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00 序幕編
突然のお嫁さん
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04
「副長、一体何が起きているんです?」
「俺にもわからん!」
暴徒捕獲用のさすまたを持って駆けつけてきた警衛の三曹に、霧島は他の言葉を持たなかった。
隆元の体から突然、ガスとも影ともつかない黒いものが吹き出して、ドライアイスの煙のように床を覆っていくのだから。
「隆元様、落ち着いて下さい!俺も言い過ぎました。話し合いましょう」
そう呼びかける霧島の声に、隆元は悲痛な表情を浮かべるだけだった。
霧島は自分のうかつなひと言を心底後悔していた。
「迷惑だ」と言った言葉が、元々傷心だった隆元をさらに傷つけてしまったことは想像に難くない。
即断即決を尊ぶあまり、時に拙速になってしまうのが自分の悪い癖と霧島自身も自覚はしているのだ。その癖のせいで今まで何度も後悔してきた。
だが、今回またやらかしてしまった。そして、そのやらかしたツケは半端でなく高そうだ。
「隆元様…」
全身を瘴気とでも言うべき黒いものに覆われた隆元の肌は、石膏のように白くなり、目はあろうことか金色の光を放っている。
(艦○れの深海○艦かよ?)
霧島はそんなばかげた感想を抱くが、そうとしか表現のしようがないのだ。
「と…とにかく何とかしないと…」
警衛の三曹と、まだ10代の海士がさすまたを構えて進み出ていく。
「待て!やばいぞ!」
そう言った霧島の声は遅きに失した。
「うわ!」
「な…なんだ!」
床を這う瘴気が突然2人の足にまとわりつき、蛇が木に登るように体を伝って上り始めたのだ。
信じられないことだった。ガス状の物体がまるで意思を持つように2人の体を這い上がっていく。
「た…助けてくれえ!」
二人はなすすべもなく、瘴気に口と鼻に入り込まれる。
そして、糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。
「くそ、なんなんだ!」
霧島は隆元に近寄ることもできず、悪態をつくことしかできなかった。
「コナイデ…モウホウッテオイテ…」
人間とは思えない、太く暗い声で隆元が言う。
霧島にはなんとなくわかった。
(望まない責任。自分の気性に合わない立場や役目か…)
彼女なりに我慢してこなしてきたのだろう。だが、それがいよいよ限界となったとき、感情を爆発させて人ならざる存在と化してしまったのだと。
どういう原理なのかはさておいて、このままではいけないし、隆元がかわいそうだ。
「だがどうすればいい…?」
霧島はそこで行き詰まってしまう。
隆元の周囲と足下を覆う瘴気には近寄れない。うかつに近寄れば、警衛の二人の二の舞だろう。
(あんなドライアイスの煙みたいなものを…いや待てよ)
ドライアイス、と表現して、霧島の頭に閃くものがあった。
霧島はその思いつきが可能かどうか考えて、とにかくやってみるしかないと断じる。
「ブリッジ!こちら霧島だ。両舷全速、面舵一杯!」
『こちらブリッジ。急にどうしたんです?』
無線で下された唐突な命令に、操舵員が予想通りの反応を返す。だが、今は説明している時間がない。
「いいからやれ!クルーたちの安全がかかってんだ!いいと言うまで面舵のまま旋回し続けろ!」
霧島は問答無用とばかりに無線に怒鳴る。
現在地は確認している。とりあえず、座礁するような浅瀬は近くにないはずだ。
『りょ…了解!両舷全速、面舵一杯よーそろー!』
操舵員がためらいがちに命令を復唱する。
「両舷全速、おーもかーじ!」
「おーもかーじ!」
ブリッジでは、命令の復唱とともに舵が切られ、艦が旋回し始める。
「全く、急に面舵ってなんなんです?」
「俺に聞くな!副長室で非常事態なんだ。副長にはお考えがあるのさ」
航海科の三曹の言葉に、操舵担当の一曹が応じる。
