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一章 笠原兄弟の恋愛事情 前編 ~笠原伊澄視点~
兄の決断(7)
しおりを挟む美沙とのセックスはいつも美沙の家でしている。
前にも言ったが、美沙の両親は共働きで、平日は午後七時を過ぎないと美沙の両親も帰って来ないし、三歳年上だという美沙の兄ちゃんは地方の大学に進学し、実家を出てしまっている。
うちには伊織がいるし、平日でも時々親がいることもある。家族の目を気にせず、美沙と恋人同士の時間を堪能するには美沙の家が一番安全なのである。
美沙と付き合い始めて間もなくすると、俺が美沙の家にお邪魔する機会も増えていった。
目的はもちろん美沙とセックスするためなのだが、美沙の家をラブホ代わりにしている俺にとって、美沙の家にお邪魔するという行為は、「これから彼女とセックスするぞ」とテンションが上がる瞬間でもあった。
そして、それは美沙と付き合い始めて一年が経った今も変わらない。
――いや、変わらないはずだった。それなのに……。
「ただいまぁー……」
午後五時過ぎに家に帰って来た俺は、今日の自分が美沙の家に向かう際、あまりテンションが上がらなかったことと、美沙としたセックスでいまいち快感を得られなかったことに少し落ち込んでしまっていた。
原因はおそらく伊織だ。ここ数日、俺は伊織とばかりセックスしていたし、そのセックスが思った以上にめちゃくちゃ気持ちいいものだから、そっちの快感に慣れてしまったんだと思う。
これは些か不味い傾向である。
伊織とするセックスの方が美沙とするセックスより気持ちいいってなってしまったら、俺は益々伊織との関係を断てなくなってしまわないか?
「はぁ……ぉわっ⁉」
自分の日常が思わしくない方向にばかり進んでいることにうんざりし、溜息を吐きながらソファーに腰を下ろそうとした俺は、俺が腰を下ろそうとしている真下に伊織が転がっていることに気付き、慌ててソファーの背を掴んで自分の身体を停止させた。
何でこんなところで寝ていやがるんだ。寝るなら寝るで自分の部屋のベッドで寝ろよ。
「あっぶねー……」
危うく伊織の顔の上に尻を下ろすところだった俺は、伊織の可愛い顔を自分の尻で潰さなくて済んだことにホッとした。
もし、俺がソファーで寝ている伊織に気付かないまま腰を下ろしていたら、伊織にとっては最悪な目覚めになっていただろうな。
俺が昼前に出掛ける時、伊織は家にいたし
『今日は一日中家で勉強してる~♡』
と言っていた。
今日は俺が美沙とデートだと知っていても
『いってらっしゃ~い♡』
なんて機嫌よく俺を見送ってくれたわけだが、誰もいない家でずっと一人でいるのもさぞかしつまらなかったことだろう。
今日は俺が美沙とデートに出掛けると知っているわけだから、雪音の家にでも行ってりゃ良かったのに。
でもまあ、この暑い中、バスに乗ってわざわざ雪音の家に遊びに行くのも面倒臭いか。
「…………ん?」
それにしても、何だってこんなところでうたた寝を? と思い、小さな寝息を立てて眠っている伊織の顔を覗き込むと、伊織の頬には微かだが涙の痕があった。
「っ……!」
こいつ……もしかして泣いていたのか?
「……………………」
もう一度改めて伊織の顔をまじまじと見詰めてみると、微かに残る涙の痕だけでなく、伊織の長い睫毛も少し濡れていることがわかった。
睫毛や頬を伝った涙の痕が完全に乾ききっていないということは、俺が帰って来る少し前まで、伊織はここで泣いていたということになる。
そして、泣き疲れた末、ここでうたた寝をしてしまったということなのでは……。
(それって、つまりは俺のせい……だよな?)
