。
「じゃあさ、一度どういう仕事なのか体験してみてもいいんじゃない? ほかの仕事だとなかなかそういう機会はないけれど、接骨院って病院よりも敷居が低くていいんだ。ストレッチもちゃんと受けてみてもいいと思うよ」
憂鬱そうな溜息をついていた旭が、蒼葉のこととなると一変して穏やかで嬉しそうな声に変わる。旭の優先順位はいつだって蒼葉が上で、自分自身のことよりも当然のように蒼葉を大事にしてリスクの計算もなにもない。盲目的なのは最初からだが、そのことに安心する日が来るとは思っていなかった。
「それ、社会見学的な感じ? いいかも」
ごろりとベッドの上で寝返りを打って顔を上げると蒼葉はくすりと笑った。
「旭はさ、なんで呻くの。まだ仕事したくない?」
笑ったまま、蒼葉は軽い口調で旭に訊いた。自分で原因は他にないといっているのだから、蒼葉が訊く言葉も単純だ。
「したくないっていうのはいまはちょっと違うかな。ただ、踏ん切りがつかないだけだよ」
「ふーん。旭、非常勤って週にどんだけ行くの。何時間くらい働くの」
「週に三日。月曜、水曜、金曜。九時から五時だけど、終わりの時間は絶対にずれるだろうなあ。外来の診察だけとはいえ時間通りになんてならないよ。それに五時っていっても診療時間だから、ほかにもやることはあるし」
「……しんどい?」
提示されている条件を淡々と答える旭に蒼葉はふと口を挟んだ。まだ社会に出て働いたことのない蒼葉には過労や激務の意味合いが日数や時間では図り切れない。
「そんなことないよ。まだ、全然しんどいうちに入らない。常勤するならそれが週に五日だし、当直だって入るからまだちゃんと……少しずつ慣らして戻していこうっていう初手だよ。ひとりで働き口を探すよりも、ずっと待遇だっていい。だから、ぼくが迷う理由なんてないんだけど……でも、決心がつかない」
旭は困り顔で苦笑してから蒼葉がうつ伏せになっているベッドまで来て隣に寝転がった。突っ伏したまま顔だけを旭に向けている蒼葉の横で、旭は天井を見たまま呟いた。
「踏ん切りがつかないだけだよ。どうしたらいいのかなんてわかってるし、返事の期限だってある。期限が来ればどれだけ迷ってたって出す答えは一緒なんだから、蒼葉は心配しなくても大丈夫。先のことを考えていなかった分、なにをするにもきっとぼくは躊躇ってしまうだけ。でもそれをぼくは悪いことだとは思ってない」
最後の言葉を言った旭は蒼葉の方を向いて穏やかに笑っていて、普段と変わらなかった。
「俺さ、旭のこと好きにならない方がよかった?」
旭の言葉と苦笑を見ると蒼葉は強引に捻じ曲げた旭の計画に気持ちがざわつく。例え歪であっても真っ直ぐな好意を向けられていたから、傾いた。躰が先に順応したとはいえ、気持ちがついていくかは別問題だと蒼葉は考えている。だからこそ、最良だと思った方へと捻じ曲げた。だが、旭の想定していない先に旭が戸惑い続けるのなら、蒼葉は気弱になってしまう。
「どうして。ぼくは蒼葉がぼくを好きになってくれて、とても嬉しいし幸せだよ。ぼくが迷ってしまうのは……確かにいまはぼくの想像を超えたところだからだけど、それもきっと慣れていくと思う。一番いつまで経っても慣れないのは、蒼葉がぼくを好きって言ってくれていることじゃないのかな」
ふふ、と笑う旭に片耳を撫でられて蒼葉は枕に顔を埋めた。
「……馬鹿じゃん……」
「いつだって蒼葉のことを好きになり続けているよ。だからそんなこと言わないで」
「も、いい。お前のこと気にした俺が悪かった」
一年近く旭と一緒にいるが、旭は少しも蒼葉に飽きる気配はない。それどころかのめり込むばかりだ。旭は最初から蒼葉を好きだと繰り返しているが、時間を経るごとに蒼葉はその言葉に耐性がなくなっていくのを感じる。
「蒼葉といるぼくを、ぼくは好きだよ。……前よりも、人間らしくなった気がする。記憶の中の蒼葉じゃなくて、現実の蒼葉がいるから……迷っても躊躇っても間違っても、いい。その度にちゃんと仕切り直すだけだから。そういうことをぼくに教えてくれたのは蒼葉だよ」
「心配して損した」
枕に顔を埋めたままくぐもった声で蒼葉が悪態をつくと、旭が笑って頭を撫でてきた。
「嫌だよ。損したなんて言わないでよ。蒼葉がいるとぼくはちゃんとしていられるんだから」
「大人なんだからひとりでもちゃんとしろよ」
ただの擽ったい睦言に照れただけだった。
青葉がぶっきらぼうに枕に突っ伏したまま旭を避けようとして上げた腕が鈍い音を立ててぶつかった。肘に鈍い痛みが残った。けれど、問題はそれではなく──。