霧島は一事が万事強引で、時々ついて行けなくなるものがある。
だが、能力に欠けるところはないし、強引なのも常に艦とクルーたちのことを思ってのことだというのは知っている。
一曹には、霧島の命令に疑念を挟む気はなかった。
一方、副長室の霧島は、自分の強引で脈絡のない命令を遂行してくれた操舵員に感謝していた。
艦が面舵を切ったことが体感できたのだ。
またクルーたちの自分に対する評価が下がるだろうとは思うし、こういうところが横柄、強圧的と思われる原因なのだろう。
(だが、副長として今俺にためらいは許されん)
その考えをやましさへの言い訳として、霧島は改めて隆元に向き直る。
同時に、床がゆっくりと傾き始める。命令通り、“ながと”が面舵のまま旋回を始めたようだ。
(作戦は成功だな)
床に目線を落とした霧島はそう思う。
隆元の足下に立ちこめる黒い瘴気が、重力に引かれているのか部屋の隅、要するに艦の右舷がわに向けて下がっていくのだ。
霧島の目論見通り、この瘴気はドライアイスの煙と同じで空気より重いらしい。艦が傾けば、重力に引っ張られて部屋の隅に追いやられるだろうという予測は当たった。
瘴気は隆元の足下の辺りまで後退しつつある。これで近寄ることもできそうだ。
(だが、どうやって説得したものか?)
そこで霧島はまたも行き詰まることになる。傷つき、絶望した隆元を説得する言葉がすぐには思い浮かばなかったのだ。
(へそを曲げた女の子に機嫌を直してもらうには…)
それまでの女関係の経験を必死で思い出し、霧島が出した結論は一つだった。
「隆元様。怒鳴ったのは謝ります。本当に悪かったと思っています。
どうか鎮まって下さい」
今度は隆元はわずかに霧島の言葉に反応した。だが、本当にわずかだった。
隆元の目を絶望と悲しみから離し、自分に向けさせるには全く不十分だと霧島は気づく。
『副長!いつまで旋回していればいいんです?
このままじゃ事故を起こしかねません!』
半分悲鳴のような操舵員の声が無線から聞こえる。
ここは瀬戸内海なのだ。いつまでもぐるぐる回っていられるものではない。悪くすれば潮に流されて浅瀬に座礁してしまう危険もある。
どだい、後ろから着いてきている僚艦と衝突してしまう危険が心配だ。
霧島は腹を括るしかないと考える。
大きく息を吸い、そして大きな声で隆元に呼びかける。
「隆元様!お嫁さんにしてあげます!俺が隆元様を守ります!
だから、絶望しないで下さい!やけにならないで下さい!」
我ながら突拍子もない物言いだとは思ったが、霧島の言葉は隆元に届いたらしい。
これも、それまでの人生から霧島が学んだ処世だった。
(女は理屈より情。とにかく言うことを聞いて、喜ばせ、ご機嫌を取るのが一番手っ取り早く確実な方法)
本来なら安請け合いしていい話ではないし、隆元を守れる自信も正直に言えばなかった。
だが、今の自分に言えること、できることはこれぐらいだ。
また即断即決を後悔する日が来るかも知れないが、その時はその時。
今はただ、隆元を悲しみと絶望から救いたい。それだけを考えていたのだった。
そして、その思いは隆元に届いたらしい。
霧島の言葉に、隆元がはっとした表情になり、ついで苦しみ始めたのだ。
「アアアアアアアッ…!」
(自分の中の絶望や、全てから逃げたいと思う気持ちと戦っている)
霧島にはわかった。
隆元が負の感情に抗い、諦めて楽になってしまおうとする自分自身と戦っていることが。
必死で理性を保ち、黒い瘴気を抑えようとしていることが。
「隆元様…うおっ…!?」
そこで霧島はしょうもないミスを犯すことになる。
傾いた床の上でつんのめってしまい、隆元に向かって倒れ込んでしまったのだ。
「ぐうっ!」
「イタッ!」
霧島は隆元を巻き込む形で、瘴気が立ちこめる床に倒れ込んでしまう。
「隆元様、すいません。大丈夫で…」
霧島はその言葉を最後まで言うことができなかった。右手にやたら柔らかくふかふかしが感触を感じたのだ。
(しかもこの感触、なんか覚えがあるような?)