他に伊織が泣く理由も思いつかない。
出掛ける俺を見送る時の伊織は機嫌が良さそうだったが、やっぱり俺が美沙とのデートに出掛けることが嫌だったのか?
「~……」
目の前で伊織に駄々を捏ねられたり泣かれても困るが、俺の知らないところでこっそり泣かれるのも困る。
そういう伊織の姿を一度でも見てしまうと
(こいつはいつも俺が知らないところで泣いてんのか?)
と思ってしまう。
そして、自分が伊織に対して――美沙に対してもだが――不誠実なことをしている自覚がある俺は、伊織に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。
「おい。伊織」
伊織が寝ているソファーの空いているスペースに腰を下ろした俺は、今はすっかり熟睡してしまっている様子の伊織を優しく揺り起こそうとした。
多分、この数時間は寂しい思いをしていたのだろうから、少し慰めてやろうと思ったのである。
せっかく寝ているのに起こしてしまうのも可哀想だとも思ったが、かといって、このまま伊織をリビングのソファーで寝かせておくわけにもいかないと思ったしな。
寝るなら寝るで、やっぱり自分の部家のベッドで寝た方がいいと思う。
「ん……んん……」
気持ち良く寝ているところを俺に肩を揺さぶられ、伊織はちょっとだけうるさそうに眉間に皺を寄せてみせたが、思いの外にあっさり目を覚ましてしまうと
「あ……あれ? お兄ちゃん……。もう帰って来たの? おかえり~」
俺の顔を見るなり、半分寝惚けているような顔でふにゃりと笑った。
自分が寝落ちするまでは泣いていたことを一切感じさせないような素振りだったが、伊織が寝ている間に涙の痕跡を見つけてしまっている俺には逆に痛々しい笑顔だった。
「おかえり~、じゃねーんだよ。お前、ソファーで寝落ちする前に泣いてただろ」
言おうかどうしようか迷う気持ちはあった。でも、俺に隠れて伊織に泣かれるのも嫌だった。
だから、寝起きでぼーっとしている顔の伊織にそう言ってやると、伊織は急に目が覚めたようにハッとした顔になり、慌てて自分の顔をぺたぺたと触った。
「あ……うぅ~……」
そして、自分の睫毛と頬がまだ少し濡れていることに気が付くなり、決まり悪そうな顔で俺を見上げてきた。
「そういう事は気が付いても指摘しないものなんだよ?」
俺が帰って来る前に自分が泣いていたことがバレてしまって気まずいのだろう。伊織は恨みがましそうにそう言ってきた。
「お前が不用意にそんなところで寝てるのが悪いんだ。自分の部屋で寝てりゃ、俺に泣いてたことなんてバレなかったんだから」
「むぅ……」
だが、俺だって好きで気付いてしまったわけじゃないし、俺が留守にしている間、伊織が人知れずこっそり泣いていた事実を知りたかったわけでもない。知らないで済むのであれば知りたくなかったくらいである。
伊織はまだ俺に何かしらの不満を言いたそうではあったけれど、俺が帰って来れば真っ先に足を踏み入れるであろうリビングなんかで寝ていた自分も悪いと思ったのか、不服そうな顔はしているものの、それ以上の文句は言わなかった。
その代わり、唇を尖らせてジッと俺を見詰めていたのだが――。
「はぁ……」
そうやって拗ねている自分が馬鹿らしくなったのか、諦めたように溜息を吐いた。
「そりゃ泣きたい気分にもなるってものだよ。だってお兄ちゃん、今日は美沙ちゃんとデートだったんだから」
嫉妬の現れなのか、はたまた、ヤキモチを焼いて女々しく一人泣きをしていた自分を情けないと思ったのか。伊織は苦笑いのような笑顔を浮かべながらそう言ってきた。
更に
「我ながら女々しいな~って思っちゃうし、元々お兄ちゃんには僕とこうなる前から彼女がいたわけだから、僕もそのへんは割り切らなきゃいけないと思ってるんだけどね。割り切って、あんまり高望みをしないようにって思ってはいるんだけどさ」