「いったいなあ! 確かにぼくは蒼葉に大人げなく甘えてるけどさあ」
珍しく旭が声を大きくした。肘に当たった感覚は硬く、運悪く旭のどこかを強打した。慌てて蒼葉は顔を上げる。そんなつもりはなかった。
「悪い、旭。殴ろうとしたんじゃなくて……」
「うん。知ってる。びっくりさせてごめんね。痛かったから声大きくなっただけだよ。でも、蒼葉が顔上げてくれたからいいよ」
「それもだけど、ごめん。突き放すようなこと言った」
青葉がばつの悪い顔を俯けると、肘が当たったであろう顎のあたりを撫でて眉を寄せていた旭は表情を緩めた。
「蒼葉。そんなこと気にしてるの? ぶつかったのは痛かったけど、蒼葉の照れ隠しくらいぼくはわかるよ。本気で突き放していたら、ぼくなんて大人げないからとっくに蒼葉に見放されているのに」
「──俺、あんたと一緒にいると時々、ぐちゃぐちゃになる。勝手に変なこと言って、勝手に拗ねて……そういう奴うざいって思ってたのに、俺がそうなってて嫌だ」
俯いたまま蒼葉はもやもやした気持ちを吐き出した。旭が蒼葉の照れ隠しを見抜いていても、蒼葉は旭を突き放す気などない。ただ、一緒にいる時間が長くなるほど自分が嫌だと思っているうざったい女に似ていくようで自己嫌悪する。
「俺の知らない旭がいるのなんて当然で、そういうの見ると新鮮だから声大きくなったりすんの面白いなと思うのに、勝手に拗れて拗ねてる」
「うん。いいよ。ぼくは嫌じゃない。蒼葉の気持ちがぐちゃぐちゃになるんだったら、教えてよ。全部、ぼくにぶつけてよ。どうしたらいいとかそういうのじゃなくて、ひとりで拗ねないで。……貯め込んでしまって、爆発する方がよくない……」
旭の言葉は自分のことも含んでいるのかと蒼葉は俯けていた顔を上げた。視線の先で旭は穏やかなまま眉を下げている。ひとりで抱え込んで、全部終わりにしようとして旭は蒼葉を監禁して暴行した。旭はそのことをなかったことにしない。いくら蒼葉が横に置こうとしても、絶対的な前提のように事実はいつもある。
自戒なのかもしれない、と蒼葉はふと思った。
「あのさあ……旭、あんたのこと一日、好きにさせてくんない?」
唐突に蒼葉が言うと旭は驚いたようで目を丸くした。
「いいよ。でも今更? 好きにさせてってどういうこと?」
「そのまんま。なんも考えないで、俺の好きにされてて。そしたら、たぶん俺がもやもやしてんのすっきりすると思う」
「……蒼葉はさ、本当は主導権を握ってる方が似合うんだよ。男らしいんだ。でもいまは自由度が少なくなってて、ぼくを優先させようとするからストレスになるんじゃないのかな」
今度は蒼葉が驚いた。現状にストレスなどないと蒼葉は思っていた。
しかし、主導権というのであれば金銭面での庇護下であること、それに伴う選択肢、セックス、生活の中で蒼葉が手にしている主導権は少ない。主導権が少ないということはゲームでいえば手持ちが少ないことと一緒で、指す手も限定的になって勝ち筋が減る。負けず嫌いの蒼葉には確かにストレスといえなくもない。
「一部なら、旭の言う通りかも。でも、あんたを優先させるからストレスなのは違う。そこは俺がしたくてしてる縛りだから、旭が気にするのは違う。旭のいう男らしさがセックスの主導権なら、たぶん関係ない。だから、大人しく俺の好きにされてろよ、旭」
ゆっくり考えて蒼葉は返事した。雑に全てをストレスで括らない。自分のことと旭に対する感情を切り分けて、どこに原因があるのかを明確にすると結局、蒼葉自身に行きつく。
「うん。いいよ、蒼葉」
頑固だと言いたげに旭は笑って返事した。
「もうさあ、今日はなんも考えないでサボろ。だらけてたまには不健康だっていいじゃん。だから、ワルイコトしよ」
「蒼葉の悪いことってどんなこと?」
「んー……まあ、手始めに昼間からビールかな。あ。冷蔵庫にないな。どっか行こうか、旭」
まずは簡単で手軽な怠惰を提案すると、旭は楽しそうに「うん」と言った。
普段は旭が外に出たがらない分、外で食事することも少ない。蒼葉は旭とほとんどの時間一緒にいるが、いわゆるデートらしい外出は片手でも余ってしまう。それらしいことを望んだわけではないが、家に閉じこもってばかりだと気分転換にもならない。結果、それが外に出ることだった。
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