黒いもやの向こうにむけて目をこらすと、霧島はとんでもないことに気づく。
自分が隆元の上に覆い被さって、しかも胸の膨らみを思いきりつかんでいることに。
「本当にすみません!今どきますから!」
「マッテ!ハナシテハダメ!」
そう叫んだ隆元が、なんと霧島の手を胸の膨らみに強く押し当てる。
「な…なんだ…?」
次の瞬間起きたことを、霧島は理解できなかった。
隆元の膨らみをつかんだ自分の指の間から、どす黒い瘴気がスプリンクラーのような勢いで放出されていったからだ。
「アアアアアアアアああああああああああーーーーーーーーーっ!」
引き裂くような隆元の悲鳴に同調するかのように、瘴気の放出は勢いを増していく。
「くそ!どうなってるんだ!」
霧島は放出されていくどす黒い流れで何も見えない中、ただひたすら待つことしかできなかった。右手に柔らかく幸せな感触を感じたまま。
どれくらい経っただろうか。瘴気の放出が徐々に穏やかになり、やがて止まる。
「隆元様!」
あっけにとられていた霧島は、隆元が自分の下でぐったりとしていることに気づく。
慌てて脈と呼吸を確認するが、両方とも異状はない。
先ほどまで石膏のように白かった肌も、元の健康的できめ細かい普通の肌に戻っている。
(邪悪なものが抜けたのか?おっぱいを揉んだことで?)
それなんてエロゲ?と思いたくなるが、取りあえず隆元からどす黒いものを抜くことができたのは確かなようだ。
「隆元様、隆元様!しっかりして下さい。俺がわかりますか?」
「霧島殿…?」
隆元がゆっくりと目を開ける。
霧島はほっとする。隆元の眼は、先ほどまでのように悲しみばかりを映してはいなかったのだ。
「あの…霧島殿。お嫁さんにしてくれるって本当だよね?」
隆元のその言葉に、場が凍り付く。
霧島はもちろん、部屋の外でことの成り行きを見守っていたクルーたちも。
その時になって、霧島はようやく副長室の外に人が集まっていることに気づいた。
(考えてみれば当然じゃないか。副長室で非常事態と伝えたのは俺なわけだし。
これだけ騒ぎになれば人が集まってこない方がおかしい。
ていうか、さっきの俺の言葉、みんなに聞かれてたわけ?)
そのまま固まってしまう霧島。
だがクルーたちは、事態の収拾をつけないわけにはいかないと動き始める。
「ええと、副長、面舵を解除してかまいませんね?」
「あ、ああ。そうだな。面舵を解除して進路を元に」
航海科の三尉の言葉に、すっかり舵を戻す指示を忘れていたことを霧島は思い出す。
それが合図のように、クルーたちが自分たちのやることをこなしていく。
「衛生科に連絡。たんかを二つ持ってこさせろ」
「さっきの黒いガスみたいなもの、一応毒物の反応がないか調べよう」
「僚艦に連絡だ。さっき起きたことを説明しておかないとな。
“ながと”になにがあったのかさっぱりわからないだろうからな」
日頃の訓練の成果で、みな非常に手際がいい。
(もしかして、さっきの隆元様への求婚、聞かれてなかった?)