とまあ、俺に泣いていたことがバレてしまった言い訳と言わんばかりに言葉を発し続け、最終的には
「でも、やっぱり僕はお兄ちゃんのことが好きだから、美沙ちゃんにはどうしてもヤキモチを焼いちゃうんだよね。お兄ちゃんの彼女って立場の美沙ちゃんを羨ましいと思っちゃう。我儘でごめんね」
寂しさや悲しみを押し殺したような儚い笑顔で俺に謝ってきたりなんかするから、俺は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
確かに、俺と伊織の関係は伊織が俺に大胆かつ強引に迫ってきたことから始まっていることではあるが、結局伊織の誘惑に負け、流されてしまった俺にも責任はある。
それなのに、伊織はまるで自分だけが悪いと思っているようであった。
多分、それが伊織の本心なのだろう。
俺が伊織を突き放そうとすると、俺との関係を続けるためにあれこれ言ってくる伊織だが、そうやって自分の言葉にいつも言い包められてしまっている俺を見て、伊織は俺のことを「弟の我儘に付き合ってくれている優しいお兄ちゃん」と思っているんだろうな。
俺が本当は伊織との関係を断ちたいのに、弟という立場を利用して、俺に無理をさせていると思っているんだろう。
少し前までは俺もそう思っているところがあった。自分は伊織の我儘に付き合ってやっているだけで、俺を誘惑してくる伊織が悪いんだ……と。
でも、今日二週間ぶりに美沙と会い、美沙とセックスした後で俺が思ったことは、「伊織とするセックスの方が気持ちいい」だった。
自分でもドン引きするくらいのクソ野郎っぷりだが、俺は二週間ぶりに会った彼女とのセックスよりも、伊織とするセックスの方がいいと思ってしまったわけだ。
それはつまり、いつも伊織が強引に迫ってくるから……と思っている伊織とのセックスに、性欲だけではない何かがある証拠なのではないだろうか。
帰宅してきた俺が、ソファーでうたた寝している伊織を見つけ、その伊織が少し前まで泣いていたと気付いた時、俺はどうして伊織をそのままにしておけなかったのか。わざわざ伊織を起こし、一人で泣いていたことを指摘したのはどうしてだ?
そこには罪悪感というものももちろんあっただろうが、きっとそれだけじゃなかったんだと思う。
俺は自分に隠れてこっそり泣いてる伊織を知った時、罪悪感と一緒に初めて伊織を愛しいと思う気持ちが込み上げてきたような気がする。
それは、俺と伊織の間に肉体関係ができてしまったことで情が移ってしまった結果のような気もするが、とにかく、伊織が俺に隠れて密かに泣いている姿を知った時の俺は、伊織に対して弟以外の感情をハッキリと自覚した。
(それなのに、伊織にこんな顔をさせていいのか?)
伊織を恋愛的な意味で好きだと自覚したわけじゃない。それでも、伊織に弟としてではない愛情を感じたのは事実。
その伊織が自分の我儘で俺を振り回し、俺を困らせていると思っている。俺のことで自分が泣いている姿を俺に知られてしまい、「ごめんね」と謝ってくる。
謝らなくちゃいけないのは俺の方だというのに。
「伊織」
「うん?」
「シよっか」
兄としてなのか、男としてなのかはまだ微妙なところだった。が、このまま伊織に寂しい思いばかりをさせておくわけにはいかないと思った俺は、相変わらず痛々しく見える苦笑いを浮かべている伊織に向かって、徐にそう言った。
これまで伊織とするセックスはいつも伊織からのエロい悪戯や、大胆かつ強引な伊織の誘いから始まっていた。
だから、俺から伊織を誘ったのは今日が初めてだった。
俺からの初めての誘いを受けた伊織は当然
「…………え?」
目を丸くして驚いていた。
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