霧島は一瞬そんな希望的観測を抱いた。が…。
「副長、まさかとは思いますが、やっぱりさっきのなしは通りませんよ?」
「爆発して下さい」
「お嫁さん、大事にして下さいね」
そんなことを言ってクルーたちは足早に副長室を出て行く。
命令なら従うが、プライベートには我関せずとばかりに。
気がつけば、副長室には霧島と隆元だけが残されていた。
「お嫁さんにしてくれる話…。やっぱりなしなんて言ったら、私泣いちゃうよ…?」
そう言って涙目になる隆元。
いかなる理由があれ、吐いた唾は呑めない。霧島はそれを痛感していた。
それに、霧島には“やっぱりなし”などというつもりは毛頭なかった。
(隆元様には、背中を支える人間が必要なのだ)
彼女自身の意思や向き不向きがどうであれ、彼女は毛利家の後継者である。その責任と立場は重大なのだ。
だが、その重さ、隆元一人で背負わなければならないものでもないだろう。
霧島は隆元の目をのぞき込み、口を開く。
「俺は隆元様をお嫁さんにします。
ただし、条件があります」
霧島の真剣な眼に、隆元も「条件はなに?」と先を促す。
「ご自分のお立場、お役目、責任から決して逃げないことです。
責任から逃げるための結婚ならごめん被りますが、隆元様をお支えする役目なら大歓迎です」
隆元は、霧島の返答に一瞬逡巡する。
まだ、毛利家の後継者としての自信などないのだろう。
だが、すぐに意を決した様子で口を開く。
「私、逃げない。
頑張るから。だからお嫁さんにして!」
そう言った隆元の目に迷いはなかった。
武将、次期当主としての責任にもこれくらい熱心で真摯なら。と霧島は少しおかしくなるが、こればかりは本人の気質の次元の話。どうにもならないのだろう。
「わかりました。今から隆元様は俺のお嫁さんです」
努めて優しい声と笑顔で、霧島はそう言っていた。
「うれしい!よろしくね、旦那様!」
隆元は感極まって抱きついてくる。目から滴る涙は、今度は悲しみの涙ではないだろう。
(まあ、取りあえず今はかわいい嫁さんをもらえたことを喜ぼうか)
ふわりとした女の子らしいにおいと、胸の膨らみの柔らかさを感じながら、霧島はそう思っていた。
隆元を大切に思っている気持ちに偽りはないし、難しいことを考えるのは後でもいいだろう。
今はそう思えるのだった。
かくして、霧島は毛利隆元を嫁とすることになる。
それがとんでもない騒動とカオスの原因になることを、このときは誰一人として知らなかったのである。
「副長、一体何が起きているんです?」
「俺にもわからん!」
暴徒捕獲用のさすまたを持って駆けつけてきた警衛の三曹に、霧島は他の言葉を持たなかった。
隆元の体から突然、ガスとも影ともつかない黒いものが吹き出して、ドライアイスの煙のように床を覆っていくのだから。
「隆元様、落ち着いて下さい!俺も言い過ぎました。話し合いましょう」
そう呼びかける霧島の声に、隆元は悲痛な表情を浮かべるだけだった。
霧島は自分のうかつなひと言を心底後悔していた。
「迷惑だ」と言った言葉が、元々傷心だった隆元をさらに傷つけてしまったことは想像に難くない。
即断即決を尊ぶあまり、時に拙速になってしまうのが自分の悪い癖と霧島自身も自覚はしているのだ。その癖のせいで今まで何度も後悔してきた。
だが、今回またやらかしてしまった。そして、そのやらかしたツケは半端でなく高そうだ。
「隆元様…」
全身を瘴気とでも言うべき黒いものに覆われた隆元の肌は、石膏のように白くなり、目はあろうことか金色の光を放っている。
(艦○れの深海○艦かよ?)
霧島はそんなばかげた感想を抱くが、そうとしか表現のしようがないのだ。
「と…とにかく何とかしないと…」
警衛の三曹と、まだ10代の海士がさすまたを構えて進み出ていく。
「待て!やばいぞ!」
そう言った霧島の声は遅きに失した。
「うわ!」
「な…なんだ!」
床を這う瘴気が突然2人の足にまとわりつき、蛇が木に登るように体を伝って上り始めたのだ。
信じられないことだった。ガス状の物体がまるで意思を持つように2人の体を這い上がっていく。
「た…助けてくれえ!」
二人はなすすべもなく、瘴気に口と鼻に入り込まれる。
そして、糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。
「くそ、なんなんだ!」
霧島は隆元に近寄ることもできず、悪態をつくことしかできなかった。
「コナイデ…モウホウッテオイテ…」
人間とは思えない、太く暗い声で隆元が言う。
霧島にはなんとなくわかった。
(望まない責任。自分の気性に合わない立場や役目か…)
彼女なりに我慢してこなしてきたのだろう。だが、それがいよいよ限界となったとき、感情を爆発させて人ならざる存在と化してしまったのだと。
どういう原理なのかはさておいて、このままではいけないし、隆元がかわいそうだ。
「だがどうすればいい…?」
霧島はそこで行き詰まってしまう。
隆元の周囲と足下を覆う瘴気には近寄れない。うかつに近寄れば、警衛の二人の二の舞だろう。
(あんなドライアイスの煙みたいなものを…いや待てよ)
ドライアイス、と表現して、霧島の頭に閃くものがあった。
霧島はその思いつきが可能かどうか考えて、とにかくやってみるしかないと断じる。
「ブリッジ!こちら霧島だ。両舷全速、面舵一杯!」
『こちらブリッジ。急にどうしたんです?』
無線で下された唐突な命令に、操舵員が予想通りの反応を返す。だが、今は説明している時間がない。
「いいからやれ!クルーたちの安全がかかってんだ!いいと言うまで面舵のまま旋回し続けろ!」
霧島は問答無用とばかりに無線に怒鳴る。
現在地は確認している。とりあえず、座礁するような浅瀬は近くにないはずだ。
『りょ…了解!両舷全速、面舵一杯よーそろー!』
操舵員がためらいがちに命令を復唱する。
「両舷全速、おーもかーじ!」
「おーもかーじ!」
ブリッジでは、命令の復唱とともに舵が切られ、艦が旋回し始める。
「全く、急に面舵ってなんなんです?」
「俺に聞くな!副長室で非常事態なんだ。副長にはお考えがあるのさ」
航海科の三曹の言葉に、操舵担当の一曹が応じる。
霧島は一事が万事強引で、時々ついて行けなくなるものがある。
だが、能力に欠けるところはないし、強引なのも常に艦とクルーたちのことを思ってのことだというのは知っている。
一曹には、霧島の命令に疑念を挟む気はなかった。
一方、副長室の霧島は、自分の強引で脈絡のない命令を遂行してくれた操舵員に感謝していた。
艦が面舵を切ったことが体感できたのだ。
またクルーたちの自分に対する評価が下がるだろうとは思うし、こういうところが横柄、強圧的と思われる原因なのだろう。
(だが、副長として今俺にためらいは許されん)
その考えをやましさへの言い訳として、霧島は改めて隆元に向き直る。
同時に、床がゆっくりと傾き始める。命令通り、“ながと”が面舵のまま旋回を始めたようだ。
(作戦は成功だな)
床に目線を落とした霧島はそう思う。
隆元の足下に立ちこめる黒い瘴気が、重力に引かれているのか部屋の隅、要するに艦の右舷がわに向けて下がっていくのだ。
霧島の目論見通り、この瘴気はドライアイスの煙と同じで空気より重いらしい。艦が傾けば、重力に引っ張られて部屋の隅に追いやられるだろうという予測は当たった。
瘴気は隆元の足下の辺りまで後退しつつある。これで近寄ることもできそうだ。
(だが、どうやって説得したものか?)
そこで霧島はまたも行き詰まることになる。傷つき、絶望した隆元を説得する言葉がすぐには思い浮かばなかったのだ。
(へそを曲げた女の子に機嫌を直してもらうには…)
それまでの女関係の経験を必死で思い出し、霧島が出した結論は一つだった。
「隆元様。怒鳴ったのは謝ります。本当に悪かったと思っています。
どうか鎮まって下さい」
今度は隆元はわずかに霧島の言葉に反応した。だが、本当にわずかだった。
隆元の目を絶望と悲しみから離し、自分に向けさせるには全く不十分だと霧島は気づく。
『副長!いつまで旋回していればいいんです?
このままじゃ事故を起こしかねません!』
半分悲鳴のような操舵員の声が無線から聞こえる。
ここは瀬戸内海なのだ。いつまでもぐるぐる回っていられるものではない。悪くすれば潮に流されて浅瀬に座礁してしまう危険もある。
どだい、後ろから着いてきている僚艦と衝突してしまう危険が心配だ。
霧島は腹を括るしかないと考える。
大きく息を吸い、そして大きな声で隆元に呼びかける。
「隆元様!お嫁さんにしてあげます!俺が隆元様を守ります!
だから、絶望しないで下さい!やけにならないで下さい!」
我ながら突拍子もない物言いだとは思ったが、霧島の言葉は隆元に届いたらしい。
これも、それまでの人生から霧島が学んだ処世だった。
(女は理屈より情。とにかく言うことを聞いて、喜ばせ、ご機嫌を取るのが一番手っ取り早く確実な方法)
本来なら安請け合いしていい話ではないし、隆元を守れる自信も正直に言えばなかった。
だが、今の自分に言えること、できることはこれぐらいだ。
また即断即決を後悔する日が来るかも知れないが、その時はその時。
今はただ、隆元を悲しみと絶望から救いたい。それだけを考えていたのだった。
そして、その思いは隆元に届いたらしい。
霧島の言葉に、隆元がはっとした表情になり、ついで苦しみ始めたのだ。
「アアアアアアアッ…!」
(自分の中の絶望や、全てから逃げたいと思う気持ちと戦っている)
霧島にはわかった。
隆元が負の感情に抗い、諦めて楽になってしまおうとする自分自身と戦っていることが。
必死で理性を保ち、黒い瘴気を抑えようとしていることが。
「隆元様…うおっ…!?」
そこで霧島はしょうもないミスを犯すことになる。
傾いた床の上でつんのめってしまい、隆元に向かって倒れ込んでしまったのだ。
「ぐうっ!」
「イタッ!」
霧島は隆元を巻き込む形で、瘴気が立ちこめる床に倒れ込んでしまう。
「隆元様、すいません。大丈夫で…」
霧島はその言葉を最後まで言うことができなかった。右手にやたら柔らかくふかふかしが感触を感じたのだ。
(しかもこの感触、なんか覚えがあるような?)
黒いもやの向こうにむけて目をこらすと、霧島はとんでもないことに気づく。
自分が隆元の上に覆い被さって、しかも胸の膨らみを思いきりつかんでいることに。
「本当にすみません!今どきますから!」
「マッテ!ハナシテハダメ!」
そう叫んだ隆元が、なんと霧島の手を胸の膨らみに強く押し当てる。
「な…なんだ…?」
次の瞬間起きたことを、霧島は理解できなかった。
隆元の膨らみをつかんだ自分の指の間から、どす黒い瘴気がスプリンクラーのような勢いで放出されていったからだ。
「アアアアアアアアああああああああああーーーーーーーーーっ!」
引き裂くような隆元の悲鳴に同調するかのように、瘴気の放出は勢いを増していく。
「くそ!どうなってるんだ!」
霧島は放出されていくどす黒い流れで何も見えない中、ただひたすら待つことしかできなかった。右手に柔らかく幸せな感触を感じたまま。
どれくらい経っただろうか。瘴気の放出が徐々に穏やかになり、やがて止まる。
「隆元様!」
あっけにとられていた霧島は、隆元が自分の下でぐったりとしていることに気づく。
慌てて脈と呼吸を確認するが、両方とも異状はない。
先ほどまで石膏のように白かった肌も、元の健康的できめ細かい普通の肌に戻っている。
(邪悪なものが抜けたのか?おっぱいを揉んだことで?)
それなんてエロゲ?と思いたくなるが、取りあえず隆元からどす黒いものを抜くことができたのは確かなようだ。
「隆元様、隆元様!しっかりして下さい。俺がわかりますか?」
「霧島殿…?」
隆元がゆっくりと目を開ける。
霧島はほっとする。隆元の眼は、先ほどまでのように悲しみばかりを映してはいなかったのだ。
「あの…霧島殿。お嫁さんにしてくれるって本当だよね?」
隆元のその言葉に、場が凍り付く。
霧島はもちろん、部屋の外でことの成り行きを見守っていたクルーたちも。
その時になって、霧島はようやく副長室の外に人が集まっていることに気づいた。
(考えてみれば当然じゃないか。副長室で非常事態と伝えたのは俺なわけだし。
これだけ騒ぎになれば人が集まってこない方がおかしい。
ていうか、さっきの俺の言葉、みんなに聞かれてたわけ?)
そのまま固まってしまう霧島。
だがクルーたちは、事態の収拾をつけないわけにはいかないと動き始める。
「ええと、副長、面舵を解除してかまいませんね?」
「あ、ああ。そうだな。面舵を解除して進路を元に」
航海科の三尉の言葉に、すっかり舵を戻す指示を忘れていたことを霧島は思い出す。
それが合図のように、クルーたちが自分たちのやることをこなしていく。
「衛生科に連絡。たんかを二つ持ってこさせろ」
「さっきの黒いガスみたいなもの、一応毒物の反応がないか調べよう」
「僚艦に連絡だ。さっき起きたことを説明しておかないとな。
“ながと”になにがあったのかさっぱりわからないだろうからな」
日頃の訓練の成果で、みな非常に手際がいい。
(もしかして、さっきの隆元様への求婚、聞かれてなかった?)
霧島は一瞬そんな希望的観測を抱いた。が…。
「副長、まさかとは思いますが、やっぱりさっきのなしは通りませんよ?」
「爆発して下さい」
「お嫁さん、大事にして下さいね」
そんなことを言ってクルーたちは足早に副長室を出て行く。
命令なら従うが、プライベートには我関せずとばかりに。
気がつけば、副長室には霧島と隆元だけが残されていた。
「お嫁さんにしてくれる話…。やっぱりなしなんて言ったら、私泣いちゃうよ…?」
そう言って涙目になる隆元。
いかなる理由があれ、吐いた唾は呑めない。霧島はそれを痛感していた。
それに、霧島には“やっぱりなし”などというつもりは毛頭なかった。
(隆元様には、背中を支える人間が必要なのだ)
彼女自身の意思や向き不向きがどうであれ、彼女は毛利家の後継者である。その責任と立場は重大なのだ。
だが、その重さ、隆元一人で背負わなければならないものでもないだろう。
霧島は隆元の目をのぞき込み、口を開く。
「俺は隆元様をお嫁さんにします。
ただし、条件があります」
霧島の真剣な眼に、隆元も「条件はなに?」と先を促す。
「ご自分のお立場、お役目、責任から決して逃げないことです。
責任から逃げるための結婚ならごめん被りますが、隆元様をお支えする役目なら大歓迎です」
隆元は、霧島の返答に一瞬逡巡する。
まだ、毛利家の後継者としての自信などないのだろう。
だが、すぐに意を決した様子で口を開く。
「私、逃げない。
頑張るから。だからお嫁さんにして!」
そう言った隆元の目に迷いはなかった。
武将、次期当主としての責任にもこれくらい熱心で真摯なら。と霧島は少しおかしくなるが、こればかりは本人の気質の次元の話。どうにもならないのだろう。
「わかりました。今から隆元様は俺のお嫁さんです」
努めて優しい声と笑顔で、霧島はそう言っていた。
「うれしい!よろしくね、旦那様!」
隆元は感極まって抱きついてくる。目から滴る涙は、今度は悲しみの涙ではないだろう。
(まあ、取りあえず今はかわいい嫁さんをもらえたことを喜ぼうか)
ふわりとした女の子らしいにおいと、胸の膨らみの柔らかさを感じながら、霧島はそう思っていた。
隆元を大切に思っている気持ちに偽りはないし、難しいことを考えるのは後でもいいだろう。
今はそう思えるのだった。
かくして、霧島は毛利隆元を嫁とすることになる。
それがとんでもない騒動とカオスの原因になることを、このときは誰一人として知らなかったのである。
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※百合作品として執筆しましたが、男性キャラクターも多数おり、BL要素、NL要素もございます。悪しからずご了承ください。また、軽度ですが性描写を含みます。
12/11 ”原田巴について”投稿開始。→12/13 別作品として投稿しました。ご迷惑をおかけします。
身体だけの関係です 原田巴について
https://www.alphapolis.co.jp/novel/711270795/734700789
作者ツイッター: twitter/minori_sui
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